黒皇子の恋・後日譚7【皇太子妃は涙する】
「他国での甘々イチャイチャを書くとか言ってなかったか?」
「今回の課題は『アイシャ(わたくし)に嫉妬をさせてみよう』らしいです」
「まぁ、男としては愛している女性からの嫉妬はご褒美以外の何物でもないがな」
「そうなのですか?」
「程度にもよるが俺は好きだ」
「わたくしもジルからなら嬉しいかもしれません」
「俺は嫉妬深いぞ。うかつなことは言わないほうがいい」
「……(それも女冥利に尽きると言ったらマズいかしら?)」
【現在】
背後に大きな湖をいただく王城の中庭、薔薇が咲き乱れむせ返るような芳香の中でディザレック皇国の皇太子ジルクライド・セル・ディザレックは濃茶の目を微かに緩ませて、目の前の女性へと言葉をかけた。
「どうか私の国に来てくれないだろうか。私は貴女を我が国に迎え入れたい」
低い声は穏やかに、まるで甘えるような響きも含ませて。
人払いの済まされた庭にいるのは黒の皇子と金糸の髪を持つ小柄な女性、そして少し離れた場所にローウェルとウェイドを護衛として連れたアイシャだけだ。
「はい! ジルクライド殿下。私は貴方のところに行きますわ!」
淑女としてはいささか礼儀に欠ける返事をした小柄な女性は、新緑色の瞳を輝かせて美貌の皇太子をほほを染めて見上げた。答えを聞いた皇子は目を細め、微笑を浮かべて女性の手を取り口づけるふりをする。
「っ……」
「アイシャ様」
気遣う声はウェイドのもの。動揺を悟られたのだと判ってアイシャは寄り添う男女に背を向けた。
「判ってはいましたけれど、やはり辛いものですわね」
ジルクライドを主と戴く彼らに零した小さな本音に、護衛騎士たちは視線を合わせてそれぞれに無表情に付き従う。
「馬車の用意は?」
「滞りなく」
アイシャの問いに答えたのは護衛騎士ウェイドだ。
「第二王子殿下は?」
「ジャグレード王太子殿下が抑えております」
「アロイスからは?」
「準備はすべて整ったとの報告が今朝」
「……長かったですわ。たった六日ですのに」
アイシャが見上げると青く澄んだ空が広がっている。背後からは喜びに満ち溢れた女性の声がまるでアイシャを追い立てるように響いてきて、感慨にふける暇を与えてくれないらしい。
ジルクライドの腕に張り付くように組み付いた女性が、アイシャを見つけて嬉しそうに笑う。まるでアイシャが傷つくことが楽しくて仕方がないのだと見て取れ、背後にいたローウェルの腰に下げられた剣がカチャリと鳴ったがアイシャは何もなかったかのように歩き出した。
ようやく想いを交し合ったような親密な雰囲気を漂わせて歩くジルクライドと小柄な女性。エスコートというよりはジルクライドの腕に女性がしがみついている様子をアイシャは無表情で見守る。
やがて王城の西門にたどり着くと、そこに用意してあった豪華な馬車に女性を乗り込ませてジルクライドは視線を合わせた。
「一緒に行けなくてすまない。皇国に入れば私の側近が貴女を出迎える手はずになっているから、なにも心配する必要はないよ」
「どうしても一緒に行ってはくれないのですか?」
不安そうに小さく震えながらしがみつく女性の背中を撫でながら、ジルクライドは濃茶の目を細めて言葉を紡ぐ。
「いろいろな手続きは皇国に帰ってからになる。それをつつがなく終えれば貴女を私の国に正式に迎え入れることができるのだ」
そっと華奢な肩を押して女性を馬車の中へと戻すと、黒の皇子は切なげな表情でもう一度確認する。
「貴女は私を選んでくれたと信じていいのだろうか? 第二王子に未練はないのか?」
「はい。私はジルクライド殿下を愛しておりますわ。メルギルド殿下に未練はありません」
可愛らしい柔らかな声が告げる内容にうなずいたジルクライドが名残惜し気に馬車から離れて出発の指示を出すと、小窓から顔をのぞかせた女性が心細そうな健気な笑みを浮かべて離れて行くのを見送ったのだった。
【二日前】
