黒皇子は婚約した令嬢を甘やかす
この物語はファンタジーでフィクションです。
「『ラナティルの媚薬』が皇都内に持ち込まれた」
皇太子の部屋にはジルクライドとアイシャ、ヒューズとアロイス、ローウェルと侍女のリーサが集まっていた。第一声を発したジルクライドは鋭い眼差しで一同を見回し、最後にソファに座るアイシャに視線を止めると執務机から立ち上がる。
「毒の対応策強化と解毒剤の確認を。そしてアイシャに婚姻の儀式の説明をする」
部屋の主の言葉に彼らの動揺が広がる。
「しかし」
反論しようとしたヒューズはジルクライドの一睨みで口を閉じた。
「酷なことを強いるのは判っている。だがアイシャに使われる可能性がある以上、万が一の場合の覚悟を決めてもらわなければならない」
そこで一度言葉を切り腹心の配下を見回してこれ以上の反論がないと判ると、動揺することなく見つめるアイシャを見下ろす。
「『ラナティルの媚薬』は知っているか」
「無味無臭な上に、飲んでも塗っても効果がある媚薬だと聞いております。強力な中毒性があり複数回使えば廃人同様になるため、禁止薬物に指定されているはずです。解毒薬はありますが高価な上に希少で、ない場合は眠らせて効果が切れるのを待つしかないと」
正解を口にしたアイシャに一つ頷いてから、ジルクライドは厳しい表情のまま説明を続けた。
「この国の皇族にはある力がある。それを持つが故に皇族となったらしいが、今では微々たる力だ。だが皇族とはその力を受け継ぐ者とその伴侶だけと定められていて、子が力を受け継ぐには女性に儀式が必要となる」
目の端でリーサが動いたのが目に入った。動揺するだろうアイシャのためにお茶を淹れに行ったのだろう。それでもジルクライドは待つことなく話しだす。
「条件は未通であること。そして最初の性交の前に皇王の力に染まった水を飲むこと。この二つだ。どちらが欠けても力を持つ子供は生まれない。たとえ俺一人だけと交わったとしてもだ」
未婚の女性には刺激の強い話だが、アイシャは難しい顔で考え込んでいた。自分で納得するまで思考するのだろうと見守れば、思いのほか早くにジルクライドを見た。
「一度皇王様のお力を受け入れた女性の離婚は可能なのでしょうか」
もし力に染まった水と媚薬があれば、他の女性がジルクライドの子供を産むことができる。そうなれば皇太子妃という地位はその女性のものになるかもしれないと見上げると、不満そうな表情丸出しの男が不機嫌そうに口を開いた。
「……お前と離婚をするつもりはないが」
そういうことじゃないだろうとその場にいた者全員が思っただろう。責めるような視線を浴びながら、黒の皇子はしぶしぶ答える。
「婚姻関係を解消することはできない。その代わり皇王の力に染まった水はできてから一時間程しかもたないのだ。皇王が不用意にそれを作ることはないし、作るのにもある程度時間がかかる。手に入れることができたとしても一時間以内に飲んで、さらに意中の皇族に抱かれなければならないからほぼ不可能といっていいな」
「……ずいぶんと男性に都合のいい仕組みですわね」
「くそっ、お前ならそう言うと思ったんだ。だから初夜に黙って飲ませるつもりだったのに!」
くしゃりと前髪を掻き毟りながら毒づいたジルクライドだが、アイシャは構うことなく想定される事態を予測していく。
「そういう事情でしたら媚薬がわたくしに使われる確率の方が高いですね。無関係の男性に使ってもわたくしと二人きりになるのも難しいでしょうし、殿下に使っても妃にはなれないのでは無意味でしょうし」
リーサが淹れてくれたお茶を飲みながらアイシャは再び考え込んだ。ローウェル以外にも配られたそれをジルクライドも一口飲む。
「殿下さえよろしければ、手順を踏んでさっさと交わってしまいますか?」
