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短編『義妹に婚約者を取られた令嬢が、隣国の皇太子に求婚されるお話』

こちらは短編『義妹に婚約者を取られた令嬢が、隣国の皇太子に求婚されるお話』です。

一部変更箇所がありますが、大まかな流れは変わっておりません。


このお話はファンタジーでフィクションです。ご注意ください。



【短編あらすじ】

煌びやかな王宮でアイシャは第一王子より婚約を破棄され、アイシャの代わりに義妹のエルシャが新しく王子の婚約者になる。しばらくして婚約がなくなったアイシャの元に隣国の皇太子が密かに訪れた。彼の目的はアイシャを妻にすることだった。


【王国歴78年】

 黒い霧のような何かが突如王国に沸き起こった。作物も植物も根こそぎ食い荒らされ、人々は逃げまどい、王国は混乱する。当時の国王は主だった貴族と共に国外に逃げ出し、国を守るために残されたのは年若い王太子だけだった。彼はこのままでは民に甚大な被害がでると判断すると、属国になることを条件に隣国に助けを求める。同時に国境を封鎖し、逃げ出した王族貴族の入国を拒否。彼らの資産と財産は被害を受けた人々へと施されたことで、民は王太子の決断を支持した。こうして王国は皇国を宗主国と仰ぐことになった。皇国は王太子を国王に据えると監督官を置くのみで自治権を認め、今に至る。

(王国史遍歴教本抜粋)

「アイシャ・スティルグラン侯爵令嬢。そなたとの婚約を破棄し、そなたの心優しき妹エルシャと結婚することにした。私からの申し入れを大人しく受け入れるがいい」


 国王との謁見の間が一瞬で静寂に包まれる。三段ほど高いそこには無表情でこの国の王と王妃が王座に座り、怒りの表情で突然割り込んできた王太子であるネオンハルト第一王子が隣に令嬢を従えて立っていた。アイシャと呼ばれた黒髪の女性はチラリと隣の父親を見て、視線だけで頷くのを確認すると丁寧に頭を下げて了承する。


「かしこまりました」


 優雅でお手本のような彼女の美しい立ち姿に謁見の間に詰めていた貴族たちの視線が集まり、物欲しそうなソレに気づいたネオンハルトは不愉快だと顔に出しながら言葉を続けた。


「皆、その女の見た目に騙されるな。こやつは物静かで虫も殺さぬような大人しいフリをしながら、陰では可憐な妹のエルシャをいじめるような悪女なのだ。新しいドレスもすべて自分のものにし、お茶会や夜会も妹の招待状を破り捨てて家に残し、ことあるごとにエルシャに嫌みや罵声を浴びせていた。その上スティルグラン侯爵を色仕掛けで味方につけると、実の娘(・・・)以上の待遇を要求し王太子妃の座まで手に入れようとした。私が屋敷で泣いていたエルシャに気づいたからいいものの、そうでなければたかが(・・・)侯爵令嬢の(・・・・・)従姉妹(・・・)の分際でこの私の妃になる気でいたのだ」


 大人しい元婚約者を吐き捨てるように罵る第一王子の姿は誰が見ても醜悪だ。たとえ王子の言葉が真実だとしても国の頂点に立つ者の言い様ではないと貴族たちは無表情に語る。

 もちろん罵倒されている当事者の侯爵令嬢もその隣に立つ侯爵にも表情はない。まるであらかじめ決められていた劇のように何も語らない彼らを王太子は侮蔑を含んだ眼差しで見下ろした。


「私が何も知らないとでも思っていたのか。愚か者どもめ。真実を言い当てられて言葉もないとは……少しでも悪いと思っているのなら言い訳の一つでもしてみたらどうだ」

「お義姉さま! 謝罪さえして下さったら私は何も求めません! ネオ様との婚姻を祝福さえしてくだされば……私は全て許すつもりです」

「ああ、エルシャ。君は本当に天使のように慈悲深く愛らしくて清らかな心の持ち主だ。君こそ私の隣に相応しい。ずっと私だけを見ていてくれるね?」

「はい、ネオ様」


 壇上の二人はお互いを熱く見つめあいながら三文芝居のようなセリフを垂れ流す。言い訳や謝罪を要求したというのに口をはさむ暇もなく、アイシャはいい加減げんなりしてチラリと国王と同じ高さにいながら壁際にたたずむ男性を見た。


 軍服を身に着けたその男は白髪交じりの黒髪を短く刈り込み、三十代に見える外見にはそぐわない威圧感と今は眉間のしわが凄い。不機嫌そうだがこの茶番を止めるつもりはないようで腕を組み、第一王子ではなくアイシャをまるで見極めるように微動だにせず見つめてきた。


 その態度でアイシャは決断する。彼に第一王子や従姉妹を処罰するつもりがなく、そのまま捨ておくのなら望みどおりに行動していこうと。

 もともと王子たちの行動は筒抜けだったのだ。侍女や侍従のいる場で婚約者であるアイシャへの不満、批判に嘘を織り交ぜた一方的な事実を、あたかもそれがすべてであるように語る姿は詳細に報告されていた。身内であり当事者でもあるスティルグラン侯爵とアイシャはもちろん、王家もそして国王と同じ段に立つ彼にも。そしてアイシャはこうなることも判っていてこの謁見に出席したのだ。


 一通り自分たちの世界を堪能した第一王子とエルシャ・スティルグラン侯爵令嬢は優越を滲ませた醜悪な笑みを浮かべて下段に控えるアイシャたちを睥睨した。言い訳があるなら聞いてやろうという余裕のある態度に、けれどアイシャは青い海の底のような綺麗なサファイヤの目をそっと伏せて微動だにせず、代わりに隣の侯爵は年を経た理知的な眼差しを第一王子に向ける。


