03
「このコーヒーを淹れたのは誰だね?」
ダイナー、夕方。早めの夕食を摂りに来る客もちらほら現れたあたりで、テーブルの一つで指を叩く女が現れる。
「呼ばれてるよ、ヴェインくん」
「えぇ~……。ホリィさん、代わりに……」
「やーだ」にべもない断り。
苦手なんだよなああの人とヴェインは肩を丸めて、そのテーブルに向かう。
「僕ですけど……」
「薄い」
「すみません。今日は店長がいないもので……」頭を下げて、「淹れ直します……」
「いや、それには及ばない」女はカップを手に取ろうとしたヴェインの手を遮る。「金を払ってコーヒーを買った。そこまでは私の選択だ。だからそのことは受け入れるし、出てきたものを取り替えろだとか金を返せだとか言うつもりはない。ただ、文句を言う権利くらいはあると思ったから言ったまでだ。ん? どうだ? どう思う? 私は間違ったことを言ってるか?」
「いえ……全然……」
この厄介な女の名前をヴェインは知っている。常連の一人。ハリエッタ。新聞記者。夕方ごろになるとこれから深夜に及ぶ仕事のためにこのダイナーへカフェインを補給しにくる。時代錯誤で大袈裟な、ドレスのような服を常に着用している。誰が見ても一発で覚えられる変わり者。店長以外が淹れたコーヒーを飲むと必ず文句を言う。常軌を逸した濃さを求めている。ヴェインもホリィもそのことはわかっているのだが、毎回自制心に負けてしまって、ハリエッタが求める濃さのコーヒーを淹れられないでいる。
「やめましょうよ、ハリエッタ先輩」
「なぜ」
「いや、ヴェインさんが困ってるじゃないですか。嫌ですよ僕、ここにまた来づらくなるの。ただでさえハリエッタさんと一緒にいるときはお店に入りづらいのに……」
それを諫めるのは少年記者のジャスパー。帽子、くせ毛、そばかす、サスペンダー、半ズボン。椅子に座れば床に踵がつくかどうか、という少年だが、ハリエッタの勤める新聞社でアルバイトをしている。どうして少年が新聞社に、という疑問は当然ある。ヴェインとホリィの間では「おそらくハリエッタと会話できる人間があの子しかいないのじゃないか」ともっぱらの噂。
カフェオレボウルを両手で包み込みながら、ジャスパーは言う。
「僕は何の文句もありませんよ。ヴェインさんの淹れてくれるカフェオレ、甘くて僕は大好きです」
にっこりと笑って言われえれば、ヴェインも自然、笑顔になって答える。ありがとうございます。
ふん、とハリエッタは面白くなさそうに鼻を鳴らしてもう一口カップを啜る。そして言う。
「薄い」
「もう」
「薄いものを薄いと言って何が悪い? 真実を包み隠さず口にできないものは記者に向いていないよ」
「このあいだは『報道しないという選択肢を必ず持つこと。それが記者に最も重要な心掛けだ』とか言ってたくせに」
「報道と感想は違う」
「あー言えばこー言うんだから……」
「あのー、僕はもうキッチンに戻っても……?」
おずおずとヴェインが切り出すと、ジャスパーはにっこり笑う。ああすみません、お仕事の邪魔しちゃって。一方でハリエッタはまだ不満げ。せっせと薄いコーヒーを淹れているといいさ。
「あ、やっぱりちょっと待て」
踵を返したところで声がかかる。もちろんそういうことをするのはハリエッタの方。
「ハリエッタせんぱ~い……」
「心配するな。変なことを訊こうとしているわけじゃない。……マーカスはどうした? この間も留守にしていたな。まさか病気でもしたか?」
「あーっと……」
ちらり、とヴェインは奥に立っているホリィに助けを求める。が、そのサインが届くよりも先にハリエッタが言う。「心配するな。私とあいつは十年来の友人だからな。君たちが知っていることで私が知ってはいけないようなことはないし……」それに、と付け加えて、「どうせここで君たちが答えなかったとしても調べ上げる。要は遅いか早いかの違いだ」
そう言われると納得せざるを得ない。人格はともかくハリエッタの記者としての能力にはこの街の誰もが疑いを持っていない。あの領主の元で報道の自由を求めて駆けまわっていたのは無謀というかほとんど自殺行為だと誰もが思っていたが、結局一向に処刑台に吊るされることもないまま領主の方が先に死んでしまった。それからは水を得た魚のようにとにもかくにも領主の信じられないような悪事を紙面に書き連ね、実はこれまでの危険な報道スタイルすらも序の口に過ぎなかったことを自ら証明した。一部界隈ではこう呼ばれている。報道女王。命知らず。無鉄砲。秘密を暴くために生まれてきた悪魔。