だから突然なされたアイシャの提案にお茶を噴いてしまったのも仕方のないことだろう。タイミングが良かったのか悪かったのかヒューズも同じように噴き出していた。
「あ、アイシャ様?!」
意外と純情なのかローウェルも真っ赤になって慌てている。動揺の激しい男性陣に比べ、落ち着き払った女性陣は追及の手を緩めることはなく話を続けた。
「ですが最初にこの提案がされなかったところをみると、他にもなにか隠していることがありますわね?」
「本当ですわ。殿下のアイシャ様への執着を見る限り、婚前にできるのでしたらさっさとしているはずですもの」
撃沈している男性の中で唯一涼しい顔でお茶を楽しんでいたアロイスが、カップをテーブルに置きながら助け船を出した。
「皇族側にも婚姻式で儀式があるのですよ。式の前に皇王の力が満ちた水を使って交わってしまうと、力が消失するのです。そうなると皇族から外れ臣下に下ることになります。それを逆手にとって婿にいく男性もいたので一概には言えませんが、一応男性にも貞淑さを求めてはいるのですよ」
それでも男性有利の仕組みであることに変わりはない。要は婚外子ができても力が受け継がれないために皇族として認めないということだが、ジルクライドが一番隠したかったことから意識が逸れたのだから良しとしなければならないのだろう。
「お前の考えていることは判るが俺はこの国を統べる一族だぞ。人道は弁えているし、俺はお前から目を離すことはない」
ようやく顔から赤みが引いて心外だと訴える男にそれもそうかとあっさり納得したアイシャは、それならば薬を盛られないように気を付けるしかないだろうと結論付ける。
「もしわたくしに薬が盛られ何らかの理由で解毒薬が間に合わないときは、どうかわたくしを見捨ててくださいませ。最悪の事態はジルクライド殿下が皇族から抜けてしまうことなのですから」
その言葉はジルクライドにではなく腹心の部下である彼らに向けられた。こうして言質を与えておくことで最悪の事態後の責任の所在を明らかにするとともに、ジルクライドへの意思表示とするのだ。潔いともいえるその姿勢にジルクライドを除く一同がアイシャへと頭を垂れる。
「かしこまりました、アイシャ様」
その対処に不服そうなジルクライドだがアイシャが折れないのは判っていた。妃教育とはそういうもので、いわば洗脳に近いものがある。自分よりも夫を、そして国を守るという教えは王国といえどもしっかりとアイシャに根付いていた。逆に高位貴族ですらここまでの教育が出来たというのに、王族たる第一王子や義妹であるエルシャがあの程度でしかなかったのは本人たちの資質の違いなのだろう。
王の子は皆が王にふさわしいとは限らないというのがディザレック皇国での一般的な考え方だ。能力があるなしではないのが皇国独自の考え方らしく、留学してきた聖王国の第三王子が大層呆れていたのは記憶に新しい。
彼曰く、一般的な国王とは一定以上の能力を平均的に持っていて偏った思想を持たない王族に属する者がなるもの、らしい。だがディザレック皇国では皇王にふさわしければ多少能力が劣っていたり性格に難があっても構わなかったりする。皇王の足りない部分は配下が補えばいいし、欠点ともいえるような性格も側近が制御すればいいだけだ。そしてふさわしい皇王というのは時代によって変わるのだ。ある時代は苛烈な王、ある時代は慈悲深き王、そしてある時は経済に精通した王といった具合に。
そして皇国民が、皇国貴族が求める王を皇王が皇太子として選び、そして選ばれた皇太子は滅多なことでは交代されることはなかった。こうして皇国は大陸一古く大きな国になったのだ。
「見捨てる前に最大限手を尽くす。それはお前を選んだ俺の責任だ」