「今、ご指摘なされた件を一つ一つ訂正することはできますが、私たちが何を言っても第一王子殿下には聞き入れられない事実になるでしょう。ですから明確な真実を一つだけ述べさせていただきます。スティルグラン侯爵家の正当なる血筋はアイシャのみ。前侯爵の我が兄が幼いアイシャを残して事故死した件については有名な(・・・)事実ですので説明は省かせていただきます」


 自身を侯爵家の正当な血筋ではないと発言した男は、そのまま厳しい視線を自分の娘へと向けた。


たかが(・・・)侯爵令嬢の従姉妹なのは我が娘エルシャの方にございます」

「嘘をつくな! 侯爵が事故死したのならその兄弟が継ぐべきであろう。そなたが侯爵を名乗っているのはなんら不自然なことなどないではないか」


 年若い第一王子は怒鳴りながらも震えるエルシャを気遣うように抱き寄せる。実の父親に蔑ろにされた娘は緑の瞳に絶望を浮かべてその細い肢体をクタリと恋人へと預けた。


「私は真実を述べると申し上げました。アイシャは正当なるスティルグラン侯爵家の跡取りであり、決して侯爵令嬢の従姉妹などではありません」


 こんな事などちょっと調べれば誰でも知ることができる事実だろうがっ、という心の声が聞こえた気がしてアイシャはピクリと反応する。そんな義娘の反応を見て少し冷静さを取り戻した侯爵は更に言葉を続けた。


「ですが婚約破棄の件は確かに承りました。またエルシャとの婚約は後日改めまして話し合いたいと思います」


 ようやく茶番が終わるのだと頭を下げたアイシャと義父は国王の承認がないままに背を向けた。そこにまるで呼び止めるかのように第一王子の言葉が飛んでくる。


「エルシャは侯爵家には帰さない。そこの女になにをされるか分かったものじゃないからな。王宮に留めておき、しかる後に後宮に移ることになるだろう」


 実質的に今日からお前たちとは会わせないという宣言だ。顔色を無くしたアイシャが侯爵を見上げ、スティルグラン侯爵は厳めしい表情で振り返りエルシャを見る。


「……私はお前にアイシャと同じ程度の教養を求めてしまったことをすまないと思っていた。だがスティルグラン侯爵家の事情も含めてすべて話してあったはずだ。それにも関わらずソレがお前の選択だというのなら祝福しよう。第一王子殿下はお前にお似合いだよ」


 冷徹な声は実の娘に向けられていいものじゃない。けれど侯爵はこれ以上かける言葉はないとアイシャをエスコートして謁見の間を後にする。それから憤った第一王子とエルシャ、まったく反応を示さなかった国王と王妃が退室すると残っていた貴族たちが一斉に動き始めた。

 最高段で事態を睥睨していた壮年の男性も組んでいた腕を解くと、何かを思案するかのように眉間の皴を深くしながら立ち去った。






 不穏な空気を滲ませた婚約解消劇から一か月後。

 エルシャは幸せでいっぱいの胸を落ち着かせようと大きく深呼吸していた。場所は王宮舞踏会の会場である。


 ネオンハルト王子と義姉アイシャの婚約破棄が周知され、王子の思い付きで今日、まるでお互いが一目ぼれするように劇的な出会いを演出しようということになった。これで二人は更に祝福されるだろうと浮かれてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。


 だって幸せなのだ。侯爵家ではいつもアイシャが家族の中心だった。すべての予定はアイシャから組まれ、アイシャだけに新しいドレスが仕立てられ、アイシャだけが様々なお茶会に招かれた。父親に不公平だと訴えてもアイシャは第一王子妃ひいては王妃教育で忙しいのだからとか、公務で他国の国賓と会うのに新しいドレスは必要だとか、スティルグラン侯爵家ではなくアイシャ個人に宛てられた茶会に連れていくことはできないとか、同じ義姉妹であるのに差を付けられ虐げられてきたのである。


 それが今はどうだ。エルシャは王国で最も高貴な女性の一人になるのである。美形なネオンハルトに愛され、王国でも最高のドレスを纏い、王家に伝わる装飾品を身に着け、王国の人間すべてにかしずかれる身分になるのだ。今まで自分を見下してきた義姉も跪くのだと思うと胸のすく思いにもなる。


 今日は王家の煌びやかな舞踏会。侯爵令嬢らしい可も不可もないドレス。小さな宝石のついたささやかな装飾品。会場の隅にいる虐げられた心優しいエルシャをネオンハルトが見初め、うやうやしく手を差し出される。エルシャが恐る恐るその手を取ると彼は少々強引に会場の中央へと導き、二人は熱く見つめあって愛を語り合うのだ。


 まるで物語のように美しく誰もが憧れる光景に、この国の全ての貴族が羨望の眼差しを向けるだろう。女性はこの国で最高の男性であるネオンハルトに愛されるエルシャをうらやみ、男性は今まで見向きもしなかった毒薔薇(アイシャ)に隠されていた美しい真紅の薔薇(エルシャ)を手にする機会が永遠に失われたことを悔やむはずだ。


 もしかしたら……と、エルシャの想像は止まらない。

 今、この国に来ている隣国の皇太子がエルシャに一目ぼれするかもしれない。そうしてネオンハルトとどちらがエルシャを手に入れるかで争い始めるのだ。未婚の令嬢が婚約者を捨ててでも欲しがる二人がエルシャにだけ熱い眼差しと甘い言葉を囁く。なんて素敵な物語だろう。


 隣国の皇太子は黒髪に茶色の目を持つ男性らしい。一週間ほど前に来たときには王国中の未婚の女性が一目見るために王城へと集まろうとしたというくらい高貴で、その上紛れもない美形なのだという。ネオンハルト以上の美形がいるわけがないと思いつつも、もしかしたらという期待は膨らんでいた。


