黒皇子の恋・番外編【専属侍女は知っている】【専属侍従は納得する】【専属護衛騎士隊長はにこやかに見守る】
この作品でとても嬉しいことがありましたので、なろう限定読者さまへのおすそ分けです。
このお話はフィクションでファンタジーです。
【専属侍女は知っている】
本日は皇妃主催の大規模なお茶会が開かれていた。既婚者限定のそれは定期的に開催されていたものの、皇太子ジルクライドが結婚してからは皇太子妃アイシャに会うために年若い夫人も気軽に参加するようになり、今日も大勢の出席者がテーブルごとに楽しげに交流を深めていた。
皇太子妃の専属侍女で護衛も務めるリーサは常にアイシャの背後に控えて彼女たちの話を聞いていたのだが、三度目のテーブルにアイシャが着いてからはかすかに目を細めてテーブルに着いている彼女たちを注視していた。
そのテーブルにいたのは三人だが、そのなかの侯爵家嫡男で現子爵夫人がジルクライドと同じ学年に在学していたという話をはじめてからリーサの表情が固まっていた。
「皇太子殿下は学業だけではなく、剣術も乗馬も華麗にこなしておりましたの。わたくしたちは殿下のために差し入れなどもいたしましたのよ。亡くなられたカテリーナ様はお忙しくてなかなか殿下のお相手ができませんでしたでしょう? 公式の夜会でカテリーナ様が欠席されたときなどはわたくしもファーストダンスのお相手を務めさせていただきましたの。リードが力強くて頼もしくて、とても素敵な時間でしたわ」
うっとりと夢見るような口調で語った彼女は、ほほ笑みながら話を聞いているアイシャにむかってさらに続ける。
「皇太子殿下のご趣味は乗馬なのはご存じだと思いますが、休日にパルテーム草原まで遠乗りに出かけたときなどはそのまま休息を取りますのよ。とてもリラックスされているようすは親しい者にしか見せることがない姿なのでしょうね」
それを知っている自分は殿下の近くにいたのだと自慢しているのだろう。皇太子妃にむかって主導権を握ろうとする女性は、余裕のある笑みを浮かべてアイシャに問うた。
「アイシャ殿下は皇太子殿下の休日の顔を見たことがおありかしら?」
言葉の裏で見下しているのに気付いたほかの夫人たちが困惑していると、なにやら考え込んでいたアイシャがお茶を一口飲んでから恥ずかしそうに語った。
「休日ではありませんけれど……ジルクライド殿下はわたくしが読書をしていると膝に頭をのせて休まれるのです。おなかのほうに顔を向けて腰に腕を回してから大きく息を吸い込むので、恥ずかしいのですけれど甘えてくる姿につい許してしまって……」
いつのまにか部屋に入り込んだジルクライドがアイシャの膝枕で眠っているのを何度か見ているが、まさか最初に匂いをかいでいるとは知らなかったリーサの眉間に一瞬しわが寄る。
「まぁ! 素敵ですわ」
「わたくしも夫が甘えてくるとつい許してしまいます」
のこりの夫人たちもアイシャより少し年上だがまだ若く、夫婦仲もいいのかアイシャに同意する。
「ただこのあいだは読書に夢中になってしまっていつのまにか足がしびれてしまい、食事の時間に間に合わせるためにジルクライド殿下に抱き上げられてしまったのは恥ずかしかったです」
そういえばそんなことがあったばかりだとリーサは思いだす。狙ってやったわけではないだろうが、膝枕もアイシャを抱きあげての移動も、ジルクライドを満足させたらしく終始機嫌がよかった。
だが子爵夫人は気に入らなかったらしい。
「膝枕で足がしびれるなんてか弱いのかしら」
どうにかして自分のほうがジルクライドと近しいと思われたいのだろうが、なぜそうなる!と内心突っ込んでいたリーサの代わりにほかの夫人がやんわりと会話を続ける。
「あら、長い時間膝枕をしているとたいがいの女性はしびれてしまうものですわ。わたくしも経験がありますもの」
意訳、結婚してまだ数年でしょうに膝枕もしたことがないの?
「それならそんなに長い時間膝枕をすることを断ればよろしいのではなくて?」
言い返す子爵夫人にもう一人の夫人が反論した。
「安らいだ顔で眠っておられる旦那様を、自分の足がしびれるからと起こすようなまねはわたくしもできませんわ」
意訳、貴女の夫は貴女のそばで安らいでいないのかしら?
