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「ダメだったねー。エリューは」


 領主邸。かつてバブラオ=トレジェーデが座っていた趣味の悪い椅子に、今度はゴドー=ゾルゲンホワーヅが腰を下ろしている。外は雨。灰色の空は石のように重たく、刻一刻と宵闇へ色を濃くしている。


 ゴドーの前には、机に腰かけたトレアがいる。靴を脱いで、彼の太腿に足の指先を這わせながら、ぼんやりと暗い天井を見つめている。灯りのない部屋。暗闇は彼女の趣味。


「しかし、殺されはしなかったのだろう?」

 ゴドーの言葉に応えるでもなく、

「いやー。甘えが出ちゃったね。賢い人間は強いんだけど、やっぱり脆いな。ダメダメ。情とか出したらさ。……ま、お互い様だけど」


 ふむ、とゴドーは頷いて、

「しばらくは戦力としては数えられないだろうが……、彼女ほどの人物を失わずに済んだのは不幸中の幸いだったな。ところで君、私に何か言うことがあるんじゃないのかね」

「え? 何が?」

「こういうとき、行動を起こす前に上司には相談するものだと思うがね」


 強く、トレアの足がゴドーを踏みつけた。目を細めて、小さな声で、

「……何? そういう気分ってわけ?」


 いやいや、とゴドーは首を横に振る。

「私が命令したことならばともかく、君の独断という形になるとシルフォリオくんに恨まれてしまうだろう。職場の関係は円滑に越したことはないからね」

「ああ、なるほどね……。急に凄く生意気になったのかと思っちゃった」

 それにしたって多少は苛々するけど、と踵でぐりぐりとゴドーの腿を踏みつける。ゴドーは穏やかに笑ったままで、まるでそれに反応しない。


「別に、バレやしないよ。私からは言わないし、エリューが目を覚ましたって何も語らないって。あの子、自分より弱い立場の人間にはものすごく甘いから。何も知らせないし、何も頼らない。シルフォリオの頭の中ではあの子はいつまでも『突然人狼に襲われた可哀想なお姉ちゃん』だよ」

「君の口から聞くエリューくんは、途轍もなく残酷な人間に思えるな」

「そう思って話してるわけだからね」


 トレアが机から跳び降りる。裸足のまま窓辺へ歩いていくと、空模様を見て顔を顰めた。

「嫌だね。この街はずっと汚い雨が降ってて」

「晴れていたら晴れていたで文句も出るだろうに」

「うっさいなあ」


 からからと窓を開けば、風とともに小雨が部屋に吹き込んでくる。トレアのシャツにもいくらか染みを作って、部屋の温度がすうっと下がる。


 ところで、とゴドーは言う。

「そのシルフォリオくんは、どこに行ったのかな」

「殺しに行ったよ。あの子、余計なこと考えないから」

「それは強いのかい?」

「扱いやすくはあるけどね」


 窓を開けたまま、彼女はその場所を離れる。脱ぎ散らかした靴下と靴を履き直して、傘を手にして部屋の出口へ歩いていく。


「どこへ?」

「遊びに行ってくる」


 ばたん、と扉が閉じれば、残されたのはゴドーただ独り。椅子に凭れて、臍の前に手を組んで、深く溜息を吐く。


「…………いつまで、こんなことを続けるのかな」


 たぶん永遠、と。

 トレアがいたら、答えたかもしれない。







「……あの、どうして私はここに?」

 ホリィが訊けば、ハリエッタは「君のためだ」と答えた。


 新聞社。ホリィもこの街に住んでいるから煙草の臭いなんていうのは獣にとっての草木の匂いと同じくらいに慣れ親しんだものだったけれど、ここはちょっと格が違う。下手をすると外を歩いているよりも濃い紫煙が漂っていて、こんなところに幼いうちから勤めているジャスパーの肺の将来が心配になる。木炭でできたみたいに真っ黒になるんじゃないだろうか。


「いや、でも。仕事が……」

「今日はもう臨時休業だ。ジャスパーを残してきたから、それほど時間を待たずに戸締りを終えてマーカスのやつも家に帰る」

「休業って……」


 ホリィだって、平和ボケをしているわけではない。こんな街に住んでいたら不審者やら事件やらなんていうのは日常茶飯事だし、ヴェインが店員になる前は店長と二人で、夜中に現れた強盗を撃退したことだってあるのだ。荒事が好きとは言わないが、その臭いのする瞬間くらいはわかる。


 つまり、ここ。

 職場に向かう途中で突然ハリエッタに捕まって、有無を言わさず新聞社まで連行された、このタイミング。


「……何か、起こってるんですか?」

「教会治療師エリュー。心当たりは?」

 どうしてそれを。驚く顔をホリィは隠せもしない。今日の開店直後のことだった。突然その名を名乗る人が現れて訪ねてきた。ヴェインという人はこちらで働いていますか。ヴェインは今日はもう数時間してから出勤してくる予定ですが、と答えれば、それまで待てないから住所を教えてほしいと言う。怪しい人だ、と思って警戒すれば、奥から出てきた店長がこう言う。これはエリューさん! うちの娘はあれから随分元気になって……。そしてホリィにはこう頼んだ。こっちのことはいいから、エリューさんのことを案内してやってくれねえか。


