表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/22

黒皇子は捨てられた令嬢と約束を交わす

この物語はフィクションでファンタジーです。

 さすが平和を謳歌する皇国である。不穏な情報があったものの、あからさまに皇太子一行を襲う輩などあるわけもなく、無事に皇城入りすることができた。あの本音の密談から四日後のことである。途中、宰相補佐だという貴族が怒りながら大量の書類を馬車に持ち込み、皇太子に愚痴りながら仕事をさせていたことを除けば平和な道行だったといえるだろう。

 宰相補佐は皇子が仕事を終わらせずに城を出たことを愚痴っていたが、持ち込んだ書類はこの国を知るいい見本だったところをみると、どうやら急遽皇太子妃になったアイシャを少しでも教育するために合流したのかもしれない。腹心だと紹介されたジルクライドより年上の補佐は長い銀髪に緑の目の美麗な男性で、名はアロイス・ダンフォード。ダンフォード公爵家の三男で、ジルクライドの信認厚い人物だった。

 なぜなら合流した宿屋の部屋にて――









「彼女がアイシャ・スティルグラン侯爵令嬢だ」

「初めまして、スティルグラン侯爵令嬢。私はアロイス・ダンフォードと申します。今の役職は宰相補佐……というより、皇太子殿下の秘書のようなものです。殿下とは旧知の仲ですので多少厳しい物言いもあるとは思いますが、お気になさらずに。私としましては仕事を滞りなく行ってくだされば、どなたが(・・・・)皇太子妃(・・・・)になろうとも構わないと思っておりますのでご承知おきください」


 ジルクライドに紹介された彼はそう言って見目に違わぬ麗しさでニコリと笑ったのだ。なんとなく黒の皇子と呼ばれる婚約者が好みそうな性格だと思えたのはなぜだろうか。とはいえ彼の言い様をジルクライドも咎めないので、これが彼の率直な意見なのだと納得しアイシャは頭を下げた。


「かしこまりました。こちらこそよろしくお願いいたします、ダンフォード様。それと御父上のグリース・ダンフォード公爵様並びにダンフォード公爵家の皆様には、15年前に国境沿いで土砂崩れに巻き込まれた前スティルグラン侯爵夫妻の探索をお手伝いいただきありがとうございました」


 そういって緩やかに礼をとれば、アロイスは少々面食らったような表情をその整った顔に浮かべる。


「探索に私兵を貸して下さったばかりか、見つかってからも両親の身を整えてから会わせるとご配慮下さったと養父より聞いております」

「アレは父が勝手に飛び出していったのですよ」

「ですが属国の侯爵の救助に手を貸して下さったのはダンフォード家だけでございました。悪天候の中の探索で、遺体は見つからないかもしれないと養父は思っていたそうです。そして大雨と当主を失って混迷していた領内に救援物資を届けて下さったのがダンフォード公爵家のご子息様だったと聞いております。本当にありがとうございました」


 もう一度頭を下げたアイシャの手を取ったジルクライドがからかうような目でアロイスを見た。


「そんなことがあったのか?」

「まぁ。後から事故の間接的な原因が小麦の輸出に関する特使の悪行だったと判明して、褒美として我が家はなりたくもない公爵家へとなってしまったのですよ」


 涼しい顔で本音をこぼしたアロイスに心当たりがあった皇太子が楽しそうに笑う。


「ああ、陛下が25年前に潰した公爵家の代わりを探していて丁度いいと喜んでいたな」


 それを聞いてアイシャはしばらく黙ってしまう。アロイスの様子から感謝より謝罪が必要なのではないかと考えたのだ。どうしようか迷っているのを見てジルクライドが腰を引き寄せて耳元で囁いた。


