黒皇子の恋は捨てられた令嬢を捕まえることができるか
この物語はファンタジーでフィクションです。
アロイスが部屋に戻ったアイシャを訪ねてきた。徹夜をしているというのに陰ることのない美貌は優雅にお茶を飲みながら今までで判明した事実を報告する。
「殿下に使われた媚薬はやはりラナティルでした。アイシャ様がおっしゃったとおり薬は白手袋に仕掛けられており、給仕は関わっておりませんでしたが首謀者は判明いたしました」
ずいぶんと早い話だと思ったが、ジルクライドたちはある程度の目星がついていたのだろう。だが皇太子に媚薬を盛られたということは罠を仕掛け、待ちに入っていた彼らの裏をかくことのできる人物が関わっていたのだ。この国でそれができる人物はそう多くない。
「首謀者の名はヤーノルド・ジンデル男爵……15年前まで伯爵だった男です」
「彼だけではないのでしょう?」
「……はい」
アイシャの動揺を予想していたアロイスは、男の名を聞いても表情を変えない様子に驚いた。もちろんそれを表情に出すことはないし他人に悟らせるような真似はしていないが、返事がわずかに遅れたことでアイシャは気遣われたことを知る。
「ジンデル男爵が犯人の一人であるなら動機は容易に知れます。訳のわからない理由で薬を盛られるよりはよほど判りやすくて助かるくらいです」
だから続きを、と促すとアロイスは気を取り直して報告を続けた。
「ラナティルの媚薬を皇都に持ち込んだのも彼で、舞踏会の参加を許されていなかったために下働きとして城に潜り込みました。推薦者は商家ですが、そちらはまだ調査中です。殿下の専属給仕に予備の白手袋が渡る前に仕込まれていたようで、特殊な布が媚薬を含んだ状態で内側の手の甲側に張り付けてありました」
そこまでがジンデル男爵――15年前に皇国の特使として王国を訪れ、スティルグラン侯爵夫妻を嵐の中にもかかわらず呼び出して事故死させた元伯爵――が行ったことだった。
「そして護衛騎士ですが、クィントン子爵とダンヴィル公爵令嬢が殿下に会いたいと無理にでも押し通ろうとしたために、少しだけその場を離れたそうです。殿下が人払いをしていたことが裏目に出ました。皇族用の休憩室は廊下に常に騎士が立ち見張られているため、護衛騎士たちも見張りの騎士と一緒に二人を止めていたようです。私たちが知らせを聞いてその場に着いたときはダンヴィル公爵が二人を窘めて引き下がるところでした」
それから殿下の無事を確認しようとドアをノックするも返事がなく、ローウェルが強行突入したということだった。話だけを聞けばダンヴィル公爵親子はたまたま居合わせたようにも見えるが。
「ダンヴィル公爵につながる証拠はないのですね」
ジンデル男爵の動機がはっきりしているが故に様々な不自然さは問題にならないと見られるのだろう。
「はい。なによりジンデル男爵がすべて自分のやったことだと。スティルグラン侯爵の事故のおかげで自分は男爵に落とされて皇城への登城禁止になったことを恨み、媚薬を使ってアイシャ様が襲われる予定だったと自白しました」
「では媚薬を使われたのが皇太子殿下だったと知って大変驚いたでしょうね」
黒幕に騙された彼は護衛騎士か侍従の手袋に媚薬を仕込んだつもりだったのだろうが、それではアイシャと二人きりになる可能性はあるが襲う確率はかなり低い。そんなジンデル男爵の穴だらけの計画を手伝い、ジルクライドの精神を貶める為に巧妙に変更した何者かは、まさか標的が都合よくアイシャと共に部屋に戻るとは思ってもいなかったに違いない。そして強力な媚薬の効果を二人きりの密室でジルクライドが耐えきることも。
「それどころか媚薬が禁止薬物だったことも気付いていないようでした。白手袋に仕込んでいる最中にうっかり手についたらしく、裏庭で動けなくなっているところを捕縛したのですよ。おかげで尋問が大変楽でしたが」
媚薬の効いた状態で手足を拘束されれば、それは一種の拷問だ。なんだかとても楽しそうなアロイスには触れずに黒幕の真意を想像する。
ジンデル男爵のずさんな『アイシャを貶める』計画は、『ジルクライド自身によって愛する女性を穢し、伴侶の座から引きずり下ろす』計画へと変貌した。黒幕の目的はアイシャではなかったが、今は相手と標的が分かれば十分だ。
「アイシャ様?」
雰囲気を変えた皇子の婚約者たる女性が楽しそうにふわりと笑う。
「知っていますか? 昔生きていた最強の生物の腹の中には悪い虫がいたそうです。それが増えればいくら最強の生き物でも死に至ったとか。ですがその悪い虫はある草を食べると増えないことをその生き物は知っていたそうです。そこから相手を知るということは最も大切なことなのだと学びました」
