黒皇子の恋・後日譚3【皇太子妃は夫の容姿を理解する】
「この話はファンタジーでフィクションだ。ついでにこの話には『お花畑注意報』が出ている……お花畑を注意するのか?」
「違いますわ、ジルクライド。お花畑は頭の中にありますの。一定年齢の女性で恋をしている方にまれに発生しますのよ」
「それは……奇病だな。治るのか」
「ほとんどの方は大人になると治りますが、中にはお年を召しても完治しない方も……ちなみに若い男性がかかる奇病に『ちゅーに病』なるものもあるそうですわ」
「それはどんな症状だ」
「わたくしもあまり詳しくはないのですけれど、左手に何かが封じられていていつも黒い手袋をしているとか、自分にできないことはないと豪語したり……」
「……」
「殿下のそれはわたくしへの愛の証です。『ちゅーに病』とは違いますわ」
「……そうだな」
午後の日差しが窓から差し込む皇太子の執務室で、深い色合いの重厚な机に向かっていたジルクライドの眉間に深いしわが刻まれていた。手元には瀟洒な透かし模様の入った薄い手紙を持ち、これを運んできたアロイスは無表情で主たる彼の沙汰を待つ。
やがて何度見返しても変わらぬ内容に諦めがついたようにため息を吐くと、ジルクライドは端正な顔に微かな怒りを浮かべて低く呟いた。
「これは聖王国からの宣戦布告か?」
ここに第二皇子がいれば「そんな馬鹿な!」と冗談を笑い飛ばすように遠慮なく言い放ったであろう。けれど黒の皇子たる男の腹心であるアロイスは小さく首を横に振ることで否定した。主が本気で言っているのが判っていたからだ。
「では皇王陛下宛の手紙だったのか?」
珍しいジルクライドの現実逃避にアロイスは同情の眼差しで再び否定する。
「では第三王女を側室に、とは俺に対する命令か?」
部屋の主の怒気に室温が下がっていく……ような気がして、配下である銀の青年は小さく身を震わせた。
「この手紙はセラフィーナ第三王女の直筆です。同盟国の王女からの申し入れ、だと思われますので、急ぎ確認中です」
「だがこの手紙にはあと一週間ほどでここに来ると書いてあるぞ? 前々から話があったのではないのか?」
「いいえ。ただ王女は幼少期より殿下に嫁ぐのだと口癖のように言っておられましたから、国家間で何かしらの約束があったのではないかと誤解している者も多く、詳しい確認を取らぬまま殿下へと報告があがってしまいました」
こちらの不手際だと謝罪するアロイスにジルクライドは赤みを帯びた濃茶の目を向けると、眉間に深いしわを刻みながら控えていた侍従にアイシャを呼ぶように言いつける。
「どちらにしろもう時間がない。セラフィーナ王女はすでに国を出発しているのだ。聖王国とて冗談だったで済ますつもりはないのだろう。それならば俺とアイシャで対応したほうが早い。ニックスも呼んでお前も同席しろ。それと念のために聖王国への確認はルクサード殿にもしておけ。あそこの国王はそれなりに優秀ではあるが王女への取り扱いになると馬鹿になるからな。王太子やルクサード殿なら信用できる」
よほどイラついているのだろう。ジルクライドの言葉に普段なら出ないような暴言が飛び出してきて、アロイスは黙って指示を聞いていた。諫めるつもりはない。誰だって結婚一か月で了承もしていない側室を送られれば腹も立つだろう……ああ、いいや。あの国の後宮を考えれば当たり前のことなのかもしれないが。
聖王国の王族事情を思い出しているうちにジルクライドの執務室のドアがノックされ、アイシャとニックスが入室してくる。急な呼び出しにもかかわらず落ち着いていた二人は、ジルクライドの不機嫌な様子にも臆することなくソファに座った。
「まずはこれを読んでくれ」
言葉少なく投げよこされた薄いピンクの手紙にアイシャは小さく首を傾げるも、とにかく夫の指示に従おうといい匂いのするそれをそっと手に取って読み始める。便箋は三枚あり、ゆっくりと理解しながら読み進めると、同じく怪訝そうな表情で待っていたニックスに手渡した。
「どう思った」
ニックスを待たずに問いかけるジルクライドの声は低い。アイシャはしばらく考えた後、困惑を浮かべた青い目で不機嫌な男を見る。
「聖王国の第三王女殿下がいかにジルクライドを想っているのか、今回の婚姻でジルクライドがどれだけ国の犠牲になったのか、そして第三王女殿下との婚姻が可能だという事実を速やかに知らせなかった謝罪が、比喩や表現を変えて便箋二枚半の中で何度も書かれてありました。言いたいことを何度も、それでいて相手が不快に思わないように表現する手腕は見事だと思いますが、文面を考えたのは第三王女殿下ではありませんね。そして残りはジルクライドを助ける為に側妃になってもいいという許可でしたが、若くていらっしゃるのに側妃になられるという王女殿下が不憫ですわ」
