01
「ちょっと早いけど、お店閉めちゃおっか」
「あ、はい。……いいんですか?」
「いいでしょ。店長も帰っちゃったし。どうせもう常連さんしかいないしさ」
街の夜は長く、灯りはなかなか途絶えない。
このダイナーもその一つ。深夜営業。簡易な食事と酒がつく。給料日に来ることはまずないが、毎日来るにはうってつけ。いつもは三人の店員がいる。頭の毛を剃り上げた大男の店長と、二十半ばのまとめ髪の女、いかにもついこのあいだ酒が飲めるようになりましたという風貌の茶髪の青年。
いま二人しかいないのは、店長が帰っていったから。隣人が駆け込んできて彼に伝えた。お前のとこの娘が熱を出した。いまうちの女房が病院に連れていってる。エプロンを脱いで店長は言った。後は任せた。そして残りの営業時間を、この若い二人が勤め上げていた。
残りは二十分を切る。店の中にいるのはこの街には珍しく読書が趣味の肉体労働者と、ついさっきまで街先で歌ってましたと言いたげに楽器のケースを担いだ少女だけ。同じころに来て、閉店時間が来れば一緒になって帰っていく。親子だ、と店長は言っていた。一度も同じ席に座っているところは見たことがないけれど。
「じゃあ私、もう閉めるって伝えてきちゃうから。ヴェインくんは、」
「ゴミ捨てですね。わかりました」
「よろしい」
よろしく、と女はヴェインと呼ばれた青年の肩を叩く。思わぬ力によろけたヴェインは、はい、と苦笑交じりに言って、店内のゴミ箱から袋を取り出す。女が「今日はもう閉店しますね」と伝える声を背に、裏口の扉を開けて店から出た。
路地裏は汚い。こんなところまで清掃するような気の届いた街ではない。野良犬の食い残しがそのあたりに散乱していて、けれど住人なら気にも留めない。裸足ならともかく、靴だって履いているのだし。ゴミの回収所はもう少し先。
生ゴミを漁っている女がいた。
「あれ」
「――――!!」
ひどく幼い。一目で貧民だとわかる。それも拾ったのだろうボロキレのような布を頭からすっぽり着込んで、その隙間から哀れなくらいに浮き出たあばら骨が覗いている。人を見て怯えるような仕草。殴られてきたのだろう。証拠に口の隙間から見える前歯は二本欠けている。
その子を見るのは、初めてだったけれど。
この街では、その程度の恰好は、珍しいものではなかった。
「こんばんは」
ヴェインは彼女に笑いかける。手に持った袋を、便所よりも汚い蠅の住処と化したバケツに入れる前に、ふっと手を止める。そして訊いた。
「……食べる?」
「――――!!」
警戒するような仕草。一歩ヴェインが近寄れば一歩遠ざかり、一歩遠ざかれば一歩近寄ってくる。だからヴェインは言う。仕事をお願いしようかな。
「この袋をそこのバケツに捨てて置いてほしいんだ。僕はちょっと急いでて……。代わりと言っちゃなんだけど、もしこの袋の中に君の欲しいものがあるんだったら好きに取ってくれていいよ。どうせ捨てちゃうものだしね」
「…………」
「いいかな? よければ、頷いて返してほしい。つまり、顔を縦に……空から地面に向かって動かしてほしいってこと。そうしたら僕もこれをここに置いて、用事に向かえる」
たっぷりの沈黙の後、少女は顔を空から地面に向かって、大きく動かした。ヴェインが袋を置く。振り返って歩き出す。がさごそと袋を漁る音。それが聞こえなくなれば、もう店の前。勝手口を開ける。もう誰の姿もない。ロッカールームでバン、と扉を閉める音がする。制服から着替えた女が出てくる。
「帰ろっか」
「はい」
ヴェインが入れ替わりでロッカーへ。着替えて、鞄を持って出てくる。よし、と二人は並んで、勝手口から出て行く。施錠は忘れず。すぐに大通りに向かって歩いていく。瓦斯灯が鈍く輝いている。帰り道の向こうに大きく月が光っているのが見える。
「聞いた? 領主が死んだっていう話」
「えっ! そうなんですか?」
「わー。ヴェインくん遅れてるなあ。ちゃんと新聞とか読んでないでしょ」
「今日は起きてからそのままお店に来ちゃったので……。え、ちょっと待ってください」ヴェインはほとんど驚愕、という顔で「ホリィさん、新聞なんか読んでるんですか?」
どういう意味だ、とホリィはヴェインの頭をはたく。ヴェインはそれに大袈裟に仰け反って、あいたた、と笑う。
「私だって新聞くらい読む……って言えたらいいんだけどね。実際は夕方に来たハリエッタさんから聞いてただけ」
「ならなんで僕はいま叩かれたんですか?」
「もうすごい張り切りようだったよ。また人狼の仕業だ、って言って。パスタ一口で啜り切って仕事に戻って行っちゃった」
無視だもんなあ、とヴェインは口を尖らせて、でも、とそれから、
「怖いですね、人狼」
「そう?」
「え。だって、連続殺人鬼ですよ?」
「それはそうだけど、悪党専門でしょ? だったら私たちには関係ないじゃん」
「うーん……」
「ヴェインくん知らないか。このへんでね、朝から演説してるおじさんがいるんだよ。『人狼は我々の救世主である!』って。なんでも殺された一人目が高利貸しだったとかなんとかで、その債務者だったおじさんは九死に一生」
最初のころは馬鹿にされてたけどさ、とホリィは小石を蹴飛ばして、
「もうそろそろ皆、あれが本気だって信じ始めてるんじゃないかな」
「うーん……」
「おいおい。ヴェインくんは人狼に殺されるような心当たりでもおありで?」
「そういうわけじゃないですけど……。なんか、怖くないですか? 人が死んではしゃいだりするのって……」
大きく目を見開いて、ホリィはヴェインを見た。それから、ぷ、と小さく噴き出して、
「可愛いなあ少年は!」
「わっ、ちょ、やめてください!」
「うりうり」
わしゃわしゃとヴェインの髪をかき回す。背はヴェインの方が高いから、ほとんど抱き着くような勢いで。そしてこんなことを言う。
「だいじょーぶ。いざとなればお姉さんが守ってやるからさ」
「……ホリィさん、喧嘩とか強いんですか?」
「気持ちの話、気持ちの話」
曲がり角。瓦斯燈の下。立ち止まったのはこの先が分かれ道になるから。
「まー安心しときなさい。そんな人畜無害な君には人狼は決してやってこないでしょう! 枕を高くして、この街がより住みやすくなることを期待して待ってなさい」
「僕の家、枕ないです」
「買いなって、もー。首痛めるよ?」
それじゃあね、とホリィは言う。去り際、ヴェインに近付いて、小指で小指をぎゅっと握った。
その背中が次の曲がり角に消えていくまでを、ヴェインは見守っていた。住宅街。どこかで酔っぱらいが走る音。黒猫の鳴き声。周囲には誰の気配もないから。
そっと、ヴェインはその小指に口づけた。
一瞬だけ見える。
人から獣に変わる指。