婚約した令嬢は黒皇子を理解する
この物語はファンタジーでフィクションです。
婚約式の後、皇国の知識、社交、貴族の関係といったあらゆる情報を、まるで降り注ぐ雨のように与えられたアイシャはジルクライドの誘いなど眼中にない様子で必死になって身に着けていった。あまりにそっけないので邪魔をしていたはずのヒューズですら、わざわざ二人の時間を設ける程度には忙しかったのである。
どうやらその二人きりの時間にジルクライドは上手くアイシャの息抜きを手伝っているようで、皇妃、第三皇女、公爵夫人の助けを借りつつ勉強は順調に進んでいた。もちろん悪口や嫌がらせはあったが、社交をしていれば政敵や仲の悪い家からなど何度か経験するものだ。毒や暗殺といった殺意を感じるものはないのか、あってもジルクライドが秘密裏に処理しているらしく、恐怖を抱くことがないので平和なのかもしれない。
それでもやはり騒動というのはおこるもので。
「貴女にお兄様の妃は務まらないわ!」
とうとう捕まったと表情に出ている護衛騎士の前で、アイシャは突然走りこんできた少女に驚いた。
「リスティラ殿下。ごきげんよう」
それでも一度式典であいさつをさせてもらっていた皇女にゆっくりと声をかける。皇妃譲りの金髪に皇王と同じ濃茶の目を持つ可愛らしい少女は、怒りに目を吊り上げながら睨み上げた。
「貴女が国に帰らないから機嫌なんか良くないわ。カテリーナお義姉さまの代わりなんて田舎者の貴女にできるわけがないのだから、早く逃げ帰りなさいよ! お兄様はカテリーナお義姉さまを愛しているんだから!」
仁王立ちで人差し指を突き付ける少女は大変勇ましい。まだ15歳ということもあって、妹は年子のエルシャしかいなかったアイシャにはとても可愛らしく見えてしまう。王妃教育ゆえに淑女学校に通えなかったアイシャは、年下の義妹の話を微笑みながら聞いていた。
「カテリーナお義姉さまは美しくて、優雅で、優しくて、賢くて、常に正しくて、ダンスもお上手で、声も柔らかくて、綺麗なエメラルドの瞳で、さらさらの銀髪で、完璧な淑女だったんだから!」
リスティラの言葉を周囲で聞いていた侍女や護衛騎士はそんな完全人間などいないだろうと思っていたが、アイシャは一つ一つうなずいて相槌を打つ。
「そう、そんなに素敵な方だったのね」
「それにお兄様と並んで立つと黒髪と銀髪が完璧な一対で、ダンスなんて誰もが目を見張るくらい完全なステップを踏むのよ! 貴女のようにお兄様を振り回すような下手なダンスは踊らなかったわ!」
正確にはジルクライドのダンスの悪癖が出ているだけでアイシャに至っては毎度付き合わされる被害者なのだが、ついていけずにフォローをさせてはいた。だからそれを知らなければリスティラのように思うのは当然かもしれない。
「そうね。本当に普通のダンスを踊りたい」
ちょっとだけ遠くを見ながら言った言葉に、リーサや護衛騎士が頷いてくれるのが救いかもしれない。
「カテリーナ様のダンスが見たかったわ。ジルクライド殿下と踊られたら、さぞかし素敵だったのでしょうね」
「そうよ! とくに『聖者の祭典』は本当に綺麗で、お兄様も格好良くて、二人とも息ぴったりで、すごくお似合い……だった、の」
そこでリスティラの頬にポロリと涙がこぼれた。あっと思う暇もなく皇女は袖で涙を拭うと、再び人差し指を突き付けて怒りに声を上げる。
「だから早く婚約を解消して田舎に帰りなさいよ! 貴女みたいなマナーのなっていない人なんて、この国にはいらないわ! ディザレック皇国は大陸一大きな国なのだから」
言いたいことだけ言うと現れた時と同じようにあっという間に走り去った。別れのあいさつや、転ばないように気を付ける言葉すら言う暇もなく、嵐のように過ぎ去った皇女を見送ったアイシャは何事もなかったかのように歩き出す。