アイシャの柔らかな声が紡いだのは、前半が手紙の書き方への評価だったが、後半は周囲の男どもを驚愕させた。まさか同情するとは思わなかったのだろうが、三対一の温度差に今度はアイシャが驚く。
「お前は俺に側妃ができても構わないということか? 俺がお前以外を抱くことに思うことはないのか」
低く不機嫌そうだがどこか自信なさげに問いかけるジルクライドと、彼の心境を痛いほど理解して同じようにアイシャの答えを待つ側近たちを見て、黒髪の皇太子妃はようやく彼らと自分の認識の違いを理解した。
「ここ三代の皇王陛下に側妃様はいらっしゃらなかったのでしたわね。実は―――」
ガタゴトと揺れながらゆっくりと進む馬車の中で、ふわふわとした桃色の髪を弄びながらセラフィーナは幸せそうに微笑んだ。これから長い間想っていた素敵な男性に嫁ぐのだ。乙女ならば誰もが羨む婚姻に国中が沸くだろう。聖王国とは違った発展をしている皇国は、聖王国では第三王女ゆえに目立たなかったセラフィーナをきっと輝かせてくれるはずだと期待に胸をふくらませていた。
大きなエメラルドの瞳を潤ませた幸せそうな王女に、お付きの侍女も嬉しそうにほほ笑む。
「ディザレック皇国の皇太子殿下も早く殿下にお会いしたいでしょうね」
「当たり前だわ。ジルクライド殿下はわたくしがお兄様と皇国を訪れるたびに出迎えてエスコートしてくださるのよ。わたくしに婚約者がいるからと婚姻を諦めてどうでもいい小国の、売れ残っていた侯爵令嬢なんて娶ったらしいけれど、わたくしが側妃でもいいからと結婚してあげるんだからきっとよろこんでいらっしゃるわ!」
セラフィーナが嫁ぐ男性は逞しく誠実で、優しく溶ける切れ長の目も、すっきり通った鼻梁も、柔らかく笑みを刻む薄い唇も、大きな頼りがいのある手も、背筋を震わせる低い声も、全てにおいて完璧であり、将来は皇王になる皇子だ。自分にこれ以上相応しい男性はいないし、ジルクライドにも自分以上に相応しい女性はいないだろう。
今は些細なすれ違いでジルクライドには正妃がいるが、寵愛がセラフィーナに移れば後ろ盾のない身分の低い令嬢などどうにでもしてくれるはずだ。皇国の皇太子とはそれだけの権力を有しているのだから。
「ルクサードお兄様方も酷いわ。ジルクライド殿下の婚約者が亡くなった時に、さっさとわたくしの婚約を解消して婚姻を打診してくだされば、今頃わたくしは皇太子妃でしたのに。まさか婚約者を亡くして半年で婚姻するとは思わなかったなんて嘘を吐くなんて、きっとわたくしがお兄様方より身分が高くなるのが嫌だったんだわ」
鼻の上にしわを寄せて可愛らしく怒る王女は、侍女相手におしゃべりを続けた。
「わたくしとジルクライド殿下がいかに想い合っているか説明すればお父様も嫁ぐことに納得されたし、聖王国では第三側妃の娘だからってないがしろにされていたけど、ふふふ、わたくしがディザレック皇国の皇妃になったらみんなびっくりするわね。贅沢な食事や豪華なドレス、一級品の装飾品なんかも揃えられるし、逞しいジルクライド殿下と夜会でダンスをすれば、皇国の貴族もうらやむでしょう」
セラフィーナは窓の外を眺めながらうっとりと想像する。
白く輝く白亜の城で自分を心待ちにする黒の皇子。馬車を降りると待ちきれないように手を差し出して、セラフィーナを妻にできる喜びを言葉にするに違いない。周りにいる人々は羨ましそうに見ているだけで、セラフィーナの代わりに妻になった女性は城の中で泣きながら睨んでいるだけだ。
もちろんその日の内に彼女は皇太子妃の部屋を追い出されるが、セラフィーナは彼女の部屋に入れるのを嫌がったジルクライドによって彼の自室へと引き込まれるに決まっている。そして朝も夜も常に一緒にそばにいたがる彼のために、セラフィーナは可愛いキスをして仕事へと送り出すのだ。正妃の仕事とは大変である。
「前の婚約者は年齢も身分も申し分なかったから、どれだけお父様に頼んでも婚約を結ぶことはできなかったけれど、新しい人は属国出身の田舎者よ。皇王陛下もきっとわたくしとの婚姻をお喜びになるわ。ああ、早く殿下にお会いしたい。びっくりさせようと思って国からの通達を遅らせて直接お手紙を出したのだから、きっと今頃待ちきれずにこちらに向かっているかもしれないわ」
自分勝手で夢見がちな王女は幸せな妄想を垂れ流しながら、何も憂うことのないはずの未来へ向かって進み続けた。
結局ジルクライドの仕事が忙しかったのか彼自身による迎えがないまま皇都アンドルーズに到着すると、民衆へのパレードも歓迎の式典もなく、それどころか隠すかのように馬車は裏門から入城した。裏門とはいえ一国の王の住む城だ。それなりに整えてはあるものの、正門に比べれば雑然とした雰囲気である。最初はなぜ裏に回されるのかと怒っていたセラフィーナだが、やがてジルクライドが自分を他の男性に見せるのを嫌がったからではないかという結論に自ら達して機嫌を回復させていた。
