黒皇子、恋を自覚する
このお話はファンタジーでフィクションです。ご注意ください。
窓の外は夕闇に沈み、先ほどまで慌ただしく行き交っていた使用人たちの気配も今はない。深緑の壁とダークブラウンの家具、茶と緑の蔦柄のラグは室内灯の光に優しく照らされ、椅子に座っていた人物の気持ちを落ち着けていた。
ここはスティルグラン侯爵家、当主の私室である。
執務室も兼ねたそこは先代侯爵によって設えられていた一室だ。それを変えることなく使用しているのは、今現在疲れ切ったように椅子に体を預ける現侯爵の望みでもあった。
「兄上。アイシャはディザレック皇国の皇太子妃になります」
死者に語りかけた言葉は静かな室内によく響く。
「兄上ならどうしましたか。王国のお飾りの王妃になどにならずに済んだと喜びましたか? それとも……」
それ以上言っても仕方がないと思ったのか言葉を切ると、スティルグラン侯爵は眉間を揉みながら日中の騒動を思い返してため息を吐いた。
今日の午後、久方ぶりに侯爵家を訪れたのは実の娘でもあるエルシャだった。訪問の連絡もなく突然の帰宅に、それでも侯爵と夫人は丁寧に対応していた。実の娘だというのに一線を引いた態度で対応しなければならない夫人は見るからに憔悴していたが、エルシャはそんなことなど構うことなくまだ膨らんでもいない腹を抱えながら涙を流して不満を訴え始めた。
なぜ私の結婚式に出席しないのか。これからお腹が膨らむのに、どうして新しいドレスを作ってはいけないのか。そして私を羨むはずのアイシャが、なぜ皇国の皇子の婚約者になどなっているのか。
まとめればこの三点をエルシャは二時間かけて訴えたのだ。
もちろん侯爵も夫人もその都度何度も説明した。
皇国の皇太子の結婚式の日取りは以前より決定されており、皇太子妃になるアイシャの養父母として出席しなければならないこと。エルシャの婚姻式のドレスはもともととても手の込んだもので、数か月やそこらで作れるような品物ではないこと。品質を落とせば妊婦用のドレスも可能だと話しても、エルシャが納得するはずもなく。
「私を愛していないのか」「私の子供も可愛くないのか」「私が王妃になるのに嬉しくないのか」と罵倒する娘に夫人が折れたのは仕方のないことかもしれない。王国の様子を知ったアイシャからも、自分のことは構わないからエルシャの結婚式を優先してほしいという手紙も届いていたこともあって、侯爵夫人は王国に残ることになった。
大きくため息を吐いた侯爵が雨音に窓の外に目を向けると、灰色の雲が空を覆い、日が落ちるのにしたがってあたりは急に暗くなっていく。雨は時間を追うごとに激しくなり、久しぶりの嵐に侯爵の脳裏に苦い記憶が蘇った。
15年前。王国、ハイデンゲイン子爵領にて。
「スティルグラン侯爵はどこだ」
ディザレック皇国の特使がその肥えた体をソファへと窮屈そうに預けながら尊大に言い放つ。当時ハイデンゲイン子爵だった侯爵は立ったまま頭を下げた。
「申し訳ありません。スティルグラン侯爵は所用で領地に戻っております。今回はわたくしハイデンゲインが代理で契約をさせていただきたい」
まだ年若そうな子爵に特使は不愉快そうに眼を細める。
「この国の主食でもある小麦の輸入価格についての重要協議ですぞ。子爵ごときが代理を務めるなど、私を、ひいては我が国を馬鹿にしているのか」
「いいえ、けしてそのようなことはございません」
毎年決まった価格と数量を契約するだけの簡単な協議だ。自国で賄える小麦をわざわざ輸入するのは、宗主国の支配を確たるものにするためでもある。大国故に価格の安い小麦に押されて王国の小麦の生産量は年々下がる一方で、危機を感じた貴族が手を打つも個々では対応しきれず、今皇国に小麦の輸入を止められれば王国民はこの冬飢えてしまうだろう。
