水色の雨
こうして世界は救われた。
人類の愚かさを伝える回想録は、そんな言葉で結ばれていた。この著者も教会の人間なのだろう。すべての罪が許されたかのように終わらせて、いまもなお続いている人類の愚行を、暗に認めている。
命拾いをしたのは人類でしょう?
世界に救われて、人類が滅亡をまぬがれたと記すべきなのに……。
画面から視線をはずして、ガラスの向こう側に目をやった。いつ雨が降りはじめてもおかしくはない、鉛色の空のしたでは、人々が足早に歩いている。空調の効いた喫茶店とは違い、外の蒸し暑さは災害級だろう。道ゆく人々の表情に余裕がないのも、当たり前の光景といえる。
座ったまま、両腕を上に伸ばし、かるく伸びをした。
固まった身体がほぐれていく。
首をまわし、目のまわりにもマッサージをほどこす。
「先輩、もう読み終わったんですか?」
「まあね」
わたしが答えると、ミキは手をこすりあわせた。
もみ手をしながら姿勢を低くする様は、じつに清々しく、かつ雄弁だった。
わたしの前に座ったときから、一歩も前進していないらしい。
レトロな雰囲気が漂う小さな店内に、わたしとミキ以外の客はいない。この店の静けさをつくりだすマスターに、ちらりと視線をおくった。柔らかな物腰と温かい微笑みに揺らぎはない。ほかの常連客が来ないかぎり、わたしたちの会話は許されたとみていい。
「それで、どんな課題が出されたわけ?」
「雲内生物について、自分の思うところを八〇〇字以内でまとめてこい、です」
ずいぶんとゆるい課題だ。
生物学の先生も、ミキを留年させたいわけじゃなさそう。
「先輩はどう思います?」
「わたしとしては、ケサランパサランが、あいつらの天敵であってほしい、とは思ってるかな」
いまにもあいつらが降ってきそうな、外を見やる。
「あー、神の恩寵とやらですか……あのふさふさ、天敵なんですか?」
「わからないけど、ケサランパサランがいる雲には、あいつらがいないみたい」
「可能性ありそうじゃないですかー」
「可能性だけならね。絶対数が少ないから、研究も進まない」
重たい空から、水色の雨が落ちはじめた。
ペタ、ペタ。
ペタ、ペタ。
しだいに勢いをまして、ペタペタと街に降りそそぐ。
道ゆく人々は、すでに屋内に避難している。
「降ってきましたねー」
「五〇分ほどで止むみたい」
天気予報の精度は、日々向上している。
きちんと情報をチェックしていれば、雨に襲われることはまずない。
「あいかわらず、べとべとしてそうですねー」
「ほんと、気持ち悪い」
「いいすぎですよ先輩。悪いのは人間だって、先輩もいってたじゃないですか」
「……そう、自然の恵みにはちがいない」
「これはレポートに書いた方がいいですよね?」
「雲内生物の代表例だしね」
一部の狂信者たちから、神の使徒とまでよばれる存在。
ガラスにへばりついた水色の生物は、うねうねと動いたあと、溶けてきえる。
「いまの人類社会に、こいつらが必要不可欠な存在であることは間違いない。ケサランパサランが天敵であったとしても、個人の身を護ることが限界でしょうね……こいつらを根絶するには、人類の愚かさをどうにかするしかない」
「なるほど、神の恩寵を消し去るには革命が必要である、と……」
「……まあ、あとで修正するからいいけど」
雨が雨でなくなったのは、わたしが生まれる前のことだ。
人類社会は欲望のままに、自然の調和をかえりみずに経済活動を押しすすめた。深刻な大気汚染により、人類の九割がまともな生活を送れなくなったころ、地球温暖化現象が大量の水蒸気を上空におくり、大量の雲を発生させて、それをとどめ、世界に新たな生物を誕生させていた。
雲のなかに菌類や細菌類が存在していたことは、以前より指摘されていた。そいつらが、汚染物質をエサとする、新たな生物へと変異したらしい。なかでも、汚染物質にまみれた大気にもっとも適応、進化して、地球全体にまで生息域をひろげたのが、粘菌の一種だった。
地表に、粘菌の混じった、ベタベタの雨が降るようになった。
上空にあっても、落下する際にも、汚染物質をエサとして取りこみ、除去する。汚染された雲という、特殊環境に最適化した粘菌は、地表ではすぐに死んでしまい、溶けてほとんど水になる。人体はもちろん、ほかの動植物や自然環境に、まったく無害な存在であると確認された。それらの情報は、福音として世界中に広まり、滅亡寸前であった人類の多くが、神の恩寵であると讃えた。
ブルーレイン。
クリーナー。
ギフト。
さまざまな名で讃えられる新種の粘菌によって、世界は浄化されていった。
地表で生きるしかなかった多くの人々は、マスクなしでの生活が可能となった。
人類は救われた。
世界によって、人類は救われた。
滅亡をまぬがれ、神を讃えた人類が、その後どうなったのか。
なにも変わらなかった。
いえ、以前にもまして、汚染物質をまき散らすようになった。
