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あの日に女が口にした言葉を、一言一句違えることなく覚えている。
それ以上に記憶しておくべき物事なんて、人生の中にありはしなかったから。
「人狼族、とは呼ばれているがな。私たちはただの変種だよ。つまりは、人差し指の方が薬指より長いとか、その逆とか、その程度のものだ。デメリットが甚だしいだけで」
頭のいい女だった。性格は少しハリエッタに似ていた。ただし、見た目にはまるで気を遣っていなかったけれど。顔ばかりはさすがに思い出せなくて、リムレスの眼鏡だけが印象に残っている。
「フィールドワークの過程で幾人かの人狼に出会った。不思議なもので、同じような悩みを抱えてきたやつらだから波長が合うんだろうな。一生の間に人狼と一度も会わないやつの方が多いだろうに、結構な頻繁さでお互いを知ることになったよ。……その中でわかったのは、人狼は人狼から生まれるわけではない、ということだ。非人狼の親の元に生まれて、大抵は幼少期に殺されるか、捨てられる。私のように幼児期から知能が発達して、親にもそれを隠し通せた人間でなければな」
考古学者をしていたという。二十そこらだと自分で言ったが、よく日焼けした肌と髪を見れば、もう十は年を上に申告されても疑わなかったと思う。
「かつての資料を掘り起こして何度も確かめた。人狼の力にまだ非人狼の文明の力が及んでいなかった時代のものをな。
私たち人狼は、およそ二十五歳の時点で獣そのものに成り果てる。知能の著しく低い、大狼だ。当然人格など欠片も残らない。精神の連続が生の証であるとしたら、つまり私たちはその時点で死ぬ生き物、ということだ」
出会ったのは偶然だった。まだ人狼としての自覚も薄く、路地裏を彷徨っていた頃。同僚との会合を終えて酔った女がたまたま自分を見つけた。本当だったら、と彼女は言った。お前のことなんて放っておけばよかった。
「言い伝えがある。百人の人間を殺して食らえば人狼は人狼のままでいられる。死後、人狼の天国へ迎えられる。……つまり、それができなければ獣の地獄の仲間入り、ということだな」
天国の話も、地獄の話も、祈りの話もこの女から聞いた。教会でいくらか別の話を聞いたことはあるけれど、彼女の言ったこと以上に自分に影響を及ぼしたものはひとつとしてない。
「最後に一つ、教えておいてやる。ガキには関わるな。人狼のガキは自分がどんな存在かを理解していない。成人した人狼は大抵の場合自分を世界から隠すことに長けているが、ガキの人狼はそうではない。成人したのと違ってまだ力も弱いから、大抵の場合は近しい人間か、教会の人間に捕捉されて殺される。私たちは同族に情を寄せがちだからな。ガキに関われば芋づるで命を落とす。そういうことだけは、しっかりと頭に留めておけ。……私か?」
私はいいんだよ、と女は笑った。
その瞬間が唯一女が笑った瞬間だったと、覚えている。
「食らうよりも黙って死ぬ方がずっと楽だ。天国に行くのは、もう諦めた」
その後、二度と女と会うことはなかった。
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「おや、また会いましたね」
「……こんな形では会いたくなかったんですけどね」
朝から珍しく、ダイナーは開いていた。
正確に言うと、開店していたわけではない。ただ人が来るからと、三人の店員が揃って店の扉を開けていただけだ。
「本当に……この街は殺人鬼の天国だな」
呆れたように言ったのはシルフォリオ。警察がやってきたのとは別で、このダイナーに後からやってきた。
「ヴェイン。知り合いか?」マーカスが訊ねる。
「あ、はい。教会の方で……」
「どうも。教会騎士のシルフォリオと申します」
ホリィが「ヴェインくんって教会に通ってるの?」と驚く横で、マーカスは「こりゃあ失礼した」と敬意を込めて自己紹介する。自分は店長のマーカス。店員は二人で、こっちがホリィ、あっちがヴェイン。
「それで? 一応警察には状況を話したんだが」
