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煉獄    (手直しの要あり)

作者: 織部弘



 煉獄



 


 その島は文字通りの灼熱の島だった。気温、湿度ともに高く、南方特有のじめっとした暑さと引き換えに、多くの生物がその島で繁栄することを許されている。

 島の沿岸では大きなヤシの木がその大きな葉を傘上に広げている。ヤシの実には赤ん坊の頭ほども膨れ上がっていて、それだけでその島がいかに温暖であるかをうかがわせた。木々は島中を縦横無尽に生え、その枝には緑黄の様々な色をした葉が生い茂っている。その木々の幾つかにはぬらぬらと光る甲虫たちが、樹液に群がっている。色とりどりの美しい蝶たちは、時折蜜を吸いに花にとまって羽を休めていた。美しい声でさえずる鳥は、空は我がものであるとばかりに空中を盛んに飛び交っている。とかげは食べる食物の質が良いせいか、通常の数倍までに肉付きの良いその体躯を、じりじりと照りつける太陽のもとに晒して地上をのさばっていた。

 しかしその島の生きとし生けるもので、ただ人間のみはその島で繁栄を享受することは許されていなかったのである。この島の自然は唯一、人間のみに猛威を振るっていた。島中ではマラリア蚊が繁殖していて人間の柔らかい皮膚に容赦なく針を突き立てる。人間たちは蚊の針をとおしてマラリアに侵された。このマラリアという土着病は極めて厄介だった。罹患したとき、すぐさま治療を施さなければ病状は急激に加速する。数十時間周期で高熱が発生し、三度目の高熱がでた時にはたいていの人間は危篤の状態になってしまう。感染直後は元気だった人間も次第に高熱を出して消耗し、死んでいくのだ。

 さらにはこの島には水源地が少なかった。島の中央部には池があったが、人間たちはそこを争って盛んに戦いを繰り広げていた。敵の妨害のために水を飲むことができずに、喉の渇きに苛まれ、身を焦がすように照りつけてくる真っ赤な太陽を呪いながらのどを掻きむしって死んでいく。

 

 井田勇一等兵は昭和十六年に徴兵され、翌年十月に戦局悪化に伴う増援兵としてこの島に送られていた。

 「報告。井田一等兵はタロ芋五つを持ってまいりました」

 「ご苦労」

 井田の戦場での日課はタロ芋を彼の上官である軍曹に送り届けることであった。

 彼は、戦場での日課が食料調達といったことにいささかやるせなさを感じていたが、権力の前にはかなわなかった。軍隊では上官の命令は絶対であり、その命令通りに行動することが自己の保身につながるのだ。それは戦場からの生還に直結する。上官にいかに可愛がられるかで楽な任務を与えられたり、無茶な命令を受けずに済む。

しかし、今のような状況では命令もへったくれもないのは同然だった。井田は惰性によって命令を遂行しているのだった。

 「井田、キニーネないか、キニーネ」

 軍曹が言った。

 「はい。キニーネはありません」

 井田は答えた。そして軍曹には見られないようにくるりと回れ右をして、深いため息をついた。今や、井田の中隊は敵の米軍の攻撃によって蹴散らされ、井田と笹井軍曹と本山中隊長のみが残っているばかり。井田たちが上陸したときは一万人を擁する大部隊の日本軍であったが、いまや、完全に機械化されて、ビフテキやコーヒーを飲み食いしながら戦争をする米軍の前には、島国根性の泥臭い兵隊が勝てるわけがなかった。

 日本兵は二十年前から装備を変えることのない三八式歩兵銃と軍刀でもって米軍基地に殴り込みをかけたが、敵は戦車を立てて迎撃してきた。生身の人間がどうやってそれに打ち勝つことができようか。やっと基地の一歩手前にたどり着いたとしても火砲・機関銃からなる重火器の嵐が吹き荒れて、立っていた兵士は一瞬のうちにぼろ雑巾のようになって死んでしまう。

 井田らは、攻撃に参加したが、部隊の壊滅とともに米軍に抗しきれず密林に追いやられた。戦闘はまさに地獄のような出来事であった。それから既に三月が経過した。いまは米軍よりも襲い来るマラリア蚊と飢えと渇きのほうがよほど恐ろしい。上陸時はふんだんにあった乾パンもとうに切れた。飲み水は時折やってくるスコールの雨水を集めて飲むだけだった。南方に行くにあたって渡されたマラリアの特効薬のキニーネも中隊長と軍曹がすべて使い切ってしまった。

 さらに、井田は軍曹と中隊長の二人の食事から糞の世話までをしてやらねばならなかった。二人はマラリアに侵されて一歩歩くこともままならなかった。井田はまだマラリアには罹患してはいなかったが、それを理由として朝晩を通して二人の介抱をせねばならぬぶん、必ずしも良いとは言えなかった。

 「井田君」

 中隊長の呼ぶ声がした。

 中隊長は、一か月前から、軍曹が寝起きする場所のすぐ近くの洞窟にこもったきりである。

 曰く、このような無様な姿を私たち部下に晒すわけにはいかないとのことだった。中隊長はどこまでも武骨な日本軍人であった。

長靴は上陸時もピカピカに磨き上げられ、どんな時も針金の入ったようにぴんと立てた背筋を維持していた。密林にやむなく撤退したときも、毎日水で体を洗い、宮城遥拝を欠かさなかった。さらに就寝時は必ず軍人勅諭を唱えてから寝ていたものだった。