「気にするな。あいつの家柄が上がったのはこの国の事情だ。お前の感謝は間違ってはいない」


 耳にかかる吐息に身を捩りながら、的確にアイシャの考えを読んだ黒髪の美丈夫の助言に胸をなでおろすと、あんぐりと口を開けて呆けているアロイスがいた。間抜け面だというのにその様子も様になっているのは美形だからだろうか、王国(うち)の第一王子とは違うのだとズレたことを考えていると、自国の皇子に向けていた視線をアイシャに向けてくる。

 一体なんなのかと首を傾げるアイシャ。事態を把握しているらしいジルクライドはにやにやと笑う。


「冗談でしょう? 殿下。彼女はお飾りの皇太子妃になるのでは?」


 本人を前にして失礼なことをズバリと口にしながらも、アロイスは事実の確認を優先したらしい。ジルクライドの大きな熱い手がいつの間にか腰から背中、首筋まで這い上り、アイシャの毛先をもてあそぶのを見て信じられないという表情を浮かべた。


「なるかもしれない(・・・・・・)とは言ったな。政略だが、そこに俺の気持ちが入るか入らないかは関係あるまい」

「関係ありますよ。貴方が本気なら、我々には心構えが必要です」

「そうか。ならば言っておく。俺は本気だ」

「やめてください。聞きたくないです。どうして一度国に戻った時に言わないんですか」

「俺も気が付いたのは数日前だからだ」


 ソファへと落ち着いた皇子が尊大な態度で足を組むと、落ちてきた前髪をサラリと撫で戻しながらアイシャを隣に呼んだ。隣に座れということらしいが、一応の礼儀として少し離れて腰を下ろす。それすらも細めた目で見下(みおろ)したアロイスは、初めの頃の無表情が嘘のように眉をひそめて大きくため息を吐いた。


「で? 面倒な連中はどうしている」


 臣下の悩みなど意に介さずに話を進めるジルクライド。視線でお茶を淹れろと言われたアイシャは話を聞きつつ三人分の紅茶を淹れた。


「どうして侯爵令嬢にお茶を淹れさせるんですか。侍女は? リーサ殿でしたら信用が置けるでしょう?」


 向かいのソファにようやく落ち着いた銀の補佐官がお茶を渡されて小さく礼をしながらも指摘すると、彼の主はお茶を飲んで一息入れてから唇をつり上げて笑う。


「アイシャの淹れる茶は旨いぞ。特別に飲ませてやろう」

「のろけと独占欲を見せつけないでください。面倒くさい主だ……今のところ、殿下に直接働きかける様子はありません。おそらくスティルグラン侯爵令嬢が皇城に入ってから手を出す予定なのでしょう。後ろ盾もなく、帰る家も他国で、しかもお飾りの皇太子妃に殿下の目もそれほど向けられないと思われています。一応サンドフォード、ワイラー辺りが息女を婚約者へと推薦してきておりますが、マクレガン、ダウズウェルも密かに動いている様子です」


 呆れた様子ながらもぺらぺらと書類をめくりながらアロイスは事務的な話を続ける。


「いずれもダンヴィル公爵家の派閥だな。あそこの令嬢は皇太子妃候補から落ちたというのに、まだ諦めないつもりなのか」

「令嬢の質を上げてから言ってほしいものですね。それと皇妃陛下が動きそうです……これが一番頭の痛い案件だったのですが、その様子(婚約者に本気)なら解決したと思ってよろしいですか?」

「ああ。母には俺から直接話をしよう。あの人に引っ掻き回されるのが一番面倒だ」


 どうやら話は一段落したらしい。お茶を飲みながら話を聞くだけ聞いていたアイシャは、横からの強烈な視線に黒の皇子を見上げた。精悍な顔でなにやら真剣に思案する様子に何を言われるのかと身構えていると、フッと目から力が抜けて甘い笑みで頬を撫でられる。