「何も言わないのか?」
それなのに自分たちしかいないはずの廊下にジルクライドの声が聞こえて、アイシャはきょろきょろと周囲を見回すもその姿はない。困って護衛騎士に視線で尋ねると、この間娘が生まれたのだと笑っていた彼は天井を指示した。
「殿下?」
「ジル、だろう」
廊下を外れ庭に出て二階を見上げると、上の廊下を歩いていたらしいジルクライドが窓枠に肘をついて笑っていた。
「ジル様。盗み聞きははしたないですよ」
少し遠いので声を張って答えると皇子は下に降りると言って姿を消し、しばらくして再び現れた男は自分の婚約者を散歩に誘って庭へと連れだした。
「お前なら自分以外の誰が婚約者になるのか、くらいは言うかと思ったが」
先ほどまでの話の続きに、アイシャは少女と女性の狭間にいる元気な皇女を思い出して小さく笑う。
「リスティラ殿下は判っておられます。それでも言いたいのでしょう。私にも覚えがありますもの」
今は正装ではないため、重ねられた手はお互いのぬくもりを伝えていた。自分より高い体温に安堵を覚えながら、身に覚えのある感情を懐かしく思い出す。
「両親を亡くした後、引き取ってくれた養父母にわたくしも同じようなことを言ったのです。『お父様はもっと優しかった』とか『お母様はもっと抱きしめてくれた』とか。悲しくて、寂しくて、不安で、家族として愛してくれているのは判っていましたけれど、違いがどうしても許せなくて。父と母はもういないのだと納得するまで随分と養父母を傷つけてしまいました。同時にわたくしに掛かりきりだったためにエルシャにも寂しい思いをさせていたのです」
暖かな日差しが降り注ぐ庭をゆっくりと寄り添って歩きながら、ジルクライドは黙って話を聞いていた。
「悲しみを吐き出す手段は人それぞれ。悲しみを癒す方法も人それぞれ。リスティラ殿下は一番近しい他人であるわたくしに感情をぶつけることで、悲しみから逃れようと必死になっていらっしゃるのではないでしょうか」
同じ悲しみの中にいるであろう第一皇子や、皇王、皇妃である両親にはぶつけられなかった想いを、忘れたくないと訴えているようにも見えたのだ。
「それに正直に言いますけれど、誰もわたくしにカテリーナ様のことを教えてはくれないのです。貴方を含めて皆、当たり障りのないことばかり。ですから今日、リスティラ殿下にお二人の様子を聞くことができて嬉しかったのですわ」
少しばかり溜まっていた不満を打ち明けると、頭一つ分高い位置から不思議そうに見降ろしてくるジルクライドが足を止める。
「そういったことは普通聞きたくないのではないのか?」
「そうなのですか? わたくしはカテリーナ様をお手本にしようかと思っていたのですが」
「つまりアイシャ様はジルクライド殿下とカテリーナ様の話を聞いても嫉妬しないということですよ」
突然入ってきた第三者の声に振り返ると、いつものように書類を手にしたアロイスが歩いてきた。宰相補佐官という役職ゆえに普段は見かけない彼は、出会ったころには考えられないほどにこやかな笑みを浮かべて話を続ける。
「その代わり殿下はアイシャ様の元婚約者の話は聞きたくないようなので、話さないでやってくださいね」
銀髪をさらりと揺らして告げるアロイスをジルクライドは睨み付けた。
「余計なお世話だ。何をしに来た」
「この後の宰相閣下との会議がなくなりました。こちらの手違いでしたので、お詫びをしに」
優雅に頭を下げる青年を睥睨するジルクライドだったが、何かを思いついて視線をアイシャに向ける。
「この後は何か予定が入っていたか」
「皇家の歴史書を復習しようと思っておりましたが」
ああ、あれかとでも言いたげな顔をした皇子はしばらく考えた後、リーサに指示を出した。
「今から城下に出る。アイシャの用意を」
