黒皇子の恋・後日譚6【黒皇子は嫉妬する】
「皇城内だけでなく、皇都も封鎖して探し出せ!」
「ジルクライド? どうかしましたか?」
「アイシャか。ここに完結詐欺を働いた者がいる」
「まぁ」
「完結だ、最後だなどと言って多くの人間を惑わせる悪人だ」
「ですが今回はブックマークのみの読者様へ向けた報告のようですわよ」
「何の報告だ」
「よく判らないのですが同タイトルでムーン進出がどうとか、里村という偽名を使っているとか……」
「くだらないことなら牢屋に入れてやる」
王国でのディザレック皇国皇太子夫妻のお披露目は無事に終了した。
一番のメインイベントであった夜会で両国ともに有意義な結果に終わり、滞在中に王国の次期国王の決定が周知され、皇太子一行が帰国してから第一王子夫妻の謹慎が発表されることになった。
王国滞在四日目。
アイシャはスティルグラン侯爵家に里帰りするために、ジルクライドとともに王都にある屋敷を訪れていた。
「皇太子殿下、妃殿下。ようこそお越しくださいました」
出迎えたスティルグラン侯爵と夫人は娘の里帰りを嬉しそうに出迎える。
「お久しぶりです。スティルグラン侯爵、夫人」
「ただいま帰りました。お父さま、お母さま」
軽いあいさつの後、応接室に通された二人はそこで待っていた人物と顔を合わせた。
「アイシャ」
「サイアーズ」
室内にいたのはジルクライドと同じ年のころの男性だ。背中まである長い金の髪を耳にかけ、銀縁の眼鏡の奥からアイシャと同じ青い目が観察するように向けられている。身長もジルクライドとほぼ同じだが、幾分サイアーズと呼ばれた青年のほうが細身で知的なイメージが強く、アイシャの名を呼んだ声は親愛に満ちて外見から考えると意外と柔らかかった。
「ジルクライド。こちらはサイアーズ・ハイデンゲイン子爵です。わたくしの親戚ですが、将来はこの家を継ぐ方ですわ。サイ、彼がディザレック皇国のジルクライド皇太子殿下です」
初見の彼らの間に立ってアイシャが紹介すると、ハイデンゲイン子爵と紹介された男性は完ぺきな仕草で最上級の礼をとった。
「皇太子殿下におかれましては初めてお目にかかります。サイアーズ・ハイデンゲインと申します。アイシャとは幼少の頃より親しくさせていただいておりました。本日はアイシャに結婚の祝福を、と侯爵に無理を言って同席させてもらいました」
サイアーズのあいさつにジルクライドはピクリと反応するも、アイシャは嬉しそうに青年を見上げる。
「サイはスティルグラン侯爵家の跡取りとして、スティルグラン侯爵家に養子に入って爵位の一つを継いだのよね?」
一同がソファへと座りお茶が出される前に珍しく興奮したようなアイシャが質問した。
「ええ。侯爵家の令嬢と婚姻し、婿としてこの家に入る予定だったのですがああいったことがありましたので」
アイシャが第一王子の婚約者だったためエルシャを娶って次期スティルグラン侯爵になるはずだった彼は、アイシャの婚約破棄と同時に彼女の婚約者候補となっていた。だがアイシャの婚約破棄はスムーズに処理されたのだが、エルシャが王宮から戻らなかったためサイアーズとエルシャの婚約破棄の手続きが思いのほか進まず、手をこまねいている間にディザレック皇国より皇太子訪問の知らせが届いてしまったのだ。
秘密裏にではあるが皇太子の婚約者候補としてアイシャの名を挙げられた以上、それを差し置いて強引に婚約を結ぶわけにもいかなかったためにアイシャには婚約者がいなかったのである。
「もし手続きが早くに済んでいればアイシャは私の妻になっていたと、侯爵とも話していたのですよ」
「そうねぇ。貴方がこの家に入ることは決まっていたから、エルシャが家を出るのならわたくしが残る予定でしたもの」
「だから第一王子との婚約が無くなった後、すぐに会いに来たでしょう。貴女を他の家に取られないように」
「あの頃は大変でしたものね……」
当時の苦労を分かち合うようにジルクライドを除く四人でしみじみとお茶を飲んでいると、珍しく憮然とした雰囲気を漂わせたジルクライドが口をはさんだ。