「お前を何者からも囲って、俺以外から一つも傷つけられることなく愛してやりたいと思うな」


 本当に愛おしそうに見つめられて頭に血が上るのが判る。きっと顔も真っ赤だろうが合わされた視線を外すことができなくて、ただ濃茶の目を見つめた。


「心配するな。お前に必要な情報は渡すし、お前の仕事(自由)を奪うようなことはしない。だから約束させてくれ」


 スティルグラン侯爵家での会話を彷彿とさせる物言いに、アイシャは見惚れている場合ではないと意識を立て直す。


「俺は何があってもお前を妻にするし、一生愛すると誓おう。これが宿題の答えだ」

 掠れた声がはっきりと告げると、片手が頬に触れ、身を乗り出すように近づいたジルクライドの唇が優しく食らいつくようにアイシャのそれと重なった。









 皇城到着後、馬車を降りた時から二人(主従)の会話は不穏なものとなっていた。


「皇太子妃の間でいいだろう」

「駄目です。スティルグラン侯爵令嬢には婚姻式の日まで純潔でいてもらわなければなりません」

「だが安全に守るなら」

「ええ。ですから殿下の近衛をお借りしますね。客室も他国の王族が滞在できるほど警備が厳重な場所ですし、婚姻式一か月前には皇太子妃の間に移っていただくのですから今は諦めてください……っていうか半年も我慢できないだろう、お前」


 とうとうジルクライドをお前呼びしたアロイスだが、このやり取りは馬車旅の間に幾度か交わされてきたものだ。最初は純潔だの貞操だのと赤面していたアイシャは、今はあきらめの方が強く、護衛騎士たちと生ぬるい視線で見守るしかない。


 アロイス曰く、あの日のキスはジルクライドの我慢が利かず、さらに婚約者のいない(アロイス)をけん制するためのものだったらしい。そしてけん制を受けた腹心は「もしかして初恋か? 本当に勘弁してくれ」と頭を抱えていたと思ったら、侍女と護衛騎士を呼んでアイシャの厳重警護を申し付け、ことあるごとに二人きりになろうとするジルクライドの邪魔をしたのだ。


「これは俺の婚約者だ」

「判っていますよ。ですが本当に手に入れたいのならば、聡明な皇太子殿下でしたらどうするのが一番いいかお判りになるはずです」


 アロイスを堅牢に取り繕っていたもの(何か)が剥がれるほど、今のジルクライドはおかしいらしい。それでもお互いを信頼しているように見えるのだから仲が良いのだろうと思う。一度、それを口に出して言ってみたら二人から同時に否定されたので、揶揄(からか)うようなまねはするまいと胸に秘めて、言い合う様子を温かく見守るようになった。


「スティルグラン侯爵令嬢からも言ってやってください」


 補佐官が数日間一緒にいるうちにある程度の信用を勝ち取ったらしいアイシャに手綱を取るように求めてくる。できないことはないが、いい機会だからとにっこりと外交用の微笑みを浮かべてアロイスに交換条件を提示した。


「長くて呼びにくいでしょうから、わたくしのことをアイシャと名前で呼んで下さいませ」


 ジルクライドの配下からの名前呼びは一歩間違えば皇国で皇太子以外の後ろ盾を持たないアイシャに不利に働くかもしれないが、味方が誰なのか明確にする有利さもある。アロイスはアイシャの味方をするとは言っていないが、仕える主の本意を知った今なら敵になることはないだろうと怯んだ彼を見上げながら返事を待てば、涼やかな蒼い目を彷徨わせてからしぶしぶ了承した。


「かしこまりました。アイシャ様」

「それではジルクライド殿下。わたくしはどちらの部屋に向かえばよろしいのですか?」


 あえて選択させる言い方をしたアイシャに、先ほどから痛いほど浴びせられている周囲の人々の視線など気にも留めず渋い顔をした皇太子が大きくため息を吐いた。


「……………客間を使え。ただし侍女と護衛は俺が用意した人材以外を使うことを禁ずる」


 彼にしては珍しい強い命令に、ジルクライド以外の人間が割り込ませてくる可能性があることを知る。皇太子の命令だと言い訳できれば大概の要求は拒否できるし、少なくともジルクライドに相談するだけの時間を稼ぐことは可能なはずだ。だからわざとこんなに人目のある場所で言い合いをして見せているのだろうか。