 三大公爵家が入場し、あとは王家と隣国の皇太子のみとなる。

 まずは第一王子を筆頭に第二、第三王子、第一、第二王女がそれぞれの婚約者を連れて入場してきた。もちろんネオンハルトは一人である。二十三という男性としても油の乗った年齢と、いつにもましてうかがい知ることができる尊大な自信に満ち溢れた表情に、けれど会場の貴族たちは喰いつく様子がない。


 会場を一瞥したネオンハルトがエルシャを見つけて薄く笑みを浮かべても羨望や嫉妬の眼差しが向けられることがなかったが、間もなく始まる夢のような物語を前にそんなことは些末な出来事でしかなかった。

 最後に国王夫妻が入場して開会を宣言すると、低いざわめきが人々の間を駆け巡る。


「隣国の……」

「……出席は?……」


 ざわめきが聞こえるのは隣国の皇太子が入場しなかったからだろう。大国の皇子様を見ることが出来なかったのは残念だが、今日のドレスではエルシャの魅力を十分に引き立てることはできないだろうから、一週間後に開かれる歓迎式典で王太子妃として美しく磨かれた自分を見せる方がいいはずだ。


 そして計画通りにネオンハルトが注目を浴びながら人々の間を縫ってエルシャの元まで堂々と歩いてくる。いつにもまして精悍な様子にエルシャの胸が高鳴り、とろけるような甘い笑みを浮かべる第一王子がひざまずいたところで会場が大きくざわめいた。


「ディザレック皇国、ジルクライド・セル・ディザレック皇太子殿下のご入場です」


 遅れて入場した皇太子の名が呼ばれた途端、人々の視線は一気に大扉へと向く。膝をつき今まさに愛を乞うところだったネオンハルトも忌々しそうに不機嫌になって立ち上がり、エルシャもいいところで水を差された気分になったが、それもすぐに消え去った。


 現れたディザレック皇国の皇太子は目を見張るような美形だったのである。短めの黒髪は幾本かの前髪を残してさっぱりと後ろに流され、意思の強そうな眉は吊り上がり、切れ長の目は鋭さの中に覇者としての風格すら漂わせていた。引き結ばれた薄い唇はそこから出る言葉がいかに重要なものなのかを連想させ、シャープなあごから首筋にかけて大人の色気を匂わせる。


 ネオンハルトとそれほど変わらぬ身長だというのに手足の長さが際立ち、上背の厚みに反比例するように引き締まったウエストとそこから続く下半身を王国のデザイナーではまだ真似のできない縫製の黒いタキシードで包んでいた。ただブラックタイの一部が複雑な形に織り込まれており、それだけで会場の男性たちとは一線を画した上品さを醸し出す。おそらく半年後にはこの国で流行るであろうその形など気にも留めずにジルクライド皇太子は国王への挨拶を済ますと、ひな壇に近い壁際にいた壮年の政務官へと足を向けた。


 そこまできてようやく人々は正常に動き出し楽団が音楽を奏でだす。それでも小声で話し続ける二人をさりげなく注目し、もし話が途切れて一人になればいつでも話しかけることができるように、多くの者が異様な熱気と共に舞踏会を楽しんでいた。


「どうか私と踊ってくださいませんか、愛しのエルシャ」

「はい、ネオ様」


 大注目を浴びながらするはずだった告白はさりげなく流され、それでも当初の予定通りファーストダンスを踊るために手を差し出すネオンハルト。頬を染めて幸せそうな微笑みを浮かべて手を重ねたエルシャはチラリとジルクライド皇太子を見るも、彼は会場を見ることもなく難しそうな顔で話し続けていた。


 それでも第一王子と共にフロアの中央に進み出ると注目を浴びるのは当たり前で、音楽が変わったことで皇太子の視線もようやくエルシャに向けられる。覇気を含んだ視線に体の内側まで見透かされそうになりながら、エルシャはその熱さに頬を染めてしまう。目の前にいるのはこの国の王子だというのに、全部の神経が離れた場所にいる今日初めて見た男性に向けられていると感じていた。


 音楽が始まり、手に手を取った二人が優雅に踊りだす。ある程度はアイシャと同じ教育を施されたエルシャのダンスはうまい方の部類に入るだろう。あの方も見惚れるかもしれないとターンの合間に視線を向ければ、最先端の流行を身に着けた美青年は見慣れぬ騎士服の部下らしき男性から何事かの報告を受けて会場に背を向けるところだった。


 ダンスの途中だというのにざわめきが会場を包む。誰もが羨む注目すべき第一王子と侯爵令嬢のダンスだというのに、半数以上の貴族はジルクライド皇太子が消えた扉を未練がましく見つめていたのだ。周囲の状況にネオンハルトも不愉快そうに顔を歪ませ、集中が途切れた二人のダンスはミスが続く。

 もちろん二人の婚約という重大発表もどこか気の抜けた空気の中で行われ、幸せへ上る途中だったはずの演出はこうして幕を下ろしたのだった。






「初めまして。スティルグラン侯爵と令嬢」


 低い鋼の声が思いの外穏やかに挨拶を口にするのを、名を呼ばれた二人は硬い表情で聞いていた。

 ここはスティルグラン侯爵家の王都の屋敷。決して今ここにいる客人がいていい場所ではない。ないのだが要件を満たすにはこれしかなかったのだろう。足回りの軽い貴人だと、アイシャはお茶を淹れながら小さくため息を吐いた。


「初めてお目にかかります。ジルクライド皇太子殿下」


 部屋にいるのは先ほどまで舞踏会にいたはずの隣国ディザレック皇国の皇太子と国王と同じ位置にいた皇国の騎士服を身に着けた政務官、そしてスティルグラン侯爵と娘のアイシャだけだ。護衛も侍女もいないその部屋で、上座のソファに座ったジルクライドはアイシャの淹れたお茶を一口飲んで満足そうに唇を引き上げた。