「アイシャであれば入り婿など必要なく侯爵家を継げるのではないのか?」
侯爵夫人ではなく女侯爵として立てたのではないかと指摘すると、さらにスティルグラン侯爵とアイシャ、そしてサイアーズが苦笑いを漏らす。
「この国では女性の爵位継承が認められておりませんでしたが、婚約を破棄された段階でわたくしが侯爵位を継いで女性の地位向上を図るつもりではありましたわ」
「そしてそのパートナーに最適だったのが彼だったのです。サイアーズはとても優秀な男ですからアイシャを十分にサポートできたでしょう。それに二人は昔から仲が良かったですし」
アイシャは過ぎた思い出を語っているだけだが、スティルグラン侯爵はどこか機嫌よく話をしていた。なぜかジルクライドはそれが気になって子爵を見返す。
「そういえばアイシャが好きなデボネアのはちみつを持ってきたんだ。ちょうどこちらに来る前に手に入ってね。お茶に入れるのが好きだろう?」
そういってサイアーズはソファに置いてあった荷物から手のひらにすっぽり収まる大きさの小瓶を取り出した。
「毒見は必要かな?」
薄ピンク色のはちみつを開けながら首をかしげて問う青年にジルクライドは無言で手を差し出すと、手のひらに受けたそれを躊躇せず舐めとる。
「ジルクライド!」
「殿下!」
アイシャと護衛のウェイドが驚く中、黒の皇子はしばらく味わった後に感心したように呟いた。
「なんだ? 味見をしただけだ。だがこれは美味いな。花の香りもいい」
サイアーズを信用していると言いたいのか、アイシャを守るためなのか、またはただ単に舐めてみたかっただけなのかは判らないが、皇国の皇太子は濃茶の目を細めて薄く笑う。それを仕方がないと諦めたように見ていたアイシャは、せっかくだからとはちみつをお茶に入れて堪能した。
「これはレイムという蜂がデボネアという花からだけ集めた蜜です。この小瓶で年間10本程度しか採取できない貴重品でハイデンゲイン子爵領のひそかな名産品となっております」
サイアーズのセリフは何も知らないジルクライドに向けての説明だ。こんなことはアイシャもスティルグラン侯爵夫妻も承知していて、皆がしばし甘いお茶を楽しむ。
「でもサイ。このはちみつは人気があってたまたま手に入るような物ではないわ。誰かへの贈り物ではなかったの?」
実家にいるせいかいつもよりふわふわとしたアイシャの物言いに、長い金髪を揺らして冷酷そうな顔立ちの男が優しく笑った。
「本当は君へのプレゼントとして予約していたんだ。これから一緒にこの家を守っていこうと告白するときに渡すつもりだったんだよ」
それを聞いてジルクライドの目が細められる。隣にいるアイシャはもちろん気づかないほどの変化だが、正面から見ている男には判ったはずだ。それなのにサイアーズは何も気付かなかったかのようににこやかに笑顔を保ち続ける。
「貴方の元に出向かなければならなかったのはわたくしの方でした。エルシャのわがままに付き合わせてしまってごめんなさい」
「彼女のわがままはいつものことだからね。アイシャが謝る必要はないと昔から言っていたはずだけど、ちょっと離れている間に忘れてしまった?」
「そうだったわね。サイ、ありがとう」
「どういたしまして。私のお姫様」
この時点でジルクライドのこめかみに血管が浮き出ていたのだが、気配を揺らすことのない男のおかげで安心しきっているアイシャが気付くことはなく、正面にいたスティルグラン侯爵とハイデンゲイン子爵はわざと見逃していた。スティルグラン侯爵夫人は多少苦笑していたが夫と義息子をいさめる様子はなく、ウェイドはこれから起こるであろう騒動を想像して大きくため息を吐いた。
侯爵夫人にアイシャが植えていた花がきれいに咲いたので見てきてはどうかと勧められ、ジルクライドはアイシャとともにスティルグラン侯爵家の庭に出ることになった。
「ジルクライド殿下」
途中ウェイドとローウェルから呼びかけられ、ウェイドからローウェルへと護衛の交代を報告される。
