黒皇子、暴露する
この物語はファンタジーでフィクションです。
その部屋の主は黒髪に深い大地の色を宿した鋭い目を持つ美しい男性だ。けれど身体の逞しさと滲み出る尊大な自信、そして人の上に立つことに慣れた覇気は彼の美しさを霞ませ、逆に精悍さを際立たせている。理知的な光を宿す眼は相対する人間の嘘を許さず、発せられる鋼の声と言葉は聞く者を恍惚とさせた。
今部屋に集った腹心の部下たちにはあって当たり前の、なんら驚くことのない平常であったはずのそれで、ジルクライドは彼らの驚愕の眼差しを一身に集めていた。
「アロイス。これはどういう……」
「私に説明を求めないで下さい」
我関せずを通しながら彼の目はわざとらしく手元の書類に注がれている。こうなるのが判っていて持ち込まれたらしいそれは、補佐官の精神衛生に一役買っているのは間違いない。
ディザレック皇国の皇太子執務室に集められたのは補佐官アロイス・ダンフォード。専属護衛騎士ローウェル・プレイステッドと部下のウェイド・バーギン。秘書官のニックス・ヤーノルドとグレン・パストン。そして侍従のヒューズ・ダンフォードだ。
ジルクライドの言葉の意味をアロイスに聞いたのは兄のヒューズで、他四人は声もないほど驚いていた。
いつにない部下の様子に、国境から帰還したばかりだというのに疲れた様子も見せない黒の皇子はニヤリと笑って先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「俺はアイシャ・スティルグランを愛している。お前たちもそのつもりでいてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください。彼女はお飾りの皇太子妃になるはずでは……?」
おそらく一番動揺が激しい秘書官のニックスが金髪に碧眼という、いかにも貴公子らしい容貌を歪めて自分が仕える男に聞いた。
「なる、かもしれないとは言ったな」
数日前にも聞いた言い訳を再び耳にしてアロイスは手元の書類にしわをよせる。
「そして帰国してから、知識も社交も合格点で将来皇妃を務めるのに不足はないという話も伺いました。また婚約破棄も令嬢に責任はなく、仮面夫婦にならずに済みそうだともおっしゃっておりましたね」
この中で一番高位なのは発言したヒューズだ。公爵家の次男である彼はジルクライドより年上で、皇太子領を代理統治しながら公私共に皇子の補佐を務める腹心中の腹心である。その彼が言葉と共にすっと膝を折り恭順の礼を示して頭を垂れた。
「かしこまりました、我が主。殿下の望みは我らが望み。すべては殿下の御心のままに」
言葉と同時に部屋にいた男たちが全員倣ったように跪く。満足そうに笑ったジルクライドは執務机から立ち上がり、彼らの前に回ると見下ろしながら机に寄り掛かった。
「ああ。頼むぞ」
ジルクライドの言葉は少ないが、彼らの間に流れる確固たる信頼は言葉を必要としない。忠誠を示す言葉も同じだ。それでも示されたそれは彼らにとって自然なものなのだろう。
「ですが」
立ち上がったヒューズはアロイスとはまた異なる銀髪緑眼の美貌に笑みを浮かべると、まったく笑っていない目で主たる黒の皇子を見つめた。
「一応薬の類や、おかしな暗示にかけられていないか調べてみましょう。いくら殿下が常人とは異なるとはいえ、人であることには変わりないですからね。万が一ということもあります。配下の心の安寧の為にもご協力下さい」
「…………俺はそんなにおかしいか」
まったく信用していない腹心の言葉にうなだれるジルクライド。
「おかしいと判らない時点で問題ですよ」
重要書類を眺めながら二人を直接見てきたアロイスがぼそりとつぶやく。
皇太子の検査のために慌ただしく立ち働く侍従ヒューズと秘書官二人が部屋を出てから、なにやら悩んだ様子のローウェルと青い顔のウェイドが近づいてきた。
「殿下。申し訳ありません」
なんの前置きもなく頭を深く下げて謝罪する二人をジルクライドは表情を変えずに見下ろす。頭を上げる許可が出ないため、ローウェルは頭を下げたまま謝罪の理由を口にした。
「私は殿下のお気持ちを確認することなく、スティルグラン侯爵令嬢に事実とは異なる言葉を放ってしまいました」
「顔を上げろ。彼女になんと言った」
平時と変わりない声に固い顔の騎士はまっすぐに主を見つめて、何も躊躇うことなく答える。
「貴女は殿下に愛されることはない。それが嫌なら国に帰れ、と」
