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 昔々、あるところにあなたがいました。

 あなたと私は友達でした。友達同士だからとっても仲良しです。あるとき、一緒にご飯を食べようという話になりました。あなたはきっと、これに何の疑問も覚えませんね。仲のいい人同士でご飯を食べるということは、とてもありふれたことです。一緒に食事をすることで絆が深まるというのも、すごくよく知られた話ですから。


 私がご飯を作りました。豚のお肉です。あなたは喜んで食べました。幸せそうです。でも、私はつい、こんなことを言ってしまいました。


 この豚にも家族がいたことをあなたは知っていますか。


 命は尊いものだと教え込まれた人たちや、家族は素敵なものだと伝えられてきた人たちのために、きっとこんな言葉が考えられてきたのです。私はどんどん言いました。


 この豚にだって、生まれてきた以上は何らかの意味があったのだと思います。

 友達がいたのかもしれない。恋人がいたのかもしれない。それとも私たちが外側からは見ることができなかっただけで、深い哲学を持っていたのかもしれない。あるいは、ただ日々の幸福を噛みしめるためだけに生まれてきたのかもしれない。


 でも、私たちはご飯が食べたかったんです。

 お腹が減ったら、何かを食べなければならなかったんです。植物じゃなくて動物が食べたかったのは、そっちの方が美味しかったからです。私たちは動物を殺して、その死肉に丁寧に加工を施して、できる限りたくさん食べられるよう、綺麗で楽しい風景になるよう、美しい食物に仕立てあげました。ずたずたになるまで肉を細かくして、他の食べ物と混ぜて、形を整えて、熱した鉄の上で焼きました。そしてそれだけじゃ味が退屈で飽きてしまうから、別に作った美味しい美味しいソースをかけて、大切な人と同じテーブルの上で、にこにこ笑いながら食べました。


 あなたは、それを悪いことだと思いますか?


 そう訊かれて、あなたはかつて、こんなことを言いました。


 確かにその通りだ。人類の努力と文化だね。


 どうしてそんな言い方をするんだ。折角楽しい時間だったのに。


 君って、普段からそんなこと考えて食事をしてるのか。可哀想な奴だな。


 君の言うことはもっともだけど、その言いぶりはただ君が人間を嫌っているだけなんじゃないかな。


 言われてみて気付いたよ。罪深い僕は死ななくちゃいけないね。


 神様がそういう風に僕らを作ったんだから、しょうがないんじゃない?


 神様がそういう風に僕らを作ったんだから、


 神様がそういう風に


 神様が


 つまり、神様っていうのは悪いやつで。


 僕らはみんな、死んだ方がいいんじゃないのかな。


 あなたが何と言おうと、私はその次にはこう言います。ごめんね、変なことを言ってしまって。さあ気を取り直して楽しい時間を続けようじゃないか。


 そしてもちろん、そのとき私はこんな言葉を飲み込んでいるのです。



「あなたがどんな答えを選択したとしても、世界の何処かで、誰かがあなたを軽蔑しています」



 ご飯は美味しかったですか?


 そう。


 それはよかった。





 成り行きは、つまりこういうことだった。


 傷を抱えたままヴェインは走り続けた。雨に打たれるうちに獣の姿から理性も取り戻して、人の姿で必死に駆けた。外出禁止令を出された街はいつも以上に静かで、人っ子一人として彼を目撃する者はいない。


 走る先は、ダイナー。

 どうしてだったのか、と言えばそれ以外に心当たりがなかったから。ラズには隙を突いて逃げろと言っていた。これだけ誰の目もなければきっと街の外に逃げ出せたに違いない。教会も公爵邸も抑えた。ならきっと彼女のことは吸血鬼が自分の動揺を誘うために吐いたブラフだったのだ。その上で公爵の言葉が本当だったとしたら、もう自分にとって大切な場所なんていうのは一つしかない。だから彼は走った。幸せな勘違い。狂った吸血鬼の悪意の底の深さなんてまるで知らなくて。


 店に着いた。鍵が開いていた。嫌な予感がした。血の匂いがする。もう彼は気付いていた。幸せな終わりはこの先に待っていないということ。


 勝手口から入る。廊下を歩く。血の匂いがどんどん濃くなる。ホールに出る。死体の姿はない。けれどカウンターの奥から不幸の香りが漂っている。足が震えだす。惨め。ゆっくりと彼はカウンターを周っていく。奥に回ろうとする。ゆっくりしか歩けない。心が壊れそうになっている。いつもみたいに。


 死体が一つ。

 ホリィ。


 死にかけが一人。

 ラズ。


 死体は引き裂かれていた。獣の爪で、声を出せないように喉笛を入念に。自分が教えたとおりの手口。ヴェインがこのことについて言えることは何もない。


 死にかけは撃たれていた。夜の人狼は銃で撃たれたくらいで死にかけになるものではないが、今回ばかりは違う。使われたのは銀の弾丸。ヴェインにもわかる。鼻を利かせればこの世で二番目に嫌な臭いがするのが嗅ぎ取れる。


