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 まだ雨が降っている。煤煙を吸い込んだ薄黒い雨が、延々と。


「いいかい」

 と、ヴェインは人差し指を立てて言った。独り暮らしの部屋。木造の一階建て。二階の住人が階段を上る音がその靴裏の砂利の一粒に至るまで細やかに聞こえてくる部屋で、声を潜めて。フローリングの床の上にはベッド以外の物は何もなく、水の中に沈んでいるような強烈な湿気は部屋の隅に黒々とした黴を生やしている。


「僕がこれから言うことを、よく覚えておくんだ」


 きょとん、と目を丸めているのはラズ。シャワーを浴びて、服も着替えて、髪も梳かして。痩せっぽちなのを除けばもうそれほど浮浪児らしさは残っていない。締まりの悪い口から覗く欠けた前歯も見た目の年齢を考えればそれほど不自然には映らない。

 彼女の目の前の床には白い皿が置かれている。その上にはラズベリー。指先は赤く濡れていた。


「自分が人狼であることを、他の誰にも言っちゃいけない。一生だ」

「結婚する人にも?」

「もちろん」

「自分の子どもにも?」

「絶対にいけない」

「どうして?」

「僕らは、人とは違う存在だから」


 それでも、ラズは首を傾げた。

「人と違うってこと、どうして言っちゃいけないの?」

「……人は、自分と違うものを怖がるんだ。それに僕たちは、人を食べる」

「た……?」

「二十五歳になる頃には、僕たちは本物の狼になる。今までの思い出なんか、一つも残らない」

「やだ」

「それが嫌なら、取れる方法は一つだけ、人間を殺して食べるんだ。……だから、僕らは人間から恨まれている」

「ヴぇ、ヴェインも人を殺したの?」


 一瞬だけ、痛みに耐えるような顔をして。

 ヴェインは頷く。


「ああ」

「じゃ、お揃い!」

 パッと笑ってラズは手を叩く。お揃い、お揃い。今にも踊り出しそうにして立ち上がるのを、ヴェインが引き留めた。手だって掴んで、音を出せないようにする。


「しーっ。人に気付かれちゃう」

「気付かれちゃダメなの?」

「ダメだ。これから君は、街を出なくちゃいけないんだから」

「な、なんで?」


 思いがけないことを言われた、というような顔のラズに、ヴェインは言う。


「……これは、ゲームなんだ。遊び、って言ってもいい」

「げーむ?」

「そう。僕らは人間を食べる。そして人間は僕たちを捜す。捜して、殺そうとする」

「やだ!」

「そうだろ? だから、僕たちはこっそり人を食べなくちゃいけない」


 うんうん、と頷くラズに、ヴェインは微笑んで、

「でもこの街には、教会の人たちがいる。教会の人たちは僕らを捜すのも、殺すのも上手いんだ。戦ってもいいけど……戦わずに済むならそっちの方がずっといい。君なんか、まだまだ子どもだしね。大人と戦うのはまだちょっと早い」

「でも私、」

「この間倒せたやつなんか弱っちいやつさ。ひょっとすると教会のやつらはずっと強くって、僕でも倒せないかもしれない」


 ヴェインは自分の右手だけを獣のそれに変えて、脅かすようにラズに向ける。がおー。こんなに大きくて強そうなのに、と。

「だから君は逃げなくちゃいけない。もしもこの街に戻ってくるんだったら、もっと背が大きくなってからだな」

「どのくらい?」

「うーん」ヴェインは腕を組んで、「せめて、僕が君に話しかけるのに、うんと腰を屈める必要がなくなるくらい」


 飲み込みはそこまで悪くないらしい。ラズはしばらく魚のようにじっと考え込むと、やがて顔を上げてこう言った。わかったよ。

「いつ行くの? いま?」

「もう少し夜が更けてから。昼のうちに子どもが一人で街から出るのは、結構目立つ」

「一人で?」


 目を大きく丸めるラズ。

「なんで? ヴェインは?」

「僕は行けない。……というか、ちょっと遅れていくよ」

「なんで?」


 なんでなんでなんで、と重ねて尋ねてくるラズにヴェインは、右手にラズベリーを摘まんでみせる。

「これ、僕から取ろうとしてごらん」


 鼠を捕るようにしてラズの両手が動く。空を切った。ヴェインがそれをひょいと持ち上げたから。ラズは立ち上がる。追いかける。簡単にいなすようにヴェインは自分の腕をぐるぐると回して、慌てたラズが足を滑らせて尻餅をつきかけたところを、無理なく支える。


 そしてこう言った。

「ポケットの中を見てごらん」


 怪訝な顔でラズはズボンの中を探る。それからものすごく驚いた、という顔をして、手を引き抜いた。


 ラズベリー。彼女自身は、入れた覚えのない。


「魔法?」

「ううん」

 悪戯っぽくヴェインは笑って答える。

「ただ君が僕の右手に集中していた間に、左手でポケットの中に入れただけ。気付かなかっただろう?」

「う、うん」

「同じことをするんだ」


 つまりね、とヴェインは言う。

「僕が右手のラズベリー。君が左手のラズベリー。教会の人たちが僕を追っている間に君は街を出る。簡単だろう?」

「ヴェインは追われるの?」

「まあね」肩を竦めて、「結構ほら、僕って何人も食べちゃったから」

「何人?」

「九十一人」


 ラズはその数字にどういう反応をしたらいいのかわからない、といった風情で、

「もうすぐで百人?」

「そう。……数字がわかるのか」

 ひょっとすると、とヴェインは思う。この少女は見た目よりもずっと年が上なのかもしれない。栄養失調を起こして、成長がずっと昔に止まってしまっただけで。


「話はわかったかい?」

「わかった、けど」不安そうにラズは、「街から出たらどうすればいいの?」

「いつも通りにしていればいいさ」それを和らげるようにヴェインは、「ゴミ箱を漁ったりして食い繋ぐといい。僕も昔はよくそうした」

「ヴェインも?」

「そう。でも、ずっとそうしてる必要はない。教会の人たちがいない場所なら、君は人狼の力を使って人から奪ったっていいし、なんなら僕が後から追い付いてくるのを待っていたっていい。そうしたら狩りの方法を教えてあげることだってできるよ」

「ちゃんと来てくれる?」


 生きてたらね、と言いかけてヴェインは、

「できる限り頑張って、追い付いてみるよ」


 コンコン、と部屋の扉がノックされた。

 隠れて、と小さくヴェインは言う。クローゼットの中にラズを閉じ込める。ゆっくりと忍び足で、決してこちらの存在がバレないように玄関に近付く。鼻が利かないのは雨が降っているから。しかたなく、ドアスコープから外を覗きこむ。


 魚眼レンズに歪んだ、ホリィの姿があるだけ。


 もう一度、扉がノックされた。少しだけ息を吐いてから、ヴェインは扉を開く。

「こんばんは」

「あ、ヴェインくん」


 そして、動きが止まった。

 そこにいたのは、ホリィだけではなかったから。

 ドアスコープの死角。それを見透かしたように。


「この人がこの間の殺人事件で訊きたいことがあるってお店に来て……あ、全然変な人とかじゃないよ! 店長が言うにはお医者さんで、すごくいい人なんだって」


 その後半を、もうほとんどヴェインは聞いていない。

 立ち姿を見ればわかった。教会治療師の衣装に身を包んでいるが、その空気ばかりは雨の中でも誤魔化しようがない。それに明らかに、懐に何かをしまい込んでいる。


 鉄と、血の匂いがしている。


「こんばんは」


 果たして、その女は言った。


「教会治療師の、エリューと申します」




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