16
「あれ、鍵――」
開いてる?と呟きながら、ホリィは店の勝手口のドアを回した。
てっきり戸締りされているものかと思っていた。ハリエッタの話では、店長も家に帰ったらしいのだし。手の中に握っていた鍵をもう一度ポケットに入れ直す。また何かあったときのために、と渡されていたスペアのキー。使う場面はないだろうと思っていたのだけれど。
中は暗い。壁のオイルランタンに火を灯して、ホリィは通路の先を窺う。
「店長? いるんですか?」
返事はない。
鍵を閉め忘れたのだろうか。耳を澄ましてみるけれど、人のいる気配はない。それでもこんな街だ。不安になることには不安になる。最初はロッカーに進んだ。店長のロッカーを開けて取り出す。護身用の、回転式拳銃。幸い弾丸はすでに込められている。装填の手間が省けた。
それなりに、銃には自信がある。以前に強盗が店を襲ったときも、店長が飛び掛かって怯んだところを自分が銃で脚を撃ったのが決め手だった。この店に入ったときに店長から「自分の身くらいは自分で守れるようになっとけ」と練習させてもらったおかげだ。並大抵の人間が相手なら負けない自信がある。
ゆっくりと、ホリィは店の表に進んでいく。ホールにまで出て、ようやく息を吐いた。本当に誰もいない。施錠していなかったのは、ただの店長のミスらしかった。
「うっかり屋だなあ……もう」
そう零して、ホリィは店の椅子の一つに座る。窓の外にはまだずっと雨が降っていて、暗い夜が来ている。そして、ホリィはこんなことを思う。
ヴェインは、戻ってくるだろうか。
ハリエッタは言った。人狼は巣穴に戻ってくると。本当だろうか。本当だとして、それでヴェインはここに戻ってきてくれるだろうか。
戻ってきてくれたらいい、と思う。
ここを巣として認識してくれていれば、うれしいと思う。
ホリィにはわからなかった。教会の人間たちが躍起になってヴェインを殺そうとする理由が。それは、彼が人狼だとわかってからも。だって自分はあの青年を知っている。優しくて、穏やかで、どことなく気が弱くて……。仕事をする中で何度も助けられたし、何度も助けた。そんなのは人狼が人を食うためにお前を騙していただけだ、と言われたら、ホリィはその言ったやつの鼻面に氷水をぶっかけてやったって構わない。人と人との交感や繋がりに、全てが嘘だなんてことはないのだ。全てが本物だなんてことがないように。
確かに嘘だったのかもしれない。弱々しい姿は。
けれど、完全な嘘でもなかったと、わかってもいるし、信じてもいる。
人狼だからなんだと言うんだ。この街の人間が、どれだけあの人を食う獣に助けられてきたことか。ここにいる誰が彼の死を望むだろう。まして、その正体が明けたと思ったら、小さなダイナーの、誠実なスタッフの一人でしかないのだ。こんなに素敵なことが、他のどこにあるっていうんだろう。
それでも、もしも誰かが彼のことを疎外するなら。
ここで、彼の帰りを待っていてあげたいと、彼女は思う。
「大丈夫かな……」
大丈夫だよね、と。
だって、人狼は強いのだから。人間よりずっと、強いのだから。
手を固く組んで、ホリィは祈った。
どうか彼が、無事に帰ってきますように、と。
祈るときだけに顔を出す神に向けて、願いを込めて。
「…………?」
そのときだった。
音がした。きぃ、と勝手口の方で、扉の開く音が。
さっきも、鍵は閉めなかった。店長が復帰してからのヴェインは、スペアのキーを持っていないから。もしそのままここに来て、閉ざされた扉を前に踵を返してしまったらいけないから。不用心か、とは思ったけれど、元々施錠を忘れていた扉だ。何かあっても店長は文句を言わないだろうという、そういう確信があった。
誰かが入ってきた。
息を潜める。物陰に移動する。人の気配を感じる。ヴェインだろうか。それともそれ以外の侵入者?