愛すると宣言した女性を侮辱されたジルクライドだが気配は揺るがず、腕を組んで自分より背の高い護衛騎士の顔を見た。
「それで? アイシャはなんと答えた」
「自分が王国に帰ったら誰が皇太子妃になるのか、令嬢の立場に立って考えて話して欲しい、と」
そこで初めて怒気が室内に流れ出す。ジルクライドの冷気に似たそれが自分たちに向けられていると思ったらしい二人は、それでも直立したまま沙汰を待った。異様な空気に執務室に戻ってきたヒューズがアロイスに視線で伺うと、同じく視線で待てと返ってくる。
そして、しばらく沈黙していた皇子は怒る気配をきれいに消すと机に戻りながら言った。
「ならば俺が言うことはなにもない。お前の考えと言葉についてはアイシャが対処するだろう。ただし勝手な憶測で動いたことについては厳重に注意する。二度とするな」
口頭の注意だけに留まったそれに二人の肩から力が抜ける。アロイスはヒューズに簡単に事情を説明してから、そういえばと首を傾げた。
「殿下はアイシャ様の言葉が気に入らなかったんですか?」
ローウェルではなくアイシャの言葉で怒ったように思えて、どこに気に入らない要素があったのかと不思議がるアロイスにジルクライドは不貞腐れたように答える。
「否定すると思ったんだ。俺に愛されていると宣言したのではと期待もした」
「それは保留になっていたはずでは? アイシャ様から聞きましたよ。殿下が急ぎすぎるので待ってほしいとお願いしたと」
「保留にしていたのはアイシャの気持ちだ。俺が彼女を愛しているということは知っているはずだろう」
「…………のろけてもらいたかったんですね」
すでに数日早く皇太子と婚約者のそばにいたアロイスが的確にジルクライドの感情を読むと、お茶を持ってきたヒューズが青ざめた。
「私には本物の殿下に見えますが……まさか偽物に入れ替わったなんてことは……」
目の前の受け入れがたい現実に狼狽えるヒューズという珍しい光景を見ながら、アロイスはそれも仕方のないことだとあきらめる。
「兄上。この程度で狼狽えていてはお二人が一緒にいるところなんて到底見ていられませんよ。これはもう恋をした殿下も一人の男だったと納得するしかありません」
なにやら恥ずかしいことを真顔どころか呆れ顔で宣言した宰相補佐官は、右往左往している同僚たちを見ながらアイシャに会うための注意事項を教えようと決めたのだった。
「明日、皇王陛下に謁見する」
夕食を共にと誘われて落ち着いた雰囲気のダイニングでアイシャと共に食事をとっていたジルクライドが、ありふれた話から話題を変えた。
「かしこまりました」
「それから皇妃陛下とお茶会だ。俺も共に出席するから心配するな」
「はい」
「ドレスは用意してある。気に入ってくれるといいが」
「先ほど拝見いたしました。とても素敵なドレスでしたわ。わたくしにはもったいないくらいです」
「そんなことはない。俺の色を纏うお前は美しいだろう。明日が楽しみだ」
「……ありがとうございます」
考えうるすべての検査で正常だと診断を受けたジルクライドが機嫌よく食事をしている隣の部屋で、腹心五人が顔を手で覆ったり、壁に額をつけたり、難しい顔で目をつぶったりしながら各自自分の中で盗み聞きした現実を処理するのをアロイスは黙って見守っていた。
そしてこの手段は大変有効だったと思いついた自分を褒めながら、予想通りにアイシャを口説くジルクライドの執着が恐ろしくなる。この様子を見ると今までの女性への誉め言葉は完全に下心のない社交辞令だったのだとありありと判る上に、誰にでも同じ態度だったと思い当たって皆が複雑な気分になった。
「それと俺の側近を紹介しておく。入ってこい」
幾分早い皇太子の呼び出しに、けれど側近たちは各々精神を立て直して食堂へと入室した。挨拶を受けるアイシャが立ち上がるとジルクライドはわざわざ隣まで移動して腰を抱きながら紹介を始める。
「右から侍従のヒューズ・ダンフォード。専属護衛騎士ローウェル・プレイステッドと部下のウェイド・バーギン。秘書官のニックス・ヤーノルドとグレン・パストンだ。ローウェルはもう会ったらしいな」
リラックスした様子で紹介する男が面白そうに上からアイシャを見下ろしてくる。その様子からジルクライドの本心がすでに彼らに知らされているのだろうとアイシャは小さく頷いた。
「はい。侍女と護衛騎士の挨拶の時に」
「ヒューズはアロイスの次兄だ」