「ああ、そうですよね。二回同じことを訊くことになっちゃうか……」シルフォリオは腕を組んで、「でもごめんなさい。自分で訊いておきたいので。死体を見つけたのは?」
はい、とヴェインが小さく手を挙げる。ええと、と喋り出して、
「深夜だったんです。大雨だったから店の戸締りは一人でしていて……」
「一人? 深夜営業なのにですか?」
シルフォリオが訊ねれば、マーカスが代わりに答える。
「俺と……こっちのホリィは低い道を通るんだ。あそこの郵便局のところの……この街のやつなら誰でも知ってる。ちょっとした雨くらいでも靴の中まで水が入ってくるような場所なんだ。雨が溜まる前に帰った方がいいってヴェインが気を遣って、一人で閉めてくれることになったのさ」
「ヴェインさんはお二人とは違う方向に家がある?」
「そうですね。もう少し家賃の低い方なんです」
ふうん、とシルフォリオは納得しかねる風に言うと、「あ、いや」と手を振って、
「別に疑ってるわけじゃありませんよ。なんだか不思議だな、って。普通冠水する道路がある方が家賃の低い家があるんじゃないですか? それに、冠水する道路があったからって遠回りしていけばいいだけのような気も……」
「それはこの街の治安を甘く見てますね」
言い返したのは、ホリィ。
「警察署が近くにあるんですよ、そのあたりは。その頃はまだ地価が安かったからって理由でそこに建てられて、後から治安を理由に家賃が上がっていったんです。それに遠回りなんて怖くてできないですよ。みんなが使ってる道で、多少警官の目が届くっていうのがあるから、夜道の安心があるんです」
「…………何とも不甲斐ない限りです。僕の勉強不足でした」
では続きを、と促されて、またヴェインは口を開く。
「それで、生ゴミだけ捨てようと思って勝手口から出たら、そこに……。最初は暗くてよくわからなかったんですけど、バケツのあたりまで近付いたら、何か変なものがあるなって。で、灯りを向けてみたら……」
「そのときの死体の様子は?」
ぶんぶん、とヴェインは大きく首を横に振る。
「み、見れてません! すごく血が出てるみたいでしたし、トラウマになりそうで……」
「ですよね」予想通り、というようにシルフォリオは頷いて、ヴェインの肩を叩く。「災難でした。後は僕たちに任せてください」
シルフォリオが店の裏の方に回っていくのを見届けて、こそっとホリィが言う。
「ね。もしかして人狼かな」
「いや、そういうわけじゃないんじゃねえか?」反論したのはマーカス。「このへんに人狼が狙うような大物の悪党はいねえだろ」
それもそっか、と納得すると、今度はヴェインの方を向いて言う。
「それにしても災難だったよね。よりにもよって一人の日に見ちゃうんだもん。私だったらその場で気絶してたかも」
「僕も気絶しそうでしたよ」ヴェインは情けない声で言う。「というか、ちょっと意識遠のきました……」
「やっぱり死体、ひどかったの?」
「見てませんって。でも、雨に流れてる血の量が本当に凄くて……」
「やめやめ。飯食うところでする話じゃねーだろ」
マーカスが顔の前で手を振る。
「やっぱり、ちょとお客さん遠のきますかね」
ヴェインが独り言のように訊くのに、けれどマーカスは案外気楽に、
「うんにゃ。この街の残虐耐性は高えぞ。なにせ処刑台の周りに飯屋があるような街だからな。誰も気にしねえよ」
「ヴェインくん、もしかして気に病んでた?」
言いながら、ホリィが肘でヴェインをつつく。別に君が悪いわけでもないのに、と言って。
やがてシルフォリオが戻ってきた。けれど先ほどまでと様子が違う。真剣な顔で、大股で一直線にヴェインまで向かってきて、肩を勢いよく掴む。
戸惑うヴェインに、シルフォリオは訊いた。
「犯人の姿は?」
「え」
「犯人の姿は、見ていませんか?」
怯えたようにヴェインは答える。
「い、いえ……。僕が来たときには、死体の他にはもう誰も……」
そうですか、と素直に納得してシルフォリオは肩から手を離す。
そりゃそうだ、と呟きながら。こんなところで尻尾を出すわけがない、とも言いながら。
「あの、もしかして……」
ホリィが訊いた。
「犯人、人狼なんですか?」
シルフォリオは、何も答えなかった。