湖の王国はアイシャの祖国の森の王国と同程度の大きさの国で、同じような政治体制を敷いている国だ。今は皇国に後押しされた森の王国がようやく災厄前まで復旧してきたのに対し、湖の王国は何事もなく発展を遂げてきた。
その湖の王国にディザレック皇国から結婚したばかりの皇太子夫妻が訪れたのは三日前。もともと公務としての外遊先ではあったが、そこでジルクライドは運命の出会いを果たしたとうわさされていた。
相手は第二王子の新しい婚約者。名をサーシャ・グリーンフィールと名乗る女性は貴族の子息が通う学園にてメルギルド第二王子に気に入られ、愛をはぐくみ、幼少期より婚約を交わしていた公爵令嬢がサーシャを虐げていたために、第二王子は婚約を破棄してサーシャと新たな婚約を結んだのだという噂の渦中の人物だった。
一部の人間には女神のように慕われ、周囲の人間からは魔女のようだと揶揄された女性を一目見たジルクライドが、逗留中の自分の話し相手として指名したことはすでに大勢に知れ渡っていた。
だが公務の場では結婚したばかりの妻を大切にエスコートする姿が当たり前のように見られていたため、サーシャを愛人にするつもりだとか皇太子妃は皇国に戻ってから離縁されるなどと噂だけが独り歩きをしている状態にアイシャは苦笑する。
「わたくし一人が歩いているだけで新しいうわさが流れるのですから、苦労はしませんね」
背後にいるウェイドも向けられる視線の多さにうんざりしたように肩をすくめた。
「今この国がどれだけ揺らいでいるのかが判りますね。第二王子の婚約破棄と平民出身の実績のない女性との婚約、そして女性を取り巻く高位貴族の子息たちの動向。不安になるのも判ります」
「実績はわたくしがそうであったように今から作ればいいでしょう。平民とはいえ貴族の庶子でしたら、高位貴族に養子に入れば済むだけです。そして取り巻いている男性たちは第二王子の側近なのでしょう? 何がそんなに不安に思うのかしら?」
そのあたりもうまくやるのが王族の役目だ。第二とはいえ自立した国家の王族なのだからそれなりの教育はなされているはずだと首を傾げたアイシャに、ウェイドは穏やかに微笑みながら会話を続ける。
「王族としての義務の放棄、だそうですよ」
「……事実でしたのね」
訪問する国の様子をあらかじめ知っておくのは当然だが、あげられた報告は悪い方に誇張されているのだと思っていたアイシャは少しばかり驚いた様子を見せた。
「それよりも本当に出向かれるおつもりですか」
どこか嫌そうな顔でアイシャを説得しようとするウェイドに同行していたローウェルも無言で首肯するが、ディザレック皇国の皇太子妃の足は止まることはなく。
「皇国筆頭騎士の力が見たいというのです。示さずにいることはできません。ジルクライドの身が空かないのでしたらわたくしが行くのは当然ではないかしら」
「……アイシャ様は意外と負けず嫌いなんだな」
思わずといった風に零されたローウェルの言葉にアイシャはくるりと振り返って毅然と見上げた。
「ローウェルが皇国最強騎士の一人であることに変わりはないのに、わたくしの護衛を任じられたからといって馬鹿にされるいわれはありませんわ」
それは午前中の公務の後、サーシャを誘って去っていくジルクライドを見送っていたアイシャだったが、彼らが消えてから第二王子の若い護衛騎士に鼻で笑われたのだ。
『気にもかけられない皇太子妃につけられた護衛など二流だろう』と。
相手はこの国の騎士団長子息で第二王子の側近(ウェイドは平民女の取り巻きと言っていた)だったが、何かを勘違いしていた様子にアイシャはふわりと笑みを零して言った。
『ではわたくしの騎士に一流の剣術を見せてくださいませ』と。
その時の様子を思い出したのかウェイドはかすかに身を震わせる。高貴な人物の無言の怒りほど恐ろしいものはないと、この時ほど実感したことはなかったのだが、自分の友人で相棒で上司でもある男は違うようにくみ取ったらしい。
「アイシャ様は可愛らしい。私は仲間がいなければ人より少しだけ力が強い騎士にすぎないのに、私のために怒ってくださったのですね」