入城してすぐ馬車が静かに停まるとドアを開けて侍女が先に降りていく。セラフィーナは差し出されるはずのジルクライドの手を待っていたがいつまでたってもドアに近づく人影はなく、仕方なしにそっと外へと顔を出すと、そこにいたのは連れてきた侍女と文官らしき一人の男性だけ。整列する見目麗しい近衛騎士たちも、自分をうらやむはずの偽物の妻の姿もない。もちろんセラフィーナを待ち焦がれているはずのジルクライドの姿もなかった。
「ジルクライド殿下はどこ?」
待っていた文官はそれなりに美形だが、ジルクライドに比べれば軽薄な感じが好きになれそうにない。ちゃんと今日到着すると伝えていたはずなのにどういうことかと怒ると、青年は恭しく頭を下げた。
「秘書官のニックス・ヤーノルドと申します。フラムスティード聖王国第三王女セラフィーナ・フラハティ様でいらっしゃいますでしょうか」
自己紹介もなしに話し始めた王女に確認をとる金髪の文官は、セラフィーナの質問に答えることなく部屋に案内すると歩き始める。セラフィーナは無礼だと怒る侍女を寛大な様子で止めるも、内心ではジルクライドに言いつけて首にしてやろうと悔しさを募らせていた。
やがて皇城でも貴賓室に近い部屋へと通されると、彼女たちを置いて文官の青年は退室のあいさつと共に部屋を去ってしまう。これからの日程やジルクライドはいつ来るのかなどといった話が全くないまま、日が暮れると夕食が運ばれてきた。
「これはどういうこと? 歓迎の晩餐は? ジルクライド殿下はどこにいるのです」
王女らしい強気の発言に、夕食を運んできた侍女たちは何も知らないのだと無表情に答え、部屋を出ていた専属侍女が慌てて帰ってくると城内の様子を報告する。
「誰も殿下の輿入れの話をしている様子がありません。試しに聞いてみてもルクサード第二王子殿下が近々いらっしゃるという話しかされませんでした……殿下の書状はちゃんと届いていらっしゃるのでしょうか?」
忠実な侍女が不安になるくらいセラフィーナの訪問は話に上がっていないらしい。
「わたくしの手紙が届いていなくてもわたくしがなぜこの国に来たのか、誰でも判るものでしょう。聖王国と皇国は古くからの付き合いがあって、わたくしとジルクライド殿下の婚姻は二つの国の結びつきを強くするものなのよ。皇国が嫁いでくれと頭を下げることはあっても、来られて困るなんてことあるわけがないじゃない」
すっかり冷めてしまった夕食を見ながらセラフィーナは仕方なさそうに席に着いた。
「今日はジルクライド殿下の都合が悪いのでしょう。もしかしたらお飾り皇太子妃の嫌がらせかもしれませんが、わたくしは聖王国の王女なのよ。明日、ジルクライド殿下に話を聞いていただきましょう」
今日の無礼と無作法を謝罪してくるだろう愛しい男性に甘えつつも許しを与えれば、素敵なプレゼントでご機嫌を取ってくれるかもしれない。聖王国まで流れてくるジルクライドのうわさは皇子に相応しい立ち振る舞いと甘い言葉が必ずついていた。うわさの元はこの国の元公爵令嬢だから嘘ではないだろうし、事実今までのジルクライドは多少の甘えも笑って許してくれていたのだ。
それを聞いて部屋にいる聖王国から連れてきた侍女たちが安心したように動き出すと、セラフィーナは豪華な食事を楽しんでから就寝した。
「ジルクライド殿下はいつ来てくださるのですか? わたくし以上に大切な用事などあまりないでしょうに。それともわたくしと殿下を会わせないようにしている方がいるのかしら? その方とわたくし、どちらの身分が高いか理解しておりますの?」
朝食を終えても訪れる者のいないことに我慢できずに廊下で護衛していた騎士にジルクライドを呼ぶように頼むと、だいぶ待たされてから訪れたのは昨日案内をした文官だった。金髪に青い目を持つ貴族らしい色を持つ青年はにこやかに微笑みながら王女の話を聞いてから恭しく頭を下げて謝罪する。
「なにぶん急な訪問でしたのでジルクライド殿下の予定が変えられなかったのです。普通他国の王族が訪問される際は遅くとも一か月前までに予定をお知らせしていただいているのですが、今回は一週間前という異例中の異例でしたのでご容赦いただけますでしょうか」
「え? でもわたくしがお兄様についてきた時は一週間前でもジルクライド殿下は迎えてくださったわ。貴方もいい加減わたくしとあの方のどちらにつくのが得か、理解したらいかがかしら。今でしたらまだ許してさしあげますわよ」
目の前の男はそれなりに顔がいいのだ。目をかけてあげてもいいかもしれないと声をかけるセラフィーナは、微笑む青年を見て先ほどの提案を了承したと理解する。他国の貴族などほとんど知らないから彼がどのような地位にいるのかは知らないが、これで皇城を自由に移動できてジルクライドに会えるのなら昨日の無礼は許してやってもいいと思えた。
