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「レオナルドは芸術と知識の完全な諸形式の源泉を自然の中に求め、またおそらく他の何びとにもまさって絶えずそのことについて語ったが、しかも同時に、あの近づきつつあるところの人間の生の機械化の過程ーーすなわちルネサンス的な自然への志向を停止させ、人間を自然から引きはなし、人間と自然のあいだに新しい仕方で機械を割り込ませ、やがて成立した人為的文化の中に人間を閉じ込めた過程ーーの創始者の一人でもあった。」
ベルジャーエフ『歴史の意味』より
最近、レオナルド・ダ・ヴィンチに興味を持ってその手の本を読んでいたが、このベルジャーエフの要約はまさに卓見というか、ダ・ヴィンチの二面性というものを見事に物語っている。
もちろん、ベルジャーエフはダ・ヴィンチがルネサンスの大天才である事を十分に認めている。引用はしなかったが、ダ・ヴィンチの天才は疑いなく認めている。だが、その天才性の発露が後代に取っては、おそらくは本人が思いも寄らなかった形に歪曲化されるという事はありうる。というより、歴史というのは常にそういうものなのだろう。
そして、我々にとってレオナルド・ダ・ヴィンチがただの「万能の天才」でしかない…、言い換えれば、過剰な持ち上げと過小評価(無理解)がこのように同居しているのも、やはりベルジャーエフの要約からその根拠を導き出す事ができるだろう。
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ここでレオナルド・ダ・ヴィンチ論を長々とする気はないので、ダ・ヴィンチという人がどういう人だったか短く要約してみる。ダ・ヴィンチの手記に次のような文がある。
「素描というものは、ただ自然の作品のみならず、自然のつくるものを超えて限りないものを追求するほど立派である」
レオナルド・ダ・ヴィンチという人は一言で言えば「デッサンの人」だった。彼はこの世界、特に自然を神が作り給うたものと認識し、その秘密に人間の側から理性というもので迫っていけると信じた偉大なルネサンス人だった。その分析、その結論があるいは科学になり、あるいは芸術になってもダ・ヴィンチにとってそれは分裂していなかった。このあたりはゲーテに近い。ゲーテもまた自然科学と芸術を同時に遂行したが、基本的にはダ・ヴィンチと同じ思想の元に運動した。
また、半分足を中世に突っ込んでいるとも言われるニュートンも、ダ・ヴィンチに近いタイプとも言えるかもしれない。ニュートンも神の秘密は人間の側の知性でつかめると信じていからこそ、あれほど巨大な仕事ができたのだった。
ここで蠢いているものはある意味で単純とも言える。頂点にあるのは単純な信仰であるが、その道程が我々には複雑なものに見える。我々はーー現代人は信仰を失ったので、手元に残ったのは複雑さのみであり、だからニュートンやダ・ヴィンチに驚異の天才を見るがそれは間違っている。彼らからすると自分は何者でもなく、ちっぽけな存在であったし、ダ・ヴィンチがもし自己反省をしたなら、成し遂げた事はほとんど無に近かったと思ったに違いない。
ダ・ヴィンチは寡作の作家で、常に中途的な、デッサン的な人であったが、それは、彼が求め望むものがあまりにも高いからいつも人間の仕業としては中途で終わらざるを得なかったためだった。その高所から見れば、彼自身何者でもないという風に自分が見えただろう。また、そのような人だったからこそ、我々に対しても広大な天才の「破片」が与える事が可能だった。(「モナリザ」のように完成した作品もあるが)
ダ・ヴィンチにとって自然は生きた存在だった。これは重要な事であり、ゲーテにとってもまたそうだった。ゲーテがニュートンを厳しく非難したのは、ニュートンの科学の中には自然を死物として扱う、現代にまで繋がる物質主義が垣間見えたからだろう。
我々は自然から莫大なエネルギーを取り出し、原子爆弾のようなものを作って破裂させる存在にまでなっている。これは過去の偉大な、自然の奥に神を見て、その秘密を取り出そうとする過程を逆さまにしたものと言えるだろう。
ベルジャーエフの言いたい事もまさにそのような事だろう。ダ・ヴィンチにとって自然はあくまでも生きた全体であり、雲も風も水も、神が生命を吹き込んだ神聖なものだった。だからこそそのメカニズムを知ろうとする事にあれほどの努力を注ぎ込めたのである。
神が作り上げた自然の秘密は人間が自らの知性で分解できるという、健全な知性の働きというものがダ・ヴィンチにもゲーテにも存在した。だがゲーテの時代には既に次の時代の危機ーー我々の陥穽ーーが見えていたので、ゲーテは批判的な態度になり、自分を守らねばならなかった。色彩論における彼の自負は歴史を見据えてのものだっただろう。
我々が今から振り返り、レオナルド・ダ・ヴィンチという人物を過大に褒め上げるのは彼が「万能の天才」だからである。しかし現代人は神を失い、絶対的なものを想像する力を失った為に、ダ・ヴィンチという人が何を求めていたかが見えなくなって、単にあれこれにおいて「能力の高い」一才人を見るにとどまっている。
現代は技術的な時代である。技術の先にあるものについても誰も理解し得ないし、理解し得るものがいたら孤独になる。文章も絵画も、全ては技術に依る、その修練の先に天才があり、天才はせいぜいメディアの前に出て喝采を浴びるという程度のものになっている。絶対的なものは相対的なものに歪曲化された。それが現状であるが、その現状に照らしてレオナルド・ダ・ヴィンチとかゲーテとかいう天才も歪められて理解される。人は自らが認識したいと思うものを認識する。