黒皇子の恋・後日譚2【皇太子妃は秘密を共有する】
「このお話はファンタジーでフィクションです。冒頭に血なまぐさい描写はありますし怪しげな雰囲気ですが、気分を害された方は余白までスクロールしてお読みくださいませ」
「アイシャ?」
「あら、ジルクライド。今日出番はありませんわよ?」
「またか! いつになったらお前とイチャイチャできるんだ」
「(自信家でドSのジルがイチャイチャって口にするだけで破壊力ある……)初日にラブラブもイチャイチャもないって書いてありましたけど」
「なに? あいつ、本気でおあづけをさせるつもりか。また読者様の脳内補完とか訳の判らないことを言うんじゃないだろうな!」
「いえ、結婚した男女のイチャイチャなんてムーンに行かないと書けないと頭を抱えて叫んでおりましたわ」
「……」
「(あ、納得した)」
皇城は眠らぬ人間も多いため夜でも夜空に浮かび上がるように明るいが、それでもどこにでも闇というものはある。人の出入りの多いがゆえに入り込む輩があとを絶たないのも、それらすべてが秘密裏に処理されていることも知る人間は少なかった。
「これで最後ですか?」
皇城でも深部に位置する庭園の一角で緩慢に体を起こした男にアロイスは声をかけた。もちろん周囲に響かぬよう声を潜め、それでも闇夜に浮かぶ銀髪は立ち上がった男の目にまぶしく映る。強い血臭を気にするそぶりもなく、普段はこんなところに出てくることのないアロイスに近づいた男は虚無のような黒い目で彼を見つめた。
「報告より一人多かったな。始末したのは三人だ。最後の一人は後を追っている」
そう言って暗がりから出てきたのは皇太子専属護衛騎士ウェイドだった。赤茶の髪を無造作にかき上げなら同僚に報告すると、さらに襲撃があった証拠を隠滅するために影で動く気配がする。
「このままでは皇国と周辺国から暗殺者が消えてしまうかもしれませんね」
「最近は暗殺を生業としていない者まで使ってきているぞ。いい加減敵わないと諦めてほしいんだが」
「暗部の者なら皇国の『闇』の深さは知っているでしょうに」
各国、各犯罪組織に属する暗がりに住む者たちの間でも皇国の『闇』は有名だ。覗き込んだところで何も見えず、逆に見つかって見つめ返されてしまうソレらは皇族にしか従わない上に、ディザレック皇国の名において独自の裁量権まで与えられている。とてつもなく長い時間を皇国と共に育ってきた『闇』は皇王ですら全貌を知ることはないと言われており、死を回避するなら出会わぬよう祈るしかないとまで言わしめていた。
「アイシャ様に気づいた様子はありません。リーサ嬢の手を煩わせてもいないようですし、殿下も手を打っています。もうしばらくの辛抱ですよ」
疲れた様子など微塵も感じさせないウェイドの頬に、男性にしてはほっそりしている手を当てるアロイス。見下ろす赤茶の髪の青年は手に持っていた血塗られたナイフを消して銀の麗人の腰を抱き寄せた。
「お前がここに来たのは俺に会うためか? 寂しかったのか」
普段は騎士にしては穏やかな微笑みを浮かべているウェイドが、興奮でギラつく視線と掠れた声をアロイスの耳元に落とすと喉奥でクツリと笑う。昼間にはない壮絶な色気の乗ったそれに宰相補佐の麗しい顔が瞬時に赤く染まった。
「な、何を言って……」
ウェイドは逃げ出そうとする身体を抑え込みながらアロイスの白い首元に唇をつけて忠犬のように褒美をねだる。
「このところずっと対処しているんだ。今日ぐらい休みをもらいたいな」
「休むなら一人で」
「たった今三人も始末したから、俺はすぐにでもベッドへ行けるぞ」
興奮して熱い身体をわざと密着させれば腕の中のアロイスはビクリと身を震わせておとなしくなった。そして見つめあう黒と青の目は徐々に距離を詰めて―――
「というお話が今城下で流行っているらしいの」
リスティラ第四皇女が優雅にお茶を飲みながら話を終えた。目の前に座ったアイシャのみならず離れたところに立っていた侍女のリーサや護衛騎士もうつむいて何かをこらえるように震えている。そんな微妙な空気の中、一人だけ動じることなくカップを置いたのは話の中に出てきたウェイドだった。
今日アイシャの護衛としてそばについていた彼を見つけたリスティラが、この間行った城下探索の土産話として話したのだが。
「確かに我々は婚約者がいませんからね。ましてや私は騎士ですし、あり得ない話ではないでしょう」
思いがけない本人からの肯定に期待で瞳を輝かせた皇女が「じゃぁ……」と口を開くより早く、ウェイドの黒い目が細められた。
「残念ですが私もアロイスも女性は好きですよ」
若い女性が好みそうなうわさを否定され、目に見えて意気消沈する少女に周囲の大人たちは苦笑するしかない。そして表情を変えなかった騎士はさらに言葉を続ける。
「それよりもここ最近殿下の外出予定はなかったはずでは?」