「かしこまりました。それではフラハティ様のお言葉は余すところなくジルクライド殿下にお伝えしておきます。なるべく早く殿下の予定を調整いたしますが、今しばらくお待ちいただくことになると思いますのでご承知おきください」
室内まで付き添っていた護衛騎士が秘書官の言葉の裏を感じ取って頬を微かに引きつらせるも、セラフィーナはにこやかに笑って了承する。返事を聞いた金髪の青年は目を細めて王女を見下ろしつつ、慇懃な態度で退室のあいさつと共に部屋を出て行った。
「やっぱり仮初の皇太子妃になった女の仕業だったのね。属国の、しかも侯爵令嬢がジルクライド殿下の隣に一度でも立てば、そこにしがみつくのは当たり前のことかもしれないわ。贅沢ができて、素敵な皇子に求められていると誤解しているその方が可哀想になってきました」
そう慈悲深く呟けば聖王国から連れ来た侍女たちが仕える主の心根の優しさに感銘を受ける。
「そのようなことがあるが故に、我が国では妻の順位は身分の高さで決まります。下々の者を思いやれる心優しい殿下を妻に迎えることができて、この国は幸せですわ」
「運よく公爵令嬢が亡くなられて良かったわね。この国のしきたりではわたくしは側妃なのでしょうけれど、実質は皇太子妃で、子を産めばわたくしが皇妃ですもの。きっとジルクライド殿下も喜んでくださるわ」
にっこりと楽しそうに笑う王女の目の奥には、権力と愛する男への渇望が見え隠れしていた。年若くとも聖王国の王女らしい暗く醜い部分に気づく者は少ないが、気づいたとしても彼らにとってそれらの感情は持って当たり前のもので咎める者などいないだろう。ただしここはディザレック皇国だ。国が変われば常識も変わる。外交経験のない成人したての王女の言い分がどこまで通じるのか、皇国の侍女たちは黙って話を聞いているだけであった。
「わたくしが待っていることを知れば今日の午後にでもジルクライド殿下がいらっしゃるかもしれないから、素敵なドレスに着替えたいわ。手伝ってくれる?」
そう言って好きな人を待ちわびて健気に笑う王女に聖王国の侍女たちは慰めを口にしながら集まってくる。そうして騒ぐ彼女が黒の皇子に直接顔を合わせたのは次の日になってからだった。
「え? ジルクライド殿下が帰ってくる?」
外に出ていた聖王国の侍女が慌てた様子で報告するところによると、城下で民衆のうわさになっていたらしい。昨日どこかの視察にむかい天候が荒れたために外泊して戻ってくる話をしていたと。
結局昨日はジルクライドの訪問どころか文官の報告もなく、セラフィーナは荒れに荒れたのだ。手あたり次第に物を投げつけ、侍女たちを罵倒し、あまりの剣幕に止めに入った護衛騎士にも八つ当たりをしていた。それでも大国の王女としての自尊心でジルクライドの執務室に自ら向かうことはなく、訪問されることを期待して今日まで待ったというのに、よりにもよって平民のうわさから待ちわびた男性の予定を知ることになるとは。
「あの女はどうしてもわたくしとジルクライド殿下を会わせないようにするつもりなのですね」
こんな屈辱は受けたことがないと可愛らしい顔を醜く歪めて低く呟いたセラフィーナは、昨日とは別の素敵なドレスの裾を揺らして立ち上がった。結い上げられたピンクの髪も、高貴な意思に彩られた大きな緑の目も、聖王国の王族らしい強かさをもってセラフィーナを輝かせる。
「わたくしが直接お会いしてあの方の嫌がらせを訴えますわ。わたくしの言葉ならばジルクライド殿下も信じてくださいますでしょうし、貴族たちも誰が仕えるべき主なのか知るでしょう」
入城してから行われてきた様々な嫌がらせはすべて身分の低い女のやりそうなことだと怒りを露わにする聖王国の王女は、護衛騎士の制止を振り切って正門へと歩みを進めた。皇太子夫妻を出迎えるような行動は嫌だが、ジルクライドに会うには直接出向く以外に方法はないと冷静に考えた上である。
正面門に到着したセラフィーナと侍女たちはそれほど待つことなく皇族の紋章を掲げた立派な馬車が入城してくるのが見えた。近衛騎士が整列し、ジルクライドの側近たちも数人待ちかねたように出迎える。音もなく止まった馬車のドアが開き、最初に現れたのはドレスに包まれた華奢な足。続いて黒の皇子がその凛々しい姿を晒すと、その腕の中には黒髪の女性が大切そうに抱き上げられていた。
愛しい男性の信じられない行動に呆けていたセラフィーナが気付いた時には、慌てて駆け寄る側近や侍従に阻まれてジルクライドに近づくことすらできず、大声など上げたこともない王女はただ声もなく立ちすくむ。彼女の目にはいつもはきっちり撫で付けられている黒髪を下ろし、濃い茶の眼を甘く緩ませて愛おしそうに腕の中の人間を見つめる美丈夫の姿が映っていた。