「今日会えると思ってあちら(舞踏会)に行ったのだが無駄足だった」

「だから約束もなく突然この屋敷を訪れたと?」

「私が訪れることは予期していただろう?」

「……質問に質問を返されるのはあまり好きではありません」

「失礼。義父になる方に嫌われぬよう注意しよう」


 心にも思っていないことを口にした皇太子と最後の言葉に身をすくませるアイシャ。深い大地の色を宿したジルクライドの目が何かを語るように笑みを浮かべて彼女を捉え、そして前置きなど必要ないといった雰囲気で用件を口にした。


令嬢(アイシャ)私の妃(皇太子妃)に」


 部屋の誰かがひゅっと息を止めるが、それを悟らせない程度にはここにいる人物たちは豪胆だった。

「お前たちが何を考えて彼女を教育したかは不問にしよう。おかげで配下たちの婚約者を奪うようなまねをせずに済む」


 けれど彼らのさらに上を行くのがディザレックの皇太子だ。大陸一の大国の次代を担う男は自分よりもはるか年上の男たちでさえ竦ませる空気を醸し出す。


「この国が属国になって何年経ったか。どうやら世代交代を経て自分たちの(・・・・・)立ち位置を(・・・・・)忘れた者(・・・・)もいるようだ。宗主国(ディザレック)と対等の交渉をするために監視されている王族ではなく妃に英才教育をほどこす……私はうまい手だと思うが、どうだ」


 彼が聞いた相手は皇太子の背後にたたずむ(政務官)だ。この国を実質的に治めている男は表情を動かすことなく返事もしなかった。まるでいつものことだとでも言いたげな表情だが、皇太子も返事を期待していたわけではないようで話は進む。


「さて。完全なる政略結婚だが私としては良い関係を築きたいと思っている。侯爵、令嬢と二人きりにしてもらえるか。じっくり話がしたい」


 問いかけは返事を期待したものではない。先ほどまではかろうじてあった血の気が一気に失せた侯爵は、政務官に促されるまま立ち上がって部屋を出ていった。

 残ったアイシャは黙って見送ってから視線だけでお茶のおかわりはどうかと問いかける。茶器を押し出され、白くたおやかな指が滑るようにポットを持つと紅色の鮮やかな液体をカップへと注いだ。会話の一切ないやり取りは、見る者がいれば長い付き合いがあるように見えるだろう。


『詳しい話は必要か?』


 皇国語で先ほどよりも幾分力の抜けた声が発せられ、アイシャは首を小さく傾げた。


『わたくしの知識を測りたいのではないのですか? 頷けば話をして下さると?』

『ははは、なるほど。調査通り優秀だな。それに皇国語の発音も美しいし理解も深い』


 男らしい眉を微かに下げて唐突に褒めるジルクライドにアイシャの頬が薄く染まる。それでも属国の一貴族として宗主の後継の要望は応えなければならないのだ。


『まずは先にお悔やみを申し上げます。婚約者様を亡くされましたこと、とても残念です』


 背筋を伸ばし強い眼差しを真っ向から受け止めて哀悼の意を表する。おそらく嫌な話題だろうに彫刻のように整った顔の男はくちびるを釣り上げてらしく(・・・)笑った。


『隠していたはずだが。さすがだな』

『隠す理由は判りませんでしたが』


 事実は手に入りやすかったものの、真実は判りにくいものである。皇太子の婚約者が一か月前に病で亡くなったというのに公表されていない事実を問えば、ジルクライドは背もたれに体を預けて長い足を組んだ。


『別に特別な理由があったわけではない。ただ、俺の婚約者がいなくなったことで婚約が(・・・)繰り上がる(・・・・・)のを防ぎたかっただけだ。兄弟も年の近い配下も皆、婚約者との関係が良好なのだ。それをわざわざ崩すこともないだろうに、皇太子妃というのは長年培ってきた人間関係を破綻させてもならせたい(・・・・・)ものらしい。だからこそ俺はお前に会いに来た』


 理由を聞けばアイシャでも納得できる。婚約者同士が仲睦まじいというのは珍しいことだが、皇国のように長きにわたり平和を維持し、皇王が強い権威を維持している安定した国ならあり得ることなのだろう。そんな状態で一番上が突然いなくなってしまえば混乱するのは明白だし、親しい友人の想い合った婚約者を宛がわれても政略とは言え困るのは目に見えている。


 それならば他国とは言え王妃教育を受け、更に婚約者のいないアイシャはうってつけと言えよう。空いた場所に強引にでも入れてしまえば反発はあるだろうが、皇太子の座が盤石で後見を必要としないジルクライドならば余計なしがらみもなくなって一石二鳥なのかもしれない。


『婚約破棄の件は聞いている。それが事実無根だということも、この国でのお前の評判がお前を甘くみているものだということも判っている。お前があのままこの国の王妃になれば俺の国(ディザレック)の要望を通すのも一苦労だったことを考えると、第一王子には感謝してもいい。それにそれだけ優秀ならばその他の足りない部分はおいおい身に付けていけばいいし、苦手な部分は俺が担うと誓おう。だから――』


 決定事項であるかのように告げる言葉は尊大だが、気遣いは伝わってきた。少なくとも人形のように皇妃に据え置かれ放置されるようなことはなさそうだとアイシャは理解していると。


「アイシャ・スティルグラン」

 低く艶のある声が王国語で名を紡ぎ、ジルクライドは男臭く笑うと挑むような視線でアイシャを見据えて言い放った。

「俺の妻になれ」






 人知れず行われたディザレックの皇太子と侯爵令嬢の見合いから一週間後。

 かねてより告知されていたジルクライド皇太子殿下の歓迎式典が執り行われ、そのまま続けて舞踏会へと移行する。会場は側妃でも構わないから皇太子のそばに侍りたいという未婚の令嬢やその親で溢れ、異様な熱気に包まれていた。