お茶会の席は主催者に指定されていて、仲良し同士で集まることはできない。どうやら子爵夫人の言い方に不満があった二人は、アイシャのために少し釘を刺してくれたようだ。
「でも……だからといって皇太子殿下に抱き上げさせて運ばせるのはどうかと思いますけれど。足のしびれが治ってからむかってもよかったのではなくて?」
いや、まったくそのとおりだと、リーサはここだけ彼女に同意する。
「わたくしもそう申し上げたのですが、ジルクライド殿下が止めてくださらなくて」
数分待てばしびれはとれたはずだが、ジルクライドは回復途中の涙目になって我慢しているアイシャの姿を楽しむために抱き上げていたということをリーサは知っている。ぎゅっと抱きつき、痛みに震えるアイシャを気遣って声をかけるたくましい背中に、「全部殿下のせいですよ!」と怒鳴りつけたくなったのは記憶に新しい。
「素敵ですわ。皇太子殿下はアイシャ様を本当に愛していらっしゃるのね」
「……」
ええ、そのとおりです。でも殿下は裏ではしびれた足に触れられて、もだえるアイシャ様も見たかったのですよ、と言ってやりたいが、今は挑発してきた女をのろけ話でやり返したことでリーサは満足することにした。
しばらくして侍女たちが動きだす。皇妃陛下の席の移動が始まり、アイシャも次のテーブルに向かうために三人にあいさつをする。
「皆さま、楽しい時間をありがとうございました。これからもゆっくり楽しんでくださいませ。あ、それから……」
立ち上がろうとしたアイシャはなにかを思い出したように挑発してきた女性に目を向けた。
「テレイザ・フィンブル子爵夫人でしたわね。お兄様のブルーノ・ワイト様に迷惑をかけたくないのであれば、二度とジルクライド殿下の私的な時間や詳しい場所の話をなさらないほうがいいですわ。先ほどのお話は学生時代に護衛していらしたブルーノ様からお聞きしたのでしょうけれど、他言はしてはならないとの注意は受けなかったかしら」
護衛した人物の話を、たとえ家族であろうとも漏らせば罰を受けるのは当然だ。それが学生で騎士見習いのころだったとしても、現在護衛騎士をしている彼に厳重注意がいくだろう。彼も学生時代に妹にせがまれて少しだけ漏らした話を、まさか皇太子妃を挑発するために話すとは思ってもみなかったに違いない。
不愉快そうに笑みを消したフィンブル子爵夫人に席を立ちながらアイシャは優しく笑った。
「残念ながらこのことは報告させてもらいます。調査官の質問に素直に答えていただければ悪いようにはならないでしょう。ブルーノ様はローウェル・プレイステッド卿の大事な部下ですもの。わたくしも口添えいたしますわ。皆様もどうか他言無用でお願いいたします」
最後は同席した夫人たちに口止めしたアイシャが優雅に立ち去るのにつき従いながら、リーサはテーブル付きではない侍女に一瞬だけ視線を向けた。視線が合った彼女は静かに目を伏せると問題の夫人のいるテーブルに近づきテーブル付きの侍女と交代する。
以後の情報収集を彼女に任せ、リーサはアイシャの後ろに付きながら敬愛する皇太子夫妻の休日の過ごし方を思いだし、それらほぼすべてがお茶会で親しくもない相手にとても話せる内容ではないことにため息がでそうになった。
思いつくだけでもお忍びでの王都散策という名の食べ歩き、遠乗りという名の婚約期間のイチャイチャやり直し、ジルクライドの鍛錬を見学させつつ専属護衛騎士以外の近衛騎士に対するけん制、視察ついでにいまだに娘をジルクライドの妃にとうるさい家への溺愛の見せつけ、雰囲気を整えたファーストキスのやり直しなど、リーサでもお茶会の話題にはむかないとわかる。
それにしても――
次の席についたアイシャを後ろから見ながらリーサは仕える女主人に尊敬のまなざしをむけた。
皇太子妃となる前から聡明な女性だと思っていたが、婚姻し、この国に慣れたアイシャは仕えるのに値する素晴らしい主であると何度でも思える。
しとやかなマナー、深く広い知識、穏やかな性格と冷静な判断力はとても年下とは思えないが、こと恋愛に関すると意外な純粋さと思い切りの良さをみせる。こういったところがジルクライドの好みにあったのだろう。