世界は救われたのだから。
すべてきれいに除去されるのだから。
そのような論理で経済活動を押しすすめた結果、粘菌は、またすこし変異した。
好きこのんでベタベタになりたい人はいないが、それが許されない状況もある。多くの体験によって、ふたつの性質が認められた。
すぐに溶けてきえるはずの粘菌は、人の身体に付着した場合、消滅するまでに時間がかかること。
消滅するまでの間に、衣服が分解されること。
「せんぱーい、もどってきてくださいよー」
ミキの呼びかけに我にかえる。
身体がこわばっていた。
顔つきも、厳しくなっていたはずだ。
「こいつらの不愉快な性質について考えると、どうしてもね」
「あー、女の子の服を溶かすっていう、わけわかんないやつですか」
「一応、男の服も分解するけど?」
「そうなんですか? 男はベタベタするだけだとおもってました」
数万人という規模での実験データがある。人種、性別、年齢、健康状態、恋人や配偶者の有無、等々。さまざまなデータを収集、分析した結果、健康かつ妙齢の女性ほど、服が分解されることが判明した。
どうやら人間の発するフェロモン物質によって、粘菌が活性化するらしい。
女性が放つフェロモンほど活性化する。
健康でスタイルも良く、恋をしている女性ほど、被害規模は大きくなる。
わたしの説明に、ミキはいちいち感心している。
わりと常識的な話を知らないなんて、ほんとに進級できるのかしら?
「フェロモンをまき散らしているとしかおもえない妙齢の女性が、尋常ではないスピードで衣服を溶かされた、なんていうふざけた報告例すらある」
「真偽のほどは?」
「不明かな。確実にいえるのは、こいつらが日々進化をつづけていることだよ。衣服を分解する能力は、以前の比ではないらしい」
「人間がエサの供給をとめないかぎり、進化し続けるんですかねー?」
「おそらくね」
「進化の方向性が、わけわかんないんですけどねー」
「まったくだよ」
興が乗ったのか、ミキがレポートを書きすすめている。
「わたしが思うに、汚染物質にまみれた大気で変異をとげた新種の粘菌は、人間の欲望、あるいは業というものに適応した存在といえるのかもしれない。こいつらは、人類が業を深めるほどに、より強力な変異をとげていく……だとしたら、人間の業を深めようとしているのかもしれない」
「人間の欲望に共存した生物ですか? なんだか、悪魔っぽいですねー」
「神の恩寵というよりは、そっちのほうが近い気がするよ」
神が存在するとしたら、人類の愚かさをどのように考えているのだろう?
悪魔が存在するとしたら、喝采を叫んでいるのではないだろうか?
「わたしは思うんだ。人類の愚かさは、いずれ大きな災いをもたらすって」
「全裸で生活することになるとか?」
「ないとはいわないけど、もっとひどい結末……人類の滅亡とかね」
はたして、この粘菌たちは、人類の味方でありつづけるだろうか?
「調べるべきかもね」
「なにをですか?」
「こいつらを研究する人たちはたくさんいる。なかには、知られていない危険性を発見した人がいるかもしれない」
ミキの行動は早かった。
わたしより素早く端末を操作して、情報を検索している。
「なんか新発見っぽいのがありましたよー」
「内容は?」
「なんでも分解するのは衣服だけじゃなくて、身体に塗りつけると、すごくていねいにムダ毛の処理をしてくれるそうです」
「……なにそれ?」
「ああー、これ教会関係の人ですねー。あの人たち、全裸で雨を浴びたりして、全身に塗りたくってますから……それで気づいたって書いてあります。ちなみに発見者は二十代の女性です」
「……脱毛剤の研究がはじまりそうな発見ね」
「教会関係者で、似たような情報がありますねー。雨が降るたびに塗りたくってたら、お肌がすっごくきれいになったって書いてあります。誇大広告みたいな写真ものってますよ。ちなみに報告者は、アトピー性皮膚炎で苦しんでいた、十代の女の子です」
「……素直に信じるのは、どうかとおもうの」
「ほかにも、なんかありましたよー。なんでも登山中、崖から落ちて骨折して動けなくなったあと、夜中に雨にうたれて全裸になって、もう死ぬなとおもって眠ったら、翌朝には骨折が治って動けるようになったとかなんとか。これも二十代の女性の話ですねー」
「……そう」
「まだまだありそうですけど……先輩? どうしかしました?」
「……なんでもない……うん、なんでも……」
そのあと、わたしはミキといっしょにパフェを食べた。レトロな雰囲気が漂う喫茶店のマスターは、テーブルをドンドン叩いてしまった常連客に対しても、温かい笑みを崩すことはなかった。おいしいコーヒーをごちそうになった。
ミキのレポートが完成したころ、水色の雨は止んでいた。
また来ますとマスターに告げて、わたしはミキとともに喫茶店をあとにした。
浄化された通りを歩いた。
蒸し暑さはすこしだけやわらいでいた。