 どうしてダイナーで、銀の弾丸が。

 答えは簡単。『遊びに来た吸血鬼が、弾丸を入れ替えておいたから』。


 それなら、このダイナーに幼い人狼がやってきたのも吸血鬼の策略だったのかといえば。

 答えは、これからわかる。


「ラズ」

 優しく、ヴェインは呼び掛けた。もしもホリィとラズ、それぞれに息があったとしたら、きっと彼はどちらに呼び掛けるか迷っただろう。けれど今、彼は迷わない。片方はただの死骸になってしまったから。


「ヴぇ、いん……」

 彼女の息は細い。幾人も殺してきた彼だから、同じ種族の彼だから、よくわかった。彼女はもう助からない。幼い少女は、ここで生きることを終える。


「逃げる、とこ、わかんなくて……」

 ヴェインは甘く見ていた。自分がかつてそうだったから、少女にもできると思っていた。これまで生きてきた街を捨ててどこかに旅立つことを、誰にでもできることだと勘違いしていた。だから彼女が自分の言った『逃げろ』という言葉に従わず、この街で、信頼できる大人が帰ってくるまでずっと待っているという選択を行う可能性を、考慮できなかった。


「どこ、行こう、って思って……。一番、ここ、幸せだったから……」

 ヴェインは気付いていなかった。自分は一人で生きてきた時代が長すぎたから。他人が神様みたいに見えるという体験をしたことがなかった。生まれてからずっと他人に受け入れて貰えず、ずっと飢えて暮らしてきた子どもに、たとえそれが他人にとっては何の価値もない生ゴミだったとしても、施しを与えることの重さを、理解できていなかった。


 傷付いた獣は、巣を目指す。

 彼女にとっての巣がここだったこと。


 これ見よがしに置かれた現金なんかよりも、神様みたいな彼がくれたゴミの方が、ずっと今、欲しいものだったということ。


 そうしてラズとホリィは出会い――殺し合った。

 お互いにとって、お互いは大切な存在ではなかったから。


「死ぬ、の? 私……」

 ラズの問いかけに、ヴェインは答えられない。屈みこんで、手を握って。二人分を祈るだけが、精一杯。


「私、百人も、食べてない。から、天国、行けないね……」

 ヴェインとエリューの戦い。その最後に話した、ヴェインの目的と手口。それをラズは、クローゼットの中で聞いていた。人狼は百人殺して食らえば人狼の天国に行ける。そのことを。そして天国がどういう場所なのか。誰もいなくて、ずっとお腹がいっぱいの場所。


 そこに自分は行けないということを、死に際に理解していた。


「地獄って、どんなところ……?」

 ヴェインは、泣いたりしない。思考を止めたりもしない。

 彼女の死に際だから。一言も、伝え洩れないように。自分がかつて教えられてきた言葉を。優しいか優しくないのかもわからないまま、一つの話として、彼女に言えるように。


「地獄は……」

 彼は、言った。


「そんなに、天国と変わらないよ……。すごく綺麗なところで、たくさんの色があって、風がやわらかい。すごくいい匂いだってする。でもね……」

「でも?」


 子守唄のように。

 生まれてからこれまでの中で、一番、優しい声で。


「ずっと、お腹が減ってるんだ。そして大切なものが周りに溢れてる……。植物も、動物も、人も。君の愛する全てのものが目の前にあって、でも、ずっとお腹が減ってるんだ……」


 そうなんだ、と言って。

 ラズは、笑った。



「じゃあ私――――天国より、地獄の方が、ずっといい」



 それを最後に、彼女の声はこの世界に二度と届かなくなった。

 それでもまだ、ヴェインはずっと手を握っている。祈っている。天国か、それとも地獄か。孤独か、飢えか、それとも。


 もしも彼が、この街で一度も人を殺さなかったとしたら。

 もしも彼が、飢えた少女に食べ物を与えたりしなければ。

 もしも彼が、ロッカーの拳銃を壊しておけば。

 もしも彼が、もっと少女にしっかりと言葉を伝えられていれば。

 もしも彼が、もっと誰にも好かれないように振る舞っていれば。

 もしも彼が、もっと早くこの場所に辿り着けていたら。

 もしも彼が、もっと早くこの街を捨てられていたら。

 もしも彼が、天国の話なんてしなければ。

 もしも彼が、幸せなんて求めなければ。

 もしも彼が。

 もしも彼が。

 もしも彼が。


 もしも、彼が。


 嗚呼。





「――――結局、自業自得か」






 雨は降り止まないまま、夜が明けていく。


 獣は、慟哭の仕方を知らなかった。




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