それだけはどうしても避けなければならないと、ハイデンゲイン子爵は頭を下げ続けた。
「ならばスティルグラン侯爵と夫人をここに呼んで来い。子爵など話にもならん」
ディザレック皇国は小麦の値段を不当に上げたり、輸入量を大幅に増やすような圧力をかけることはしてこない。古くからある強国には、国が続くだけの理由があるからだ。属国といえども敬意を持って対するその姿勢は国を統べる皇族の方針でもあった。だが古くからある国には腐った輩も少なからずいて、今回の特使はそんな皇国らしからぬ貴族の一人だったらしく、属国と見下す態度にハイデンゲインは頭を下げたまま強くこぶしを握った。
「申し訳ありません。スティルグラン侯爵の娘が病気だという知らせを受けて、侯爵は領地へと戻っております」
「たかが娘と宗主国の特使であるわしと、どちらが大事かね? わしはこのまま帰国しても構わないのだが?」
皇国では伯爵の身分の特使は、属国の侯爵にもてなされるという優越感を持ちたいのだろう。皇国に戻れば自慢もできるだろうし、自尊心も大いに満たされるのは想像できる。
腐った下種が。頭を下げ続けていて顔が見えないことをいいことにハイデンゲインは悔しさで顔を歪ませた。
「侯爵がだめならその上司でもかまわん。すぐに呼んで来い」
侯爵の上など公爵か王族しかいない。ここは国境の地で、王都からここまで来るのに一週間はかかる。『すぐ』駆けつけることができるのは隣の領地にいるスティルグラン侯爵しかいないのだ。だからこそ彼が毎年の契約を交わしていたのだが。
皇国特使は億劫そうに椅子から立ち上がると、ハイデンゲインを見下して笑った。
「こんな田舎の接待などわしは望まん。契約を更新するしないにかかわらず明後日には帰国する」
それだけ言い放つと巨体を揺らして客室へと戻っていく。足音が十分遠ざかってからハイデンゲインは奥歯を噛みしめてから唸るように言葉を発した。
「アイシャに決まってるだろうが!」
それが先ほどの「どちらが大事か」という問いの答えであることは明白だ。大きな病気一つしたことのなかった三才の娘が高熱で意識がないと知れば、毎年行われている契約に代理を出席させ、娘の元に駆け付けた親を誰が責めるだろう。
「兄上に早馬を出す」
控えていた侍従に低い声で告げると、己の無能の謝罪と助力を乞う手紙を書くべくハイデンゲインは応接室を後にする。窓の外は灰色の雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうに生ぬるい風が吹いていた。
翌日の夕方、スティルグラン侯爵と夫人の乗った馬車が土砂崩れに巻き込まれて行方不明になったという知らせが届いた時には、近年まれにみる大雨が王国を襲っていたのである。
「知らせを聞いた養父が慌てて探しに出かけようとしたところを特使が無理矢理引き留め、あっさりと契約を結ぶと翌日には逃げるように皇国に帰国したそうです。わたくしが高熱をだして寝込んだのも、その一度きりでした」
国境の街まで迎えに来ていたジルクライドと同じ馬車の中、アイシャは静かに語った。皇城に着いてしまえば二人きりになることが難しい。この馬車旅の間にお互いのことを知り合えるようにとわざわざ駆け付けたジルクライドに、アイシャは自分が王妃教育を受け王族と婚約した理由を話していた。
「属国になった時に皇国から受けた莫大な支援は毎年返還しています。養父は借りを返し終わった時に王国が皇国の下におもねるのではなく、共に手を取り合う関係にしたいと話していました。わたくしはそんな養父の願いを少しでも手伝えるように努力してきたのです」
隣国からの輿入れというには規模が小さく、フル装備の騎士たちに厳重に囲まれて進む馬車は急ぎ足で街道を進んでいく。それゆえにいつもより多少揺れる室内で、ジルクライドは詰襟のボタンを外しくつろいで話を聞いていた。