「私は可愛い人、ゴホン、王国の騎士団長と明日の警護についてデート、ンン、打ち合わせに行ってまいります」
「手加減してあげてくださいね……」
「もちろんです。初めて二人きりで会うのですから。あちらから(仕事に)誘っていただいたのでとても楽しみです」
なにやらウキウキと嬉しそうに笑う騎士に、アイシャは罪悪感から声をかけるも彼の高揚は収まらず、仕方なくウェイドに付いていく騎士を見れば『無理です』ときっぱり首を横に振られた。
「大丈夫ですよ、アイシャ様。ウェイドはあれでしっかり仕事をこなしますから」
慰めるローウェルに感謝を込めて小さく笑うアイシャをジルクライドは背後から黙って見つめる。
「ジルクライド、行きましょうか。庭はこちらですわ」
いつもより口数の少ないジルクライドを連れて歩きなれた庭の小道を進んでいくと、きれいな紫色の花弁を持つ小さな花が絨毯のように咲き誇る場所に出た。それを愛おしそうに眼を細めて見つめるアイシャ。隣に立つジルクライドは黙ったまま彼女の腰を抱き寄せて花を見ていた。
「母が……好きだった花だそうです」
気持ちのいい風が吹き抜ける中、ポツリとつぶやいたアイシャは誰に聞かせるともなく話し続ける。
「母が死ぬ前までここに咲き誇っていたらしいのですが、大雨の影響で枯れてしまい、その後の忙しさから放置されていました。運悪く庭師も交代してしまったのでそのまま判らなくなり、婚約を破棄されてできた空いた時間に母の日記を読んでいて気が付いたのです」
「私がここにあったことを覚えていたので、植えてはどうかとアイシャに提案しました」
背後から声をかけてきたのはサイアーズだった。丈の長い細身の上着を着た彼は一枚の書類を手に、ローウェルの許可を得てアイシャの隣に立つ。
「この辺り一面に咲き誇るコール・スラーの花と侯爵夫妻と幼いアイシャ。私がこの家で覚えている一番古い記憶です」
ジルクライドに引き寄せられていたアイシャが不思議そうにサイアーズを見上げた。アイシャを見下ろす眼鏡の奥の青い目は慈しむように微笑み、綺麗な発音の皇国語から王国語へと変えて話を続ける。
『君はとても可愛らしくて、微笑みあう侯爵夫妻の間で本当に楽しそうに遊んでいたよ。夫人がコール・スラーの花で編んだ花冠に大喜びで、侯爵は小さな指に同じ花で指輪を作ってつけてあげて。私にも何かを期待したまなざしを向けてきたから君を大切にエスコートしたんだ。そうしたら君は私からも指輪が欲しいとお願いしてきてね。コール・スラーの花指輪をつけてあげながら、大きくなったら本物を上げると約束したんだよ』
覚えている?と首を傾げるサイアーズにアイシャは目を潤ませながら首を横に振った。
「貴方がお父様とお母様の話をするのは初めてね」
「君がご両親を思い出して泣くから、なるべく話をしないように侯爵に言われていたんだ。だけどもう簡単には会えなくなるだろう? それなら少しでもご両親の思い出を話しておきたくて。それに」
アイシャに判らぬように睨んでくる黒の皇子にサイアーズは何かを企んでいそうな笑顔を向けて。
「君の夫も君の子供のころの話を聞きたいんじゃないかと思って、ね」
「何か用だったか」
話しかけられた内容を無視して皇国の皇太子らしい声が抑揚なく用件を告げろと促すと、手に持っていた書類をアイシャに手渡しながらサイアーズは頷いた。
「アイシャ。君が皇国に行く前に気にしていたバーシルの町の収入の誤差だけど、あれは単価が違う似た名前の作物のせいだったよ。途中で間違った名前が再びひっくり返ってもとに戻ったりしたから怪しい金の動きに見えただけで、他意はないのは確認済み。隣の領が侯爵の親友の伯爵領だったから知られないように調べたけど、気にしすぎだったみたいだ」
「それなら良かったわ。おじ様に限って不正なんてないとは思っていたけれど、疑ったとお父様に知られたら怒られてしまうもの」
アイシャにとっても知人である隣の領の伯爵だが、その末端まで信頼できるものではない。自領を守るために少しでも不安の芽を摘んでおきたかったアイシャは、わざわざ侯爵のいない場で報告してくれた幼馴染に感謝を告げた。