楽しそうに笑うアイシャはアロイスに引き続き調査を続け、何か判れば知らせるように依頼して美味しそうにお茶を飲んだ。これ以上の話は終わりだという空気に帰りかけたアロイスは、言い忘れていたことがあったと足を止める。
「ご無事でなによりです。貴女が皇太子妃になる日を今から楽しみにしております」
薬で意識が混濁する中、ジルクライドが最初に発した言葉は「アイシャは無事か」だった。妄想と現実の区別がつかなくなっていたらしく、しきりにアイシャを遠ざけるよう訴えるジルクライドの姿を見ていられなくて薬で眠らせた。唯一無二の主にあそこまでさせて手をこまねいているほど大人しい人間ではないのだ。アロイスも、そしておそらく主の婚約者も。
「本当に、楽しみです」
麗しい微笑みを浮かべる銀髪の美青年がそう小さくつぶやくと、機嫌よく部屋を出て行ったのだった。
休養を経てアイシャは当初の予定通りに皇太子妃の間に部屋を移した。もちろんジルクライドの隣の部屋である。寝室はドアでつながっており、ヒューズより厳重に注意を受けた皇太子は実に機嫌よく話を聞いていたという。もちろん婚姻式が済むまでベッドを共にすることはないが、夜にゆっくり語り合う機会が増えたことはアイシャにとっても嬉しいことであった。
やがて婚姻式に向けて各国の出席者が続々と入国し、城下もそれに伴って旅行者や商人が行き交って徐々に盛り上がりを見せていた。驚いたのは王国の国王と王妃が第一王子の婚姻式に出席することなく皇国に出向いたことだろう。おそらくネオンハルトとアイシャを天秤にかけて判断したのだろうが、自国の王子をないがしろにする行為に悲しくなったのは仕方のないことかもしれない。
スティルグラン侯爵はエルシャの婚姻式に出席した後、皇国の騎士団に連れられて婚姻式一日前に入城した。アイシャも式の直前で忙しく、結局話ができたのはエスコートするために迎えに来た時であった。そして婚姻ドレス姿のアイシャを見て一言「お前は幸せか?」と問いかけると、微笑んだ義娘を見て、それからジルクライドに向き直る。
背の高いジルクライドと同じ背丈のスティルグラン侯爵は、アイシャによく似た顔で静かに頭を下げた。
「もしアイシャが私のところに帰ってくるようなことがあれば、私は私の持てるすべての力でもって皇太子殿下の手の届かないところにアイシャを隠します。それだけは忘れないでください」
礼儀正しく礼を取ったように見えたのは形だけのようで、侯爵の言葉にそばに控えていたヒューズ、護衛騎士らの笑顔が引きつる。大国の次期王を脅迫する花嫁の父親にジルクライドは動じることなく興味深そうに笑った。
「ああ。アイシャの絶対的な味方がいることは私としてもありがたいと思っている。もしそのようなことがあったら保護しておいてほしい。どこにいようと必ず見つけだして迎えに行く」
返すジルクライドの言葉もどこか危うく男性二人の間に殺伐とした空気が流れるも、アイシャの小さな笑い声で霧散した。
「心配していただきありがとうございます。けれどきっと大丈夫です。わたくしはジルクライドを信じておりますから」
その笑顔を見たスティルグラン侯爵は一瞬息を止め、そしてそっと愛娘の手を取る。
「お前はお前の母親に似ているよ。サーシャも、ダリウスもきっとお前の幸せを祈っているはずだ」
黒いベールを持った侍女が近づいてくると、ジルクライドは侯爵の手からアイシャを取り戻して軽く抱きしめた。
「必ず俺のところに来い。あまり遅いと迎えに行くからな」
「はい、必ず参ります」
大きな身体に包まれながら返事をすると軽く頬に口づけてジルクライドとヒューズは部屋を出て行った。それから黒い瀟洒な長いベールを身に着け、不思議そうに見つめる養父を見上げて嬉しそうに笑う。
「これは……皇国のベールとは黒いのか?」
「大丈夫よ。見ていて」
誰もいない廊下を護衛騎士を先頭にアイシャとスティルグラン侯爵は歩いていく。荘厳な雰囲気を漂わせる皇城はそれだけで神聖さを感じさせるのに、式場に入るとそれは桁違いだ。
広間の壇上には皇王と皇妃が立ち、すぐ下にはジルクライドが満足そうな笑みを浮かべていた。その立ち姿は衣装も相まって凛々しくも勇ましさを感じさせる。白のロングコートにはところどころに黒い刺繍が施され、金の刺繍と相まって不思議な立体感を醸し出し、モールやボタン、カフスも金だが白いマントは足首まであり、それがまた黒の皇子に似合っていた。
