婚約した令嬢は黒皇子への愛を自覚する
この物語はファンタジーでフィクションです。
社交シーズン最後に催される皇宮主催の舞踏会は今年、皇太子の婚姻式に出席することのできない下級貴族も招いてのアイシャのお披露目会を兼ねていた。本来お披露目とは婚約式と婚姻式は数年、長いと十年以上の間があくので、要は無事婚姻式まで漕ぎつけたのでこれからもよろしくね、という挨拶をするために開かれる。ジルクライドの場合は婚姻式の日取り優先だったためにお披露目会単独の開催ではなくなったのだが、時期が婚約式と近かったこともありちょうどいい規模になった。
「白も良かったが黒もいいな」
隣に立つジルクライドは王国の舞踏会で身に着けた礼服の白を黒く入れ替えたものを着ていた。金のモールもボタンもそのままだが、紫の皇太子の紋が入ったネクタイは白に、左肩に掛けたマントはひざ下まで長く、表は紫で裏は白に裏打ちされている。スラリと背が高く見惚れるような立ち姿に会場にいた女性の熱い視線が集まっていた。
対するアイシャも王国で着用したドレスを直したものを身に着けていた。ただし首からスカートまでを覆っていた白薔薇のレースは、地の色は黒く薔薇の花の部分だけ薄紫に編まれたレースに変わっている。スカートの裾が黒に近い紫なので全体的に暗く見えるが、近づけばドレスに散りばめられた小さな真珠がキラキラと反射して、その艶やかさを増していた。
「素敵なドレスをありがとうございます」
ずいぶんと慣れてきたおかげか婚約式のときよりは余裕のあるアイシャは、ファーストダンスを無事終えて一息ついていた。隣では皇王夫妻とあいさつを交わす貴族の列が続いていて、爵位の低い者から行われているそれはまだまだ途切れる気配はない。一応主賓でもあるためにジルクライドとアイシャはその場を動かず皇王夫妻の後にあいさつを受けていると、見覚えのある赤い髪を持つ貴族が二人の前に立った。
アランとアラーナだ。二人はダンヴィル公爵家の子息令嬢だが、兄のアランは先日父親の持つ爵位の一つであるクィントン子爵を継いでいた。そのためにこれだけ早いあいさつになったのだろうが、相変わらず自身の婚約者ではなく行き遅れの妹をエスコートしているため、先ほどから注目の的になっていた。
「皇太子殿下、お久しぶりでございます」
礼をとるアランと同時にアラーナもドレスを持って挨拶する。今日のドレスもオレンジ色の誰かを彷彿とさせる色だが、今年の流行であるその色のドレスを着た令嬢は多いからわざわざけん制に来たわけではないのだろう。
アラーナは皇妃のお茶会には頻度は低いものの招待され出席していたが、今年のステータスと言われたオードリー・バルフォア侯爵令嬢からお茶会の誘いは爵位の関係もあってなかったために社交界から浮いているらしい。
おそらくアイシャが皇太子妃としてお茶会を開いてもジルクライドの政敵である家の彼女を招待することは難しいし、彼女の年齢で未婚となると未婚の令嬢が集まるお茶会にも参加するのは厳しくなる。ここまでこじれてしまえばダンヴィル公爵家にすり寄っていた貴族でさえ彼女を持て余し、何かに巻き込まれないように距離を置くようになっていた。うっかり近づいてお前の息子を離婚させてアラーナを娶れなどと公爵にお願いされたらたまらないからだ。
当のダンヴィル公爵は何を考えているのか判らない神経質そうな男性で、アイシャの印象はそんなに難しそうに生きていて楽しいのだろうか?だった。それをジルクライドに話したら彼は大笑いした後に「あの人は人を陥れる時が一番生き生きしているな」と言っていたが。
「本当に久しぶりだな。アランはクィントン子爵を継いで忙しそうだ。二人とも体に気を付けるといい」
ジルクライドはアラーナに口を開かせることなく、アイシャへのあいさつもなかったアランとの会話を容赦なく終わらせる。穏やかな顔と冷えた声にアランは引き下がろうとするが、アラーナは縋るような眼差しをジルクライドに向けてまるで告白を待つかのように見つめあう。
「ああ、それと」
あいさつを終わらせたはずのジルクライドがそんなアラーナを冷えた目で見ると、うっすらと笑った。
「ダンヴィル公爵令嬢、婚約が内定したとか。おめでとう」