その一言で周囲が一斉に動き出すと、アイシャは訳も分からぬまま質素なワンピースに着替えさせられ、帽子とポーチを持たされて馬車へと放り込まれる。中にいたのは同じく質素な服を身に着けたジルクライドが慣れた様子で待っていた。その姿は茶色のズボンに生成りのシャツ、深緑色のジャケットを羽織り前髪を下した姿だが、にじみ出る高貴さはまったく隠せておらずお忍び感は満載だ。それでも何事もなく出発した馬車の中で貴族子息に扮した黒の皇子は前置きなく実に楽しそうに言った。
「王国から来た侯爵令嬢のわがままに振り回されて、俺は政務を放棄しているらしい」
「…………それは、わたくしのことでしょうか?」
「俺をわがままで振り回すことができるのはお前だけだな」
なぜか自慢げに返されてアイシャは困惑する。
「ちなみに紙やインクを大量に用意させたり、皇国の年代史を原本で見たいといったことはわがままじゃないぞ」
頭の中で考えていたことを言い当てられて途方に暮れると、ジルクライドは楽しそうにニヤニヤと笑って説明した。
「この噂は平民の中から発生した。噂の元を流した奴はいるが、まったく根拠のない話でもないからうまく収まらなくてな。だから少し付き合え。お前にもこの国を見せてやりたい」
わざとはぐらかされているのだろう。噂の根拠を説明しようとしない男を眺めてから、アイシャは諦めて付き合うことにした。この格好ならば城下に降りるのだろう。付き合えば噂の収拾も付くようだし根拠も見えるはずだ。
それに何より『お前にもこの国を見せてやりたい』と言った時の、子供が宝物を自慢するようなジルクライドの顔がきゅと胸を締め付けて。
「楽しみです」
胸の内をそのまま言葉にすると、前髪を下ろしていつもより若く見える美青年が手を差し出して馬車の外へと誘う。
「ようこそ、アイシャ。ここがディザレック皇国皇都アンドルーズだ」
仰々しく一礼されて指し示すは白く優美な皇城を背景に数多の人々が行き交う広場だ。中央には創世神話に出てくる炎の竜と水の乙女をモチーフにした噴水がキラキラと光る。露店もあれば立派な店構えの店もあり、活気があって人々の明るい声も聞こえてきた。そのうえ歩くジルクライドにじつに気さくに声をかけてくる店主や買い物客などがいて、アイシャは驚いて婚約者を見上げた。
「お忍びという体は取っているが実質視察だな。治安がいいからまぁ、何度も見て見ぬふりをしてもらっている。このところ城下に降りる時間を削ってお前の所に行っていたらあの噂が立ってしまったわけだ。ああそうだ、俺のことはジルと呼んでくれ」
なるほど。今まで顔を出していた王族が婚約者を迎えたとたんに城から出なくなったとなれば、聞いた噂も納得できる。意図した者が一部を歪めて最初の噂を流せば、それはアイシャを貶めるままになるだろう。
「ジル様、お久しぶりですね! お元気そうでなによりですわ」
恰幅のいい食堂の女将がわざわざ外に出てきて声をかけると、ジルクライドはアイシャを連れて彼女と立ち話を始めた。
「婚姻式が近くて忙しくてな。女将も元気そうでなによりだ。紹介しよう。俺の婚約者で、今全力で口説いている最中のアイシャだ」
紹介された直後は値踏みされるような視線を受けたが、ジルクライドが口説くと口にした時点で女将は信じられないものを見たように目を丸くする。
「ジル様の婚約者なんだろう? 口説く必要があるのかい? これだけのいい男なんだ。そんなことをしなくてもお嬢さんは好きになるだろうに」
「残念ながら彼女はまだ政略結婚だと思っているんだ。俺は愛しているんだがな」
これまた驚いた表情でアイシャを見る女将とどこかわがままな子供を見るような視線を向けてくるジルクライドに、ひるんだアイシャが反論した。
「初めて会ってまだ一か月ですよ。慣れるので精いっぱいなのです」
