09
「僕、閉めておきましょうか。ふたりともあそこの道路が冠水しちゃったら帰れなくなっちゃうでしょう」
閉店の少し前の時間。つまりは朝まであと数時間もない、という真夜中。客はすでになく、雨音がガラスを叩く音が恐ろしいほど煩い。雷までゴロゴロと唸り始めている。だからヴェインは、カップを磨きながらそう申し出た。
「確かにそうかもね」ホリィが頷いて言う。「店長、先に帰っちゃっていいですよ。私とヴェインくんで戸締りしていきますから」
「おいおい、俺だけ仲間外れか?」わざとらしく肩を竦めて、「やだね、最近の若者は。年寄りのことはすぐに邪魔者扱いだ」
そんな年でもないでしょうに、とヴェインは苦笑する。
「でも、冗談抜きにこれ、この間の夏嵐みたいになっちゃうかもしれないですよ。この街、排水弱いですから」
「おまけに溢れ出すのは工業廃水たっぷりの川……と。本当に俺たちは死んでないのが不思議になるよ」
「でもほら、言うじゃないですか」ホリィが笑って言う。「水が綺麗すぎるとかえってそこに魚は住めないって」
二度、二人はヴェインに確認した。本当に大丈夫か。一人で帰れるか。お前の家の方は沈むような道路はないのか。というかお前は一階に住んでるんじゃなかったか。家は大丈夫なのか。ヴェインは笑って答える。家が海に沈んだって困りませんよ。今月のお給料さえ貰えれば。
二人が正面の扉から出て行くのを見送って、ヴェインは鍵を閉める。叩きつけるような雨音だけが響く人のいなくなった店内で、彼は静かに食器を洗う。調理器具を洗う。シンクも綺麗に磨いて、生ごみは袋の中に押し込める。カウンターの下に収められている金庫に手を伸ばす。
ダイヤルに触れる、その直前で。
番号は、盗み見て知ってはいたけれど。
「……いや、」
小さく呟いて、手を離した。代わりに、懐から封筒を取り出してカウンターに置く。表紙には『店長へ』という宛名。『ヴェイン』という署名。そして『退職届』という表題。生ゴミの袋を手に取った。
勝手口から出ようとする寸前、あ、と声を上げてロッカー室へ入る。長靴を取り出して、履き替えて、傘を手にしてそれからもう一度勝手口へ。
「わ、」
「こ、こんばんは……」
びしょ濡れの少女がいた。
この間あげたシャツを着ている。それも惨めなくらいびしょ濡れで、あれから一度も着替えていないのだろう。黒い汚れがいくつもついている。髪の毛だって顔に張り付いて、夜雨のもたらす暗闇の中、ほとんど幽鬼みたいな有様でそこに立っていた。
ヴェインは早足で近付いて、ラズを傘の下に入れた。
「こんばんは。風邪引いちゃうよ?」
「あ、で、でも……。こんな日じゃないと、身体、洗えないから……。服も……」
「ああ、なるほど……」
合理的、とヴェインは呟く。それにしたってこんな大雨では肺炎でもこじらせて死んでしまいそうだけれど。
「今日もお仕事を頼もうかな?」
ヴェインが袋を持ち上げると、けれどラズは首を横に振って答えた。
「う、ううん。今日はそうじゃなくて、お礼……」
「お礼?」
お礼を貰うようなことしたっけかなあ?と首を傾げるヴェインに構わず、ラズは右手を差し出す。何かを握ったまま。
「はい」
「……?」
ヴェインが彼女の手の下に自分の手を差し入れれば、ラズの手がパッと開いて、中身が出てくる。
紙幣。
ヴェインの給料、一週間分の。
「おかね。あの、いっぱいしてもらったから、お礼」
えへへ、と笑うラズと対照的に、ヴェインの表情は固い。
どころか、冷たい。
「……これは、どこで?」
「あ、あのね。勉強した。お金の稼ぎ方。持ってる人から、取ってくるの」
「どうやって?」
「えへへ……。ヴェイン、びっくりするかも」
ほら、と言って、ラズは自分の手を、ヴェインの目の前に翳した。
獣の爪。
「――――――」
「む、昔ね? これで捨てられたの。き、気持ち悪いからやめろって言われて。でも、使ってみたら、えへへ。凄かった。い、いつも私のこと殴って、色んなもの取ってっちゃう人、簡単に――」
雷が落ちる。
周囲を蒼白い光が包み込んで、それでようやく、雨の中鈍っていたヴェインの嗅覚では捉えられなかったそれが、闇夜に浮かび上がる。
死体。
人の。
「簡単に倒せたよ! だから、恩返し……」
喜んでくれる?とラズは嬉しそうに訊ねた。
@
雨の夜にいたのは、二人だけではなかった。
建物の屋上。手すりに凭れ掛かりながら哀れな獣たちを見下ろす女が一人。シャツにズボンの簡素な恰好。傘は真っ黒で夜の雨空とほとんど区別がつかない。
赤い髪を揺らして、彼女は笑う。口を三日月のように曲げて、その真っ赤な中身も露わにして。
そして、言う。
「――――面白いもの、見ーちゃった」