食品サンプルそんなにいらない説
少しスランプに陥り連載作品の方に力が入らないもので、リハビリと気分転換を兼ねてこのような短編を書いてみました。
以前最初に書いた短編小説「でっかい葉っぱ」と同じく夢の内容をプロットにして書いたような作品です。あまり深く考えず、お気軽な気持ちでどうぞ。
誰が掴んでいるわけでもないのに宙に浮く箸と、それに引きずり出される形でどんぶりから姿を現している中華麺。
指でなぞればそのカチコチとした触感がよくわかる。それに熱くも何ともない。
食品サンプルだ。
「良ければもらってってくれ」
疲労と諦観が滲む精悍な顔つきをくしゃりと歪ませ、そいつは俺に向かって微笑みかけた。
中学時代からの友人である田中が中華料理店を始めたのは一昨年の春ぐらいだったか。別にガキの頃からの夢だとかそういったものではなかったはずだが、多分思いつきで始めた商売だったのだろう。
それも秋を迎えた今となっては経営難で撤退を余儀なくされたようである。曰く店の状況だけの問題とは言えず、時勢の影響も強く受けたのだとか。まあ最近どこもかしこも不況不況という時代だからな。
「もらってどうすんだよこんなもん」
「知らねえよ。なんかこう、護身用の武器とかにならねえのか」
なるかアホ。
まあいらなくなったら捨てればいい。分類は不燃ゴミになるのだろうか。
俺は特に料理を注文する事もなく、ただラーメンの食品サンプルという確実に捨てるであろう物体を持ち帰った。家に着くまでの間ずっと「今荷物をひったくられたり職質受けたりしたら最悪に恥ずかしいな」と思ってしまい、気が気でなかった。
家に到着してテーブル上に置き、改めて観察してみる。
いっらねえ。
田中は護身用に使えばだの何だのと言っていたものの、飲食店を経営しているわけでもない俺のような人間にとってはただのゴミだ。
空中に固定された箸の持ち手部分が狭い場所に落ちた何かしらを引きずり出すのに使えるかとも思ったが、どんぶりの横幅が邪魔になってきちんと挿し込めない。
じゃあ何か引っかけるか、と思いイヤホンをかけてみたが微妙な傾きのせいでするすると落ちていく。斜めに持ち過ぎだろこの箸持ってる奴。
いよいよ偽ラーメンの活用法が見い出せなくなったのでテキトーに玄関に飾ってみた。映えない。というか無駄に左右と斜め横にスペースを取って鬱陶しい事この上ない。
「捨てるか」
靴箱の中からゴミ袋を取り出し(靴なんぞ集める趣味はないのでこうするしか使い道がない)、不燃ゴミ用の袋を一枚引き抜く。
さて入れよう、となった瞬間少し田中の今後が気がかりに思えた。
あいつ、これからどうすんだろう。
俺も田中も友情というものをそこまで重く見ていない。メールやSNS上でのやり取りで相手を無視したりされたりは普通にある。アポなしで来やがったアイツを本気でぶん殴ってその後普通に二人でゲームしていた事もあった。そんなだから昔から二人揃って周囲からも浮いていたのだと思う。
だからあいつからの貰い物を捨てる事にそこまで躊躇は覚えないし、あいつに「店畳んだらどうするのか」なんて一言も問わなかった。
「ま、いいか」
多分あいつが死んでも俺は少し残念に思う程度でそれ以上は何もないし、俺が死んだ時のあいつもきっとそうだろう。いつの間にか連絡が途絶えて、ある日突然電話してくるのが田中という人物だ。
ドサリと袋の中に食品サンプルを入れて部屋の隅に置く。不燃ゴミなんて我が家では滅多に出ないため、専用のゴミ箱など用意していない。一定量中身が溜まるまではこのままだ。
その日は結局晩飯も食わず洗濯物干して風呂入って寝た。
翌日、食品サンプルが袋の中で増殖していた。
「あ?」
不気味さよりも苛立ちが勝ってそのような声を出してしまったのはこの際仕方ない。
しかしどうした事か。見れば出現したのはチャーハンの食品サンプル。箸で麺を持ち上げているデザインのラーメンと比較して平たいアダムスキー型UFOの如き形状は幾分か親切だ。
朝っぱらから質量保存の法則を無視するような現象が起きた事に対し、低血圧な理系の俺は舌打ちをかました。
「ッだゴラ! 田中の持ち物のくせして生意気だぞテメェ!」
袋越しに食品サンプル二点を蹴り飛ばす。寝起きで機嫌が悪い時はいつもこうだ。もう結婚はおろか恋人を作る事すら完全に諦めている。
蹴り飛ばされたからといって非可食ラーメンや非可食チャーハンが痛がるわけもなく、袋ががさりと音を立てるだけに留まった。