「我が国でもぎりぎりの支援だったそうだ。それをただ隣国であるという理由だけで行うわけにもいかず、建前として王国を属国としたらしい。当時の皇王と王太子の間で交わされた約束を今も違えるつもりはないが、時が流れれば関係も意識も変わってくるのだろう。だから今回の婚姻はお前の養父の目論見通りになったわけだ」
王国の侯爵令嬢が将来には皇国の皇妃になる。そうなれば皇妃の出身国を格下だと見下す輩もおとなしくなるはずだ。
「わたくしが無事に殿下と婚姻できれば……の話ですけれど」
ジルクライドがアイシャとの婚約を宣言した舞踏会から一か月での輿入れだが、その間アイシャの手元にもさまざまな貴族の動きの情報が入ってきていた。王国貴族も皇国貴族も共に、である。その中にある不穏な情報はもちろん皇太子たる彼の耳にも入っているのだろう。
「できないと思うか? お前はどうしたい?」
室内ゆえに黒に見える目が笑むように細められ、面白そうに吊り上がった唇がアイシャの挑発を楽しんでいると物語る。
「俺ならお前を守り、何者からも傷つけられることなくこの腕に囲うことはたやすいぞ?」
低く艶のある声が魅了するがごとく甘言を吐くと、アイシャは思わずといったように小さく笑った。
「なんだ? おかしなことを言った覚えはないが」
普通の令嬢にはない反応にジルクライドが首をかしげる。その様子がさらに可笑しくてアイシャは顔を背けて肩を震わせた。
「申し訳ありません。婚姻の申し込みから一か月で輿入れさせるほど強引なお方だと思っておりましたから、少し驚きました。この婚姻をどうするか、わたくしが決めてもよろしいのですか?」
「…………よくは、ないな」
数瞬おいて苦虫を噛み潰したような顔をしたジルクライドが唸るように言った。
アイシャとの婚姻はすでに決定事項で、たとえジルクライドが心変わりをしたとしても取りやめることなどできない。もちろんアイシャが拒否したとしても同じであるにも関わらず、なぜか彼女の意思を問うてしまった黒の皇太子は自身の失言にため息を吐いた。
「お疲れでしたらお休みになられてはいかがですか?」
覇気を纏い鋼のような気配を放つジルクライドの常とは異なる様子に、アイシャは時間がないのも分かっていて提案する。ジルクライドが王国でアイシャを婚約者にすると発言した前後に、皇国でもジルクライドの婚約者が病死したという発表がなされたのだ。そこからあまり日が経っていないことを考えても、彼は息つく暇もなく対応していたのだと推測できる。
だから普段はそつがないであろう皇太子の見せた失言に休息を提案したのだが、ジルクライドは切れ長の濃い茶の目をゆるりと溶かして微笑んだ。
「いや、疲れたわけではない。たった今、自覚しただけだ」
行儀よく座ったまま続く言葉を待っているアイシャに向かって、くつくつと喉を鳴らして機嫌よく笑ったジルクライドが堂々とした声で告げる。
「俺はお前に、俺との婚姻を望まれたいのだと」
だからアイシャの意思を問う真似をしてしまった上に、誘うようなことまで言ってしまったのだと言葉を続けた。
言われたアイシャはしばらく言葉の意味を考えるように沈黙する。その様子すら面白いと観察するように愛でる婚約者に視線を戻し、やがてじわじわと頬を染めると濃い青の目を潤ませた。
「理解したか?」
「…………少し、急ぎすぎるような気がいたします。無理に心を傾けてくださらなくとも、この婚姻を断るようなことはいたしませんが」
狼狽えるアイシャをじつに楽しそうな表情で労ったジルクライドはなるほど、とうなずく。
「確かに突然だな。だが、今言おうと後で言おうとこれが変わることはないぞ」
いつの間にか街に入ったのだろう、外で人々のざわめきや気配を感じるようになった。まもなく領主の館に到着するとわかって頬を染めたまま安堵したアイシャに、椅子から身を寄せたジルクライドは少し掠れた小声で耳打ちする。
