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04



「……意外、でもねえか。ヴェイン。お前結構、敬虔なんだな」

「あはは……。日曜日だけですよ」


 掃き溜めにも神はいる。と、信じられている。

 だから、この街にも教会くらいはある。

 長い休養に入ったマーカスが再び店員のヴェインと出会ったのは、その教会だった。


「毎週来てるのか?」

「ええ、まあ……。ほら、こういうのって続けた方がご利益ありそうじゃないですか?」

「ご利益ねえ。で、どうよ。実際あったか?」

「うーん……」

「気ぃ遣うなよ」

「正直言って、」言いづらそうに頬を掻いて、「あんまり……」


 ははは、とマーカスは笑った。

「毎週来てる奴がそう言うんだったら、信憑性はでかいな」

「あ、いえ。でも、僕だけかも……」

「大丈夫。わかってるよ。祈りなんざ何にもなりゃしねえんだ」不器用に、顔の半分だけが悲しんでいるように、「そうじゃなかったら……ガキのまま死んでいくやつなんざ、この世にいるはずがねえ」


 くだらねえ感傷だがな、とマーカスは言う。視線の先は聖像。教会の中に大きく飾られた羽のある、天使の姿に注がれて。

「わかっちゃいるんだ。頭では。救いなんかこの世にはねえ。……なのにどうしてだろうな。弱くなると、人はそういう者に縋りたくなっちまう」


 一度、ヴェインの口が開く。何かを言おうとしている。けれどそれが言葉にならずに閉じてしまえば、ふっ、とマーカスもいつもの顔に戻って訊ねる。「ところでどうだ? 店の方は上手くやってるか?」


「なんとか、ってところです」苦労性の染みついた顔でヴェインは言う。「ホリィさんに助けてもらいっぱなしですけど、何とか……」

 そうか、とマーカスは頷いた。安心したように。「それなら、お前たち二人にあの店は譲っちまってもいいかもしれないな……」


「え……えぇっ!?」

 驚くヴェインの頭を、マーカスが撫でる。くしゃくしゃと、自分の息子にでもするかのように。

「お前ら、そう悪い仲じゃねえみたいだしな。……夫婦でダイナー。悪くないだろ? 幸せの一つの理想形だ」

「いや、僕とホリィさんはそんなんじゃ……というか、だって! それじゃ店長は……」

「俺のできなかった夢なんだよ。……俺の連れも肺病で死んだ。この上、あいつまで持って行かれた日には、俺は……」マーカスは瞼を下ろす。首を振る。「変なこと言っちまったな。忘れてくれ」


 去り行く背中に、かける言葉はない。扉が閉まれば、無人の教会。長く管理者のいないこの場所は、どういうわけかこの街にしては珍しいほど整っている。誰でも、何かの救いを求めてる。


 ヴェインは聖像の前まで歩く。跪く。祈りの作法。ステンドグラスから注ぐ日差しは、外の曇りの空に見るよりもずっと鮮やかで、ほとんどまやかしのように思える。


 天国への祈り。


 かたり、と扉が開く音がした。


「…………」

 無言のまま、ヴェインは祈りを続ける。足音が背後から近付いてくる。歩幅が小さい。子どもみたいに。いや、子どもそのもの。右足と左足で足音の大きさが違うのは、たぶんどこか怪我をしているから。


「あ、あの」

「…………はい?」


 声をかけられて、ようやくヴェインは祈りを解いた。そこにいたのは、音でわかった通り。身なりの汚い、怪我をした子どもだった。勇気を出して話しかけたらしいその口から、欠けた二本の前歯が見えている。


 ああ、とヴェインは頷いた。

「この間の」

「こ、これ……!」


 差し出されたのは、どう見たって生ごみだった。普通の人間なら元の形が何なのかすらわからない。でも、ヴェインにはわかる。以前にダイナーで扱ったことのある食材。パイを作った。この赤い果物で。


「こ、この前の……お礼……」

 おずおずと、少女はそれを差し出してくる。潰れたラズベリー。ほとんど小鳥の臓物のようなそれを。ゴミ箱から拾ってきたのだろう、あまりにも不潔な食べ物を。


「ありがとう」

 ヴェインは、受け取った。


 半分に裂く。小さなそれをさらに小さくして、ヴェインは汚い方を自分の口に入れる。そして残りの、比較的マシな方を少女に差し出した。「はい、どうぞ。おすそ分け」


「……い、いいの?」

「もちろん」

 目を丸くして少女が戸惑うのに、ヴェインはさらにそのベリーを差し出す。生まれて初めてする笑顔のように、あまりにもぎこちなく彼女の口角が引き上がって、それを受け取る。「あ、ありがとう……」口に運べば、こんなにも嬉しそうに。