そしてその男の元まで続く赤い毛足の長い絨毯の上をアイシャはスティルグラン侯爵に手を引かれて歩いていく。黒いベールの中から視線がまっすぐジルクライドに向けられていて、結い上げられた黒髪に止められたベールはカウンズクローの刺繍が施されて床に広がっていた。首元まである襟と体に合った長袖、首元のボタンから細身のスカートまでが純白の高級シルクで織り上げられていて、前から見ればごくシンプルなドレスだが後ろに回るとスカートを膨らませるようなレースとフリルがのぞく。ブーケを持つ手もシルクのシンプルな白手袋だ。今までの執着を表すようなデザインとは真逆なそれらはアイシャが身に着けることによってどこか禁欲的な雰囲気を漂わせ、ベールをかぶっていることもあって、まるで自分以外の男に愛しい女性の肌を見せるつもりはないというジルクライドのけん制にも見えた。
ジルクライドが差し出した左腕の先は黒い手袋がはめられているのに、同じ手で白い手袋を持っているのを見てアイシャは愛おしそうに微笑み、二人は並んで階段を上って皇王の前にひざまずく。
皇王と皇妃からの祝福の言葉を受けると立ち上がってジルクライドがベールを上げた。そして侍従が差し出したティアラをそっと頭に乗せると同時に、黒かったベールが一気に白く染まる。刺繍の黒を残して見事に輝く純白に参列者から感嘆の声が上がり、さらにジルクライドのマントのすそに黒い刺繍のような模様が浮かび上がるのを見て拍手が沸き起こった。
「ここに二人の婚姻の成立を宣言する!」
皇王の高らかな宣言と祝福に沸き立つ周囲をよそに、ジルクライドとアイシャは見つめあい始まりの約束を交わす。
「俺はお前を一生愛すると誓う」
「わたくしは必ず貴方を看取ってさしあげます」
お互いの傷ついた心を癒すための約束は新たな想いでさらに強固に染まり、口づけとともに鳴らされた大鐘楼の音がいつまでも響き渡っていた。
(おまけ)
「二日、ですか」
「ああ。二日だ」
夜着をまとい、夫婦の寝室へ行こうとしていたジルクライドをヒューズが止めた。これから初夜だというのに何事だと怒気を放つ主に、銀髪の侍従は深く頭を垂れて謝罪を繰り返す。別にヒューズが悪いわけではないのだが、自身の欲望を半年も耐えた彼にしてみればたとえ半日だろうとも遅れることは苦痛なのだろう。
それでも条件をつけて妥協する男を見ていると、本当に彼に仕えられたことは幸せなことなのだとヒューズは思う……同情は禁じ得ないが。
「陛下が酒の飲みすぎで力を含んだ水を作れないのなら仕方がないだろう。明日の朝になれば酒も抜けるだろうから、アイシャが目覚めしだい水の生成を頼んでくれ。そして俺とアイシャは二日、部屋に籠る。初夜に何もなかったなどと言わせるつもりはないからな」
「……どうか手加減を……」
「当たり前だ。自分の欲望だけを優先させてなにが面白い。楽しむなら二人でだろう」
正直にいえば今日は式典続きで疲れていた。ジルクライドですらそうなのだから、アイシャの負担は相当なものだったはずだ。だから休ませてやりたいとも思っていたし、半年待ったのだ。今更半日遅れたところでどうということはないだろう。
なによりも今は触れ合えるほど近くにいることのできる幸せを享受したい。
「ジルクライド? どうしました?」
先触れから時間が経っていたために心配していたらしいアイシャを見て、ジルクライドは大いにひるんだ。薄い夜着にガウンを身に着けているものの、疲れているせいかどこかトロンと溶けた表情に反応してしまいそうになる。
それでも年上男性としての余裕を見せなければならないという頼りない自尊心でなんとか笑い返すと、少し冷えてしまった細い手を取ってべッドへと誘った。
「陛下が酒の飲みすぎで眠ってしまったらしい。水がないから初夜は明日になる」
「まぁ。具合が悪いわけではないのですよね?」
婚姻した二人以上に忙しかった人物には違いなく、新妻の心配にジルクライドは少ししっとり濡れたアイシャの髪を耳にかけてやる。
「それはないな。だが今日はこのまま休もう。お前も随分疲れた顔をしているぞ」
ガウンを脱がせたアイシャがベッドに横になると黒髪がシーツに広がった。煽情的な光景にゴクリと唾を飲み込み動きの止まったジルクライドを誘うようにアイシャは両手を差し出す。
「ジルクライドもお疲れでしょう。私はどこにも行きませんから、ゆっくり休んでください」
そう言ってジルクライドの頭を胸に抱きしめるようにして眠りにつこうとする。暖かさと柔らかさに癒されながら華奢な腰回りに両腕を巻き付け、重くないように足を絡めながら引き寄せると、満足したように息を吐いて目を閉じた。
「おやすみなさいませ」
ささやかれた声は愛おしさを滲ませ、甘い匂いを思い切り吸い込んでからジルクライドは低く笑う。
「ああ、おやすみ」
訪れる静けさは闇とともに眠りについた二人を包んだのだった。
これにて完結です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
後日談にて黒幕へ仕返しや、側近たちのお話を公開しております。
興味のある方はそのままお進みくださいませ^^