驚いて気配を揺らしたのはアイシャとアラーナだった。アイシャは完全に初めて耳にした情報だったからだが、アラーナはジルクライドに祝福されたことに傷ついたのだろう。それでも彼女は毅然とした表情でゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます。皇太子殿下と婚約者様にも幸せな未来がありますことをお祈り申し上げます」
婚約式の時を思えばずいぶんとおとなしくなってしまったのだろうか。それとも本気でジルクライドのことを諦めたのか、アラーナはためらうことなく引き下がっていく。
「初耳でした」
「本当にギリギリ決まったらしい。聖王国の伯爵家の後妻として嫁ぐようだ」
続くあいさつの合間に小声で情報を共有する。
「カバス伯爵家ですか?」
「ああ。なぜわかった」
「例の菓子店が輸入していた小麦の値段を調べていて上がった家名です」
「それはあとで詳しく話せ」
最後の一言を耳元でささやかれ、それを見た可憐な令嬢が頬をピンクに染めて潤んだ目で黒の皇子を見上げた。アイシャには見えなかったがおそらくジルクライドは少し悪だくみをするような笑みを浮かべていたのだろう。貴公子然とした男性しか知らなければ誑かされたくなる魅力のあるその笑みに、ときめかない令嬢のほうが少ないはずだ。年が若ければさらに、だ。
見惚れていた娘をさりげなく正気付かせた母親の手腕に感心しながら、アイシャはアラーナの赤い髪が人々の間に消えるのを見送ったのだった。
「ようやく半分か」
あいさつが終わり、皇王と皇妃は下でダンスを踊っていた。夫妻が戻ってくれば今度はジルクライドたちが下に降りて歓談やダンスを楽しむことになっており、いつもより緊張を強いられている男は人目が遠いことをいいことに軽くため息をついた。
「お疲れですか?」
その程度のやわな体力ではないことを知ってはいるが、それと心配するのは別のことだ。伺うように見上げると覇気を滲ませた濃茶の目がアイシャを映して苦笑する。
「いや。待つのは性に合わないだけだ」
何事においても先手を打つのが好きそうな皇子は獲物が罠にかかるまで待ち続ける忍耐も持ち得ていて、どのような教育をすればこんな後継者が出来上がるのかと興味は尽きない。それに待つのが苦手な男が自分のために忍耐力を発揮しているのを知って喜ばない女もいないだろう。
「早く一か月が過ぎるといいのですけれど」
盤石な地盤を持つ皇太子であるジルクライドは多少の揺さぶりにはびくともしないが、属国出身で侯爵令嬢であり、第一王子に婚約を破棄されたアイシャは格好の的でもあった。彼がこれだけ苦労しているのは主にアイシャを守るためであり、婚約者という危うい立場ではなく皇太子妃という確固たる立場になればジルクライドの労力もずいぶん減るはずだ。
アイシャがさまざまな理由からポロリとこぼした本音にジルクライドは目を見開く。
「お前、今――」
「ただいま。さぁ、今度はお前たちの番だ」
久しぶりに皇妃とのダンスを楽しんで機嫌のいい皇王が壇上に戻ってくる。二人同時にあいさつを返すとジルクライドに手を引かれてホールに降り、そのままダンスの輪に加わった。人々の視線を一斉に浴びながらもうっすらと紅く染まった目で踊るジルクライドは珍しく型通りの大人しいダンスを続け、いつものようにとても踊りやすく力強いリードは華やかに踊るアイシャを常に支える。
「ジル様?」
集中しているのに心ここにあらずといった矛盾した様子に声をかけると、踊り終えたアイシャを連れてジルクライドは壁際へと移動した。周囲には護衛騎士と側近たちが待機し、専属の給仕が飲み物を運んでくる。それらにまで騎士が付いているのだから途中で媚薬を混入することなど不可能で、受け取ったジルクライドはアイシャにグラスを渡し、さらに自分でも受け取ってのどを潤した。
「皇太子殿下。手袋が汚れております」
飲み終えたグラスを回収した給仕が小声で囁くと新しい白手袋を差し出す。白い手袋ではよくあることなので何も疑うことなく交換すると、ジルクライドはアイシャを伴って会場の外へと歩き出した。
「殿下。どちらへ?」
どこへ行くのかと呼び止めたヒューズにすぐに戻ると言いおいて、二人は皇族用の休憩室へと歩いていく。もちろん護衛騎士も後に続くが休憩室の外で待機させて人払いをすると、二人きりで薄明りの付いた部屋のソファへと座った。