先ほどの注意も自分にむけられた挑発ではなく、皇子の私的な時間の情報漏洩という守秘義務違反に関してのみだ。本当ならジルクライド殿下が自分をいかに甘やかし溺愛しているか自慢したかっただろうに、相手と同じ場所に立つことなく皇太子妃という立場を優先させたことに先ほどの夫人は気がついているだろうか。
「ないわね」
思わずぽつりとつぶやいてしまってから慌てて周囲を確認するも、だれにも聞かれたようすはないので小さく息を吐いた。
まだお茶会は続く。皇太子妃専属の侍女兼護衛でもあるリーサは気をひき締めてアイシャのそばへと寄り添いつつ、遠くから感じるかすかな視線に気取られぬように立ち位置を変え、視線から皇太子妃を守ることに専念した。
【専属侍従長は納得する】
ヒューズ・ダンフォードはダンフォード公爵家の次男で皇太子ジルクライドの専属侍従長の職についている。短い銀髪に緑眼で美しい妻と二人の娘を持ち、ジルクライドの側近の中では最年長なのもあって一歩引いた位置で見守ることが多い。
ジルクライドの『私』の部分をほぼすべて把握し、婚姻式を終えたばかりの皇太子夫妻のすべてを取り仕切る権限を持つヒューズは、四兄弟の次男らしいバランスのとれた采配を振るうので他の侍従たちからの人望も厚かった。
そんな彼の仕える主が結婚してしばらくたったある日。
「は? 殿下と妃殿下が城下へ降りる予定はなかったはずですが?」
報告に来た皇太子の専属護衛騎士の青年は、それまで静かに書類仕事をしていたヒューズの気配が揺れたことで顔をこわばらせていた。
「それが……果物のプチルが旬だからマーハケーキのプチルソースがけを食べたいとおっしゃって」
全部を聞く前に片手をあげて報告を止めるヒューズ。眉間にしわを寄せて大きくため息をつきながらあきらめたように護衛騎士に下がるように指示を出す。
「いつもの殿下の思い付きでしょう(いまだ婚約気分ですか)。そういえば今日の午後はアイシャ様の予定は孤児院への慰問(に変更)でしたね。本日の執務で急ぎのものは侍従室に持ってくるように伝言を。本日中に(なにがなんでも)サインさせます。それから午後のお茶はいったん殿下の部屋に運んでからこちらでいただきましょう(そのくらいしてもかまわないでしょうし)」
皇太子の不在をわざわざ知らしめることもないとのヒューズの指示と、時折漏れ聞こえる本音に苦笑する侍従たちが慌ただしく行き交う。ヒューズの指示を聞いた護衛騎士が姿勢を正して退室のあいさつをしてから出ていくと、きっちり整えられた銀髪を撫で上げながらつぶやいた。
「城下など飽きるほど行ってるだろうが……」
口からでた悪態にため息を一つ。それでも各方面への調整を終わらせたヒューズは本来皇太子夫妻に出されるはずだった菓子でお茶を飲みながら一息ついていると。
「皇太子殿下がお戻りになりました」
本日の殿下付き侍従が報告してきたが、ヒューズはお茶を飲みながら動こうともしない。本来なら帰城した主を迎える役目の筆頭侍従の姿がないことに気が付いたジルクライドが侍従室まで足を運んでから、ようやく銀髪の男性は立ち上がりあいさつをした。
「おかえりなさいませ」
一分の乱れもなく整えられた髪と姿の側近に、こちらは大国の皇太子らしくショートマントを揺らして腕を組み、行儀悪く壁に寄り掛かったジルクライドが苦笑を浮かべた。
「急遽予定を変更してすまなかったな。午前中にローリシア大公が着飾った娘を連れて歩いているのが見えて、面倒だからアイシャを連れ出した」
自分が悪いと理解していた皇子がごまかすことなく事実だけを告げると、ヒューズは顔をしかめて視線だけで配下に確認させる。
「本日登城の予定はありませんでしたが」
ローリシア大公は、今のところジルクライドを筆頭に現皇子たちでも気をつかわなければならない人物の一人で、皇王の弟である。娘をジルクライドの妃にするのだと言い張っているものの、従姉妹では血が近すぎると最初から反対されていた。
これまではアラーナ・ダンヴィル公爵令嬢が婚約者もおらず、有力貴族令嬢として国内にいたために静かにしていたが、彼女が聖王国に嫁いだとたんに再びジルクライドに真にふさわしいのは自分の娘だと言いはじめたのである。