いつものように執務机に軽く腰をかけた姿で見つめるジルクライドの姿は凛々しく、見下ろす切れ長の目は真剣だ。言葉は短く多くを語らないものの、その決意だけは痛いほどアイシャに伝わってくる。
だからアイシャは嬉しそうに笑った。
「はい。頼りにしております」
見つめあう二人の空気に側近たちは視線を交し合い、リーサが時間だと声をかけるとアイシャは丁寧なお辞儀をして執務室から退室する。
「口元が緩んでいますよ」
はぁと大きくため息を吐いたヒューズは茶器を片付けながら、仕える主の緩んだ表情を指摘した。
「良かったですねぇ、殿下。アイシャ様がご自分に惚れるまで手は出さないと誓ったなんて知られなくて」
やれやれといった様子で立ち上がったアロイスは銀髪を掻き上げて笑うと、揶揄されたはずの男は恥じるどころか覇気をまとって堂々と言い放つ。
「愛した女一人守れなくて国を守っていけるものか。俺はアイシャも国も両方を手に入れる。その未来に変更はない」
色惚けてはいない様子に一同が安堵すると同時にその黒の皇子から指示が飛んだ。
「ローウェルはアイシャの護衛の再確認と毒見係の身元調査をやり直せ。ヒューズは『影』の再調査を。オルグレンがいかに隠密に長けた一族を抱えているとは言え、こちらに一切情報が入らなかったのはおかしい。俺たちの情報網を知られている可能性がある。アロイス、アイシャの予定を組みなおせ。城外の予定は俺と合わせ、無理ならばすべて断れ」
多少苛ついている様子はあるが、この程度の問題など皇国の中心にいれば何度も経験する。ただいつもと違うのは一度でも間違えれば二度と手に入れることができなくなる大切な女性に関するということだけだ。
配下が退室すると椅子に戻り、重厚な机に置かれた書類を手に取りながらジルクライドは思考を巡らせる。
カテリーナの時はどうすることもできなかった。病状を知った時には重症化しており、それでなくとも特効薬のなかった病だったのだ。神の奇跡も願ったが、たかが人の身でしかないジルクライドにはそれを叶えることが難しく、守れなかった悔しさは今でも胸を焼く。
それに比べれば今回の事態は人の手で片づけることができるだけマシなのだろう。皇妃も言っていたように愛した女性を守ることができなかったのならディザレックの皇太子たる資格はない。反対されるだろうが第二皇子に皇太子の位を譲ることも可能だ、と考えていたジルクライドは軽く頭を振った。
「不安、なのだろうな」
一度は失敗した。どうにもならない事だったと慰められても、大国の皇太子とはそれすらも可能にしなければならない時もあるというのに。
『必ず看取って差し上げます』
急な訪問故に髪を結い上げて落ち着いた装いで現れたアイシャは、緊張はしていたものの萎縮することもなくジルクライドの傷を見逃さなかった。不思議な自信で告げられた言葉はすんなりとジルクライドの内に入り込み、なんの疑いもなく納得したのだ。この女性は自分より先に死ぬことはないのだと。
女性に甘えるなど幼少期以来だが悪い気はしないし、そのぬくもりを手放すつもりもない。薬を密輸した連中はまだ判明せず最終的にどこに使われるのかも判っていないが、もし皇城に持ち込んだとしたら―――
「死んだほうがマシだという目に合わせてやる」
なんとも物騒な言葉は誰に聞かれることもなく、紅く染めた目を数瞬で元に戻すとジルクライドは仕事に取りかかったのだった。
「だからね、ジルクライドお兄様はカテリーナ様のことを大事にしていたのよ。妹の私よりも」
そう言ってプクリと膨れるリスティラ第四皇女殿下は、それでも優雅にお茶を飲む。まだ成人前とはいえそのマナーはほぼ完ぺきであり、多少のわがままもその愛らしい容姿も相まって人々には好意的に映るだろう。
「ですが、ジルクライド殿下はリスティラ殿下にお土産を買っていらしたのですよね?」
