20(終)
「やあ」
がちゃり、と扉を開けるとハリエッタが立っていた。
身体を固めたヴェインの背後には空っぽになった部屋。リュックサックの中に、ここで過ごした生活の全てが詰め込まれている。
ハリエッタは訊いた。
「行くのか」
「……ええ」ヴェインの目が動く。泳いだわけではなく、周囲を警戒するように。
ハリエッタはそれに少し笑って、
「別にそんなことはしないさ。君の強さはよくわかってる。教会の人間を連れてきたってもうどうにもならないだろうし、」何より、と瞼を閉じて、「報道規制を敷いたのは公爵本人だ。領主が逃がせと言っている相手を捕まえるなんて、元からできるはずもないのさ」
そうですか、とヴェインは答える。後ろ手に扉を閉める。鍵はかけない。もう何も、ここに失うものは残っていないから。
「それで、何か僕に用ですか」
「用というほどでもない。……もちろん、君が出た後に作る記事のためにできれば取材をしたいところだがね」
愛想笑いもしない。
ヴェインがじっと見つめてくるのにハリエッタは会話を諦めて、手に持った手帳から一枚のメモ用紙を取って渡した。
住所が書いてある。
「……これは?」
「薄情な奴だな。世話になった店長に挨拶もせずに街を出て行く気か」
「…………」
「心配していたようだったからな。私なりのお節介だよ」
そうですか、と言ってヴェインはズボンのポケットにそれを折ってしまい込む。用件は終わったとばかりにハリエッタの横をすり抜けて歩き出したのに、背中から声がかかった。
「もう一つ、公爵からも伝言がある」
ぴたり、とヴェインが足を止める。こっちは私にも意味が分からないんだがな、とハリエッタは言って、
「『天国の話だが、あれは吸血鬼が吐いた、古い嘘かもしれない』と。そう、伝えてくれと頼まれた」
しばらく、ヴェインは動かなかった。
けれど、何も握り締めることはない。表情が動くこともない。心が動いたかどうかも、誰も知らない。
やがて、振り向かないままにじり、と地面を踏んで、こう言った。
「『黙れクソ野郎』と、伝えておいてください」
それじゃあ、と言い残してヴェインは去っていった。
小さなアパートの前に、それに不似合いな服を着た女が一人、取り残されて。
ありがとう、と小さく言った。
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「おう?」
扉から顔を覗かせたマーカスは、意外そうな顔でヴェインを見た。ヴェインはヴェインで、少し驚いている。てっきり話が通っているものと思っていたから。
「どした、急に。ていうかお前、うちの場所知ってたのか」
「あ、いえ。実は……」
ヴェインは話した。これからこの街を出て行こうと思っていること。最後に一言挨拶くらいはしたいと思って、たまたま道で会ったハリエッタに、マーカスの住所を訊いたということ。
マーカスは大袈裟に残念がった。
「おいおい、ただでさえスタッフ不足だってのに……。この上お前までいなくなっちまったら、バイト二人の研修をしながら店を回さなくちゃいけねえってわけか?」
「すみません」
頭を下げるヴェインに、マーカスはけれど、すぐにおおらかな顔で笑った。
「いいさ。娘も元気になってきた。ちょっとずつ手伝ってもらいながら、ちょっとずつ進んでいくよ」
はい、と頷いて、ヴェインがもう一度頭を下げてその場を辞そうとすると、待て待て、と言ってマーカスがその手を掴む。
「折角だから、最後に飯でも食っていけよ」
「え、でも」
「いいから。最後の残業だと思ってさ」
言われるがままに部屋の中に通されてしまう。あとはちょっと焼くだけだから待ってろ、とマーカスがキッチンに行ってしまったので、ヴェインは部屋の中、椅子に座ってマーカスの娘と二人きりになる。
こんにちは、と挨拶されたので、こんにちは、と返した。
「ヴェインさん、ですよね」まだ少し苦しそうな掠れ声で彼女は言う。
「はい。いつもお父さんにはお世話になっていて……」
ちらり、とヴェインが床に置いた荷物に目をやった。
「出て行くんですか?」
「……そんなにわかりやすいですか? 僕の恰好」
「ううん」彼女は首を振って、「でも、お父さんが言ってましたから。ヴェインさんはいつか、この街を出て行くだろうって」
どうして、と訊かなくても、彼女は続きを話してくれた。
「優しい人だから……大切な人が死んだら、耐えられなくてこの街を出て行っちゃうだろうって」
「おう、そろそろそっちに皿持っていくぞー」
キッチンから声がする。はあい、と娘は頷いて、机の上から物をどけ始めた。四人掛けのダイニングテーブル。擦り切れるような使い込みがされているのは、そこに並べられた椅子のうち、二脚だけ。
マーカスが食卓に料理を運んでくる。パンと、ハンバーグ。付け合わせのマッシュポテトと小さなサラダ。
食え、と彼は言った。「店より美味いぞ」
娘が笑った。「もう。普通逆でしょ、お父さん」
ヴェインは手を伸ばす。パンをちぎって、口に運ぶ。マッシュポテトとサラダを、フォークに刺して食べる。そして最後にハンバーグを、ナイフとフォークを使って切り分けて、ゆっくりと。
「……ヴェインさん?」
娘が問いかけた。ん、とマーカスもそれに気付いてヴェインを見る。どうした、とそれほど心配でもなさそうに、訊ねかける。
「美味すぎて、泣いちまったか?」
ほんの数瞬の間、ヴェインはその涙をただ、流れるままにしていた。
けれど、そのあとすぐには噛んで、裂いて、砕いて――
飲み込んで。
そして、こんなことを言った。
「はい――――とても、美味しいです」