ローウェルの素直な物言いに、憤慨していたアイシャは恥ずかし気にほほを染めてうつむいた。
「貴方を侮辱するということはジルクライドを、ひいてはディザレック皇国を侮辱することと同義語です。それに貴方がどれだけ努力を積み重ねて今の地位にいるのか、ロマリー様とウェイドから聞いておりますもの。大切な人の名誉くらい守れなくては皇太子妃など務まりませんわ」
見上げるほどに背の高い青年騎士に蒼い目を向けると、嬉しそうに笑ったローウェルがひざまずいて手の甲へと口づける。厚みのある体格と短く刈り込まれた茶色の髪、好戦的な炎を宿した緑の視線を見下ろしながらアイシャは自身の護衛騎士へと激励の言葉をかけた。
「相手を壊さぬように。それさえ守れば遠慮なく叩き潰してかまいません。後のことはわたくしが責任を負いましょう」
「かしこまりました」
なにやら楽しそうに言葉を交わす主従を見ていたウェイドは、さすが主の伴侶だと仕方なさそうな笑みを浮かべる。
それからしばらく歩くと騎士団の訓練場に出た。ここは王城の中でも奥まった場所にあり、主に近衛騎士や王族男子などが鍛えるための場所なのだという。あらかじめ訪れることは知らせてあったためか騎士服を着た屈強な男性たちが立ち並び、午前中にアイシャに暴言を吐いた子息もそこで待ち構えていた。
「恥をかく前に止められてはいかがですか?」
「せっかく他国に来たのですもの。訪れた国の騎士に教えを請うのも面白いのではないかしら? まぁ、貴方がローウェルよりも強ければ……の話ですけれど」
あざける様子は見えないがどことなく傲慢な態度に、アイシャは外交用の笑顔を浮かべて相手を挑発する。本気をだしていいのならここにいる全員で切りかかってきてくれてもいいらしいのだが、護衛の任務上、それは許可できないとウェイドに釘を刺されたローウェルは儀礼用の制服のまま木刀を手にして前に進んだ。
「アイシャ殿下。自国の騎士を信用したいのはわかりますが、私はこの国の武術大会で準優勝した腕前なのです。たかが護衛騎士ごときに遅れをとることはありませんよ」
優し気な面持ちでこちらを見下してくる騎士団長子息にアイシャはゆったりとほほ笑んで見上げる。
「貴方のソレはわたくしのたかが護衛騎士に負けた時の言い訳なの? それとも女性にうつつを抜かしていて鍛錬不足からくる不安で戦いたくないからかしら? どちらにしろたかが訓練ですわ。言葉など必要ありません」
穏やかに笑いながら辛辣な事実を言ってのけたアイシャに、近くに控えていた湖の王国騎士たちが笑いをこらえるように俯くのと騎士団長子息が顔を赤くして視線を鋭くさせるのは同時だった。
「訓練試合だ。武器を落とすか降参した者が負けとする」
騎士団長子息が怒鳴りだす前に面倒を嫌った壮年の騎士が場を取り仕切る。ピリピリと感じる気配に周囲を囲む騎士たちは真剣なまなざしで見つめ、騎士団長子息はローウェルを殺さんがばかりに睨んだ。だが、当の茶髪の騎士は何度か木刀を握り直してブーツの先までつま先を押し込めるしぐさをすると、剣先を下げて目の前の青年を見下ろす。
「怪我をさせたら済まない。いつ来てもいいぞ」
その声はいつものように気負わず皇国最強騎士の一人とは思えないのんびりとしたものだが、なぜか騎士団長子息は額に汗を浮かべながら一歩たりとも動くことはなかった。
否。動かなかったのではなく、動けなかったのだ。
「へぇ。俺が判るか。少しは鍛えていたんだな」
「ローウェル、このままでは試合になりません。さっさと緩めて終わらせてください。アイシャ様をいつまでもここに立たせておくわけにはいきませんよ」
楽しそうに朗らかに笑うローウェルにアイシャの斜め前で護衛していたウェイドが指示を出すと、素直にうなずいた青年はアイシャに振り返って丁寧な騎士礼をとった。
それは完全に隙を見せた姿であり背後から襲うなど騎士としての戦い方ではなかったが、騎士団長子息は先ほどまでの圧力から解放された反動のように無言で切りかかる。
ガン!