「続きはまた明日。今度は俺の話をしてやろう」
必死に平静に戻ろうと奮闘するアイシャを見ながらそう言うと、何食わぬ涼しい顔で馬車を降りエスコートのために大きな手を差し出した。アイシャは自分だけ動揺しているのが悔しくて、いつもの微笑を浮かべながら皇太子のたくましい手を取ると馬車から降り立つ。
「上出来だ」
身長差から見下ろされながら、こちらも凛々しい表情のジルクライドと目を合わせ、まるで打ち合わせていたかのように微笑みあう二人を領主一家が笑顔を引きつらせながら出迎えた。自国の皇太子とさほど年齢の変わらない娘三人を着飾らせて同席させた理由など明白だが、二人は何も気づかぬふりをしたまま本日の逗留先へと入っていったのだった。
領主の館ではこれといって目立つ何かはなかった。少なくともアイシャには。
ジルクライドが連れてきた侍女はアイシャの意を汲んで細々と気が付く優秀な女性だった。旅先ゆえに人手が足りない侍女や侍従を見かねて自らお茶を淹れたり、入浴を一人で済ませてしまったりと手を出してしまったアイシャにも好きにさせてくれたのだ。
本来なら五名以上の侍女が付くのだろうが、今回は邪魔を見越して多少強行に移動日程を組んでいるため、必要最低限の人数しかいない。侍女兼護衛でもあると紹介された彼女はリーサと名乗り、茶色の髪と青い目を持つアイシャとほぼ同じ身長の女性だった。
「お茶を淹れることのできる我が婚約者ならば多少の無理を通せると思ったのだ」
侍女が一人しかいない言い訳を国境の街でしらっと吐いた皇太子に、彼はどこまで自分を調べたのだろうと怖くなったアイシャである。この分ならドレス姿のまま単騎で馬を駆ることも、護身術程度だが剣術を嗜むことも知っているのだろう。
王国の侍女と護衛を帰したのも信頼のおける者たちだけにするためなのだ。ずいぶんと懐深く守ってくれるものだと、大国の皇太子の本気を垣間見た気がした。
「世話になった」
次の日、朝から馬車に乗り込む皇太子と婚約者を見送ったのは領主と夫人のみ。娘たちの姿は朝食の席にもなかったから何かあったのだろうが、涼しい顔のジルクライドはアイシャを馬車に乗せると、今日は対面ではなく隣に腰を下ろした。
「さて、昨日の話の続きをしようか」
「ずいぶん急がれますね」
「明日から宰相補佐が乗り込んでくる。ゆっくり胸の内を話せるのは今日までだからな」
どこまで本気なのか分からない口調で話しながら、ジルクライドの手がアイシャの耳たぶからイヤリングを撫で下ろす。直接触れた熱に体を微かに震わせると、隣の男は息を吐いて小さく笑った。
「こうしてお前に惹かれた今なら理解できる。カテリーナに向けていた気持ちは親愛だった」
どこか納得するような、それでいて寂しさを含ませた声でジルクライドは話し続ける。
「物心ついたころにはすでに婚約者としてそばにいたのだ。お互い気心も欠点も知っていて、一歩引いて俺を立てていた印象がある。だが……彼女の前では自分を『俺』と称したことがない。あくまでカテリーナとの関係は皇太子とその婚約者だったのだろう」
無意識なのか手を伸ばして親指の腹で頬に触れつつ、視線はどこか遠くを見つめる黒の皇子。アイシャは熱い指を気にしながらも彼が亡くなった婚約者への想いを真剣に紡ぐのを聞いていた。
「きっと穏やかな家族にはなれた。お互いの立場と仕事を支えていくには十分だったはずだ」
言葉の端々に表に出せない喪失の痛みが見えるようだ。きっと彼はこうも思っているのだろう。
『生きていれば親愛が情愛に変わっただろう』と。