それはアイシャと婚姻してからも続いており、そろそろ排除しようかと思案し始めた矢先の出来事だった。
ちなみに娘は十五歳。カテリーナの妹と同じ年である。
「それでもいたのだからしかたあるまい。そしてアイシャの予定を漏らした者がいる。突き止めろ」
「アイシャ様への面会でしたか」
「俺は公務があったからな」
大公の訪問を確認してきた部下が戻ってくると、確かにアイシャへの取次が要請されていたようだ。アイシャの不在を知った時点で孤児院への慰問を公務としてねじ込んだヒューズは、間一髪だったと肩の力が抜ける。
「いい加減に叔父上もあきらめればいいものを。どれだけ美姫を連れてきたとしても、俺の手ずからケーキを頬張ったアイシャに勝る女性はいないというのに」
「は?」
随分とマナー違反だと聞き返したヒューズに、ジルクライドはその時を思い出したように甘い笑みを浮かべた。
「ああ。今日、外で食べ歩いていた時にアイシャは別な種類のケーキと飲み物を持っていたからな。好きな女性が恥ずかしそうに口を開けながら、俺が手に持ったケーキを食べる姿は滾るものがある。唇についたソースを指で拭ってやって、その指を俺が舐めたとたんに真っ赤になるのも愛らしいな」
ここまできてヒューズは改めて主が変わったことを再び思い知った。これまでのジルクライドは女性との付き合いを自慢するような人物ではなかったのだ。
正直面倒くささは感じるものの、こんな主も悪くはないと思うのは慣れもあるだろうと自分を納得させる。
「あまりアイシャ様にご無理をなさらぬように。嫌われて逃げ出されても知りませんよ」
「心配ない。俺もアイシャの手からちゃんとケーキを食べたからな」
いや、そういうことじゃないだろう! と侍従室にいた全員が思っただろうが、ジルクライドは涼しい顔のまま切れ長の目を細めた。
「だがいつまでも俺がアイシャ以外を愛すると思われるのはしゃくだな。そろそろ叔父上にも現実を知ってもらうか」
一段低い声は為政者の響きを含み、薄赤く染まった目を見た一同は恭しく首を垂れて主への恭順を示したのだった。
【専属護衛騎士隊長はにこやかに見守る】
ローウェルはディザレック皇国の最高学園で第一皇子ジルクライドに出会い、人とは少し異なる自分と仲良くしてくれたウェイドとともに黒騎士団に入団して三年後、皇太子となったジルクライドに唐突に呼び出されて専属護衛騎士になるつもりはないかと聞かれた。
確かに同時期に在籍していた騎士科の学生の中でローウェルは頭一つ以上も飛び抜けていたが、集団戦闘が主な騎士団で、歩調が揃えられずに浮いていた自分を引き抜く意味が判らず、夜中にウェイドの部屋に押し掛けて相談したりもした。
もちろん「急に押しかけるな!」と頭を叩かれたが、賢い彼は部屋に入れると自分も声をかけられていること、おそらくローウェルを相棒として組ませようとしていること、そして現在のジルクライドの専属護衛騎士隊長があと数年で近衛騎士団団長に昇格することから後任を探しているのではないか、ということを聞かせてくれた。
確かにウェイドは頭もいいし、協調性もあり、自分のようなはみ出た男でさえ面倒を見てくれる仲間思いの騎士だ。強さだって申し分ないし、もし足りなければ俺が補えばいい。あいつの指示なら俺は絶対の信頼をもって果たすことができる。
そう考えてジルクライド殿下の護衛騎士の話を受けたのだが、なぜか隊長に指名されたのは俺だった事実だけは、いまだに夢なのではないかと思う時があるが。
「ローウェル。考え事は後にしろ」
ジルクライド殿下とアイシャ殿下の遠乗りを護衛していたローウェルは、後ろから近付いてきたウェイドに注意されて意識を集中した。気配は完ぺきに把握している。後ろを振り向かずとも、ジルクライドとアイシャや他の護衛騎士、ついでに熟練度の高くない隠密の位置もだいたいわかるのだ。
ただ本来なら護衛対象の後ろに下がるはずのローウェルが先頭を走っているのは、特殊な能力を生かすためである。
パルテーム草原は数本の高木とその周りに低木が集まり、草原の中に浮かぶ小島のように点在する風光明媚な場所だ。皇都アンドルーズからも近く、皇太子領の隣にあることから治安もいいので、貴族や裕福な商人などが観光に訪れる。