 もちろんエルシャもネオンハルトの隣で美貌の皇太子の入場を心待ちにしており、何度目かも判らない身だしなみのチェックを欠かせない。今日のドレスは本来ならばこの間の舞踏会に身に着けるものだったが、劇的な出会いを演出するために持ち越された王国でも流行のものだった。


 淡いピンクのドレスにところどころ赤いレースがあしらわれ、胸元も背中も大きく開いていた。スカート部分には輝石がキラキラと縫い付けられており、イヤリングと首元を飾るのは王家に伝わるスタールビーのネックレスである。複雑に結い上げられた茶色の髪にはひと際存在感を放つ髪留めが飾られているが、本人以上に目立っていることに本人だけが気づいていないようだ。


 やがて時間になり式典用の制服を身に着けた近衛騎士がひな壇につながる室内バルコニーから降りるための階段に整列する。厳かな空気の中、ジルクライド皇太子が扉から入場した。その左腕にアイシャ・スティルグラン侯爵令嬢をエスコートして。


 舞踏会会場が静けさを保ったまま驚きに染まる。


『大国の皇太子殿下は多少の無理も通してしまうのですね』


 階段を下りながら皇国語でアイシャが小さく呟けば、ジルクライドは前を見たまま唇の端を微かに釣り上げた。


『それにわたくしの身体のサイズまで詳細にご存じだとは思いませんでした』


 会場にいる大勢が二人に注目していた。ネオンハルトも、もちろんエルシャもだ。そんな中でアイシャは未来の夫に不満を漏らす。なぜならドレス一式が届けられたのは二時間前で、王宮にて大勢の侍女を使い大慌てで着付けた。そして時間ギリギリに控室に滑り込むとジルクライドの一瞥を受けただけですぐさまエスコートされ、何も話すことができないまま今に至るからだ。もともとアイシャをもらい受けるつもりで王国に来たのだろうが、だからといってそれまでまったくその存在すら知らなかった女のドレスのサイズを調べ、歓迎式典に間に合わせるように皇国でも最先端の流行を取り入れたドレスを一か月で用意するなど普通は無理なのだが。


『俺にできないことは少ないな』


 嫌みなほどの自信がこれほど似合う男もいないだろう。今日のジルクライドは皇国の正装を身に着けているが、それが更に男の自信を裏付ける。


 かっちりとした白の上着は豪華な金糸の刺繍が施され、同じく金のモールと金のボタンが上品な割合で飾っていた。白いワイシャツに黒いネクタイを付けているが、ネクタイにはワンポイントで紫色の皇国皇太子の紋が刺繍されていて唯一無二の存在であると語る。右肩にだけかけられたショートマントは表が黒で裏は紫に裏打ちされており、裄丈の長い上着を太めの黒いベルトが儀礼用の細剣と共に止めていた。だが太もも中ほどまである上着には深くスリットが入れられており、どことなく戦うことを重点においた騎士服を連想させて、白いスラックスと靴へと続く。

 タキシード姿に比べると黒の割合が減ったせいか威圧感は軽減されている上に、気品と上品さが増した分だけ親しみやすさも感じられた。それにどことなく機嫌がいいような雰囲気も足されているからかもしれない。


 ゆっくりと階段を下りる二人はまるで芸術の粋を集めた絵画のように美しく寄り添う一対に見え、皇太子が時折アイシャを気遣うような様子も見て取れる。階段を降り切った二人が反対の階段から降りてきた国王夫妻の横に並ぶと、国王は厳かに皇太子の訪問を歓迎する言葉を述べて華やかな舞踏会が始まった。


『さて、ファーストダンスだ。あちら(・・・)は第一王子と新しい婚約者が踊る』


 小声で、更に皇国語で話されれば盗み聞くことも難しいからこそ、ジルクライドは頭一つ分も高い位置からアイシャを見下ろして笑う。


『お前にかけられたくだらない嫌疑など払ってしまえるくらい見せつけて(・・・・・)やろう』


 できるよな?という言葉の裏の問いかけに、アイシャは普段なら感情を表すことのない蒼い目に呆れと幾分かの諦め、そして感謝を混ぜて浮かばせると、恭しく差し出されていた白手袋を付けた手に自分のそれをそっと重ねた。


 会場の中央に出てくる二組の男女。

 男性の一人は皇国の皇太子であり、この場にいる誰よりも身分が高く誰よりも雄々しい。一人はこの国の第一王子であるが、最近婚約者を姉から妹に挿げ替えるという我が儘を晒していた。

 女性の一人は義妹に良からぬ仕打ちをしたと婚約を破棄され、最近は姿を見せなかった才色兼備と有名な令嬢。もう一人は義姉から理不尽な仕打ちを受けながらも健気に生きてきて、この国の第一王子に見初められた真に愛されし令嬢だ。


 どういうことだと騒めく会場に舞踏会ではポピュラーなダンスの曲が流れ始める。踊りの難しさでいえば中程度であり誰もが踊れる曲なのだが、この曲はダンスにアレンジがしやすいことでも有名だった。つまり同じ曲でも難易度が低いものから高いものまで、踊り手の技量に合わせてさまざまに変えることができるのだ。

 ポジションについてから流れてきた曲を聴いて、事前に聞いていた曲目と違うと顔を上げるアイシャの耳元にジルクライドは唇を寄せて囁く。


「お前は美しい。今日のドレスも良く似合っているし、なにより俺好みだ」


 まもなくダンスが始まるというこの時に睦言を低く男らしい声で言われたアイシャは、一目見て判るくらいに顔を赤く染めた。いったい何がしたいのかと動揺もあらわに睨みつつも、慣れた曲に遅れることなく最初の一歩を踏み出す。