同じテラスのテーブルに着いていたアイシャは小さく首を傾げながらも楽しそうに質問する。今は再び突撃してきた皇女を捕まえたアイシャがお茶に誘い、リスティラの話を聞いている最中なのだ。彼女は実に楽しそうにジルクライドとカテリーナの話をしてくれていたが、徐々に話は逸れてほぼ兄弟の愚痴になってしまっていた。
「ええ。でも皇都で流行っていたお菓子じゃなくて、聞いたこともないようなお店のお菓子だったの。私だってスズエールのお菓子が食べたかったのに……」
「お土産は美味しくなかったのですか?」
「美味しかったわ。小さくて可愛らしくて」
「リスティラ殿下、ご存じでしたか? スズエールは聖王国の菓子店なのですが、材料のほぼ全てを聖王国から輸入しているのです」
「そうなの? でもそれがどうかした?」
不思議そうな顔を見て少し早すぎたかとも思ったアイシャだが、先ほどからチラリと見える教師らしき姿に話を続けることにした。
「例えばわたくしが王国の品物をリスティラ殿下にお売りしたとします。殿下はもちろん皇国のお金で支払われます。では、それをわたくしが王国に持ち帰ったらどうなるでしょう」
「王国では皇国の通貨は使えなかったのではなくて?」
「はい、その通りです。普通なら皇国の通貨を王国の通貨に手数料を払って換えるのですが、そのまま殿下からいただいたお金で皇国にある王国の品物を買ったらどうなりますか?」
皇女らしくなくうんうんと唸って考えたリスティラは、それでもいくつかの答えをだす。
「まずは王国貨から皇国貨にするための手数料が皇国に入らなくなるわね。そして王国の品物を買うことで王国は皇国貨とさらに王国貨に換えるための手数料が入る……」
なんとなく何が言いたいのか判ったのだろう。王国の王族とは基本的に責任感が違うのか真剣な様子のリスティラを見て、アイシャは教師に目配せして話をまとめた。
「本来はもっと複雑で、そう単純なものではないのですが、皇族が皇国産の品物を購入するのはそのような理由があるのですわ。自国の良い品物を見つけだし、自分たちが使ったり食したりすることで品物の良さを広め、皇国の発展を促す。皇族はそれらも仕事なのです。もし興味があるのでしたら教師にお聞きしてみてはいかがでしょうか。殿下が使っていらっしゃる様々な物はこの国を支える人々が作り出したものなのです」
「そうなの?」
皇女の問いに背後に待機していた年配の教師は穏やかに頷いた。
「でもそれならなぜスズエールのお菓子が流行ったの? やっぱり美味しいから?」
その質問にアイシャと教師は視線を合わせて困惑するも、皇女の疑問をそのままにしておくことはできないと、身分の都合で話すことのできない教師に代わりアイシャが答える。
「それもありますが、とある公爵家が絶賛し広めたからですわ。かの領地は聖王国寄りにあり、通行税を取るためだったのでしょうが……」
「それって皇都で入るはずだった皇族の収入を公爵家の領地に落としているということと同じ意味だよね? だからジルクライドお兄様と仲が悪いのだわ」
さすがは皇族。幼くとも与えられた知識を有益に使う術を身に着けているらしい。あえて出さなかった家の名前に気が付き、よくできましたと笑う教師とアイシャにリスティラは嬉しそうに笑って立ち上がった。
「先生。もっと詳しい話を聞きたいわ! 今からでも構わないかしら?」
本当はもっと前から勉強の時間は始まっていた。迎えに来たはずの教師は、それでもそんな様子をおくびにもださずに「もちろんでございます」と皇女に答えた後、アイシャに一礼する。
「挨拶が遅れました。リスティラ殿下の教師でマルモルと申します。ジルクライド殿下の幼少期の教師も務めさせていただきました。この度はご婚約おめでとうございます」
豊かな白いひげを蓄えた老人にアイシャも挨拶を返す。