 大人しく案内こそはしたけれど。

 そのあとのことは、何も知らなくて。


「彼女が意識不明の状態で教会に運び込まれるのを見た」

「……え?」

「ヴェインの家で見つかったそうだ。どういうことかわかるな?」


 それはもちろん、ここまでのことを言われてわからないやつがいたら見てみたい。事件のことで訪ねた先で、調査者が重傷を負う。そんなの訪ねた先の人間に害されたからに決まっている。


 でも、信じられない。


「……まさか、ヴェインくんが?」

「予想していなかったわけではない」トントン、とハリエッタは指でこめかみを叩く。眼精疲労を起こしがちな人間に共通の癖。「人狼のプロファイルは私も行っていた。殺人遍歴は『街の反感を食わないこと』――その目的に特化している。どこかに何食わぬ顔で潜んでいるとは思っていたが、まさかこれほど近くにいたとはな」


「ま、待ってください!」

 思わず、ホリィは立ち上がる。まさかそんな。勝手に納得されたって、こっちは全然理解ができない。腑に落ちない。


 ありえない。


「だって、人狼って、もっと凶暴なんじゃ――」

 その疑問に、ハリエッタは答えない。答える必要はないだろう、と言わんばかりに。


 理屈では、ホリィもわかっているのだ。完全な善人が存在しないように、完全な悪人も存在しない。外では笑って商売をしている人間が家では我が子を虐待していることが往々にしてあるように、外では笑って人を殺している人間が家に帰れば一言も怒鳴らず手を挙げず、完璧な家族の一員として振る舞っている場合だってある。自分にとっての『いい人』が、誰かにとっての極悪人であることは、理屈としてはありうる話だとわかっているのだ。


 それでも、と。

 唇を噛む。感情が、わかってくれていない。


「だって、ヴェインくん、いい人でしたよ……? そんなの、ハリエッタさんだって……」

「珍しいな、君は。この街にいてまだ一度も詐欺にあったことがないのか」

「そんな言い方――!」

「それに、『いい人』であることと殺人者であることは矛盾せず両立する」ホリィが思っていたことを、ハリエッタはわざわざ言葉にする。「肉屋だってペットを飼うことくらいあるだろう」


 椅子を蹴飛ばすようにして、ホリィは立ち上がった。

「……わざわざここまで連れてきてくれて、ありがとうございます。でも私、お店に戻ります」


「やめておけ」ホリィの顔も見ないまま言う。「こういう言い方は気に入らないかもしれないが、あれは一種の巣穴だ。獣は攻撃を受ければ巣穴を目指す。特に手負いになればなるほど。……教会に追われた彼が店に戻ってきたとき、君だってどんな目に遭うかわからんぞ」

「本当に気に入らない言い方ですね」

「落ち着け。おそらくヴェインはもうこれまでの行動指針を失っている。まだ今のところは公爵たちと私くらいで情報は止まっているが、もう外出禁止令が出始めている。彼の正体が知れ渡るのも時間の問題だ。失うものはもう失い切っている。これまでの彼と同じ人間だと思わない方がいい」

「じゃあ何だと思えって言うんですか」

 きっ、と睨みつけるように、ホリィは言う。小さくハリエッタは溜息を吐いた。もうダメだ、ということがわかっていたから。


「……君には、何に見えるんだ」

「友達です。決まってるでしょう」


 失礼します、とホリィは雨具を手にして大股で部屋を出て行く。ばたん、と机の上で紙が浮かぶような勢いで扉を閉じて、残されたのはハリエッタただ独り。


「……事実なんて、無力なものだな」

 信じることの前では、と。

 喜びとも悲しみともつかないような声色で、呟いた。







 天使像の前に祈る。

 教会騎士の彼にとって、それは育ちの中で得た習性のひとつだから。どんな状況でも。どんな怒りや悲しみを抱えていても、静謐な空間で、この雨音の響く教会の中で、彼は穏やかな顔で祈る。


 けれど、祈りを解けば。


「……全面対決、というわけか」


 剣を手に取る。傷つけるための、命を奪うための道具。それもまた、彼の手の内にこの上なく馴染んだもの。他人の手を握るよりもずっと、心に染みついた動作。


 小部屋を出れば、伽藍洞の教会の大広間。


「人質を取ろうとしたなら残念。全員すでに別の場所に退避済みです。……神の家を襲う。汚らわしい獣に相応しい所業だ」

「…………」


 清潔な聖職衣に相対するのは、濡れた一匹の獣だけ。

 茶色の髪。簡素なシャツとズボン。獣の手脚。人狼。


 騎士が、剣に手をかけて、構えた。



「悪逆必罰――――殺すぞ、人狼」




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