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「クソッ、一体どうなってるんだ!」
領主バブラオ=トレジェーデは深夜、机を引っ叩いてそう叫んだ。そう珍しいことではない。ヒステリー、癇癪、八つ当たり……この中年男の得意技。治める街全体の空気までそれが影響を及ぼしているのか、それとも街の空気が彼をこんな人間に変えたのか。そんなことは誰も知らない。
このバブラオが何かに苛立つことは決して今に始まったことではない。常に何かに怒りを感じているし、常に何かを攻撃したがっている。けれど今日ばかりははっきりとした理由があったし、たとえ領主がこの男でなくとも同じことを叫んだだろう。――クソッ、一体どうなってるんだ。
連続殺人事件だった。
彼の頭を悩ませているのは。
全身解体。上品な獣の食事痕。かならずその身体のうちのどこか一部分が食いちぎられたように失くなっている。伝承の中にある名前。人狼。それを彷彿させずにはいられない事件が、彼の街で起こっていた。
信じられない。
全く以て腹立たしい。
バブラオは思う――一体何の権利があって俺の領地で好き勝手してやがるんだ? 俺の領地を壊していいのは俺だけ。お前たちのような下等な生き物がそんなことをして誰が許す? 神に訊いてみろ。必ずこう言うはずだ――バブラオくんに逆らっちゃいけませんよ。服を脱いで自分の臓腑を掻きだして謝罪なさい。もしもあなたの下等な知能でそれができたのだったら地獄に叩き落として六千億年の責め苦を負わせるくらいで罪を許してあげましょう。間違いない。バブラオは確信している。神の加護がないのだったら、自分は貴族の家に生まれたりはしない。
反逆者だ反教者だ愚かで野蛮で物の道理もわからない獣だ――決してバブラオはこの殺人者のことを人狼なんてお伽噺の存在だとは思わないけれど、間違いなく獣の一種ではあるはずだ、と思う。二足歩行で、貴族とよく似た姿の下劣で不潔で生きる価値のない平民とか呼ばれる獣。
新聞を引き裂いた。テーブルの上にはらりと落ちた切れ端にはこんな言葉が躍っている。
――制裁執行?
――悪人殺しの人狼か
もうバブラオの中では決まっていた。明日の朝にはこの記事を書いた平民を中央広場の処刑台に連れて行く。吊るして殺す。罪状はもちろん不快罪だ。俺を不快にさせた。それだけで死ぬには十分な理由。獣ごときには大それた死の理由。
机を三度叩いた。
いつまで経っても女が来ない。
連れてこい、と言った。売春婦ではない女を。手でも足でも千切っても誰も気にしないような女を。もちろん器量が良ければ良いだけいい。早く連れてこい、と伝えたはずだった。深夜にトイレで小便をしているときにふと自分の指が握っているものを思い出してそう告げた。持っているものは使わなければならない。もちろんだった。あの使用人は迷惑そうな顔をしてこう言った。――わかりました、いますぐに。それからもう一時間も経つ。あの使用人も明日には記者と仲良く吊るしてやらなければならない。
こんこん、と扉がノックされた。
「遅いぞっ! 早くしろっ!」
叫んでも、誰も入ってこない。
バブラオは迷った。どうして自分が獣ごときを迎えに出なければならないのか。けれど彼の短気はプライドに勝った。椅子を蹴倒して扉を開けに行く。開けた瞬間挨拶代わりに二、三発殴ってやらなければ気が済まない。それからこの世に存在するあらゆる恥辱をその身に教え込んで――
「かっ――――」
「よォ。いい夜だなぁ」
喉を刺された。
バブラオは咄嗟に何が起こったのかわからない。首が熱い。声が出ない。目の前にいるのは女ではない。茶色の髪の優男。嗤う口から犬歯が飛び出ている。肩の先から繋がって、腕、肘、手首、その先に爪。
刺さっている。
針のように、バブラオの首に。
「じん、ろ――――」
「ご名答。光栄だね、人間の領主サマのところまで名前が轟いちゃってさ。……おい、立ち話もなんだろ。部屋の中に入れてくれや」
男がバブラオの身体を押す。後ろ手に扉を閉める。部屋の奥の窓からは青白い月光が覗いている。これからこの部屋で何をするのか興味津々、といった風情で。
「な、ん――おれ、を――」
「もちろんアンタが誰だかはよーく知ってる。悪徳領主・バブラオ=トレジェーデ。……この街にいりゃ誰でも知ってるよ。アンタのことを好きなやつなんて誰もいやしない。もっとも、アンタも俺たちのことなんか誰も好きじゃないんだろうがね」
「ひ――」
「逃げんなよ」
ビッ、と男がバブラオの足を切り裂いた。絶叫。逃げようとしたから。窓を破って。ここは四階なのにどうやって? さあ。誰も知らない。錯乱状態。
「俺は必ず、」
男は言った。バブラオの身体を踏みつけながら。獣の手指をカキリ、と動かして。
「手口と目的を教えることにしてる――別に、そうしなきゃいけないってわけじゃないけどよ。神様への説明さ。俺はこんな目的で、こんな風に仕事をします。だから空から見ていてください、ってね」
「何、を――」
「昔、人狼族のやつと会ったときにさ、こんなことを言われた。『人間を百人殺して食らう。そうすれば人狼は人狼の天国に行ける』ってよ――お前でちょうど九十人目だ」
「だ、だれか――!」
「ちょっと黙ってろよ」
蹴りつけて、男は言う。うるさいんだよ。俺が話してるんだからさ。
「もちろん誰だって天国に行きたい。俺だってそうだ。だから人間を殺すことにした。ただ困ったことにさ、昔と違って今はほら、騎士団だとかなんだとか、めんどくさいものをお前らが作っちまっただろ? 手軽にそのへんのやつをぶっ殺しただけじゃすぐに捕まっちまう。どうすればいい? 俺は考えた。つまりさ――お前みたいなやつを殺せばいい」
足を踏み砕く。腕を踏み砕く。身動きの取れなくなったバブラオの上に、男は馬乗りになる。
「死んでくれたら誰もが喜ぶようなやつ――おめでとう。当選だよ、バブラオ=トレジェーデ。お前が死んでも誰も怒らない、悲しまない。犯人を一生懸命捜したりしない。生贄にはこれほど都合のいいやつもいない」
やめろ、俺を誰だと思ってる、獣風情が、誰か、誰かいないのか、誰かこいつを殺せ。
そういう言葉の全てが、夜に消えていった。
男の爪がバブラオの首に触れる。バブラオは必死で訴えかける。何も言葉にならない。月光。満月。青い部屋。震える息。血液。暴力。征服。食欲。
殺人。
「自業自得だ――――ざまぁみろ」
血飛沫。