なるべく砕けた口調で話すアイシャを、甘く溶けるような眼差しで見守るジルクライド。女将は二人の様子をみて、今日は驚いてばかりだと言葉を続ける。
「だけどジル様だよ? あんたは一目見て好きにならなかったのかい?」
確かに言葉通りジルクライドの方がアイシャを好きでいるように見える。これはどう見ても戸惑う女性に恋い慕う男性の図だった。
「緊張の方が先に立ってしまって、そんな甘い感情を持つ余裕もありませんでした」
「はー、そんなお人もいるんだねぇ。それで今日連れてきたのはあの噂のせいなんだろう?」
「察しのいい女性は好ましいよ。ねつ造する必要はないから、感じたままを話してくれ」
年上の女性には礼儀正しい男が時間だとアイシャの腰を抱いて、女将に片手を上げてあいさつすると移動を始める。道には様々な店が並びここは装飾品を扱う店が多いとか、お茶を扱う店ならあそこがいいとか、新しくできた隣国の菓子店はそこだとか、ジルクライドの道案内はアイシャの好奇心を満たした。
一度では覚えきれないが、それでも店の店員も買い物客も皆が明るい表情で二人を通り過ぎて行った。若い女性が一人で歩いていたり、子供が母親から手を離していても不安な様子もない。それだけ皇都は治安が良く、国が安定していて、統治者の手腕が優れているのが判る。様々なものに目を奪われているアイシャを連れて、ジルクライドは花屋に声をかけていた。若い娘が営むその店には色とりどりの花が売られていて、顔を赤く染めた売り子に花を指定して花束を作ってもらっている。
「時間があればもっとゆっくり見せてやりたかったんだが、これからもう一か所行く場所がある」
出来上がった花束を受け取ってお金を払うと、庶民の市場的な通りを抜けて先ほど乗ってきた馬車が停車している道まで来た。いつの間にか背後にいたローウェルがドアを開けて乗り込むとゆっくりと動き出す。
「殿下。ヒューズよりオルグレン公爵への連絡は済んでいるとのことです」
騎士服のローウェルはいつもの真面目な表情で報告すると、足を組んで隣に座っていたジルクライドが目を合わせぬままポツリと言った。
「オルグレン公爵家の霊廟に向かう」
途切れた言葉は力なく響き、男の傷を浮かび上がらせると無言のまま馬車は進んだ。やがて立派な門をくぐり屋敷の前に止まると、ジルクライドのエスコートを受けて馬車を降りる。石造りの建物は窓が小さくて堅牢さを醸し出し、皇国でも三番目に古い家柄故に大国と呼ばれる以前の建物の様式を残しているのだろう。それでも丁寧に手入れされている庭やよく磨かれた窓やドアはどこか落ち着いた雰囲気で、出迎えていた初老の執事が恭しく裏庭へと案内した。
しばらく歩くと木々に囲まれひっそりと隠れる霊廟と、入り口には壮年の男性が表情を崩すことなく待っていた。
「皇太子殿下、お久しぶりにございます」
ひげを蓄えた男性の堅い声にジルクライドがうなずく。
「参ってもいいだろうか。カテリーナと約束がある」
手に持った花束を掲げながら許可を取り促されるまま墓石の前に立つと、ジルクライドは白い花ばかり集められたそれをそっと置いた。
「彼女が私の妃となるアイシャだ……俺は彼女とこの国を支えていく。お前はゆっくり眠るといい」
墓に向けられた言葉は後ろに控えていたオルグレン公爵やローウェルにも聞こえていた。低いが聞き心地のいい声は優しく語り掛けるように淀みなく言葉を紡ぐ。
「お前の病を治してやれなくてすまない。何もできないということが、こんなに苦く感じたことはなかった。そして婚姻のドレスを着せてやれなかったことも、最期に顔を見ることができなかった事も後悔している……すまなかった」
謝罪が風にちぎれるように繰り返される。