 ふわりとドレスが舞った。

 型通りに大人しく踊るアイシャの身を包むドレスは首元から肩、胸元までが白いレースでできていた。袖はなく薔薇をモチーフにしたレースが薄紫色のAラインのドレスを装飾する。形はシンプルだが一目見て手の込んだものだと判るデザインだ。指先から肘の上まで同じレースの手袋を身に着けているせいで、ドレスとしては大胆に肩がむき出しだというのに十分に肌が隠されていて男心をくすぐる。

 ドレスの色は細いウエストから徐々に濃くなり、裾は黒に近い紫なのでグラデーションのコントラストが見事だが、更にその上を薄い白薔薇のレースが花弁のように長く短く重なっているため重い印象はない。皇国の皇族とその伴侶のみが身に着けることのできる紫を身にまとい、アイシャは軽やかにステップを踏んだ。


 ネオンハルトとエルシャも踊ってはいるが、ごてごてと飾り付けられフリルをふんだんに使われたボリュームのあるドレスを身にまとっているせいか、エルシャはぎりぎりネオンハルトについていっている状態だ。比べられる対象がいるせいか、そのダンスはどこかたどたどしい。

 そんな第一王子と婚約者をチラリと見たジルクライドの切れ長の目に、なにか楽しげな雰囲気が加わったのはアイシャの顔から赤みが引いたころだった。


「まだいけるな? リードするぞ」


 曲も中盤にさしかかり徐々に速度が上がっていくというのに、それまで基本に忠実に踊っていたジルクライドは更に複雑なステップを挟んでくる。握られた手もウエストを支える手も、今までとは段違いの力強さでリードする彼にアイシャはついていくので精いっぱいだ。踊り慣れたパートナーならともかく、初めてでなんの打ち合わせもない相手に使う手ではないのだが、黒髪の美丈夫はアイシャがどんなミスをしようとも完全にフォローするつもりなのだろう。


 ターンが激しくなりドレスのレースがジルクライドのショートマントと相対するようにフワリフワリと舞い踊る。まさに華やかなる一対。息の合った様子に観客からため息が漏れ、人々の視線を釘付けにしていく。

 最後はドレスを踏んで体勢が崩れかけたアイシャがお互いの息がかかるほど近くで抱き留められ、まるでダンスの一部のようにポーズを決めさせられると拍手が巻き起こった。


『もう少し体力をつけることだな。俺の相手には必要だぞ』


 周囲の声に応えながらフロアから離れるジルクライドは息切れ一つしておらず、対してアイシャはウエストを支えられなければよろめいて歩けなかったかもしれない。それでも疲労を顔に出さないアイシャと機嫌の良さそうなジルクライドは周囲の視線を無視して壮年の政務官の元へとたどり着いた。


「殿下、あまり無理をさせてはなりません。嫌われますよ」


 アルコール度数の低いシャンパンを渡しながら政務官が気遣ったのはアイシャだ。今まで話すこともなく怖いイメージの彼に気遣われて狼狽えると、ジルクライドは涼しい顔で反論した。


「無理などさせてはいない。それどころか見ろ。あのダンスで会場の空気が変わったぞ」


 相変わらずアイシャを支えたままの美貌の皇太子は、邪魔者に話しかけられぬように政務官を見ながら笑う。その言葉にアイシャが周囲を伺えば、確かに取り巻く貴族たちの視線が変わっていた。会場入りした直後はなぜお前がジルクライドの隣(そこ)にいるのかという猜疑と、第一王子に捨てられた女という憐みの視線が多かった。だが、たった一曲踊り終えただけで第一王子の婚約者だったころと変わらぬ信頼を寄せるとはどういうことだろうか。


『それにアイシャの評判をひっくり返すための餌が向こうからやってくる』


 宗主国の皇太子とこの国を実質治めている政務官という取り合わせに声をかけられるのは国王夫妻くらいなものだろう。それなのに第一王子ネオンハルトは礼を弁えながらも、あまり身分差がないような態度で話に割り込んできた。


「ジルクライド殿下、素晴らしいダンスでした」


 エルシャをエスコートしてきたネオンハルトはアイシャに嫌悪の視線を投げかけながらも慇懃に頭を下げる。


「彼女は私の婚約者のエルシャ。そこにいるアイシャの従姉妹でございます」

「初めまして、皇太子殿下。エルシャ・スティルグランと申します」


 鈴の鳴るような可愛らしい声であいさつを続けるエルシャ。ジルクライドの腕の中で囲わ(支えら)れていたアイシャは力の戻ってきた足で静かに一歩下がった政務官の隣に移動しようとして――逞しい腕に体の自由を奪われた。


「ああ、聞いている」


 エルシャの自己紹介に名乗り返さないジルクライドの態度にアイシャは体を固くする。普通ならここで相手の機嫌を察して引き下がるものなのだが、残念ながらエルシャのうっとりと媚びるような視線はネオンハルトよりも高貴な人物から離れそうにない。


「ではその女がこの可憐なエルシャを貶めていることはご存知なかったのですね。そうでなければ殿下がエスコートするはずがない」


 それどころか自分たちの常識が全ての人間に当てはまると思っているような口ぶりでネオンハルトは隣国の皇太子を見上げた。


「ほう?」


 すべてを知っていて話を合わせようとするジルクライドの性格の悪さにアイシャは小さくため息を吐く。どうかこれ以上国の恥を晒してくれるなという思いは通じず、金髪碧眼の王子さまは機嫌よく話し出した。


「殿下が誰からその女を紹介されたかは分かりませんが、彼女は素直で愛らしい義妹を(しいた)げ、(ないがし)ろにしていたので婚約を破棄された恥ずべき女なのです」

「私、お義姉様に意地悪されていたところをネオ様に救っていただきました。だから今日はこんなに素敵なドレスを身に着けることができたんです。いつもなら新しいドレスは全部お義姉様のものになっていたので……」