体格のいい青年の体重の乗った一撃は窮屈そうな騎士服を着た腕が持ち上げた木刀に完全に止められ、振り向きざま不完全な体勢での防御にローウェルは緑の目を細めて唇を釣り上げた。ギリギリと合わされる木刀は徐々に押し返され、騎士団長子息の足が小刻みに滑って後退していく。押し返そうと歯を食いしばり木刀を両手で抑える青年と、真横に防御した木刀を片手で構えていた皇国騎士が顔を近づけた。
「俺はディザレック皇国でも五強に入る騎士で、今はわが主の命と同等に大切な方をお守りする任に就いているのだ。修羅場を潜ってきた数が違う。だからお前は負けたことを恥じる必要はない」
始まってまだ数十秒しか経っていないというのに慰めを口にするローウェルに、周囲で見ていた湖の王国の騎士たちは騒めいた。しかし肝心の騎士団長子息は汗を流しながらも沈黙を守り――突如ローウェルの気配が爆発するように強まると、木刀で押し返された騎士団長子息が後ろへと吹き飛ばされる。
次の瞬間、そのまま勢いに負けて倒れこんだ青年の手から木刀がはじかれ、いつの間にか間合いを詰めたローウェルが首元へと剣先をピタリと突き付けていた。
アイシャは離れていたところから見ていたが、ローウェルがいつの間に移動したのかも判らずにただ勝利したことだけを認識するのと、審判をしていた壮年の騎士が試合の終了を告げるのは同時だった。
歓声はなく、沈黙がローウェルを労う。呆然として立ち上がろうともしない騎士団長子息に軽く一礼してアイシャの元へと戻った護衛騎士は、訓練試合などなかったかのように涼しい顔でにっこりとほほ笑んだ。
「さすがジルクライドの騎士です。見事な試合でした」
人目がなければ頭を撫でていたかもしれないと思わるほど上機嫌に配下を褒めたアイシャに、ひざをついて手甲にキスをしたローウェルが謝罪を口にする。
「護衛中にお側を離れて申し訳ありませんでした」
「わたくしが試合を見たいと頼んだのです。謝罪する必要はありません」
そこまで会話をしてから、アイシャはふらつきながら立ち上がった騎士団長子息をも労った。
「先ほどローウェルも言いましたが、負けたことを恥じる必要はありません。試合を見せていただきありがとうございました」
そこまで過ぎてから我に返ったように周囲の騎士たちの拍手が巻き起こる。突然の騒動に驚いたアイシャの背後からウェイドが近づくとそっと耳打ちした。
「あまりにも圧倒して勝ってしまいましたので彼らは呆然としていたようです」
ああ、なるほど、そういうことかと納得したアイシャに審判をしていた騎士が近づいて一礼する。
「こちらこそ訓練試合の相手をしていただき、ありがとうございました。まだまだ鍛錬が足りないと教えていただきましたので、これからも精進してまいります」
「こちらこそ予定にない訪問を歓迎してくださったことに感謝いたします」
お互いに穏やかに終わりを迎えようとしていたのだが、周囲のざわめきに紛れて騎士団長子息のつぶやきが訓練場に放たれた。
「はっ、俺たちの大事な女性に夫の心を奪われたくせに」
「!」
「あ、バカ!!」
それは一瞬の出来事だった。
訓練場に大きく響く硬い音は目を見開いた騎士団長子息の背後の石壁から。
殺気も燃えるような闘気も浮かんでいない凪いだ翡翠の目を細めたローウェルが、いつの間にか抜いていた腰の剣を騎士団長子息の頬を掠めるように石壁に突き刺さしていて。
それを止めようとしたらしいウェイドがこめかみに血管を浮かべて笑っていたが、一瞬の沈黙の後、固まっていた周囲の中で一番初めに復活したのも彼だった。
「ローウェル。毒虫を潰すなら剣は使うな。大丈夫ですか? 虫に刺されませんでしたか?」
取ってつけたような言い訳に笑顔で騎士団長子息からローウェルを引き離すと、心配そうに頬や首筋を確認する。