「殿下……ジルクライド殿下。わたくしです……セラフィーナ、です」
自信のないか細い声は皇太子夫妻を心配する声にかき消され、それでも周囲を一瞥した黒の皇子と視線が合う。大きな翡翠の瞳が救いを得たように潤むと、小さな唇を震わせながら微笑んで運命に惹かれるように一歩進んだ。
「ジルクライド、殿下」
希望に満ちた一言は、けれど次の瞬間には驚愕に目を見開く。
強い意志と高貴な眼差しはセラフィーナを一瞥しても揺れることはなく、見つめたのも一瞬だけ。あとは側近の言葉に顔を戻すと再び蕩けるような笑みを腕の中に向けた。まるで隣国の王女など目に映らなかったかのように。
「ジル……殿下?」
自分を待ち望んでいたはずの男性が近づいてくる。その腕に自分ではない女性を抱きかかえたまま。セラフィーナの周囲には本国でのように侍女が一人だけ。
側近たちはかけられた皇子の言葉に安堵する様子をみせると散っていき、周囲の騎士たちも警戒しつつ散開していく。ジルクライドは腕に妻を抱き上げ、銀髪の側近らしき男に付き添われながら揺るがない歩みでまっすぐ前を見てセラフィーナに近づいてきた。
その様子に安堵が胸を満たす。きっと先ほどは自分を見逃したのだ。そうでなければ聖王国の王女であるセラフィーナを無視するわけがない。
「ジルクライドでん、か」
再び芽吹いた希望は一瞥もせずに真横を通り過ぎたジルクライドに届かなかったのだろうか。
頬をくすぐる風は黒の皇子が過ぎ去った証。速度を緩めるどころか何もなかったかのように歩み去った姿を振り返ることすらできず、セラフィーナはガクリと膝をついた。
「セラフィーナ様」
侍女が恐る恐る声をかけるも事実を受け入れることができない王女はただ茫然と空を見つめる。
どうして。いつもなら第二王子と二、三話した後、目元を緩ませ低く優しい声で『セラフィーナ王女』と名前を呼んで挨拶してくれるのに。どうして。あんなに楽しそうにわたくしを待っていてくださったのに。どうして。
「殿下。人目もあります。一度部屋に戻りましょう。皇太子殿下もお忙しいのかもしれません」
慰めを口にする侍女は衝撃に震える華奢な体をそっと支えて、すでに人気の少なくなった正門前広場から移動させる。護衛騎士はついてくるが要請がないため手を貸す様子はなく、二人はゆっくりと宛がわれた客室へと戻ってきた。
顔色の悪い王女に侍女たちはお茶を淹れ、気分を変えるように優しく声をかける。
「王女殿下。この国では皇太子夫妻の関係は良好だといううわさです。先ほどは人目もあり、なんらかの理由で皇太子様は殿下にお声をかけることができなかったのではないでしょうか?」
侍女はなにか自分たちがとんでもない間違いを犯しているような気がするものの、自失している主を正気に戻そうと苦しい言い訳を口にするしかない。ここはディザレック皇国で、頼る者などいないのだから。
「そう、なのね。きっとあの下賤な女がジルクライド殿下を脅しているに違いないわ。お父様にお知らせして、一刻も早くあの女をジルクライド殿下から引き離さないと……」
セラフィーナの実母は第三側妃で他の妃に比べると身分が低かった。自分の母親が言われていた陰口と全く同じセリフを悪感情と共に吐き出したセラフィーナは、その醜悪さに気づくことなく小さな手をきつく握る。
主人の怒りに言葉もなく小さくなる侍女たち。不穏な空気が満ちた部屋に軽いノックの音が響いたのはその時だった。
「セラフィーナ様。ジルクライド皇太子殿下がお呼びでございます」
伝言を届けにきたらしい侍従に対応した侍女があからさまに安堵しながら自国の王女へと伝えると、セラフィーナの表情が一気に華やいだ。
「やっぱりなにか事情があったのね! 今すぐ参りますわ」
客室への訪問も歓迎のあいさつもないというのに、よほど先ほどの存在を無視するような皇子の態度が不安だったらしく、嬉々として立ち上がった聖王国の王女は侍女を一人だけ伴ってジルクライドの元へと急ぐ。
侍従に伴われて訪れたのは私室やプライベートな区画ではなく、政務を執り行う執務室に近い応接室だった。部屋の雰囲気も調度品もどこか簡素な雰囲気のそこに通された王女は、緊張に高鳴る胸を押さえて愛しい男性が来るのを待ちわびる。意地悪な酷い女に邪魔をされたが、これで邪魔者を排除できるはずだと王女は輝くばかりの笑みを浮かべていた。
そして興奮が収まる程度には時間が経ってからドアをノックする音が響き、待ちわびた黒の皇子が現れる。
「ジルクライド殿下。お久しぶりにございます」
「ああ」
美しく見えるように挨拶をしたセラフィーナが顔を上げると、幾分厳しい表情のジルクライドがいた。背後には黒髪の皇太子妃と金髪の文官も入室するのを見て、王女はまなじりを釣り上げてきつく睨み付ける。