「チッ」
舌打ちした俺はたかが食品サンプルが巻き起こした怪奇現象なんぞにキレ散らかした事で自己嫌悪に陥りつつ、洗面台で諸々を終わらせていつも着用しているスーツに着替える。朝食は摂らない主義だ。
「ふざけやがってクソが」
罵倒を投げつけながら出勤する。不燃ゴミの回収日は明日の朝だ。帰ってきたらすぐにゴミ捨て場に直行しよう。
帰宅後、袋を見てみたらまた増えていた。
「まだ増えてんのかよ……」
朝ほど機嫌が悪いわけではない。それよりもどっと疲れが押し寄せてきてしまう。
小学生の頃、キャンプ帰りのバスの中で小型テレビに映るアニメを見ながら睡魔と格闘していた時のような気分だ。
今度は二点増えて袋の中にある数は合計四点。
あるのは中華丼と餃子。まさかメニュー全部コンプリートでもするつもりかこいつらは。ふざけんなよ。
このままいくと明日の朝には更に四つ増えていそうだったので、俺はさっさとゴミ捨て場にそれを捨てた。ポケットの中のビスケットじゃねえんだぞ。食えもしない分際でよ。
ようやく安寧を得た俺はスーツを脱ぎ捨ててパンツ一丁になり、意気揚々と買い物袋から夕飯を取り出す。弁当屋で買った豚カツ弁当だ。
レモン汁、からし、ソースの順にかけていくのが健康には良いらしい。まあ健康はともかく味として好ましいのでいつもそうやって食っているわけだが。
腹を満たした俺はシャワーを浴びてすぐに寝た。
――――――
――――
――
「主任、やっと終わりました。調査結果を報告します」
「うむ。それでどうだった?」
煌々と光を内に宿す真っ青な床以外に照明となるものが存在しない空間で、白衣を着た男二人が向かい合って話している。
主任と呼ばれた方、銀髪をオールバックにした壮年の男は眠たげな表情と声色でもう一人の若い男に先を促した。
「現在急激な増殖を繰り返して地球の表層を覆っている特定有害自律樹脂生命体――通称“食品サンプル”――についてですが、ご存知の通り大気中の二酸化炭素を吸収して酸素に変換するという光合成に似た特性を有しています」
「それと今回依頼した増殖条件の特定との間に何か関わりがあるのか?」
「はい。便宜上生物とされている“食品サンプル”ですが、どうやらあの増殖現象は生物学的なものではない可能性が……」
「ほう」
興味深げな声とともに、主任は天井を見上げる。
否、その遥か先にいる存在へと。
地表を覆い尽くされ二酸化炭素をすぐに酸素へと置き換えられていく今、地上は人間が生活できる環境ではなくなっている。結果として彼らは地下や海底に設けたシェルターで生きていかなければならなくなった。
人類が表舞台から身を隠してからは増殖がピタリと止まったらしく、まだまだ謎の多い存在である。
主任の視線を貫通させれば、そこにはおぞましい数の“食品サンプル”が静かに佇んでいるだろう。
彼はそれらに吹きかけるようにして深く息を吐き出し、言葉を紡いだ。
「思えば増える瞬間が誰にも観測されていないにも拘らず、勝手にその現象を生物的な繁殖、増殖として認識してきた学会の連中こそが間違っていたのかもしれないな」
「そう、それです! 観測する事、それこそが実は増殖の要だったんですよ」
興奮気味に若い男が手元の資料をめくり上げる。
「先日の6YR933実験にて、我々のチームは持ち帰った個体ナンバー574号を用いた実験を行いました。そこでわかったのが、『観測される事で増える』というものでして」
「…………ふむ」
「監視カメラ越しに見つめている間は何も起きませんでしたが、被験者のみならず参加メンバー全員に一度よそ見をさせてからもう一度向き直ってもらったところ、“食品サンプル”の増加が認められました。その時に出現した個体は現在、ナンバー600号に指定されて厳重に保管されています」
つまり、見つめている間にも見つめられていない間にもあれらは増えていない。
観測された瞬間に個体数を増やすのだ、と男は説明した。
「こちら、リアルタイムで観測せずにおいたカメラの映像です。あの忌々しい非可食料理モドキが増える瞬間を映像に収めたものですよ。世界初です、間違いなく!」
「わかった。急ぎこの事実を論文にまとめてくれ。発表者はお前の名前でいい」
「ありがとうございます! では!」
新たな発見とそれに伴う名誉を受けて、若い男は嬉しそうにその空間から去った。