「かしこまりました」


 『俺にできないことは少ない』と真顔で言い放った彼にしてみれば、この部屋決めは自分の思うとおりにできなかった部類に入るのだろうが、大国の皇族といえども自身の欲望に打ち勝つのは難しかったらしい。本気で拗ねている様子の婚約者に小さく笑っていると、ジルクライドはその長い腕を伸ばしてアイシャを引き寄せ、逞しい胸の中にすっぽりと覆い隠すようにして抱きしめた。


「約束を忘れるな」


 大きくざわめく周囲の喧騒を隠れ蓑に告げられた言葉は、お互いに交わした約束の確認。見下ろすジルクライドの茶色の目は軽く抱きしめる仕草からは考えられないほど真剣で、その鋭さは男の覚悟を物語っていた。そして笑みを形作るその目のさらに奥底に沈む喪失の痛みを見つけて、アイシャはそっと逞しい身体を抱きしめ返す。


「はいはい、そこまでです。どうせ殿下は暇を見つけては毎日会いに行かれるのでしょうから、アイシャ様も寂しがらなくても大丈夫ですよ」


 呆れたようなアロイスの言葉にアイシャは慌ててジルクライドの腕の中から抜け出ると、強く引き留められることはないが長い指が名残惜しそうにアイシャの指に絡みながら離れていく。そしてアイシャが見ても頭の中に花が咲いているようなジルクライドの甘い笑みが、常に見る覇気のある皇太子の表情に変わったのは直後だった。


「皇太子殿下。お帰りなさいませ」

「ジルクライド殿下、お久しぶりでございます」


 ジルクライドが威厳を纏ってしばらくしてから、城から現れた赤い髪の薔薇のような男女が声をかけてくる。微かに漂う緊張感にアイシャが黙って彼らを見つめていると、二人は親しげにジルクライドへと話しかけた。


「面倒な迎えにわざわざ出向くなんて、殿下は相変わらず真面目ですね」

「そうですわ。そのようなことなど、その辺りの騎士にでも任せておけば良かったのです」


 ジルクライドのあいさつも聞かずに楽しそうに話し出す二人の無礼を見て、アイシャは思わずアロイスを見上げる。視線だけで聞きたいことが分かったらしい彼は、諦めたようにため息を吐くと静かに首を横に振った。


「なんだ、ダンフォードまでそんな厳しい顔をして。理由は察せられるが本人を目の前にしてそれはないだろう。せめてもう少し作り笑いでもしたらどうだ?」


 アロイスの仕草を都合よく解釈したらしい男性が朗らかに笑いながら隠れてアイシャを侮辱するが、直接名前を出していないので、あとでどうとでも言い訳のできる嫌味だ。自分たちのことで呆れているなどと微塵も思わないあたり有力貴族なのかもしれないが、硬い空気を発しているジルクライドからの紹介がない以上如何ともしがたいので黙って話を聞く。


「ジルクライド殿下。もう義務は果たされたのでしょう? でしたらわたくし達とお茶をご一緒いたしませんか? 今、皇国で最も人気のあるスズエールのお菓子を用意いたしましたのよ」


 進み出た美しい女性に瞳を潤ませて誘われたにも関わらず、ジルクライドは一瞥した後にアイシャを振り返って全身を見回した。突然観察されるように見つめられ、いったい何があったのかと微かに首を傾げるも一人で納得したらしい彼は満足げにうなずく。


「最初は髪の色に合わせたのかと思っていたが、私に合わせてくれていたのだな」


 深く染みるような声に意味が分からなかったのは話しかけてきた男女のみ。ジルクライドに指摘されて、アロイスは出迎えた女性の衣装がピンクのドレスでイエローダイヤをあしらった金の耳飾りと首飾りということに目が行く。対するアイシャは黒髪を黒いリボンで結び、水色のドレスにシルバーのシンプルなイヤリングとネックレスだ。ちなみにジルクライドはジュストコートと呼ばれる豪華な刺繍の入った丈の長い青いコートにシルバーのベストとズボン、そして黒薔薇のピンブローチを付けていた。