同じ騎士団で情報を共有していた彼は涼しい顔で皇女に質問した。途端に顔を青ざめさせたリスティラは視線を泳がせると、愛想笑いを浮かべておもむろに立ち上がる。
「アイシャ様、お茶をごちそうさまでした。ごきげんよう」
慌てることなく、それでいてあからさまに逃げていこうとする皇女の背を穏やかなウェイドの声が追いかけた。
「ジルクライド殿下の真似はほどほどになさってください」
今回のことは護衛騎士には報告しないでおくらしい。優しい青年だとニコニコと笑っていたアイシャだが、リスティラが退室してから悩まし気にため息をついた。
「それにしても様々な事実が入り混じっていましたね」
「私とアロイスに婚約者がいないということが元でしょうが……婚約中だったアイシャ様に暗殺者が送り込まれていたことや、一晩に複数人始末したこと、そして名前は違いますが皇国の『闇』に関する話とまったくの想像ではなさそうですね」
やれやれといった様子のウェイドはお茶を飲み干す。それほど深刻そうではないが悩まし気なため息は、断片的にでも情報を漏らした者を突き止めるための苦労をにじませた。
「そういえば『彼』は今日も目を開けて立ったまま熟睡していましたよ。毎回見ていて思うのですが、少し働きすぎではないかしら? せめて表の仕事を事務仕事だけにするとか」
配下を心配するアイシャは皇太子妃になってから『彼』の仕事を知り、自分の指示のせいで『彼』の休みが取れていないのではと思ったらしい。
「アイシャ様が気にすることではありません。『彼』は裏の仕事が好きなのですよ。ローウェルと同じだと思ってくださって結構です」
同僚へのきつい言葉は信頼を置いているからこそであり、皇太子に仕えるという自負が根底にある。なにものにも変えられない忠誠は強固で、それ故に全力で仕事にあたるのは自分も、そして『彼』も当然なのだ。
「それにしても人畜無害そうなグレンが暗部の者だとは、いまだに信じられません」
ウェイドの許可を得て話を続けるアイシャは結婚してから知った事実に苦笑する。皇国の暗部の話は有名だが、それでも詳細を知る者はごくわずかだ。リスティラがしていた暗部の噂話は誇張でもなんでもない神出鬼没で正体不明の彼らの存在を明確にする事実であり、それは皇王が認めている真実でもあった。
影も形もないものを警戒することはできないが存在しないものは何も変えられない、というのが五代前の皇王の言葉だ。彼は今までうわさ程度にしか認知されていなかった皇国の暗部の存在を認めた初めての王である。そして暗部の一部に独自の裁量権を与え皇国の隠し刀として振るうと、ディザレック皇国を大国へとのし上げたという。
皇王に存在を認められるまで人としても存在していなかったという話はグレンから直接聞いていたが、少数の人間を表に出し、爵位を与え、皇国に根付かせたのは正解だったのだろう。グレンの生家であるパストン子爵家は使用人から下働きに至るまで暗部の関係者だ。暗部で働いている者の家族を安全な場所で守るのがパストン家の役割であり、婚約者であるジェマのイングラム伯爵家もまた暗部に関係している家柄でもある。表舞台に出ているグレンと婚姻を結ぶジェマも暗部を取り仕切ることのできる女性で、だからこそ爵位を下げてまでグレンに嫁ぐのだ。
ウェイドがローウェルから皇太子妃になることのできる令嬢を問われた時、オードリー・バルフォア侯爵令嬢の代わりに秘書官ニックスに嫁ぐのに相応しいと浮かんだのは、グレンの婚約者ジェマ伯爵令嬢ではなくローウェルの婚約者であるロマリー子爵令嬢だったのはその為である。グレンとジェマの婚姻により皇太子ジルクライドに仕える暗部はパストン家とイングラム家の二家となり、皇王たる資格の一つを有することとなるのだ。
「貴族からの奏上は書類として上がってきているからこそ、しきたりとしての場でしかない謁見で眠ってしまっても何ら不都合はありませんが、あれでは体が休まらないのではないかと心配もしております」
アイシャにはグレンに面倒な調査をお願いしている自覚がある。それでなくとも今はジルクライドの媚薬襲撃事件にて、危険な媚薬が皇都に持ち込まれたにも関わらず事前にパストンとイングラム、両家の情報網に引っかからなかったことの内部調査が行われていた。
「と妃殿下はおっしゃっているが、どうなんだ?」
護衛騎士だというのに優雅にお茶を飲んでいたウェイドが虚空に呼びかける。きょとんとするアイシャが瞬きをすると、いつの間にかウェイドの背後に話題にしていたグレンが立っていた。同時に護衛騎士二人が身じろぐも気配を揺らすことはない。
茶色の髪に茶色の目、男性にしては小柄で細身の彼は眼を細めて笑顔を浮かべながらゆっくりと礼をとる。
「御心配には及びません、アイシャ様。謁見室は私にとっては私室も同じ、安全な場であります。そんな場所で立ったまま眠ることなど造作もありません。敵地に侵入して夜を明かすことよりよほど楽ですよ」