「誰が入室を許可しました。貴女のような卑劣な方とはいっしょにいたくはありません。ジルクライド殿下。その方はわたくしに嫌がらせをして邪魔をするような下品な女性です。きっとあの金髪の文官も体で誑し込んだに違いありません。どうか追い出してくださいませ」
毅然と不正に立ち向かうかのように言い放つも、黒の皇子は無表情のままセラフィーナを見下ろして厳しい言葉を放つ。
「お前は側妃になりたいのだろう。アイシャに何か言える身分ではないはずだ」
「え……」
確かに正妃と側妃では地位が違うが、ジルクライドの寵愛があればその地位も逆転するはずだ。少なくとも聖王国ではそうだった。それなのに幼い時から自分を大切に扱ってくれた男性の思いがけない言葉に固まるセラフィーナを見て、アイシャが悲し気に目を伏せた。
「それにお前はあいさつもできないのかい?」
聞き覚えのある声にセラフィーナの固まっていた思考が動き出し、入室してきた四人目の存在に目を向けて驚く。
「ルクサードお兄様」
赤茶色の髪に緑の目を持つ青年は笑顔を浮かべつつ目を細めてセラフィーナを見下ろすと、その様子にビクリと体を震わせる小さな王女はそれでも綺麗なヒスイの目を潤ませて訴えた。
「だって、わたくし、その女にジルクライド殿下に会えないように意地悪されたのよ。それにわたくしは聖王国の第三王女よ。小国の侯爵令嬢より身分は高いわ」
「違うよ、セラフィーナ。ここにいらっしゃるのはディザレック皇国の皇太子殿下と皇太子妃殿下だ」
小さい子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐルクサード第二王子は、セラフィーナの隣に並ぶと深々と頭を下げた。
「この度の妹の無礼な行いと言動を謝罪いたします。王位継承権はないとはいえ準王族である者がおこなっていい行動ではありませんでした。お詫びに私の所領でありますセイン・ガレラの関税を引き下げ、さらに港の使用料を一年間引き下げさせますので、どうかお許しいただきたく存じます」
側妃が生んだ女児であるため準王族という扱いになっている第三王女の失態に、まるで用意していたかのような『お詫び』を提示されたアイシャはかすかに顔をゆがめるも、すでに話がついていたジルクライドは鷹揚に頷いて了承する。
「それとセラフィーナ王女を側妃にすることはできない。知識も力もなさすぎる。せめてフランベル元第一王女なら考えなくもなかったが」
「フランベル様はもう結婚されて公爵家に入られたわ! ジルクライド殿下の側妃にはなれません! それにわたくしはフラムスティード聖王国の王女です。力ならあるわ!」
正妃の娘で女傑と名高い異母姉の名に劣等感を刺激されたセラフィーナが思わず叫ぶと、ジルクライドは唇を釣り上げ、軽薄そうな笑みを浮かべて言い放った。
「俺に聖王国の後ろ盾など必要ないし、この国の側妃はただ王を支えるためだけにあるのだ。ゆえに夫を持つことを許され、生まれた子供は皇族とは認められない。聖王国とは立場が違うのだ」
ただ愛し、愛され、守られるだけの無力な側妃は必要ないという意図を正しくくみ取った王女は、うるんだエメラルドの瞳に愛しい男性を映す。
「ではわたくしを正妃に……」
思わずといった様子で言い返したセラフィーナにジルクライドは何の感情も込められていない濃茶の目を向けて笑った。
「俺が愛し望んで抱くのはアイシャだけだ。そなたではない」
呆然とした顔で感情を凍らせた王女を侍女に任せて、一同は別室に集まっていた。
「あまり、気分のいいやり方ではありませんでしたね」
侍女が淹れたお茶を飲みながら珍しく苦い表情を浮かべたアイシャは、今回のことを画策したであろう男性陣をゆっくりと見まわす。『良く』はなかったが『必要なこと』ではあったと認めている以上、アイシャとて共犯者なのだが、それでも何も知らない少女を騙すようなやり方はどうにかならなかったのかと思ってしまったのだ。
「残念ですがコレが一番自然に不利益も少なく目的を達成する手段でした」
実の兄だというのに涼しい顔でお茶を楽しんでいたルクサード第二王子が穏やかに言い切る。
「王女という身分を盾にして聖王国の公爵家嫡男の婚約者に無理やり収まったと思えば、ジルクライド殿下の婚約者が亡くなられたと知るや否や婚約を一方的に破棄。外交も何もかも無視して皇国に入国すると、皇太子妃殿下を侮辱する。これらはあの子が自発的に行ったものですから、今回のことは相応の罰なのですよ」
「それに無理をしたのが俺だったから対応できたものの、これが皇族以外の貴族ならば嫌々でも従わなければならなかったはずだ。無知で浅慮な者が権力を持つべきではない。なによりも『亡くなった婚約者』に対して『運がよかった』などという女に用はない」