どうせバレてしまうことなら、と。ヴェインは周囲をきょろきょろ見回して、それからハリエッタに内緒話をするように膝を折り曲げて、耳元で告げる。実は店長の娘さんが病気で……。
ふうむ、とハリエッタは口元に手を当てた。
「流行りの肺病か」
「知ってるんですか?」ヴェインが訊く。
「何を当たり前のことを。というか知らないのはこの街に来たばかりだと言っても君くらいだぞ。工場に仕事しに来たやつらだって誰でも知っている」
「え……」
「うーん。ヴェインさんには悪いですけど、こればっかりは僕も同意見です」
ジャスパーが苦笑しながら補足してくれる。この街の工場から出てくる煤煙が公害を発生させている。最近増えているそれに関連した肺病だろう、と。
「しかしよりにもよってだな……。確かに、この街のインチキ医者どもにあの肺病を治せるやつはいない。といって、オルガのヤブに治せるかどうかというのもはっきり言って疑わしいが……」
「ハリエッタ先輩の心当たりにないんですか? 医者の伝手とか」
「外科はともかく内科はどうしても処方薬の限界がある。……本社の方の知り合いから伝手の伝手は辿れなくもないが……おい、君。マーカスの娘の容体はどうなってる?」
「いえ、そこまでは……」
「あまり重くなりすぎると移動自体に耐えられなくなるからな……。明日の朝にでもあいつの家に寄ってやるか」
流石先輩、優しい、とジャスパーが言うのに、ここ以外のコーヒー屋は出禁を食らっているからな、と応えるハリエッタ。あのう、とはヴェインが言った。
「他のところからお医者さんを連れてくるっていうのは、難しいんですか……?」
「そんな金があるのか?」何を当たり前のことを、と一度その提案を振り払ってから、「……待て。そうか。オルガが死ねば、という話か」
はい、とヴェインは遠慮がちに頷く。店長が言ってたんです、と。
「そのお医者さんが死ねば、新しい領主が新しい、普通のお医者さんを連れてきてくれるんじゃないか、って……」
「……ありえん話でもない」かつん、とハリエッタはカップを爪で弾く。「オルガもあれで中々の悪党だ。私が掴んでいて書けないでいる特ネタも一つや二つではない……。人狼の次の標的になる可能性は十分以上にありうる」
「ということは?」ジャスパーがうんざりした顔で訊く。
「今夜中にオルガの追悼記事を準備してやろうじゃないか。事が起これば最速で朝刊行きだ。領民たちが奴の棺に鼠の死骸を副葬したくなるような、とっておきのやつを用意しておいてやる」燃えてきたぞ、とハリエッタは喜色満面。鞄から取り出したボロボロのメモ帳に、ほとんどインク切れを起こしたようなペンで『悪徳医師オルガの栄光と末路』『自作自演の環境破壊』『華麗なる制裁 正義の人狼』と書きつける。あまりの筆圧にペン先がページを二枚分貫いた。
「ヴェインさん」ジャスパーは溜息を吐きながら、「早寝早起き以外で背を伸ばす方法って、何か知ってますか?」
うーん、とヴェインは苦笑する。たくさん食べることですかね。
「君、コーヒーの件は許してやろう」ずぞぞ、と音を立ててカップの中身を啜り切る。かちゃん、と音を立ててソーサーに置いて、ハリエッタは大変偉そうに言う。「なかなか会話のセンスがいい。おかげで私の報道が加速しそうだよ」席を立つ。四つ折りにした紙幣をわざわざヴェインの胸ポケットのいちばん深くまで指先で突っ込んでくる。「喜べ。これからマーカスがいない間、私の話し相手は君だ」御馳走様、と去っていく。
「どうしてあの人はああいう……。そもそも人狼がオルガを仕留めるかどうかだってわからないのに」はーあ、とジャスパーは帽子を被り直して、「ヴェインさん。お仕事やめないでくださいね。あれでいいところもある人なんです」小さな硬貨を一枚手渡して、「泥水の中にだってワインが一滴くらいは混じってる、ってな感じで」
「ジャスパー、早くしろ」
「はーい! いま行っきまーす!」それじゃ、と手を振ってジャスパーも去っていく。
嵐のように過ぎ去っていった。店員も客も全員何となく呆然としている。途中で注文を一件だけ取って、とぼとぼとヴェインはカウンターの奥へ帰ってきた。
にやっ、とホリィが笑って言った。
「モテモテだね」
「……勘弁してください」