それでもこの国の未来の皇王を害しようとする者からすれば、絶好の機会であり、見晴らしがいいとはいえ襲撃するには十分な茂みもあった。ローウェルがいなければ警備の騎士は今より三人は増えていただろうが、騎馬にいつもは見ない大型の弓と矢筒を用意した彼がいれば事足りると、ウェイドとジルクライドが判断したらしい。
そのローウェルがちらりと相棒に視線を送ると、ウェイドはジルクライドとアイシャに並んで馬の脚を止めて遠くの山を指さす。ジルクライドが笑いながらアイシャに山の説明を始め、ウェイドが馬を巡らせて護衛騎士たちに指示を出しながら自分の死角に入ったローウェルが強弓を自分に向けて狙いを絞るのを待った。
矢じりはウェイドの顔に向けられているが、狙うはさらに奥の茂み。ギリギリと引かれる弓がピタリと止まると、ウェイドは胸の前で騎士たちにハンドサインを送りながら自然な速さで移動した。
赤毛騎士の後頭部がずれた直後に放たれた矢は数秒後には木々の葉の中に吸い込まれ、おそらく避ける暇もなかった襲撃者が落下してきてから、二人の騎士が捕縛するべく馬の腹を蹴る。
「他には?」
「今のところは、ないな」
ウェイドの質問にあっさり返事を返したローウェルは、再び先頭に立って進み始めた。あと少しで昼食をとる予定の湖につく。その周辺は騎士と隠密たちが先行して確認しているので、殿下たちも一息つくことができるだろうと考えているとアイシャが追い付いてきた。
「ローウェル。あそこの湖まで馬を全力で走らせてもいいかしら?」
少し上目使いの淑女らしからぬお願いにポカンと口を開けて驚いたローウェルだが、しばらく考えてから切れ長の目を細めて了承する。
「ただし私が追随いたしますがよろしいでしょうか」
万が一落馬した場合に備えてそばを離れることができないといえば、皇太子妃は穏やかな青い目を楽しそうに輝かせて笑った。
「はい。無理もしません。わがままを聞いてくれてありがとう」
そう言うとそれまで優雅に横乗りしていた足を鐙にかけて腰を持ち上げ、ドレスの裾を翻して慣れた様子で馬にまたがり、ジルクライドを振り返る。
「ジル! 湖まで競走です!」
いうやいなや走り出したアイシャに遅れることなくローウェルが続く。弾む後ろ姿を見送ったジルクライドは、こちらも少々どう猛さが混じった楽しそうな笑みを浮かべて速度を上げる。ああ、そういえばウェイドに確認しなかったとローウェルが思いだすも遅く、ちらりと相棒の顔を見れば主たちの楽しそうな雰囲気に諦めたような苦笑を浮かべていた。
アイシャは気持ちよくのびのびと馬を走らせているが、ローウェルは余裕をもってついていく。アイシャの黒髪とドレスの裾が跳ねるように後ろに流れ、馬の胴体を挟むひざ下までのブーツが見えた。
もちろんジルクライドも徐々に間を詰めるが、距離が短すぎて追いつく前に湖に着いてしまった。
待機していた騎士や侍従、侍女たちが驚く中、満面の笑みを浮かべたアイシャが自力で下馬すると追いついたジルクライドが機嫌よく抱き上げる。
「俺から逃げるとはいい度胸だ」
逃げる獲物を追う皇太子殿下の楽しい気持ちが理解できると。
「逃げていませんわ。ちょっぴりズルをしましたが、競走しただけです」
こちらはいつものお淑やかな様子とは異なるアイシャが、愛おしげにジルクライドを見下ろして額に口づけを落とし……我に返って周囲からの注目を浴びていることに気がつき慌てて夫に抱き着いた。
相変わらず仲のいい二人をにこやかに見守っていると、護衛騎士に指示を出し終えたウェイドが隣に立ち小声で話しかけてくる。
「道中の罠はグレンたちが解除している。他に気づいたことは?」
「アイシャ様は乗馬がうまいな。姿勢も美しいし、横乗りも安定している」
「そうか。何もなければそれでいい。殿下たちが昼食をとるのと合わせて予定通りお前も休憩だ。飯を食ってこい」
お疲れと労うように肩を叩かれ、ひとまずは張り詰めた神経を緩めると、ローウェルは密着するように座って食事をしている皇太子殿下夫妻に一礼してその場を離れたのだった。
続きは明日、公開します(推敲間に合うかなぁ・泣)。