慰めが必要な彼に、けれどアイシャにかけることのできる言葉はない。アイシャはカテリーナ・オルグレンのこともジルクライド・セル・ディザレックのこともよく知らないからだ。だからただ黙って寄り添い、おそらく二人をよく知らないからこそ零される男の本音に耳を傾けた。
「カテリーナの訃報を聞いて臣下も友人たちも、皆が慰めを口にした。そして同じ口で早々に新しい婚約者を決めた俺を責めるのだ。『彼女を愛していなかったのか』と。そこで亡くした婚約者を人として好ましかったが愛してはいなかったなどとどうして言える? 皇族の伴侶は一貴族のそれとは違うのだなどと言い訳にもならない」
吐き出した感情と吐息を鎮めるように、ジルクライドは大きな手で自身の目を塞いで逞しい身体の力を抜く。
大陸一古く歴史のある大国の皇太子とはどれほどの重圧なのだろう。この尊大で自信に満ちた男が悩み、弱った姿を露わにするのを見てアイシャはふるりと体を震わせた。
「お前を初めて見て言葉を交わしたときに俺は無意識に惹かれたんだろう。他にも皇太子妃候補はいたというのに、お前を手に入れることにためらいを感じなかったのだ。多少強引だとか傲慢だと噂されても構わなかったし、お前に婚約者がいなくて神に感謝もした。そうでなければディザレックの国力を使ってでも攫っていったかもしれない」
視線は隠したままだ。今、目を合わせれば襲いかねないとでも言いたげな仕草と熱を含んだ言葉に鼓動が早くなる。そんなアイシャを気にすることなく心の内を言葉にして吹っ切れたのか、自身の目を覆っていた手を外したジルクライドが今度はどこか悔しそうにそれでいて熱い眼差しを注いできた。
「気持ちを自覚したとたんに制御が効かなくなるとは、本当に厄介な感情だ。だが無くていいものだとも思わないあたり、俺はずいぶん浮かれているのだろう」
そう言って普段は鋭く覇気を纏っているであろう皇国の皇子が楽しそうにニヤリと笑うと、アイシャもふわりと余所行き用の微笑みを浮かべて。
「社交としての口説き文句ならば不合格ですが、皇太子たる殿下の胸の内を誠実に告げてくださったことには好感が持てます。ですからわたくしも本当のことをお話しいたしますね……正直言って緊張で吐きそうですわ」
皇国の皇太子に身も心も熱く求められたというのに浮かれた様子のないアイシャを見て、ジルクライドは驚きで固まった。もちろんアイシャとて婚約者に気持ちを向けられれば嬉しいし、政略だと思っていればなおさら安心する。それに誰しも愛し愛されて幸せになりたいと思うのはおかしいことではないだろう。
だがジルクライドはディザレック皇国の皇太子である。王国のお飾りの王子妃とはわけが違うのだ。これからの生活に不安を覚えているアイシャは、皇都に近づくにつれて緊張が高まっていた。
「殿下のお言葉もお気持ちもとても嬉しいのですけれど、わたくしはご実家に帰られるご自身とは違うのです。ですからその、いろいろと、もう少しゆっくりお願いしてもよろしいでしょうか」
それでなくとも婚約から輿入れまで一か月という異例の短さなのだ。それまでまったく意識もしていなかった皇国の皇太子妃などという地位に、慌てて対処しなければならなかったのはアイシャだけである。
嬉しいやら緊張するやらで余裕のないアイシャを上から覗き込んだジルクライドは、「ははっ」と掠れた声で笑うと婚約者の頬を優しく撫でた。
「すまない。お前を追い詰めるつもりはなかった。ただ、これからのことを考えると俺の本当の気持ちの在処を知っていて欲しかったのだ」
低いが耳に心地よい声がいつもの皇子のものに戻る。それが今までの会話の声がいかに感情的で、熱を含んだものだったのかを際立たせ、ジルクライドの真実を明確に浮き上がらせた。
「今はまだ共に歩む覚悟さえしてくれればいい。できるか?」
挑むように向けられた王者の視線に、それまでの動揺をすっかり隠したアイシャが、こちらも美しい笑みを浮かべて頷いたのだった。