「それならばいいのですけれど。わたくしの調査は急ぎませんから、とにかくジェマ様を泣かせるようなことだけにはならないで下さいませ」
唐突に現れたグレンに驚いたアイシャだが、すぐに切り替えると心配を口にした。
「かしこまりました。アイシャ様からのご依頼の件につきましても、ようやく目処が立ってきましたので間もなく良いご報告ができると思います」
印象に残らないというのは暗部にいる者にとって強みの一つなのだろうが、小柄な、その辺りにいるごく普通の男性に見えるグレンはにっこりと笑って報告する。言葉だけ聞けば何のことはないが、詳しいことを知っている者が聞けばその報告がどれだけ重要なことなのかをすぐに理解できるだろう。
グレンの言葉に部屋の空気がガラリと変わり、ウェイドの唇に笑みが浮かんだ。ここにいる者はすべてジルクライドの配下であり、ジルクライドへの確固たる忠誠心とジルクライドのみに仕える忠実なる僕だ。そして主たる皇子の唯一のパートナーであるアイシャが何を思って誰を探らせているのかも知っていて、彼らはアイシャが描く未来に進むことを待ち望んでもいた。
報告を聞いたアイシャは持っていたカップを静かに置くと、艶やかに満足そうな笑みを浮かべてグレンを労う。
「面倒な仕事を成し遂げたこと、感謝します。……あ、それと」
少しばかり早い礼を言いながらアイシャは理知的な眼差しを気配なくたたずむ青年に向けた。
「わたくしの伝手が世話になったと、感謝の言葉を預かりました。皇国の暗部に比べれば児戯のようでしょうけれど、密かに表を通る手段を失くさずにすんで助かりましたわ」
「いいえ。我々では思いもつかなかった方法です。表ゆえに安全に、迅速に届けることができるのだと勉強になりました」
アイシャ独自の情報収集網は表の事柄ならばジルクライドのそれと遜色ない精度を保っていた。貴族家の裏など、本職の暗部に言わせれば薄明りの中にいるようなものだ。本当の闇とは見通せず、見返されるからこそ危険に見合った価値があるものなのである。
「大変優秀でしたので何人か引き抜いてもよろしいですか?」
人畜無害な顔でさらりと引き抜きを打診するグレンに皇太子妃たる女性は苦笑して首を横に振った。それを見てさも残念そうな表情をしながら、茶髪の文官姿の青年は優雅にお辞儀をして退室していく。
「一つ、聞いてもいいかしら?」
人の出入りが落ち着いた室内で、書類をめくっていたアイシャは書面から視線を上げずに問うた。相手は護衛であるにも関わらずテーブルにつき、未だくつろいだ様子でこちらを見ていたウェイドである。
「なんなりと」
穏やかな微笑みと人好きしそうな快活さを醸し出しながら筆頭騎士ローウェルよりも厚みのない身体は、相対する人間の、特に女性の警戒心を解くのに十分なのだろう。それらに騙されるアイシャではないが、どうやら彼はアイシャが何を言いたいのか理解していて居残っていてくれたのだ。だから親しい人物の好意に甘えて遠慮のない質問をする。
「アロイスは好みではないの?」
話題はリスティラの話に戻った。妙に現実に則した噂話。ウェイドがリスティラに答えたように思えたそこをアイシャは再び問いかける。
「私の好みではありませんね」
今度はなんの含みもなく素直に答えた彼は、驚いて顔を上げたアイシャに微笑み返しながら言葉を続けた。
「私は私よりも背が高く、筋肉質で体の厚みもあって、厳つい人を組み敷くのが好きです」
「……それなら彼は違うわね」
空気が凍り付いた室内で常と変わらぬアイシャの声が告げる。護衛騎士と侍女のリーサはぎょっとしたように仕える女主人を見ながら一様に思ったに違いない。
―――さすが皇太子殿下が選んだ女性だ、と。
微笑みあった二人は何もなかったようにそれぞれの仕事に戻ると、皇太子妃の執務室は午後の静寂に包まれたのだった。
「貴方の好みからいえば、ジルクライドやローウェルなんかは合格?」
「ずいぶん突っ込んできますね、アイシャ様。まぁいいですが……ジルクライド殿下はちょっと腹黒くて私とキャラがかぶります。ローウェルは……アレは犬です。もう少し責任感があったほうが好みですね」
「そうなの。王国の騎士団長は確か独身で貴方より体は大きくて、すごく誠実な方よ。実は可愛いもの好きですし」
「もっと詳しく話を聞いても?」
「うふふ。それならアロイスの秘密の恋人の情報と交換するのはいかが?」
「ええ。彼の恋人は二十数年前に借金で取り潰された公爵家の令嬢だった方ですよ。今は子爵家当主をやっています」
「友人を清々しくさっぱりと売ったわね」
「可愛い人の情報には変えられません。どうせそのうち結婚しますし。それよりも次に王国に行くときは私も同行させて下さい」
「(友人を売ったのはわたくしの方だったみたい。ごめんなさい。騎士団長……)」