「お名前だけは存じております。父と母の葬儀に参列していただき、ありがとうございました」
当時のダンフォード侯爵や家督の長兄ではなく、まだ学生であったヒューズがスティルグラン侯爵夫妻の葬儀に参列したのは支援物資の運送に関わっていたからだ。それでなくとも国境を越えて私兵を送り込んだダンフォード家に対して王国と皇国からも非難が集まっていた時期で、社会的に地位のある人間が参列することができなかったとアイシャは聞いている。
美しい姿勢であいさつするアイシャにヒューズは一歩前に出て、その緑色の鋭い目を和ませるとそっと手を取り口づけた。
「あの時の小さなアイシャ様は大変ご立派でした。そして今も大変美しくなられましたね。殿下が手に入れたくなる気持ちがよく判ります。殿下は多少強引なところはありますが誠実な方です。どうぞよろしくお願いします」
そう言って優しく微笑むヒューズの後ろで、虚ろな目で遠くを見る弟が一人。アロイスはヒューズがジルクライドへの意趣返しに、わざとアイシャの子供のころの話を出したことに気づいていた。あまりジルクライドを煽らないで欲しいと思うのは大げさではない。まるで理性の塊だったこの男が欲望を抑えきれずにいることを、側近たちに周知しなければならないとアロイスは心に刻んだ。
「スティルグラン侯爵令嬢。先ほどは大変失礼しました。私の勝手な見解で心無い言葉をお聞かせしてしまったことをお詫び申し上げます」
そして次にローウェルが潔く謝罪すると柔らかな表情で首を傾げたアイシャが話を続ける。
「いいえ。カテリーナ様が亡くなられてまだ日が浅いのですから、プレイステッド様のように思われるのは当たり前です。貴方様の立場に立って考えてみたら、わたくしのような今まで名前すら聞いたことのない者が皇太子殿下の婚約者になるなんて不安でしかありません。ですからわたくしはこれから皇国の皆様にわたくしを知ってもらうことから始めればいいと知ることが出来ました。どうでしょう?」
「はい。私も貴女のことをよく知っていきたいと思います。そして私もいろいろ考えましたが、まず一番に思ったのは貴女が皇太子妃にならなければ皇国は荒れるのだということです。ただし、貴女がここに残っても御身を狙われるということでもあります。そこまで予測されているご令嬢が婚姻を決断するにはもの凄い覚悟が必要だったはずです。ジルクライド殿下の御心を知り、貴女の決断を知った今、私にできることはお命を守ることだけですから、これからは殿下同様にアイシャ様をお守りいたします」
そう言って膝を付き淑女への騎士礼をとるローウェルにアイシャは驚き固まった。嫌われて追い出されそうになっていたはずが、急にどうしてそこまでの忠心を見せるのか理解できなかったのだ。おろおろと視線を迷わせたアイシャに次に控えていたウェイドが丁寧に頭を下げる。
「この男は若いながらも皇国で五本の指に入る強者ですが、何事も単純に考えることが多くて私が彼の手綱を握って制御しております。そして彼の中ではアイシャ様が守護すべき尊き方と位置付けられたのでしょう。どうかこの男の忠誠を受け入れてやってくれませんか」
そこまで言われて何もしないわけにはいかないだろうと、アイシャは淑女の礼を返して微笑んだ。
「どうかよろしくお願いします、ローウェル様」
爽やかな笑みと共に嬉しそうに立ち上がった彼が人懐っこい大きな動物に見えたのは気のせいだろうと説明した騎士を見ると、彼はやれやれと一息ついて再び頭を下げる。
「私は皇太子殿下専属護衛騎士ウェイド・バーギンと申します。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
ウェイドが挨拶を済ませると秘書官のニックス・ヤーノルドが美麗な顔に麗しい笑みを浮かべてあいさつした。
「殿下の直属の部下となりますニックス・ヤーノルドと申します。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。侍女のリーサには大変お世話になっています。素敵な妹さんですね」
「少しおてんばな妹ですがアイシャ様の手助けになれば幸いです」
金髪に青い目の彼は華がある。ジルクライドよりは体が薄いが、柔らかな物腰と上品な口調が女性の人気を集めるので、情報収集係も兼ねているのだそうだ。これは優秀な侍女談。『意外と腹黒いのでジルクライド殿下と気が合うのですわ』と笑う彼女と似た微笑みを浮かべられて、血の繋がりを感じたアイシャは羨ましく思ってしまったが。