確かに入り口のところのランタンは灯したけれど、窓のあるホール側は暗いまま。よほどのことがなければこのまま息を潜めているだけで、相手は自分の存在に気付かない。けれどそのまま気付かせなかったら、もしもそれがヴェインだった場合、彼は自分に気付かずどこかに去ってしまうかもしれない。
けれど、これがただの不審者だったら? たとえば空き巣。深夜営業の店には、銀行に預けることのできない売上が保管してあるはずだと、多少目端の利く人間であれば誰でも知っている。
夜雨降りしきる暗闇の中で、ホリィは銃を握っている。
@
領主邸。
ずぶ濡れの獣が、大扉を開けて入ってくる。
銃火が襲い来るかと思っていたのが、まるでその気配がない。人の姿もなく、僅かにランタンの明かりが灯るだけ。一度ここには訪れたことがあった。入ってすぐには大広間があって、そこからぐるりと建物の中を周るようにしていけば領主――つまり公爵のいる場所まで辿り着く。
「気合入ってるよねえ」
声は、頭のずっと上からした。
ヴェインが見上げる――三階分はあろうかという広間の吹き抜け。その天井に、逆さになって赤い髪の女が張り付いている。
まさか、と思った。
「もうバレたらバレたなりに全力ってわけ。確かに、うちの公爵を殺っちゃえば少なくとも一時的に指揮系統は混乱するしね。教会から先に行ったのも面白かったな。一度誰かが殺された場所には留まらないだろうって考えたんでしょ? うん、面白い。結構正確な読みだと思うよ。普通のやつだったら、前領主が殺された場所に、そのときと同じ襲撃者が来るってわかってたら逃げ出すに決まってるからね」
まあもっとも、と女はそこから飛び降りる。
まるで体重を感じさせない着地。人狼の行く道を塞ぐように、立ち佇んで。
開いた口には、牙がある。
「お前、吸血鬼か」
「イエス。見たのは初めてだろ? 私だってもう百年は同族を見てないんだ。元々吸血鬼は人狼よりもずっと寿命が長くて、個体数も少ないからね」
「ここにいるってことは、お前も敵ってことだな」
「悲しいな。敵だとか味方だとか……。目の前の相手にまずは属性を付けなきゃ喋れないなんて。でも、私だって人間社会で暮らして長いからね。そういうことも理解してあげよう。そうだよ。私は君の敵だ」
カキリ、と人狼の指が鳴る。
「俺は必ず、目的と手口を語ることにしている」
「そう。私はそんなの聞く義理がないな」
ヴェインの眉が動いたのにも構わない。退屈そうに、トレアは続ける。
「だってそうだろ? 他人の事情なんて聞いて一体何になるっていうんだ? 敵の言葉なんて聞く意味がない。ただ自分の今後の人生でたまーに思い出して嫌な気分になるだけさ。『ああ、あいつってあんなやつだったなあ』とか『今ならあいつの気持ちもわかるかも』『あのときの私って、本当に正しいことをしたのかな』……馬鹿じゃない?」
歌うように、彼女は言う。
「神様は言いました。お前たち、息が苦しいでしょう。空気をあげます。思う存分吸いなさい。え、腹が減ったって? うん、わかった。それじゃあお前たち同士で食い合えるようにしてあげましょう。飢えたらお互いに奪い合いなさい。お互いを貶め、傷つけ、そして最悪の形で決着をつけなさい。何、それじゃあまりにも惨すぎるって? 仕方ない。ではお前たちの言葉を通じなくしてやろう。そうすれば、お互いに相手に心があるだなんてわからないようになるだろう?」
なのにどうして、と彼女は、
「君は、わざわざ意思を伝えようとなんてするのかな。迷惑だよ、そんなの。はっきり言ってね」
「俺は、相手に意思を伝えているんじゃない」
「じゃあ何に?」
神に。
では、ない。
「…………自分自身に」
「ああ、そ」
んじゃ一人で祈っとけ、と彼女は床を叩く。
戦闘開始。