「ありがとうございます。アイシャ・スティルグランと申します。マルモル様のことはジルクライド殿下よりお噂をお聞きしておりましたが、印象が随分と違いました」
「ほっほっほ。勉強から逃げ出すと分厚い辞書を片手に追いかけてきた……とかですかな?」
今の柔和な様子からはまったく想像もできない逞しい話にリスティラも楽しそうに笑った。
「その話も聞きたいわ! アイシャ様、お茶をごちそうさまでした。またお話を聞いてくださいます?」
皇妃譲りの金髪に青い目を持つ皇女が丁寧にお辞儀をするので、アイシャも立ち上がって見送る。
「もちろんですわ。またカテリーナ様のお話も聞かせてくださいね」
リスティラが教師と侍女、護衛を引き連れて去っていくと、どこからともなく現れた侍女たちにその場を任せてアイシャも部屋へと戻っていく。テーブルに乗っていたお菓子もお茶も、アイシャの分は全く手が付けられていないことに気づいた者はおらず、護衛騎士を含めた侍女たちもまた跡形もなく片づけたのだった。
婚約式から一斉に広まったジルクライドの新しい婚約者への溺愛は、日を追うごとに新しい話が追加され社交界を賑わせていた。最初は物珍しさやアイシャへの批判といった形が多かったが、今では乙女が夢見る皇子様の相手として、主に女性たちへの印象が良くなっていたようである。それに伴いアイシャが必ず出席する皇妃と友人であるオードリー・バルフォア侯爵令嬢のお茶会に呼ばれることはステータスになりつつあり、この国の皇族への熱狂ぶりにアイシャは驚いていた。
もちろんある程度なれてくるとジルクライドの同伴は減ったが、それでも皇城で行われる皇妃主催のお茶会には短い時間であろうとも必ず顔を見せるので、熱愛のうわさは当分収まりそうにもない。そんな中、社交のシーズンも終わりかけ、皇城では皇太子と婚約者の婚姻式の準備が着々と進められているととんでもない知らせが王国から届いた。
「は? エルシャが妊娠?」
養父から送られてきた手紙はジルクライドの許可を得て検閲されてはいなかった。とはいえ養父もアイシャも皇国に仇なすつもりはまったくないので、読まれてまずいことは書かれることはなかったのだが、ここにきて取り扱いの難しい問題が発生していた。
白一辺倒のなんの装飾も入っていない便せんを握りしめてなんとか先へと読み進めると、どうやら事実らしい。らしいというのはエルシャが侯爵家へと帰っていないからなのだが、それに伴い第一王子の婚姻式をジルクライドの婚姻式の六日前に行うことに決めたのだという。
「アイシャ様?」
普段ここまで驚くことのない女主人にリーサが声をかけると、アイシャは自分一人の問題にはできないと気落ちしながらジルクライドの執務室を訪れる許可を取りに行かせた。
「ああ、そういう理由だったのか」
許可を得て訪れたアイシャをジルクライドは楽しそうに招き入れてさっそく話を聞いてくれる。さすがに属国の第一王子の婚姻式であるがゆえに彼の方にも日取りの連絡は来ていたらしい。急に早まった理由を告げるとジルクライドは微かにため息を吐き、婚姻式の出席者リストに目を通した。
「さすがにスティルグラン侯爵はこちらに出席していただかないと困るな。六日なら単騎で飛ばせば間に合うか。実の娘が妊娠しているなら夫人は国を離れられないだろうから、そこはそちらに任せよう。国王夫妻も自分の息子の婚姻式なんだ。出席するのはどちらでも構わないと伝えてくれ」
「申し訳ありません」
王国にとっては喜ばしいことなのだろうが、いかんせんタイミングが悪すぎる。婚姻式まであと四か月を切り、大きな山場を越えたとはいえ未だ不穏な動きは続いており気が抜けないのだ。そこに出席者の変更は警備の観点からも手間がかかるのが判っていた。