そして最後はこの国で一番多い茶色の髪と華奢な体、茶色の目という人の記憶に残りにくい容姿の小柄な男性だった。
「グレン・パストンと申します。私も殿下直属となりますので、お見知りおきください」
人畜無害そうな彼は会釈をするとすぐさま元の位置へと戻っていった。
「他にもいるがその都度紹介する。今日は疲れただろうから部屋まで送ろう」
機嫌よく笑ってエスコートするジルクライドと優しい微笑みを浮かべたアイシャが退室してから、アロイスを取り囲むように側近たちが集まる。まるで秘密談義の様相だが、皆が一様に真剣で誰もからかう者はいなかった。
「他にアイシャ様と殿下について俺たちが知っておくべきことはあるか? アロイス」
年長者のヒューズが取り仕切り全員が注目する中で、指名されたアロイスは深くため息を吐きながら口を開いた。
「すでに唇は奪っております。しかも私の目の前で。おそらく私に妻も婚約者もいないのでけん制されたようです」
「それであれだけ睨まれたのですね」
ヒューズは狙っておこなった手甲へのキスの反応に納得する。
「では私は護衛につかないほうがいいかもしれませんね」
ウェイドが名乗りを上げれば、さらにローウェルが難しい顔でかすかに唸った。
「護衛の選定もやり直したほうがいいかもしれないな。見目が良い方が言うことを聞くだろうと思って選んだから独身者が多い」
護衛騎士二人が出した問題点にさっそく対応する指示をヒューズが出すと、色男ニックスが何かを思い出しながら小さく手を挙げる。
「もしかしたら、なんだが、アイシャ様のうなじにキスマークが付いてなかったか?」
お前よく見てるなぁという同じ視線が一斉に向けられて、ニックスは苦笑しながら経過を知るアロイスに目を向けると、彼はしばらく考えたのちに心当たりがあるような顔をした。
「あの時だ。ダンヴィルの兄妹が殿下を待ち伏せていて、カテリーナ様について言われた殿下が落ち込んでいるようだったからアイシャ様と客間で二人きりにさせた時だろう。ここに着いた時だって皇太子妃の間に連れ込もうとしていたくらいだからな。我慢が効かなかったらしい」
「凄い独占欲ですね」
面倒くさそうなグレンの言葉に全員がすぐさま同意した。
「救いなのは婚姻式が半年後とすでに決まっていることでしょう。とにかく初夜まで純潔でいてもらわないと」
皇国の皇族が脈々と続いてきたのには訳がある。ごく一部しか知られていないその事実が、今はジルクライドの枷になっているのは確かだ。
「とにかく我々はいつも通りに殿下の手足として動きます。失敗は許されません」
そう厳しく宣言したヒューズが不意に唇の端を小さく吊り上げて笑う。まるで堪えきれずに零すようなそれを見て、アロイスだけが失敗を悟ったように天井を見上げた。
「それでは、私は殿下をアイシャ様の部屋に迎えに行ってきます。安易に二人きりにはさせられませんからね」
実に楽しそうに発せられた言葉は、他人の恋路を邪魔する邪悪な企みにも聞こえて。それでもいつもより早く歩み去るヒューズを止められる者はここにはおらず、妻帯者の彼に任せるしかない側近たちは自分たちの主の機嫌が損なわれないことを祈るのみであった。
「母上。私はアイシャのことを愛しております」
皇王陛下との謁見は形式通りに進み、この婚約を進めている皇王と皇太子のいる場で、まるでアイシャを歓迎しているかのようにつつがなく終えることができた。皇王はジルクライドが年を取ったらこうなるであろうと確実に血のつながりを感じさせる男性で、緊張していたアイシャは無事に終了したことに安堵していた。
そして一息つく間もなく連れてこられたのが、皇妃がいるこの部屋である。
金髪に青い目を持つ皇妃は年齢を感じさせない愛らしく柔らかな女性で、席に着くなり堂々と宣言したジルクライドの言葉に目を丸くした。
「貴方らしくありませんね。まずはお茶を飲んで落ち着いてはいかが?」
勧められるまま茶器に手を伸ばし、アイシャは一口含んで目を細める。揺れた気配にジルクライドが気付いて見つめると、アイシャは嬉しそうに笑った。
「スティルグラン侯爵領のあるガルガイア地方のお茶です。子供の頃から飲んでいる懐かしい味で、とても美味しいです」
「隣国からの長旅で疲れたでしょう。場所が変われば味も変わります。少しでも安心してもらいたくて取り寄せました」
「あの時飲んだのもこのお茶か?」