「たとえ騎士でも毒虫に刺されたら大変ですわね。ローウェルが気付いて良かったわ」
次に我に返ったらしいアイシャが笑えば、湖の王国の騎士たちもぎこちなく動き始める。
手のひら一つ分ほど石壁に突き立てた剣を引き抜いたローウェルは、黙ったままアイシャの元へと戻っていくと刃こぼれ一つしていない剣を鞘に戻した。
「い、今のは……!! 俺をころ」
「質の悪い毒虫もいますからね。念のため医者にかかることをお勧めします。礼は必要ありませんよ。友好国の騎士を助けるのに理由はいりませんからね」
不穏な言葉を口にしようとした騎士団長子息を遮ったウェイドの配慮に、壮年騎士が慌てて部下に子息を医務室に運ぶように指示する。ここで皇国の皇太子妃に喧嘩を売ることがどのような事態を引き起こすのかを理解できるあたり、男は無能ではないのだろう。ならば説得は簡単だとアイシャは微笑みながら壮年騎士にもう少し騎士団の話を聞きたいとお茶に誘ったのだった。
【時は現在。ジルクライドが馬車を見送った後に戻る】
「これでこちらの仕事は終わりだ。アイシャの方は?」
馬車が小さな門を出て見えなくなってから低く不機嫌そうに状況を確認してくるジルクライドに、いつの間にか背後に控えていたグレンは小声で報告する。
「あちらも滞りなく終えたようです。件の騎士はこの国から我が国へと移籍する手はずとなっております」
「ウェイドからは?」
「騎士団長子息があまりにもアイシャ様に無礼なのでローウェルが叩き潰そうとしてしまったこと以外は順調に進んでいると」
歩きながら報告が気に入らなかったのか、ジルクライドの眉間に深いしわが寄る。
「……まぁいい」
幾分速足で歩くジルクライドが向かったのは先ほど別れたばかりのアイシャの部屋だった。護衛騎士から見守られながら入室すると、穏やかな表情のアイシャがお茶を煎れていた。
「いらっしゃると思いました」
三人分用意されたそれをじっと見つめたジルクライドは、大きく息を吐いてアイシャの隣に座る。
「おやおや。私の方が早く着くと思っていたんだが」
そういってアイシャに用意されていた客間を訪れたのはジャグレード第一王子、この湖の国の王太子だ。長い白金の髪と湖の王族だけが持つ淡水色の目を持つ三十前半の男性は、不機嫌なジルクライドの様子を見てもひるむことなく向かいのソファに座る。
「メルギルド殿下の様子はいかがですか?」
新しい婚約者が先ほど皇国に向かったことを聞いたであろう第二王子をアイシャが気遣えば、ジャグレードは軽く鼻で笑ってお茶を飲んだ。
「馬鹿みたいに落ち込んでいる。まぁ、あの程度なら一か月もあれば立ち直るだろうさ。本当に貴方方には感謝するよ」
「あの程度の女に引っかかるような教育をしている方が悪い」
かなり不機嫌なジルクライドに年上であるはずの王太子は朗らかに笑う。
「森の王国がゴミをこっちに寄こすから悪いんじゃないか」
「そのゴミを片付けておかなかったそっちも悪いだろう」
「申し訳ありません。祖国の者がご迷惑を……」
「アイシャが謝る必要はない」
「妃殿下の責任ではありませんよ」
言い合う二人に恐縮したアイシャが謝罪すれば、二人は同時に否定した。妙に息の合った様子は、友人のような気やすさを感じさせてアイシャは不思議そうに二人を眺める。
「いや、しかし少しばかり心配してしまいました。貴方まで彼女に落ちたのかと」
美味しそうにお茶を飲んだジャグレードの言葉をジルクライドは鼻で笑った。
「俺とアイシャの将来に関わることだ。手を抜くはずがないだろう」
言葉遣いが荒いのはジルクライドとジャグレード第一王子が出会ったのが、お忍びで訪れていた皇都アンドルーズの城下だったからだ。歳の離れた二人はそれでも友人になったのだと説明されたのは、湖の王国に来る前のことだった。