「ありがとう、サイ。貴方がいてくれて本当に良かったわ」
「気にしないで。私は何があっても君の味方なのだから」
そう言うと長い金髪を揺らして跪いた青年がアイシャの手を取り、その甲に口づける。と――
「触れるな」
ジルクライドの低く艶やかな声が威嚇するように鋭く発せられ、華奢な手を奪うように取り戻した。何事だと見上げたアイシャは薄っすらと紅く染まったジルクライドの目がきつくサイアーズを睨みつけているのを見る。
「アイシャは俺の妻だ。軽々しく名を呼ぶことをやめてもらおう。それと触れることも許さない」
敬称を付けずに呼ぶのはジルクライドと皇王夫妻、そして彼女の父母だけだが、アイシャを名で呼ぶ者は多くいる。手の甲への口づけも貴族社会なら何もおかしなことはないし、現に側近たちも忠誠を示すために時折やっているくらいだから慣れていないというわけではないのに。
先ほどから男が口にする言葉はジルクライドの何かしらを刺激して振り払いたくなる。どこかチクチクとアイシャの過去というジルクライドでは決して踏み込めない話や、ジルクライドがアイシャを選ばなければ進んだかもしれない形作られた未来を語られて無性にイラつくのだ。
「承知いたしました。皇太子殿下」
あっさりと引き下がったサイアーズは顔を上げてから「それでも」と言い返す。
「それでもあの幸福だった家族を壊したのはディザレック皇国です。殿下の国の差別がアイシャから幸せを奪ったとは思いませんか」
そしてそのアイシャでさえも皇国は奪っていくのかと、氷の子爵と呼ばれているサイアーズは名に負けぬ冷たい表情ではるかに身分の高い男に問いかける。
「差別されたくなければ属国になどならねばよかったのだ。あの災害の時、王太子ではなく国王が対処していれば我が国が国を乗っ取ったなどと言われるような救済処置をする必要がなかった。国を捨てるような無能な王を選んだお前たち貴族にも責任はあるだろう」
真っ向から受けて立ったジルクライドの攻撃的な紅い目がサイアーズの青い目とにらみ合い、バチバチと音を立てそうなほど鋭いそれらに割って入ったのはアイシャだった。
「お二人とも、少しわたくしの話を聞いてくださる?」
疑問形だが有無を言わせない声音に成人男性二人が黙り込む。なぜか離れた場所にいたローウェルまでもが直立不動の姿勢を取っていたが。
「まずはジルクライド。わたくしが実家に帰ったことでハイデンゲイン子爵に気安く話しかけてしまったことをお詫びいたします。彼はわたくしが昔のように話してほしいという無意識の意図を汲んで名を呼んでくれていたのです。それに彼がどんな女性にでも優しくて寛容なのは周知の事実ですわ。だってエルシャの婚約者をしていたくらいですもの」
「それは……ああ、お前の謝罪を受け入れよう」
最後の一言にものすごく納得したらしいジルクライドが先に矛を収めた。
「次にサイアーズ。この国が未曽有の災害に見舞われ大変な思いをしたのは判っています。ですがジルクライドが言った通り、当時の国王が対処していればディザレック皇国一国だけで救済するようなことにはならなかったのよ。まだ年若く権限も責任も少なかった王太子に救援を求められても対応できなかった国が多かったのです。ですから属国になってしまったのはわたくしたち貴族の責任でもあります。それを忘れないで下さいませ」
アイシャの青い目が氷のまなざしに向き合うとサイアーズは目を細めながら辛そうに見下ろしてきたが、それでも顔を毅然と上げてジルクライドを見ると深く頭を下げる。
「無礼な物言いをして申し訳ありませんでした。貴国がこの国の民を救ってくださったご恩は忘れたことはありません。ただ……」
「ああ、責めたい気持ちもよくわかる。俺も最初にアイシャの生い立ちを聞いたとき、本当に彼女を選んでいいのか悩んだのだ。だが知ったときにはすでに手を離すことができなかった」
