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 カウンターの裏で息を殺している。

 結局、ホリィはひとまず様子を見ることに決めた。ときどき通路の向こうから聞こえてくるのは、ヴェインの足音ではないような気がしたから。


 店長には申し訳ないけれど、相手が空き巣だったとしても今日は戦うつもりがなかった。この街での発砲沙汰なんて日常茶飯事だけれど、つい先日人狼絡みの殺人事件があったところとあっては洒落にならない。空き巣を撃退したとして警察や教会が駆けつけてしまったら、かえってヴェインは行き場をなくしてしまうし、最悪自分も拘束されてしまうかもしれない。


 だから、カウンターの上に今日の売上金を置いた。


 ここなら空き巣だって、すぐにわかる。そしてすぐにそれを盗って去っていく。そう思って。

 けれど拳銃を握りながら、震えを押し殺している。


 来た。


 廊下とホールを繋ぐ扉が開く。足音。靴の音ではない。裸足? ぺたりぺたりと濡れた音。顔を上げて確かめたいけれど、そのとき目が合ったりしたら命取りになる。人狼は裸足でいるんだろうか。この汚い路地が溢れる街で?


 足音が近付いてくる。今はホリィが、さっき今日の売上を置いた場所。


 ちゃり、とコインの擦れる音がした。


 それで、背筋がすうっと寒くなる。ヴェインではない。ヴェインだったら店の売上には手を出さない。たとえこれ見よがしに置いてあっても、決してそれを手に取ることはしない。そういう人だと、ホリィはちゃんとわかっていた。


 空き巣だ。

 そう思って、ホリィはさらに呼吸を静める。バレないように。ここにいると知られないように。


 けれど、足音はその場所では止まらなかった。金を明らかに手に取ったはずなのに、まだ歩いている。カウンター沿いに。いけない、と本能的にわかった。この空き巣は、カウンターの裏まで回ってくるつもりでいる。金庫か何かがあると信じて。


 実際のところ、金庫自体はある。ついさっき、ホリィがその中身を取り出して空にしたけれど。心臓が異様に高鳴る。手が震えてくるのを、拳銃を強く握って止める。


 大丈夫。自分にそう言い聞かせる。今いる場所は、金庫のある場所よりもさらに奥。ゴミ箱の隣。臭いが漏れ出してしまわないように、衝立が置いてある。まずここまで来ることはない。そのはず。そのはずなのだ。


 そのはずなのに。


 足音はさらに進む。金庫の場所を通り過ぎた。どうしてどうしてどうして――バレている? さらに銃を握る手に力が籠もる。籠もって籠もって籠もって――とうとう、過去の記憶は彼女に力を貸した。大丈夫。自分ならきっとやれる。そう信じて、撃鉄に指をかけた。足音は近付いて近付いて近付いて、


 とうとう。

 衝立の奥にそれは姿を現して。



「――――っ!!」



 彼女は、引き金を引いた。






「――――ガァウゥッ!!」


 獣が吠えた。

 決める。殺す。そのことだけを、ヴェインは考えて。


 一度もやったことがなかった。手脚を獣に変身させることのさらにその先にある領域。身体の全てを獣に変えるだけの変化。二足で立つこともなくなる。四肢で地を蹴り、駆ける。鼻面は大きく前に伸びて、口は閉じ切れないほどに裂け上がる。全身を覆う獣毛は鋼よりも硬く、銀を除けばどんな刃も通らない。


 一度も試したことのない理由は、ただ一つ。

 戻れなくなるのが、怖いから。


 いずれの姿だ、とヴェインは思う。実際にこうして変身してみて尚更確信した。これはいずれ二十五になったとき、百人を食らえず地獄に行くことが決まったとき、自分が成り果てる姿なのだとそうわかる。少しずつ理性が脳から溶かされていく。食欲が強まっていく。原始的な欲求がかつての強大さを取り戻していく。


 そのことがヴェインには、心地よくて仕方がない。

 迷いなく獲物を狩る、その獣の心性が、傷だらけの理性を雪の下に隠していく。気分が良い。それと同時にどんどん自分の中の人間の部分が遠ざかっていくのを感じる。


 苦悩こそが、人の証なのか。


 迷っている時間はない。


「ははっ――!」

 トレアが首の血を拭ったその手をヴェインに向かって大きく振る。血の扇。炸裂する赤色の刃弾。ヴェインは疾駆する。身体はどんどん膨張している。この密度の攻撃を避けるには、まるで違う場所まで移動した方がずっと速い。三足も駆ければ、悪趣味な領主邸の過剰な面積の広間においてさえ、壁から壁へと走り抜ける。


 そのまま、壁を上った。


「グゥ――ッ!」

「期限間近か、お前!!」

 尖血針が壁へと刺さっていく。それを置き去りにする勢いでヴェインは走る。上る。二階相当、三階相当――――大窓を足で踏めば、大きくそこから跳び返る。遅れて血針が硝子に罅を入れ、亀裂が走り、大きくバラバラの欠片へと割り破る。