「なるほど。私はてっきりお二人の色を身に着けているとばかり思っておりましたよ」


 お互いが黒髪なので仕方のない誤解だが、アロイスにはそんなに浮かれて見えたのかとショックを受けるアイシャ。出迎えた女性が身に着けていた相手(・・)の色は『イエローダイヤ』。普通は相手の目の色を使う。髪が黒ならなおさら(・・・・)だ。


「その(リボン)はカテリーナ嬢への哀悼を表していたのですね」


 だが囁くように告げられた配下の言葉にジルクライドはこぶしを握り締める。二人が身に着けていた黒色は亡くなった令嬢を偲ぶもの。ジルクライドだけでなくアイシャまで倣ったそれは、本来なら彼女(カテリーナ)のものだった役割を継承していくという意思表示。


「いったい何のことですの? オルグレン公爵令嬢が亡くなったことは皇家とはなんら関係ございません。未来の宰相になられる方が間違われては困りますわ」


 おかしなことを言っていると本気で思っている顔でアロイスを言い正す美しいドレスの女性。相変わらず紹介をすることもされることもなかったが、アイシャには話から二人の正体に気が付いていたので、どうするのかこのまま婚約者たる彼の判断に任せることにした。

 そしてその判断を任せられた黒の皇太子はなんの感情も掴ませない顔で、二人を見ることなく言い放つ。


「帰城したばかりで陛下へのあいさつも済んでいない。失礼する」


 馬車を降りてからも繰り広げられた会話が夢だったように、言葉少なくアイシャを連れて立ち去るジルクライド。残された場であいさつもお茶の誘いの断りすらないのに気付いた赤髪の男女は悔しそうに顔を歪ませた。


 沈黙したままのジルクライドは皇城に入りながら腕に婚約者の手を乗せて落ち着いて歩いているように見えたが、側近はもちろんアイシャですら彼の苛立ちを感じ取っていた。先ほどまでは微塵も表さなかったところを見ると、取り繕うのを止めたらしい。こうやってだれもかれもがジルクライドを都合のいいように見ていたのかもしれないと思うと、馬車の中で漏らされた彼の本音がアイシャの胸を殊更に痛めた。


 廊下を歩きながら王国とは比較にならない広さと人の多さに圧倒され、ほとんどの人はジルクライドが通れば立ち止まって頭を下げる。そんな彼らの伺うような視線も、憐れむような表情も、おそらく今のジルクライドには神経を逆なでするほど嫌なものであるはずだが、皇国の皇太子たる男はそんな感情を完璧に隠し通していた。彼の感情は判る人にだけ判る。そんな状態のままアイシャが滞在するべく整えられた客室に入り込むと、手をつないだままソファへと座り込んで自分の顔を空いた手で覆い自嘲気味につぶやいた。


「俺はお前に格好悪いところばかり見せている気がするな」

「見られては困りますか?」


 声で落ち込んでいると判断されたのか、ここから先はプライベートだと思われたのか、頑なに二人きりにさせなかったアロイスが無言で部屋を出ていく。


「どうだろう。男としての威厳や立場なんてものに影響がある気がする」

「そうですか」

「婚姻の申し込みの時だってお前の言葉(約束)が嬉しかったし心に思うことがあったのに、俺はやり直しを言い渡されるような内容だった。迎えの馬車の中でだって無意識にお前に望まれたいと口にしてしまったし、先ほどだってあの馬鹿共に会わなければ黒を身に着けるお前の心遣いすら気付かなかっただろう」