「ええ、そうでしょう。皇太子妃殿下は私たちが大切に、大切に育てました。幼い子供に大人のエゴを背負わせないように私にできる精いっぱいで防波堤になってきたつもりです。おかげで聡明で麗しくどこに出しても恥ずかしくない素敵な淑女になったのですから、皇太子殿下が手放せなくなるのは当たり前なのです」
なぜか自慢げにアイシャを褒めながら気持ちを肯定されたジルクライドは、興味深そうにサイアーズの話を聞いていた。
「エルシャも素直ですし、ある種の男性にとって底が浅く裏表のない彼女は簡単に取り扱えて判りやすく安心しやすいのでしょう。好意を隠すことなく提示されて嫌な気持ちになる人は少ないですしね。多少の気の多さも男性が制御すればいいだけだと思うと、こちらもネオンハルト第一王子が手放せないのもよく判ります」
「……そうか」
エルシャ本人を知っているだけにサイアーズの言葉で物は言いようなのだとよく判る。ジルクライドにとっては不快感しかもたらさない人物だったが、目の前の青年は常日頃からこうやって女性を扱うのだろう察せられた。
アイシャの意図を汲みアイシャと同じ速さで仕事ができる有能さと、女性を大切に慈しみながらも掌で転がすのもいとわない性格はジルクライドの目に好意的に映る。これが次代のスティルグラン侯爵ならば王国との関係も面白いものになるだろうと未来の皇王は笑った。
「人前でなければアイシャと呼んでやってくれ。実家に帰ってきてまで皇太子妃をやる必要はないからな」
歯の浮くようなアイシャへのセリフも、すべてこの男の女性の扱い方だと分かれば嫉妬をすることもないと許可をだせば、サイアーズは氷の美貌に小さな笑みを浮かべる。
「ではこのまま前スティルグラン侯爵と夫人の思い出話を続けさせていただきますね。皇太子殿下は興味がなさそうでしたので屋敷にてお待ちくださってもよろしいですよ。そういえば侯爵が話があるとおっしゃっていましたが」
子供のころの話を聞きたいだろうと問われて無視したことを引き合いに出され、さらに侯爵が探しているとなれば屋敷に戻ったほうがいいのだろうが、アイシャを置いていくのはためらわれる。だからといって両親の思い出話を聞くなとも言えずぐっと手を握りこんだジルクライドにサイアーズは見覚えのある笑顔を向けた。
「っ!……侯爵に話を聞いてくる。あとで落ち合おう」
「はい、ありがとうございます」
抱きこんだ体を青年から隠し、それでもそれと判るように口づける。アイシャの顔が赤く染まるのを見て幾分満足したジルクライドは護衛騎士を確認してからアイシャの手をサイアーズに渡した。
「ではアイシャ様。あそこの木が見えますか? あの木はアイシャ様が子供のころは今の半分の高さしかなかったのですが、上に登りたいとおっしゃって侯爵を困らせていたのですよ……」
何もなかったかのように仲睦まじく庭を歩いていく二人の後姿を、黒の皇子は悔しそうに見送る。
「現侯爵とそっくりな男だな。一筋縄ではいかないか」
先ほどの言葉も謝罪も本心であるにも関わらず、交渉の次の一手につなげてくる強かさとさりげなく言質を取ってくる青年に男のプライドを刺激されたジルクライドは、今夜アイシャをどのように可愛がろうかと模索しながらその場を後にした。
「皇太子殿下、先ほどは失礼しました」
「いや、気にしていない」
「ですがアイシャにしかられると堪えるでしょう?」
「私たちはあまり相手を知り合うことなく婚姻を結んだからな。アイシャにあんな一面があるとは思わなかった」
「やはり気にしておられましたか」
「自分では消化していたつもりだったのだが。アイシャの過去を語られて嫉妬するとは、まだまだ甘いな」
「では、もっとアイシャを知りたいと望む皇太子殿下に一つ、私からのお詫びを。彼女は頭を撫でられるのが好きですよ。テクニックがあれば溶けた表情を見ることもできるでしょう」
「……テクニック……」
「ふふふ、そこは殿下の腕の見せ所です。それでは失礼いたします」
「エサを目の前にぶら下げる交渉術はスティルグラン侯爵直伝か? 本当にやっかいな一族だな」