カテリーナは数年前から体調を崩していたらしい。一時期は体の弱い者に皇妃は務まらないと婚姻を反対されていたらしく、本人の努力と周囲の協力により健康を取り戻して式を挙げるまで漕ぎつけたのだが、急激な体調悪化から一か月もしないうちに亡くなってしまった時はジルクライドですら呆然としていたと銀髪の侍従が語っていた。
『俺にできないことは少ないな』
一見傲慢にも聞こえる言葉は皇太子の自信の表れだと思っていたが、ジルクライドの気持ちを知ればそれは大国の皇太子であってもできないことが絶対にあるという戒めに変わる。後悔や無力さを隠して立ち続ける強さは孤独と同義語で、そして孤独を癒すため約束に縋るしかない彼の心の弱さを知ったアイシャの胸に切ない痛みをもたらした。
しばらく無言で立ち尽くしていたジルクライドが公爵の元へ歩いて行くと、娘を失った父親が深く一礼する。貴族の間では嫁ぐまで娘の管理は親の責任であり、今回カテリーナが死んだのはオルグレン公爵の落ち度と考えている者が多かった。その為皇子は亡くなった婚約者に謝罪することができなかったのだ。だからこそのお忍びの訪問で、必要最低限の護衛で想いを口にするのが精一杯だったのだろう。
「それで。クリスティーナ嬢を娶れなどと不自然な理由で呼んだわけは?」
下位貴族の装いのジルクライドが前を歩き、上質な衣装を身に着けた公爵が後を追いながら顔をしかめる。
「不自然でしょうか? クリスティーナはまだ成人しておりませんが、礼儀も知識も大人に負けません」
本気で思っているらしい公爵に馬車へと向かっていたジルクライドは足を止めて、二人の後ろをついてきていたアイシャに言い訳めいたことを言った。
「クリスティーナはカテリーナの妹でまだ十三歳だ。本気にするなよ?」
「殿下が不自然などというのが悪いのですよ」
娘が可愛くてしかたのないらしい公爵は冗談とも本気ともつかない様子で答えていたが、建物の陰に入ったところで声を低くする。
「どうやら皇都に『ラナティルの媚薬』が持ち込まれたようです。万全を期しているとは思いますが、どうかお気を付けください」
裏の情報を取り扱うことに長けている公爵がわざわざ忠告をしてきた事実は、ジルクライドが首をかしげるものであったらしく、しばらく思案した後礼を言って帰路に就いた。
「殿下?」
出迎えたヒューズも様子のおかしい主を案じるが、アイシャとローウェルには心当たりがなく首をかしげるだけだ。
「少し話し合いをする。アイシャも着替えたら俺の執務室へ」
護衛騎士が後ろについたのを確認してから別れたジルクライドの背をじっと見つめるが、今は情報不足だと諦めて自室へと向かい着替えると、珍しくアロイスがアイシャを迎えに来た。
「城下はいかがでしたか?」
日が傾いた廊下は赤く染まり、眼下では帰宅する者や今から出勤する者が入れ違いに歩いている。背後の護衛騎士も間もなく交代の時間で、皇城のどこか落ち着かない空気の中を二人は目的地に向かって進んでいた。
「活気があって素敵な街でした。何より殿下の自慢げな顔が一番印象に残っておりますわ」
「ははっ、自慢げでしたか」
「ええ。自分の国を愛し、誇りに思っているのがよく判りました。未来の皇王がそのような考えを持つことのできるこの国が羨ましくなります」
王国の王族を含めた多くの貴族が皇国や聖王国を好んでいた。自国の文化やしきたりを嫌い、古く格好の悪いものであるという風潮を止めることはできないだろうと養父は嘆いていたのだ。確かに歴史は皇国や聖王国に比べれば浅いが、それでも風土と国民性にあった独自の文化を築いてきたはずだったのに。
「第一王子は自分の国を誇りに思ってはおられなかったのですか?」
言葉の裏にある事実を察して厳しい質問をしてきた男に、小さく笑いながら無言で肯定を返すと不意にアロイスがつぶやいた。
「人の力では止められないものがあります」