―――王国の不穏なうわさが届くとともに、ジルクライドに一通の書簡が届けられた。それはジャグレード王太子からのもので、不穏なうわさの元を断ちたいので協力してほしいというものだった。そのようなことをなぜジルクライドとアイシャに依頼してきたかといえば、元凶の女性は過去の災害時に国外に逃げた森の国の国王の血縁だったからである。
災害当時、森の王国の王太子が唯一強力なコネのあった湖の王国に国王が逃げ出したのは必然だったのだろう。森の王国への入国の禁止とともに湖の王国でも外れの土地に押し込められた彼らは厳重に監視されてきたのだが、時とともに監視の目は緩くなり一人の女児がとある男爵の養女になったことを見逃してしまったのだ。
もともと自分たちは森の王国の正当なる血筋の王家であると妄言を吐いていた彼らだが、数代を経て生活は裕福な商人程度になっていたらしい。それを憂いた者が女児に洗脳まがいの教育を施し、さらに運の悪いことに彼女は男を手玉に取る術に長けていたようで、貴族子息子女が集まる学園で第二王子を筆頭に高位貴族子息たちを次々に篭絡していったのだ。
『いや、凄いよな。体の関係があるわけじゃないのに意のままに男を操っているんだよ。もう少し頭が良ければ密偵要員にでも使いたいくらいだ』とは、湖の王国に着いてから密談した時にされたジャグレード王太子の発言である。
おかげで第二王子は幼少期より婚約者だった令嬢を夜会という公の場で捨てて、平民に近い身分の娘を新たな婚約者として据えたのだ。国王と王太子が第二王子を切り捨てて事態を収拾しようとするも、隣国の王女である第二王子の母親が反対していたために頭を悩ませていたという。
『それで女性の方を調べたら森の王国の関係者だったって判ったから、宗主国の跡継ぎ様に少しばかり手伝ってもらおうと思ってね』
柔和なまなざしに淡い色彩を持つ子持ちとは思えない若々しい男は、その優し気な風貌からは想像しがたい毒をその口からためらうことなく吐き出した。
『彼女は身分が高ければ高いほどいいらしく、私や父にまで声をかけてきたからね。ジルクライドが来れば彼女を異母弟から引き離して、皇国に元国王の一族への人質として連れて行くことができるだろうと思ったんだ。そうすれば馬鹿な義母も納得するし、私が馬鹿な弟の余計な恨みを買うこともないだろう』
『途中から本音と建前が逆になってるぞ』と突っ込みを入れるジルクライドも渋々ながら納得したのは、アイシャが森の王国の出身だからだ。後々の面倒を事前に片づけることにしたのには感謝しているが―――
「元国王の一族に報告を行っていた騎士も家族もろとも皇国に引き取ってあの女の偽情報を流し続ける契約を結んだし、あの女は山間の館に閉じ込めておいて騎士や暗部のハニートラップの試験要員として利用することになっている。定期的に若い男が訪れるんだ。不満は最小限だろう」
アイシャの腰を抱きながらジルクライドが報告するとジャグレード王子はお茶を飲み干して立ち上がった。
「これでも新婚の君たちに不名誉なうわさを立てさせて済まないと思っているんだ。だから元王族の彼らは一部の過激な者を除いてこれからもこちらで監視していくよ。あまりにも選民思想がひどい連中は館が燃えて焼死するかもしれないが、あそこも古い建物だから仕方がないね。これで手打ちでいいかい?」
淡い水色の目は湖のように凪いでいるが、底に何を飲み込んでいるか知る者は少ない。その底の見えない彼にジルクライドは尊大な笑みを浮かべて自身の要求を口にした。
「かれこれ六日間、この件に関わっていたんだ。報酬として湖の王国特産のシルクのレースを使ったアイシャの下着を一式用意してくれ」
「あれは王族でも年間注文枚数が制限されているのに……まぁ新婚さんにはいいプレゼントになるか。了解したよ。適度に透けて、豪華だけど清楚な雰囲気と繊細な技巧を施した品を皇国に届けさせよう」