「君、名前は?」

 ヴェインが訊くと、少女が答えた。

「ラズ。ラズベリーの、ラズ」笑顔なのかもしれない。歯をそのラズベリーで赤黒く染めて、少女は言う。「ラズベリーが好きだから、ラズって名前なの」


「ラズベリーのどんなところが好き?」

「赤いところ。赤いものが好きなの」

「……そっか」


 ヴェインはシャツを脱いだ。もう一年以上使って、少しだけ首のあたりが擦り切れ始めた真っ白なシャツ。それをラズの肩に羽織らせて、こう言う。


「まいったなあ」二番目のボタンを留めて、「その服、君の方が似合っちゃうみたいだ。それにほら、声が聞こえない?」耳を澄ますジェスチャーをして、「『似合う人に着てほしい!』ってさ。そのシャツが言ってるのが。ほら、やっぱり服ってみんなお洒落さんだから」


 ぽかん、とラズが見上げてくるのに、急にヴェインは恥ずかしくなったようにそっぽを向いて、

「うーん……、しまった。君ももう、そういう年ってわけじゃないか」

 けれどラズが言いたかったのは、当然そんなことじゃない。


「く、」信じられない、と言いたげに。「くれるの?」

「もちろん」黒いインナー姿になったヴェインは、両手を挙げて言う。「もうあげちゃったんだ。子どもから何かを取り上げようだなんて、紳士の僕にはとてもとても。……受け取ってくれる?」


 首がちぎれそうな勢いで、ラズは頷く。にっこりと、ヴェインは笑って返した。


「な、名前」

「僕?」

「そ、そう」

 ヴェイン、と短く告げれば、ラズは口の中で何度もその名前を呟く。ゔぇいん、ヴェイン……。二度と忘れないようにするみたいに。


「ヴぇ、ヴェインはここで何してたの?」

「お祈り」

「お祈りって、何?」

 訊かれれば、ヴェインはさっきと同じように、天使像の前に跪いて手を組む。


「こんな風にして、願い事をするんだ」

「私もやって、いいの?」

「もちろん。お祈りは誰にだって許される」小さな声で、「……どんな悪人でも」


「わ、私もやる」ラズはヴェインの横に一緒になって膝をついて、手を組む。「こう?」

「そうそう、上手上手」

「お願い事って、何をすればいいの?」

「それは人それぞれ。君の願いを言えばいい」

「…………」


 ラズは長いあいだ考えた。自分の望みがわからない人みたいに。あるいは、そういう人そのままに。結局、目を瞑るより先にヴェインに訊いた。


「ヴぇ、ヴェインは何をお願いするの……」

「うーん……」ちょっと恥ずかしいんだけど、とヴェインは呟いて、結局告げる。「天国に行けますように、って」


「天国?」

「そう、天国」

「それってどんなところ?」

「幸せなところだよ」

「どんな風に?」

「僕も昔、人から聞いただけなんだけどね」


 天使像を見つめながら、ヴェインは言った。独り言のように。思い出のように。遠くこれから未来のことを考えるように。


「すごく綺麗なところなんだ……。あのステンドグラスの窓よりもずっとたくさんの色があって、風がやわらかくて、すごくいい匂いがする。人も動物も植物も、自分の他には誰もいない……」


 ラズの目が左上に向かって大きく動いて、止まる。きっとそれは彼女が考えるときの癖なのだろうけど、それが癖だと知っている人間は、まだこの世にはいない。そして彼女は言う。あの、それって。


「自分以外がいなかったら、どうやって何かを食べたりするの?」


 ヴェインは、一瞬だけ。

 一瞬だけ虚を突かれたように、素顔を晒して。

 それからまた、いつもの優しい笑顔に戻って、こう言った。


「天国では……何も食べなくていい。何も食べなくても、お腹がいっぱいで、満たされてるんだ……」


 素敵、と今度ばかりはラズにも話がよくわかった。食べ物を食べなくてもお腹がいっぱいになる。つまり、飢えることがないということ。それがどれだけ素晴らしくて自分の救いになるか、この街の中で奇跡みたいに清潔な教会で、光の下で天使像を目にするよりもずっと直接的に、その言葉は彼女の胸に響いた。


「私も、天国に行きたい!」

「そう。じゃあ、一緒にお祈りしようか」

「うん!」


 青年と少女が目を瞑る。手を組む。祈る。

 天国に行けますように。


 少女のそれはまだ、無邪気で無垢で無謀な願い。


 青年にとっては、もっと、切実な。



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