 夜空は雨。未だに月光一筋も流れず。


 それでも月を蹴るように、ヴェインは天井を蹴りつけた。


「――――バォガワゥッ!!」


 技など何も要らない。それを考えるだけの理性は何も残っていないし、あったとして野性に敵うはずもない。超速。流星のように彼の身体はトレアにまで降り落ちる。


「当たる、かよっ、低能!!」

 足の軌跡が弧を描く。僅かな動きでトレアはそれを躱すと、回転ざまに膝を叩きこむ。


「――――っ!?」

 それが、今はダメージにすらならない。


 金属を殴りつけたような鈍い音。ヴェインの身体はびくりとも動かず、着地するや獣の腕を振る。一回目ですでに顔の半分の肉を抉り取った。飛び散る血液が毒刃となって彼の右腕を蝕む。けれどすぐさま左も振られる。二回目は爪ではなく手に当たり、大きくトレアが吹き飛んだ。


 追撃。

 首に牙が刺さった。


「うッ、あああああぁああああッ!!!」

「――グゥ、ガッ――――!」

 一度噛みついたらもう二度と離さない。トレアの手がヴェインの口にかかる。こじ開けようとする。びくともしない。歯茎に爪を立てて削る。鉄柱を引き抜くために辺りの地面をほじくり返すように。血が流れる。肉が飛ぶ。それでもヴェインの口は動かない。顔を何度も蹴られる。動かない。理性はもうない。目的も手口も頭の中にない。相手の言い分も何も考えない。この場所には善悪すらもない。


 トレアの手がヴェインの右目に突き刺さった。

 血肉の中を泳ぐ。指が蠢く。脳幹を目指して、即殺のための最後の吸血鬼のあがき。彼女の手指についた血液は狂った金属のように暴れ回り、彼の眼窩内をズタズタに破壊していく。


 それでも、ヴェインは離さない。


 バキン、と骨の全てが砕ける音がした。


 トレアの腕が動かなくなる。頭の中で暴れ回っていた血液も、初めからそうだったようにただの生臭い液体に戻る。念入りにヴェインは咀嚼する。臓器の全ても破壊する。それからようやくずずず、と瞳から彼女の手を引き抜く。痛みに呻けど叫びはしない。


 力なく倒れたトレアの頭を、踏みつけにした。何度も何度も何度も――頭の中が真っ赤に染まっている。勝利の感覚。裂けた口からとめどなく唾液が溢れ出す。死体に食いついて、貪って。



「――――他に、やることがあるんじゃないのかね」



 こつん、と足音を立てて男が降りてきた。

 雲を衝くような巨漢。そのはずが、今は目の前の大狼と比べてしまえばほんの頼りないものにすら思える。吸血鬼にだって及ばない。ただの男。それが帯剣もせず、銃も持たず、ごく当たり前の動作で階段を降りてくる。


 まるでヴェインのことを、話の通じる人間だと思っているかのように。


「吸血鬼というのは難儀な生き物でね。生きる時間が長い割に精神は私たちと大差がない。つまり、彼女のように私の曽祖父の曽祖父まで遡っても同じ姿でいたような者は、多かれ少なかれ狂っているんだ。たとえば必要以上の流血を求めたりね」

「う、ウゥウウウ…………」

「落ち着きたまえ。私は君と戦うつもりはない。トレアが負けるような相手に敵う道理はないし……何より、彼女が死んだとなればもはやこの争いを続ける意味も、私には見出せない」


 ゆっくりと、男は近付いてくる。鮮血公爵・ゴドー=ゾルゲンホワーヅ。

 表情は、聖者のように。


「狂った吸血鬼は悪趣味だ。大切な者がいるなら、そこへ向かうといい。……死に目くらいには会えるだろう」


 何度も何度もヴェインは唸りを上げた。前足は床を掴んだまま緊張して、今にもゴドーの喉笛を噛み千切ろうとしている。そして、それは実際に数瞬もかからずに達成できる、些細な出来事だったのだけれど。


「――――お、ヲ……」

 その些細をすぐさま動作に移さないということは、迷いがあるということで。


 獣の声のままで、ヴェインは言う。


「お前を、殺しても…………誰、も。誰も、喜ば、ない――」


 本能を振り切るように、獣は踵を返した。扉を潜って、雨の夜にバシャバシャと足音を立てて走り去っていく。


 残されたのは、死体と男だけ。

 小さく呟く。


「……誰も、か」


 男は死体に近付く。生前の姿など欠片もなく、どこまでも引き裂かれ、踏み躙られ、血と肉と汚濁にまみれた姿に変わった女の死骸に。


「少なくとも、私は喜んだろうに……」


 それに、ゆっくりと手を伸ばした。


 ぐちり、と死骸に指を差し入れる。

 臓腑の淡い結合を指先でぶちりと断ち切って、摘まみ上げたのは赤い肉。


 男はそれを口に含んで、ゆっくりと噛み砕いて。

 短く、愛の言葉を囁いた。




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