 潤んだ瞳で健気にジルクライドを見上げるエルシャは、まるでいつもは古いドレスを着せられていたような言葉を吐くが、そんな事実は一度もない。たしかにアイシャとエルシャでは出席する公務(付き合い)の数が違うのでドレスを用意する回数は違ったが、重要な舞踏会やお茶会ではちゃんとエルシャの物も新調されていたのだ。


「ああ、確かに懐かしいデザインのドレスだな。私の国では半年前に流行った形だ」


 何も知らない者がエルシャの言葉を聞けば確かに虐げているように聞こえるとアイシャが感心していると、端正な顔に礼儀的な微笑みを浮かべていたジルクライドが突然毒を吐いた。一瞬理解できなかったのか固まるエルシャとネオンハルト。


同じように(・・・・・)王子の女性の趣味もいい。この国の王族(お飾り)となるのならこれで十分だし、そちら(出来の悪い方)を選んでくれて感謝している。おかげで私は聡明で心優しい女性を手に入れることができるのだから」


 言葉の裏の本音が透けて見えそうだとアイシャは目を瞑る。というより一週間前の夜に話した通りに第一王子に感謝したジルクライドはアイシャの名を明言するのをなぜか避けた。

 するとネオンハルトがあからさまに不機嫌になってエルシャを引き寄せる。


「申し訳ないが彼女は私の婚約者だ。たとえ隣国の皇太子と言えども渡すわけにはいかない」


 どうやらネオンハルトは『聡明で心優しい女性』をエルシャだと思ったようだ。アイシャがジルクライドのお世辞に照れるべきなのか、元婚約者の思考を理解できない自分が悪いのかと悩んでいると、エルシャが両手を胸に抱いて儚い様子で更に妄言を吐いた。


「ネオ様。宗主国の皇太子殿下に請われたのではお断わりすることはできません。ここまで望まれるのでしたら、私は殿下の元に嫁ぎたいと思います」


 政治的な配慮をしているようなエルシャの言葉にざわざわと会場が騒がしくなる。皆が注目する人物たちの会話であり、間に遮るものがなければ聞かれたとて構わない。いや、彼らはわざと周囲に聞かせているのだろうが。


『お前の忍耐強さの理由を見た気がする』


 皇太子が皇国語で呆れたように言ってきても、反応のしようがないアイシャはあいまいに微笑んで誤魔化した。もちろん自国の言葉しか判らぬエルシャはなにを言っているのかと不思議そうにジルクライドを見上げ、ネオンハルトは意味が分からないようで首を傾げる。


『ああ、失礼。どうやら我が国とは言葉の解釈と意味が異なるようだ。王子の婚約者を連れていくつもりはないので安心してくれ。ディザレックの皇太子妃は少なくとも皇国語を使えなければ無理なのでね』

『良かった。彼女は大事だ』


 ぎこちない皇国語で会話するネオンハルトは愛おしそうに、目の前の男性(ディザレックの皇太子)に熱い眼差しを向ける婚約者の腰を抱いた。


「ネオ様、私は皇太子殿下に望まれております。このようなことは……」


 一人だけ話の通じなかったエルシャが腰に回った婚約者の腕を外そうとして男性二人が笑う。


「心配することないよ、エルシャ。君が私の婚約者であることは皇太子殿下もよくご存じだ」

「言葉に行き違いがあった。私は人の婚約者(お前のよ)を盗ること(うなまね)はせぬよ」


 貴人(ジルクライド)の会話に卒倒しそうなのは自分だけなのかとアイシャは辺りを見回すが、理解してくれそうな人はおらずエルシャが気づかないのが救いである。けれどここから離れたいという心の声が聞こえたかのように、ジルクライドが腰に巻き付けていた手を引いてアイシャの顔を覗き込んだ。


「アイシャ。貴女はスティルグラン侯爵からの大切な預かり物だ。疲れたのなら送るが?」


 笑みと共に細められる大地色の目はここからこいつらを追い払いたいと雄弁に物語り。


「お気遣いありがとうございます。ですが主賓が中座するわけにもいかないのではないでしょうか。わたくしは友人たちと話をしながら休ませていただきますので、ジルクライド殿下は第一王子殿下との会話をお楽しみくださいませ」


 わたくしを巻き込まないでくださいと笑顔で返すと、男の王者の目が獲物を狙うように底光りする。ヒヤリと背筋を冷たいものが走ったアイシャは、自分が第一王子(考えの足りない男)を相手取るように気を抜いていたことを自覚した。


「ジルクライド殿下、その女は」

「ああ。本国に戻ってから正式に公表されるが私の婚約者になる」


 未だ美貌の皇太子の腕に囲われているアイシャを非難しようとしたネオンハルトの言葉を遮り、ジルクライドははっきりと周囲に聞こえるように言い切る。再び騒めく人々とエルシャの可憐な顔が悲しみに歪んだ。


「そんな! お義姉様は私に意地悪をするような方です。ネオ様もそれが嫌で婚約を解消されました。それにディザレックの皇太子殿下なら何を望まれても許されるお方でしょう? 我慢する必要はないのですよ?」


 だから自分を選んでとあからさまに主張する義妹に「エルシャは本当に優しいな」と穏やかな眼差しで見守る元婚約者。かみ合わない二人に恐怖が湧いたアイシャの身体が微かに震え、密着しているがゆえに当然その震えを感じ取ったジルクライドの指が安心させるように背筋を撫でおろす。


「アイシャの過去は調べてあるが、わが国では何の問題もないと判断した。それに彼女は実に私好みだしな。本当にネオンハルト王子には婚約を解消してもらって感謝している。誰かの婚約者を連れて帰ることなど私とてできることではないのでね」


 様々な背景の説明をすっ飛ばして相手の神経を逆なでするような言葉に極上の笑みを浮かべる男が、今までにない甘さを含んだ声音で告白するようにアイシャの耳元でささやいた。