「透け……?」
首をかしげるアイシャに『楽しみにしておいて』と笑ったジャグレードが退室すると、侍女や護衛騎士までが部屋を出ていく。まるで最初から打合せしていたかのような手際の良さに、手配したであろうジルクライドを見上げると、美青年は両手を広げて愛おしそうな笑みを向けてきた。
「来い」
告げられた一言にアイシャの閉じ込めていた感情があふれ出る。誰にも気づかれないようにしていたつもりだったが、ジルクライドには筒抜けだったらしい。逞しい胸に飛び込むとひざ裏に手を入れたジルクライドは自分の膝の上にアイシャを乗せてしっかりと抱きしめた。
「さみしい思いをさせて済まなかった」
低い声が鼓膜を通さず直接体の内側に響いてきて、アイシャは痛む胸を押し付けるように愛しい夫の首に手を回してさらにきつく抱き着く。
「いいえ。ジルが謝ることではないわ。わたくしの祖国の不始末が原因なのに」
そこまで言ってから言葉を途切れさせたアイシャは、しばらく体を微かに震わせてからそっと囁くように胸の内を告げた。
「それでも寂しくて、悲しくて、痛くて」
「ああ」
「また捨てられたらどうしようと悪い想像ばかりしてしまって」
「俺がお前を捨てるのか」
「あの方と立ち去るところや、笑いあっている場面を何度も夢に見て飛び起きて」
「抱きしめると落ち着いて眠れたな」
「政略結婚でも構わないと思っていたのに……こんなに愛しくて辛いのはジルクライドの責任よ」
「そうだな。俺の責任だ」
ポロポロと零れる涙を唇で吸いながら、ジルクライドは見上げてくる青い瞳をのぞき込む。
「言いたいことはそれだけか? 客室は別だったのに毎晩お前のベッドに入り込んだことは? お前の安全を最優先にするためとはいえ、常にそばにいるローウェルとウェイドに八つ当たりをしたことは? 昼間、何度か我慢できずに部屋の外でも強引に口づけたことは? 公務を後回しにすれば三日であの女を落とせたが、お前に会わずにいられなかった俺のせいで六日もかかったことは?」
いつもより素直なアイシャが驚いた顔でジルクライドの告白を聞いていると、幸せそうに微笑みながら黒の皇子は唇に口づけた。しばらくお互いを味わってから、熱くなった吐息を吐きだしたアイシャが涙の止まった目で見上げながら小さく笑う。
「ほとんどは嬉しかったです……でもローウェルとウェイドには謝りましょうね」
「いや、仕方ないだろう。あいつらは俺よりお前と一緒にいたんだぞ。八つ当たりくらい甘んじて受けるべきだ」
「彼らは仕事ですよ」
「そうだな。だが俺はお前を悲しませても今の立場を捨てることはない。ディザレックの皇太子でなければお前に会うこともなかったし、お前を娶ることもできなかったからだ。お前を失うくらいなら俺はお前を悲しませても妻でいてもらうし、今回のようにお前を守るためなら多少の非道を厭うつもりはない。覚えておけ、アイシャ。俺はお前を愛しているんだ」
不安で縮こまっていた心を包むように、気持ちの熱と一緒に燃えてしまえとばかりに言葉で伝えてくるジルクライドに抱き込まれながら、アイシャはいつの間にか軽くなった心で笑みを浮かべた。愛しい妻のいつもと同じ様子に安堵した黒の皇子がひざの上にいた彼女を抱き上げて寝室に連れ込むのはすぐ後。
年上の余裕を見せた男が溜まった不満を晴らすように第二王子と側近にアイシャとの甘い雰囲気を見せつけるのは明日以降の話。
「ところで透ける下着ってなんですか?」
「どういったらいいんだろうな。女性の身体を美しく魅せるし、男心をくすぐるアイテムってところか……お前は体毛が黒いから色は白がいいな。丁寧にじらしながら脱がせてもいいし、ビリビリに破っても……いや、アレは希少だから使い切りはできない。なら……」
「(脱がすのが前提の品なのですね)」