小さなころは慈しんだ相手だが成人すれば話は別なのだろう。情のない対応にも思えるが、確かに彼女の態度は王族としての配慮に欠け、子供だからで済ませられない悪辣さもある。そしてそれらが生まれ育った場所からきているのは誰の目にも明らかだ。
それにディザレック皇国の側妃とは皇王の女性側近の意味を持つ。他国とは異なる立場ゆえに夫を持つことも許されるし、子供は夫の家に入ることになる。もちろん時代によっては後宮の意味合いもあったようだが、血がいいのか血脈的に精力旺盛なのか、正妃に子ができなかったことがなかったこともあって、他国のように子を作るためだけの側妃は必要なかったのだ。
「今回のことは国王も自ら許可しています。だからこその失態に私の領地の関税を引き下げることをいつものように反対することはないでしょう。セイン・ガレラの関税が引き下げられればわざわざ陸路のカバス伯爵領を経由することもなくなりますし、港が使えれば王都への移動も楽になって流通経路が大きく変化するはずです」
それに伴い聖王国から皇国に入るのにダンヴィル公爵領を通過することもなくなるのだから、これを考えたルクサード第二王子という人物は切れ者なのだろう。ダンヴィル公爵がジルクライドの政敵であることを見越して今回の策略を仕掛けてきたのだから。
聖王国の正妃が側妃の息子で第二王子である彼を警戒して僻地の領地に飛ばし、力を削ぐように所有地の発展を妨げてきた意趣返しとしては最高の結果になったはすだ。
「そうなれば今まで過疎地とされてきたセイン・ガレラは人も物資も行き来する交通の要所になりますわ。なぜかこの国のセイン・ガレラへの街道は数年前よりきっちり整備されていますし、港もこれまでの流入量に見合わない大きさまで拡充されています。きっとすぐにでも大規模な輸送が開始されますわね」
いったい何年前から計画していたのだろうか。ジルクライドはダンヴィルに対するひそかな攻撃を、ルクサードは自領を富ませるという双方に都合の良い結末に、アイシャは幼い恋心をうまく利用された王女に同情してしまう。彼女がどこかエルシャと似た雰囲気なのも理由の一端だろう。
ふと隣に機嫌よく座る夫を見る。
強い光を宿した切れ長の目に形のいい鼻と薄い唇。露わになっている耳にはアメジストのイヤーカフが飾られ、人種特有の白い肌は健康的だ。言動は人の上に立つ者特有の尊大さはあるが、それは強い存在感とともに人の目と尊敬を集め、それに見合うだけの知識と行動力を有していた。
使えるものはなんでも使う男であり、使われることを厭わない者たちを配下に確固たる信念を持って迷うことなく進む姿は未来の皇王に相応しい。が、それは内情を知っている者の視点だ。
「外から見たジルクライドは理想の皇子だったのね……」
セラフィーナとエルシャを重ねて見てしまえば、今回の醜聞も理解のできなかった行動も理由が判ってくる。ネオンハルトとジルクライドを同列に見るつもりはないが、年若い女性から見たらどちらも見目麗しい青年で、対外的でも穏やかに礼儀正しく接してくれる理想の男なのだろう。そして兄がジルクライドと交流があったからこそ個人的に接する機会の多かったセラフィーナは、盲目的に自分がジルクライドの特別なのだと思ったに違いない。
思わずといった様子でつぶやいたアイシャの言葉に男性陣は言葉を失った。
「それは……どういう意味だ?」
聞き捨てならないと濃茶の目に獰猛な気配を漂わせて愛しい女性に聞き返すジルクライドに、名実ともに彼のパートナーでもある女性は小さく首をかしげて見返してくる。
「そのままの意味ですわ。ジルクライドは素敵な見た目の男性なのだと実感いたしましたの」
「今更か」
「ええ。今更ですが」
黒の皇子の不穏な気配もなんのその。優雅にお茶を飲んで話を流したアイシャは目を丸く見開いて驚いた表情のルクサード王子に再び首を傾げた。
「ルクサード殿下?」
「貴女は……いえ、アイシャ様はこの男の見た目を気にしたことがなかったのですか?」
「知ってはいました。ただ、なんというか……この国の令嬢たちもそうですが、若い女性たちが一目見て恋に落ちるような優れた容姿なのだと、ようやく理解したのです」
「そうか……。お前が俺の見た目で惚れてくれれば、婚約中の努力と忍耐は半分に減っただろうな」
なんとなくすっきりしたという表情のアイシャとどこか遠くを見ながら愚痴をこぼすジルクライドを見て、王子は立っていた秘書官ニックスに小声で問う。
「いつもこんな感じなのか。この夫婦」
「一応他国の王族の前なので自重なさってはおりますが、概ねこのような感じです」
通常運転だと言い切る秘書官に赤茶の髪を揺らした王子が少しだけひきつった笑みを浮かべた。