微笑ましいものを見る目でその背中を見送った主任の背後から、今度は遠慮がちな声がかかる。
「あのう、すみません。こちら指定動作分析の結果についての定期報告が……」
「ああ、どうぞ」
主任が振り返った先には既にいなくなった若者と比べて多少くたびれた様子の男が一人。こちらは三十歳になったかならないかくらいの年齢である。
「とはいえまあ、今回も大した結果は得られそうにないか。あれら“食品サンプル”は動かないからな。だから無生物である可能性についても、もっと早くから予測していて然るべきだったのだが……ああすまない、報告を」
「そのですね、私としてはそれ以上に少々気になる結果が出てしまったところでして……先ほど主任は彼と増殖の件についてお話されていましたよね」
「ああ、そうだが」
これを、と示された一枚のプリント。
そこには日本地図が描かれており、更にあらゆる色の線がある一点に集中している。まるでデフォルメされた太陽のイラストのように見えた。
「“食品サンプル”が新たに出現した際、元々存在していた個体をA、新たな出現個体をBと仮定した場合、Aから見てBがどの方角に出現するのかについての調査結果が明らかになりました」
「出現する方角か」
主任の表情が苦々しげなものに変わる。それは以前、自分も調べるべきなのではないかと訴えた事のある部分だった。
あの時は棄却されてしまったものの、何か動きがあったのならばやはりそこに何らかの意味があったのだろう。
とはいえそこで感情的になってはいけない。まずは話の続きを聞く事が先決である。
「その結果、“食品サンプル”が増殖した際にBの出現した方向へ線を伸ばすと日本のとある地域にそれらの線が集中する事が判明しました。東京都の、ああこの区域です」
指差された場所を確認して、主任は溜息を漏らした。
ここまで露骨な動きをしているとなると、各国上層部は既にこの事実に辿り着いているのかもしれない。あくまでも自分達のような末端の人間には知らされていないだけで。
「それでこの場所に何があるのかを調べたいのですが」
「そこに地下シェルターも地下通路も無い、か」
「仰る通りです」
主任はふむ、と顎に手を添えて考え込む素振りを見せる。
次の瞬間、差し出されていたプリントに手を添えて優しく押し戻した。
「この件は一旦保留にしよう」
「えっ、しかし」
「科学とは客観性と再現性の双方を有していなければならない。さっき飛び出していった彼に6YR933実験の情報閲覧許可を求めておけ。一応そこに、何だ、君の言うところのBの出現方向についての細かな記載もあるはずだ」
実際には単なる延命措置に過ぎない。
未だ権力の影響が強いこの界隈で悪目立ちなどしない方が良いし、迂闊に地表に顔を出せばあれら奇妙な存在はまた観測される事で数を増やす。
はあ、と気のない返事をして男は去った。室内に残るのは主任一人のみ。
彼は懐から取り出した折り畳み式の端末を広げ、そこに映し出される画像を指先でなぞる。
「先延ばしにしようと何だろうと、いずれは地上と青空を取り戻してみせるさ。それが俺にできる唯一の罪滅ぼしなんだから」
画像は最初に観測されたと公表されている“食品サンプル”の群体。それらは道路の上でいくつも連なるように鎮座していた。
この数日後には酸素中毒者や大規模な火災が発生し、それから十年以上が経過した今ではスノー・ボール・アースの発生まで懸念されている始末である。
わかっている事は少ない。
いわゆる食品サンプルとしての形状をしている事。
二酸化炭素を酸素に変換し続けている事。
際限なく増え続ける事。
そして、全てが中華料理の形状をしている事。
「田中。やっぱりお前なのか? お前が、こんなものを……」
異常事態を前にして深く考えず、臭いものに蓋をするように食品サンプルを捨てたあの日。
あれからずっと彼の中には、中学時代からの友人の姿がちらりちらりと見え隠れしていた。
この未知なる存在を前にして、地球上は不況がどうのなどと呑気な話をしていられなくなった。当然もう飲食店など今の人間社会には存在していない。冷たく無機質な保存食を齧って日々を死なずに過ごすばかりだ。
そんな人間達を嘲るが如く現れる、温かい料理の姿をした冷たい物体群。
今、人類は緩やかな危機に面しているのだ。
「……やってやるさ。待っていやがれクソッタレ」
それだけ言い残して主任が白衣をはためかせ、部屋から出る。
後には誰も残らなかった。