前を向いた宰相補佐はアイシャを顧みることなく歩みを進める。
「私はジルクライド殿下の孫の代には、王国は我が国に吸収されると予測しております。ですがそれは貴女の責じゃない。街道の整備が進んで人も物資も行き来しやすくなり、文化も思想も混じり合いました。王族がそれをよしとしたのならそれは時代の流れなのです。もちろん我が国もそうなるように仕向けたのでしょうが、国王が国民を見捨てて国から逃げた時点で王国は滅亡していたのですよ」
初めて会った時からごまかしのない言葉だけを告げていた青年は長い銀髪を揺らして振り返った。真摯な翡翠の目はまっすぐにアイシャへと向けられ、そして唐突にふわりと笑う。
「なによりアイシャ様が皇国の皇妃になれたならば、最も良い形で王国を吸収する素地になります。そう考えると今は分岐点だと思いませんか? 王国の文化を残すなら特に」
養父と同じ見方をするその男はアイシャが将来持ちうる地位と権力を使えるだけ利用しろと言っていた。
「そしてできるならばジルクライド殿下のお心に寄り添い、この国を殿下と同じように誇りに思っていただけるとありがたいと思っております」
未来の宰相はそう言って恭しく跪いた。恭順を示すそれにアイシャは笑って手を差し出すと、手の甲に口づけを落として再び歩き始める。
「……そんなに落ち込んでいるように見えましたか?」
気にしないようにはしていたし王妃教育で自分の感情を表に出さない訓練もしていたはずなのに、と自信を無くしていると、アロイスが可笑しそうに笑い続けた。
「いえ、まったく。それにアイシャ様は先ほどの言葉が慰めに聞こえたのですか? 私は貴女の生国がすでに滅亡していると言ったのですが」
確かに酷い言葉だ。アイシャや王国の一部貴族が守ろうとしてきたものがすでに無くなっていると言っているのだから。けれど――
「わたくしが失敗してもすでに滅亡しているのなら仕方がない、と思って気が楽になってしまいました」
王国の誇りと、皇太子妃としての責任の前に逃げ出したいと思ったことは数えきれない。緊張と重圧に食事を吐き戻すこともある。養父の理想も王国国民の地位向上もすべて捨てたいと思っては自己嫌悪に沈んでいた。
それらが一部、荷物を下ろしたように軽くなったのだ。アロイスの言う通りに遠くない未来、王国は皇国に吸収されるのだろう。その時、数代前に王国出身の皇妃がいたというだけで王国の役に立つというのなら、それで十分義務を果たしたといえないだろうか。
「ダンフォード様の言葉はいつも実直で納得できます。もしわたくしが何事もなく皇太子妃になれたなら、共に殿下を支えていってください」
一時しのぎでも軽くなった心のまま笑いかけると、繊細そうな美貌にからかうような笑顔を浮かべたアロイスは機嫌よく事実を口にした。
「アイシャ様。なぜ私に婚約者がいないか知っていますか?」
「いいえ」
「何らかの事情で殿下が婚約者と結婚できなかった時に、その婚約者をもらい受けるためです。今後何かがあり、アイシャ様が皇太子妃になれなかった場合は私と結婚することになるのですよ」
「何かがあった場合、未来の宰相閣下の妻にもなれないのではないのですか?」
「私の仕事に文句を言わせるつもりはありません」
たおやかな見た目と声で断言した青年はどことなくジルクライドに似ているように思える。優秀な人の周りには優秀な人が集うというが、それは過去を生きた人々の経験からくる事実なのだろう。そしてすべてはジルクライドのためにと動く彼らの忠誠心にアイシャは自分も負けていられないと身を引き締める。
「ですから貴女とは何があろうとも今後一生お付き合いしますよ」
宰相補佐の顔でにっこり微笑んだアロイスが皇太子の執務室のドアを開けてアイシャを中に入れると、その後姿を見て誰にも聞こえぬ声でつぶやいたのだった。