「そうか……ちょっと驚くくらい留学中の殿下と異なるが、これが普通だと頭を切り替えよう。さてセラフィーナは聖王国に連れて帰ります。おそらくですが今回の失態の罰としてセイン・ガレラの関税引き下げに伴うカバス伯爵家への損失補填として降嫁することになるでしょう。あそこの家は亡くなった母親に爵位がありましたから、血のつながった十歳の長男にセラフィーナを嫁がせて後妻の子供を跡取りにしないようにするつもりです……ん? 後妻はこの国の令嬢でしたか?」
「ダンヴィル公爵家のアラーナ嬢だ」
ジルクライドは機嫌よく名を告げる。
「ああ、それで。ダンヴィル公爵家からカバス伯爵家次代への足掛かりだったわけですか。どうりで王太子殿下もこの件に乗ってくる訳です。自分の代でカバス伯爵領を乗っ取られてもしたら大変ですからね。その点、セラフィーナは自国の王女ですからないがしろにはされませんし、娘を溺愛している国王陛下も安心でしょう」
すべて丸く収まったと満足そうなルクサード王子は、その快活な笑顔を苦笑に変えて立ち上がった。
「セラフィーナは当分泣きわめくでしょうが自業自得なのです。婚約者だった公爵家嫡男とジルクライド殿下を比べるような言動をあの子はさんざんしてきたのですから。アイシャ様、どうかお気になさらないでください。あの子にとって身の丈に合った嫁ぎ先の方がしあわせなのですよ」
曇ったアイシャの表情から何を考えているか判ったのだろう。別れの挨拶とともに気遣われれば納得するしかない。
「ジルクライドは見送りに行かないのですか?」
第二王子が退室しても動かないジルクライドに『誰を』と言わずに問えば、ニックスから資料を受け取って読んでいた男は文面から目を離さずに言った。
「少しでも期待を持たせるような言動は避けるべきだ。そのほうが諦めもつくし早く忘れようと努力するだろう」
もてる男の別れる知恵なのか、やけに実感のこもった言葉にアイシャはクスリと笑う。
「わたくし、セラフィーナ王女をとは申しておりませんよ?」
厳しい言葉をかけつつも子供のころからの知り合いであれば多少は情が湧くのだろう。セラフィーナの入国を内密にし、輿入れではなく第二王子のお供として入城した体裁を取り、関わる人員も皇太子の直接の配下だけにとどめ、暴言を吐かれたのはジルクライドとアイシャのみ。極力王女の評判を落とさぬようにされた配慮は愛娘の嘘を見抜けなかった聖王国国王への大きな貸しとしてジルクライドの手札の一つになるだろうが、それ以上に幼いころから知る少女へのジルクライドなりの気遣いだったのだろう。
セラフィーナに厳しい現実を知らしめるために悪役を買って出たジルクライドを背後から抱きしめて、アイシャは労わるようにその頬に口づけたのだった。
「アラーナ様がなんだかかわいそうですわね」
「お前には直接会わせないようにしていたからそう思うんだろうが、アレはかなりのことをしていたからな。因果応報だろう」
「そうなのですか?」
「ああ。カテリーナの具合がよくないときに、別の令嬢を伴ってダンスをしたら彼女を標的にして嫌がらせを始めたんだ。彼女は豪儀な性格だからつぶれることはなかったが、面倒だから二度と誘うなと言われてな。その話が広まったせいでカテリーナがいなければダンスを踊る相手もいなかったのだ」
「ジルはダンスが好きですものね」
「そのくせアラーナのダンスは酷くて、足を踏まれたりひじをぶつけられたりと散々で、彼女ともう一度踊るくらいならダンスをしないほうがマシだと思ったな。他にもいろいろとやられた令嬢は多いし、ドレスの色が自分と少し被ったからと、ドレスを引き裂いて泣いて逃げた令嬢を見て笑っていたよ」
「なるほど。その後始末をニックスに頼んでいたら彼に『夜会の貴公子』なんて二つ名がついてしまったのね」
「俺が手を出せばさらに嫌がらせが酷くなるからな」
「初めて夜会に出席される下位貴族の令嬢にはニックスを皇子だと勘違いする方もいるそうですわ」
「あいつは外面は良いからな。アロイス曰く令嬢に告白されても自分が悪者にならない断り方を知っているらしいぞ」
「それは……さすがニックスですわね。わたくしも見習いたいわ」
「まて。お前は俺の妃だろう。誰が告白をするんだ」
「……内緒です」
「いいのか? ここで暴露するぞ。アイシャは雷が嫌いで、視察の途中に嵐で足止めを食った時は一晩中俺にしがみ付いていたと。おかげで帰りの馬車では腕の中で熟睡するから、馬車を降りる時も俺が抱きかかえて部屋まで運んだ、と。雷が鳴っても次から一緒にいてやらんぞ」
「嵐にいい思い出はないのです! そこまでして知りたいのですか?」
「ああ。文字通り八つ裂きにしてやりたいな」
「……もう。孤児院の男の子たちです。本当に本気で告白してくるので、子ども扱いしないで断るのに苦労しているのですわ」
「……それならいい」