身内の不手際に謝るアイシャをジルクライドが机から立ち上がって抱きしめる。熱い抱擁は一分ほど続き、硬い身体を抱きしめ返していたアイシャが思わずほっと息を吐きだすと黒の皇子は小さく笑って解放した。
「お前から元気をもらったから大丈夫だ。すまないが王国側の調整は任せていいか? 皇国が連絡するよりお前の方が速いだろう?」
アイシャとスティルグラン侯爵の伝手は皇国でも健在だった。話したことはないが知られているだろうとは思っていたのでそれほど驚くことはなく、その程度で済むのならとアイシャは快く承諾する。
「第一王子はもともと呼ぶつもりはなかったが、お前の義妹の取り扱いはスティルグラン侯爵と話し合っていたとはいえ正直面倒だったからな。逆に懸案事項の一つが減ったと思えば大した手間じゃないぞ」
義姉の婚約者を寝取った妹の取り扱い……たしかにそんな前例はなかっただろうとアイシャは遠くを見た。それと同時に自分は自覚していた以上にジルクライドに守られていたと悟り頬が熱くなる。それを目敏く見つけたジルクライドが熱い指で耳の外側をなぞると、低く艶のある声が耳元でつぶやいた。
「察しのいい女性は好きだが、鈍感な女性も嫌いじゃない。結局俺はお前であればなんでも良いんだろうな」
腰に手をまわしたまま実に楽しそうにつぶやく声に照れる半面呆れながら、徐々に慣れてきた抱擁に体の力を抜くとさらにきつく抱きしめられる。それが心地よくて離れがたい気分のまま、アイシャはポツリとつぶやいた。
「わたくしたちの婚姻式の招待状を見たエルシャが日程を決めたそうです」
ふわりと香るジルクライドの香水の匂いは、男らしい彼にしては甘めで体臭と混じって鼓動を早くする。嗅ぎ慣れてきたことに気付くことなく、たくましい胸にそっと額を擦り付けたアイシャは懺悔するかのように話し続けた。
「わたくしがいなければ両親の愛情はあの子にすべて注がれたのでしょう。ドレスも好きなだけ仕立てられたのかもしれません。結婚だってもっと穏やかで優しくあの子だけを愛してくれる男性とできたはずでした」
長い間婚約者だったアイシャはネオンハルトがどのような男性か判っていた。判っていて王子妃になることを決めたのだ。養父には王族になるだけが王国の地位向上の方法ではないと説得されたが、この方法が一番手っ取り早かったのは事実である。アイシャが王子妃以外の道を選んでいたら、もしかしたらエルシャはネオンハルトの目に留まらなかったかもしれなかったのだ。
「わたくしがあの子の人生に影を落としてしまったの。それなのにここまで憎まれていたのかと、今更傷ついているのです」
弱音を吐くアイシャを抱きしめたままジルクライドは黙って話を聞いていたが、やがてそっと体を離すとあごに手をかけて上向かせ青い目を覗き込む。
「お前は悪くない。俺もアクロイドに言われたが年長者とは少なからず嫌われるものだ。それに影のない人生を送っている奴なんてめったにいないぞ。お前にとっての両親や、俺の元婚約者も。そのたびに誰かのせいにして恨んでいたらそれこそ恨みつらみだけの人生になるんだろうが、選ぶのは本人だ。だからお前が傷つくのは仕方のないことだと俺は思うがな」
低い声で紡がれる慰めは傷ついた心をそっと包むように響く。甘やかされていて、さらに甘えていると自覚しているアイシャは、今さながらに抱きしめられ顔を覗き込まれるこの態勢に羞恥を感じて視線を迷わせていると部屋の隅から咳払いが聞こえた。
「殿下」
「アイシャが俺に甘えたんだ。少しくらい見逃せ」
「駄目です」
「ヒューズ」
「婚姻式の後ならいくらでもどうぞ」
頑固な側近と話している間に離れてしまったアイシャを仕方のなさそうに見送ったジルクライドは、去っていく華奢な背を見つめて楽しそうに笑ったのだった。もちろんそれを見ていたヒューズがあきれ顔だったのは言うまでもない。