密着するように座るジルクライドの目は完全に紅く染まり燃えるような興奮が見て取れる。それでも真剣なまなざしは一途にアイシャを射抜き、意を決したようにソファから降りたジルクライドは床に跪くと黒いレースに包まれた細い手を取った。
「先ほどの言葉が本心ならばお前の気持ちを知りたい。俺はお前を愛している。お前は俺との婚姻を……俺を望むか」
皇国に向かう馬車の中で告げられた想いの再現に男の渇望が見え隠れする。それに気づいたアイシャはずいぶんとジルクライドを待たせてしまったと思い知り、握られた手を握り返して……その熱さに驚いた。
「殿下! 熱が……それに手袋が、濡れ、て……」
尋常ではない熱に、とっさに頭に浮かんだのは媚薬の存在。トロリと溶けた深紅の目は理性を浮かべることはなく、まるで獣のように餓えてギラギラと光りアイシャを見据えて離さない。
「ジルクライド・“フェアクロフ”・セル・ディザレック!」
アイシャが呼びかけたのはジルクライドの正式な名前だ。けして他人には明かされることのない第二の名は本人を正気に戻す訓練がされていて、呼ばれれば反射で反応を示す。それはどんなに強力な媚薬を盛られていようとも効力を発揮し―――
「っ! アイ、シャ。護衛を、呼べるか」
荒い息を吐きながら手袋を投げ捨てて、テーブルに用意してあった水差しで手を洗い流したジルクライドは顔を赤らめたまま震える足でアイシャから離れていく。ジルクライドの言葉で慌ててドアへと駆け寄って開けても廊下には誰もおらず、遠くで誰かが騒ぐ声が聞こえた。
「護衛騎士がおりません。わたくしが誰かを呼んで」
「行くな!!」
初めて聞くジルクライドの怒声にびくりと肩を震わせると、部屋の隅にうずくまる男は荒い呼吸のまま理性を保って指示を出す。
「ドアを閉めて、鍵をかけろ。それから窓、の鍵も確認……っ、お前は、カーテンに包まって、何があっても動くな、しゃべるな。誰が来ても、ドア、は開けるな……はっ、耳をふさいでいろ」
間接照明だけが点いた部屋は薄暗くてジルクライドが何をしているのかは判らないが、言われたとおりに鍵をかけると分厚いカーテンに包まった。しばらくしてジルクライドが動く気配がすると、ドアに近い部屋の隅へと移動する。
「くそっ、こんなところで無駄に……っんぶ中……三日は籠っ……ぅくっ……ぜってぇ、許さねぇ……」
会場からは遠い静かな部屋だ。どんなに耳をふさいでも聞こえてくるジルクライドの声は怨嗟に満ちていたが、それでも怒れるだけまだ余裕があるのだと思っていいのだろう。もし意識を失うようなことになれば、例えジルクライドに待機を命じられたとしてもアイシャは部屋の外に人を呼びに行くつもりだった。
どれだけ時間が経ったのか。おそらく十分かそのくらいなのだろうが、もう一時間も二時間もここにいるような気がしてくる。ジルクライドの声も聞こえなくなったが、忙しない呼吸と身じろぐ音は聞こえているのでまだ意識はあるのだろう。
やがてドアをノックする音が聞こえ、返事がないことに廊下がざわつき始める。駆け寄って鍵を開けたい衝動に駆られるも、廊下にいるのが味方なのか敵なのかもわからない。たとえ味方だとしてもジルクライドと同じく媚薬を使われていたらアイシャの身に危険が及ぶのだ。
「ローウェル!」
号令のような声と扉が蹴破られたのは同時だった。勢いよく開いたドアが壁に打ち付けられて再び閉まるより早く茶髪の長身が部屋に躍り込んでくる。
「殿下!」
薄闇の中で光る抜身の剣に身がすくみ、それでも見知った青年の姿にアイシャは声を上げた。
「早く解毒薬を! 殿下が!」
「ヒューズを入れろ!」
一瞬だけ緑の視線と共に叩き付けられた殺気に言葉を詰まらせるも、言いたいことを叫んだアイシャにウェイドが駆け寄る。
「アイシャ様、お怪我はありませんか」
「おそらく殿下の手袋に媚薬が。水で洗われましたが、二十分か三十分くらい前で」
「判りました。まずはアイシャ様を部屋にお戻しします」