『逃げられると思うなよ』


 それはこの場からなのか、(ジルクライド)からなのか。問いかけることもできずに頬を赤く染める元婚約者を唖然とした目で見る第一王子。


「でも、本当にお義姉様はきつい性格で……皇太子殿下だってきっと嫌になるはずです! 私なら殿下を癒して差し上げられます! お望みでしたら婚約も解消します!」


 潤んだ翡翠の目、震える華奢な肩、全身で貴方の事を大切に思っていると表しているエルシャは更に言い募り、ジルクライドの礼服の袖を握った。ざわりと揺れる空気に第一王子の視線が鋭くなるも、どうやら相手と場を弁えて騒ぐようなことはない……が、エルシャの暴走を止めることもしない。

 仕方なくアイシャが窘めようと口を開く前に、視線を凍らせた皇国皇太子が微笑を浮かべたまま言った。


「貴女にはこの王国と第一王子がお似合いだ」

「ジルクライド殿下。よろしいですか」


 皇子の怒気を読んだ政務官がタイミングよく声をかけ、外交をするべくエルシャの手を引き剥がした黒の皇太子とアイシャが有無を言わせずその場を立ち去る。


『アレならお前に行き過ぎた教育が施されるのも納得した』

『前はあそこまで酷くはなかったのですが……義妹の無礼な振舞い、申し訳ありませんでした』


 憮然としたジルクライドにアイシャが謝罪し、離れた場所で待っていた三人の公爵とスティルグラン侯爵も申し訳なさそうな表情だ。


『まぁいい。次代を直接知れただけ良しとしよう。邪魔なようなら挿げ替えも簡単そうだしな』


 強国の皇子らしい物言いでこの話題を終わらせたジルクライドは、まとわりつく視線を気にすることなく要人との会談に向かったのだった。






 その後の話を少し。

 ディザレック皇国の皇太子の婚約者が病気で亡くなったことが公表されたと同時に、属国の侯爵家令嬢との新たな婚約が発表された。一時は騒然としたが元から盤石な体制であった皇室は揺るぐことはなく、半年後に迫っていた皇太子の婚姻式は延期されることなく執り行われたのである。

 これには様々な悪意ある憶測や噂が立ったが、皇太子はこれらを一蹴して皇太子妃を守ったといわれている。


 また同時期に王国でも第一王子の婚姻式が挙げられたが、国王、王妃ですら宗主国の皇太子の婚姻式に出席するために式には参加できず、それはさびしい挙式であった。どうやら王子妃になる人物が婚姻前に妊娠してしまったらしく時期をずらすことが出来なかったようだ。おかげで準備も不十分で、ドレスも妊娠前のサイズだったために背中にあて布がされていたという悲しい事実があったらしい。

 王国の醜聞は皇国の慶事に紛れて人々の噂にはならず、義理の姉から虐げられても健気に愛を貫いた令嬢と、そんな彼女を見つけて本物の愛を見抜いた王子の恋愛譚は広まることはなかった。











 時は舞踏会の夜のスティルグラン侯爵家に戻る。


「アイシャ・スティルグラン」


 名を呼ばれて見返すと黒く沈んだ鋭い目が射貫くように見据えられていた。


「俺の妻になれ」


 固い声に男の覚悟を感じたアイシャは、こちらも求婚を受ける女性とは程遠い厳しい眼差しで黒の皇子に答える。


「かしこまりました」


 答えを聞いて安堵したように長い足を組みなおすジルクライドは尊大な態度で残りのお茶を飲み干した。


「こちらの都合で急な話だ。お前の希望をできる限り聞いてやる。言いたいこともあれば言っておけ」


 やはり優しい人物かもしれないとアイシャは小さく首を傾げてしばらく考え、やがて思いついて口を開く。


「では一つだけ。わたくしから殿下にお約束いたします」

「俺に約束しろ、ではないのか?」


 男らしい精悍な顔が怪訝そうに婚約を結ぶ予定の女性を見て、彼女が頷くのを確認すると興味深そうに注目した。


「言ってみろ」

「わたくしは必ず殿下を看取って差し上げます」


 凛とした声で告げられた言葉に静寂が広がった。大地(茶色)()の視線は複雑に絡まりあい、解けることはなく。


「わたくし、生まれてからこれまでほとんど寝込んだことがございません。大きな病気もしたことはありませんし、幼少時には元気すぎて温厚な執事を激怒させたこともあるくらいなのです。ですから自信を持って殿下よりも長生きするとお約束できます」


 事実は手に入りやすかったが、真実は判りにくかった。ただ手に入った情報から推測すれば皇国の婚約者たちは()相思相愛だった(・・・)のだ。婚約者が亡くなって一か月。そんな短い期間で悲しみを拭い去ることは難しいが、目の前の青年は表面を取り繕うことならできたのだろう。


 だからアイシャは約束を交わす。

 所詮この婚姻は政略だ。国を支え守るための最良の組み合わせだ。そこに愛だの恋だのはない。それでも相手に敬意と尊敬を覚えるくらいには、この短い時間で彼のことを知ることができた。だから悲しみに浸ることすらできない彼の為に、彼の重荷を一つでも減らそうとしてもいいだろう。そのくらいは自分も彼を気に入ったのだから。

 ジルクライドが目をつぶった。しばらく微動だにせず静寂が二人の間を繋いでいたが、やがて再び目を開けると苦笑を漏らす。


「では俺からも約束する。俺の命がある限りお前を守ると」

「あら、それは夫婦なのですから当たり前ですわ。やり直しです。次までの宿題にいたしますわね」


 時間だと入室してくる政務官とスティルグラン侯爵を立ち上がって出迎えるアイシャ。彼女を見上げたジルクライドは薄い唇の端を釣り上げて機嫌良く笑ったのだった。


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