王都のスティルグラン侯爵邸で出されたものかの問いに頷くと、ジルクライドはふっと笑いながらお茶の香りを楽しむ。
「お前が淹れたほうが美味い」
「ここまで高級な茶葉は使用しておりませんでした。このお茶のほうが美味しいですわ」
急な訪問で身分にあったお茶を用意していなかったと白状しても、楽しそうな男はそうか?と笑うだけで取り合わない。皇妃の用意したお茶を貶すような物言いにアイシャが青ざめると、皇妃は小さく笑ってから同じソファに座る二人を見つめた。
「心配していました。カテリーナが急に亡くなって、貴方を支え共に歩む最良の女性がいなくなってしまったと。そして私たちや重鎮たちが次の女性を選んでいる間に、貴方は自分で生涯を共にする女性を決めてしまったわ」
お茶を飲みながら昔を思い出しているような皇妃がテーブルにカップを戻すと、アメジストのイヤリングを揺らしながら小さくうなずく。
「カテリーナとの婚約は貴方が十歳の時。大人たちが良かれと思って決めたもの。でももう貴方は大人ですものね。自分のことは自分で決めるし、皇太子としてこの国を導いていく覚悟も責任もある。わたくしはそんな貴方の選択を支持します……というかジルクライド! 少し落ち着きなさい!」
皇妃の話の最中にもジルクライドの大きな手がアイシャの手を握り、指先にキスをしたりとせわしなく動いていた。アイシャは真っ赤になりながら逃げようとしていたが、もちろんその程度で離すほどジルクライドは甘くない。注意を受けた皇子は至極真面目な顔で、当たり前のように反論した。
「ですが母上。私たちはまだ政略での婚約で、今はアイシャを口説いている最中なのです。それに気づいたヒューズたちがことごとく邪魔をするようになったので、二人で一緒にいられるこのような機会を逃したくないのですよ」
「時と場合によります! 婚約者に恥をかかせるつもりですか」
「そうですね。羞恥で赤くなるお前を見るのは俺だけでいいか」
なにやら話の通じていそうで通じていないジルクライドの手がようやく離れ、顔を真っ赤にさせたアイシャが外面を取り繕って視線を上げると穏やかにほほ笑む皇妃と目があった。
「ごめんなさいね。助けてあげたいけれど、母としては息子の幸せが一番なのよ」
幸せの一言にアイシャは目を見張る。見慣れた者から見ても今の彼は幸せそうに見えるのだろうか。隣で優雅にお茶を飲むジルクライドを見上げて、初めて会った時から変わらぬ姿に小さく首を傾げた。
「ところで母上。私は両公爵家を相手取るので忙しいのです。リスティラのことはお任せしてもよろしいでしょうか?」
「あの子もあこがれていたカテリーナの死を悲しんでいるのよ」
「判っています。悲しむだけでしたら問題はありません」
しばし緊張感のある空気が流れたが、皇妃たる女性は同じく判っているとうなずいて美味しそうにお茶を飲んだ。
「貴方も公爵家に遅れは取らぬように。わたくし、嫌よ? あのような我儘な娘ができるのは。アイシャは真面目すぎるけれど、楽しい遊びはわたくしが教えてあげればいいだけですからね」
そう言ってにっこり笑った皇妃は、その麗しい顔に少し真剣味をのせて息子を見る。
「皇家の人間の厄介事はわたくしが処理しましょう。貴方は貴族連中を黙らせなさいな。その程度の権力は与えているはずだし、婚約者を他人の手からも守れない腑抜けた息子に皇太子は務まらなくてよ?」
ふわりと感じる威圧感は人を跪かせるほど強いものではないが、それ故に反発なく従わざるを得ないような気分にさせる。けれど向けられたジルクライドはそれをそよ風のように気負うことなく受け流し、余裕のある笑みを浮かべて立ち上がった。
「母上に気に入っていただけて良かった。もし反対されたら父から強引にでも皇位を譲ってもらわなければならないところでした」
それは皇妃が言った『他人』の中に自分の父母を含めるというけん制だ。ひやりと肝を冷やしたアイシャに対して、宣言された皇妃は軽やかに声を上げて笑う。
「良いわね、その執着心。本当に貴方は陛下そっくり。貴方の隣に立つ女性が、貴方の望む女性であることを祈ります」
ジルクライドの失われた婚約者は、ディザレック皇国の皇太子という権力を持ってしてもこの世に引き留められなかった。病による急死など二度とないように、そして人の生死という神の領域はこの世の誰であれ祈ることしかできないと言う皇妃もまたカテリーナの死を悼んでいるようにアイシャには見えた。