ジルクライドの元に行きたい衝動を抑えてゆっくりと抱えられるようにして歩き出す。医者やヒューズ、ニックスといった側近たちがジルクライドの周りにいるのを見ながら退室しようとして、突然膝が崩れた。とっさにウェイドと護衛騎士に支えられたアイシャは震える手で少し湿ったレースの長手袋を外し、それでも揺れる視界が急速に暗くなるのを感じたのだった。
アイシャが目を覚ましたのは半日後。清々しい日差しの中、一切の体調不良がないアイシャは一晩中付きっ切りで看病していたらしいリーサを仮眠に行かせた。もちろん他の侍女はいるのだから普通に着替えて食事をし、医師の診察を受けて完全に薬が抜けたことを確認すると、ジルクライドの容態を聞いて寝室へと駆け付ける。
眠るジルクライドの顔色は悪くはない。整いすぎて険しい顔も多い男性だが、今は安らかに眠っているのがその表情で判る。いつもはしっかりと撫で付けられている髪は額を隠すほど乱れ、掛布の上に出された左手には手の甲から手首まできつく包帯が巻かれていた。上半身に何も着ていないため筋張った腕や程よく筋肉のついた肩、鎖骨から喉仏まで丸見えで、婚約者といえども目のやり場に困ってしまう。
やがて長いまつげが震え、開かれた瞼の奥から現れた濃茶の目がアイシャを映した。寝起きで覚醒しきれていないのか、どこか気の抜けた珍しい姿に思わず笑みがこぼれる。
「辛くは、ありませんか」
「お前は、無事か」
「はい。ジルが守ってくれました」
持ち上がった右手がアイシャの頬を撫で、さらに耳へと伸びていく。
「約束を、覚えているか」
「もちろんです。私の約束も覚えていますか?」
「ああ……?」
「ジル」
会話の中に違和感があるのだろう、半覚醒状態のままなんとかその違和感を突き止めようとするジルクライドの名を呼んで意識をこちらに向けさせる。どうしても今、言わなければならないことがあるのだ。
「愛して、います」
アイシャは椅子からベッドへと移りさらに顔を近づけてささやく。おそらく自分の顔は真っ赤で声も震えている。鼓動が早すぎて痛いくらいだし、まっすぐ見つめてくるジルクライドから視線を逸らせない。感極まってまばたきと一緒に涙が一粒、ジルクライドの素肌へとこぼれ落ちた。それでも想いを届けることをためらわない。
「あなたを、あいしています」
うまく声を出せなくて片言のような愛の言葉は目を見開いて固まっている男に届いているのだろうか。それすら判らなくて、けれど言葉を止める術を知らないかのように繰り返した。
「ジルクライド、あなたがほしい、です」
両手で頬を包みそっと口づける。優しく触れるだけのそれから離れようとして――たくましい腕に力強く抱きしめられた。
「っ!」
けれどそれも一瞬で緩んでしまう。痛みに震える身体と左手にジルクライドは自分が何をしたのかようやく思い出した。
「左手は強く噛みすぎて骨にひびが入っているそうです。しばらく使えないとお医者様が。それと噛み跡が残るだろうともおっしゃっていました」
青い目からポロポロと涙がこぼれる。それでもアイシャは視線をそらさない。ただただ、恋しい男性に正直な気持ちを伝えるだけだ。
「正気を保つために何度も、何度も、骨が折れ、出血して、跡が残るほど強く噛んだのだと……痛かったでしょう。苦しかったでしょう」
上半身をジルクライドに預け、口づけをした体勢のまま、涙も拭うことなく。
「守ってくださってありがとうございます。ジルクライド」
アイシャは今できる精いっぱいの笑顔を浮かべた。見惚れていたジルクライドだがつられたように甘い笑みを浮かべ、涙に濡れた頬を指でそっと拭う。
「俺の命がある限りお前を守るのは俺の役目だ」
右手で頭を引き寄せ涙を舐めとりながら、ジルクライドはアイシャの身体と位置を入れ替える。ベッドへと仰向けに横たわるアイシャに、左の肘で上半身を支えて起き上がったジルクライドが覆いかぶさるように口づけた。そして今度は上から見下ろすジルクライドが瞳を紅く染めて低くささやく。
「だからアイシャ・スティルグラン。俺の妻になれ」
同じセリフを言った時にはなかった熱で掠れた声は、アイシャの背筋をぞくぞくと這い上る何かに変わり。
「はい、ジルクライド。愛しています」
同じ肯定は胸のうちからあふれる想いのままに言葉を紡ぎ。
両腕をジルクライドの首に回して身体を重ねた二人は、お互いの熱を分け合うようにただ抱きしめあっていた。