 元婚約者の死を悼む様子がないことに衝撃を受けたわけではないらしい。考える時の癖なのか、片手で目を覆ったジルクライドの高い鼻梁や薄い唇、掻き上げられた黒髪の間から見える形のいい耳に皇家色(アメジスト)のイヤーカフが覗く。


「本来ならば羞恥を感じるべきなんだろうが……甘えるのが心地いいのだろうな。もの凄い勢いでお前に傾倒しているようだ」

「どんなに強い生き物であろうとも、甘え、頼る相手は必要ですわ。それは親であったり、友であったり、妻であったりと形を変えますが決して悪いことではないと思います。すべてをさらけ出すのは難しいものですけれど養父(ちち)がわたくしに対してしてくれたように、わたくしも殿下を受け止められる存在になれることを願っておりますわ」


 同じことは第一王子にも思っていたのだが、彼は男の矜持からかアイシャを頼るようなことはしなかった。では逆にアイシャが頼れたかと言われれば、共倒れになりそうでできなかったというのが本音である。過去を思い出しながら本心からの言葉を告げると、顔を覆っていた手を外して見下ろしたジルクライドが納得したように頷く。


「では俺もお前が俺に(・・)甘えられるように努力をしよう。その前段階として俺のことはジルと呼んでくれ」

「わたくしは十分甘えております。本来ならば殿下の「ジル」……ジル様のお気持ちに合わせなければならないところをわたくしの都合で待っていただいておりますし、自分の気持ちを告げることも先ほどのジル様と同じで甘えている証拠です」


 似たもの同士なのだと言っても機嫌の直った皇子はニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべ、長い腕が伸ばされていともたやすく二人の間を埋めると筋張った手が黒いリボンを優しくほどく。さらりと落ちてきた髪を耳にかけられながらくすぐったさに身をよじると、少しだけ愉悦の笑みを浮かべた鋭い視線がアイシャの細い襟足に注がれてつぶやいた。


「これなら見えないか」


 小さく掠れた声はアイシャの耳に入っても意味が分からなかったが、それに含まれた熱を敏感に感じ取り体が逃げを打つ。それでもソファの手すりに追い詰められて逃げ場はなく、ジルクライドが身につける香水の香りが鼻先をかすめたと思った直後。


「っ!」


 首筋に熱い感触。そして強く吸われる小さな痛み。(たくま)しい体に抱きしめられたまま首筋に顔を埋めた男が満足そうに息を吐いてアイシャの黒髪を揺らした。


「今日はこのまま休め。陛下たちへの謁見は明日以降で日程を調整させる。侍女はリーサをそのままつけるから、何かあれば彼女に。俺に会いたければいつ呼んでも構わんぞ」


 アイシャを抱きしめながらまるで理性を繋ぎ止めるかのように淡々と今後の予定を話すジルクライド。耳元で話されて鼓膜を揺らす低い声に背筋がぞくぞくと震える。もちろん直接触れている彼にもそれは伝わり、少し体を離して嬉しそうな笑みを浮かべた。


「お前は耳が弱いな。触りがいがある」


 そう言って熱い大きな手が頬から髪の中に差し込まれて耳の形をなぞるように指が這うと、(だいだい)色にトロリと輝く目を細めて再び顔が近づいてくる。

 トントン。

 吐息が混じりあい、あと少しで唇が触れ合うところでドアがノックされた。逃げることも思いつかずに目を閉じていたアイシャが我に返ると、小さな舌打ちの後ジルクライドはしぶしぶといった様子で返事をして元の位置に戻っていく。


「失礼いたします。アイシャ様のお召し替えに参りました。それとダンフォード補佐が外で殿下をお待ちでございます」


 入室したリーサが丁寧に頭を下げると、先ほどまで燃えるような眼をしていた男が諦めたように立ち上がって見下ろした。


「また来る」

「お待ちしております」


 短い一言で彼の感情を伺うことはできなかったが、アイシャはなんとか落ち着いて立ち上がると逞しい背中を見送ったのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