 しかし、その中隊長もマラリアに侵された今では全く様変わりしてしまった。

 「タロ芋ください」

 中隊長の悲しげな声が聞こえた。

 「今行きます」

 洞窟をのぞき込んだ。そこには差し込む陽光に照らされた餓鬼のような中隊長の姿があった。

 中隊長は軍服をはだけて着ていて、軍衣の隙間からは骨と皮がくっついたような体がのぞいていた。そして目の周りの肉がごそっともぎ取られたようになくなっていて、ひどく目が落ち窪んでいた。

 「タロ芋を持ってまいりました」

 井田はそう言って二本のタロ芋を手渡した。

 「ありがとうございます。すみません」

 中隊長はそういって押し抱くようにしてタロ芋を受け取った。

その変わり果てた中隊長の姿には、昔の武骨な軍人とは遠くかけ離れたものがあった。

 「申し訳ありません。明日もお願いいたします」

 彼は手をついてふかぶかと頭を下げてみせた。

 しかし井田は彼が自身を信用していないのを知っていた。一か月前は衰弱する自分の有様を見せないために洞窟にこもっていたが、今ではそのような理由からこもっているのではなかった。

 彼は、二週間ほど前から、マラリアに脳まで侵されたらしく奇行をはたらいたり、突然奇声を発したりするようになった。そして、本当は井田や軍曹が食料をたくさん隠し持っているのではないか疑いはじめ、時折、お前らは俺を飢え死にさせて食料を山分けしようとしていると激しい口調で罵った。

 井田は腹が立って一日、中隊長の世話を見ない日があった。中隊長はマラリアと飢餓で一歩も歩けないような状況であったので、下痢をひって、辺りに異臭を漂わせながら空腹に苦しんだ。

 その日以来、彼はとにかく卑屈になった。ひたすら部下の井田にへりくだって、食べ物をねだる。彼の将校の威厳もとうに消えうせた。通常、井田や軍曹の姿を見るとひどく怖がり身を物陰に隠すようになった。前はたまに洞窟から這い出て日光を浴びていたものの、今ではそれもしなくなって引きこもってばかりであった。

 井田は彼の姿を見るたびに、抗しがたい憂鬱な感情に襲われた。

これまでに、二人を捨てて密林のもっと奥深くに逃げ失せることも考えたが、わずかばかり残った彼の良心がそれを許さなかった。

 「おい。井田、ちょっとこい」

 井田はゆっくりとした足取りで軍曹のもとに戻った。

 「なんでしょうか」

 「おい。ちょっと耳貸せ」

 軍曹はしゃがんだ井田の顔に、垢と泥で黄な茶色になった顔を

近づけた。

 「お前も気付いてると思うけどよ。中隊長殿はあんな調子だから、もはや一緒にいる意味はねえ」

 彼はそう前置きして言葉を続けた。

 「中尉殿には悪いが、米軍に投降しよう。俺らはまだ助かる」

 そう言った軍曹の眼には哀願の光がはっきり、きらめいていた。井田はこの提案を至極、不快に思った。もちろん、井田に降伏の意がなかったわけではない。しかし、軍曹の中隊長の存在を足蹴にするような態度が気に食わなかった。

 「へえ」

 井田は反抗的な態度を憎々しげな声で示して話し始めた。

 「軍曹殿はどうやって米軍基地まで行かれるおつもりでありますか。そのお体ではにっちもさっちもいかないはずですが」

 彼の明確なる反抗の意思を目の当たりにした軍曹は答えに窮したのか、もごもごと口を動かしてその喉の奥から、低く、くぐもったうめき声を発した。そして呂律のまわらない口調で、

 「ば、ばかやろう。それが上官に対する態度か。俺はひとりでもやるぞ。お前の助けなど借りるものか」

 虚勢を張った軍曹だったが、彼の体は、まるで骸骨に無理やり肉を引っ付けたようにがりがりに痩せていて、手の甲にはいく筋もの指骨が浮き出ていた。

 その日の夜、井田は寝床の中で軍曹に対して憮然とした態度をとったことを何度も回想し、軍曹への優越感に浸ったっていた。軍曹には、以前、理不尽な理由でゲンコを何度も食らっていたが、今では軍曹にそのような勇気も気力持ち合わせていないはずで、これからは自分が軍曹に幅を利かせられるのは明白だった。

井田はなかなか寝付けなかったので、離れた茂みまで小用をたしにいくことにした。しゃがんで用を足していると、なにやら暗闇の中、月光に照らされた軍曹と思しき人物がごそごそと動いている。


 何事かと思い、彼を注視すると、彼が、何か憑き物にでも取りつかれたように一心不乱で、銃剣を石で研いでいるのが見て取れた。

 恐ろしいものを見てしまった。

 軍曹は明らかに自分を殺そうとしているはずであった。彼はそのための準備をしているのであって、明日か明後日の夜には、井田が寝静まった頃ひっそりと忍び寄ってのどに銃剣を突き立てるはずである。井田は幾日か感じることのなかった生死の危機を感じ、身を震わせた。

日中の井田の発言は軍曹を怒らせるのには十分な発言であるはずだった。軍曹の生命はもうすぐ消えようとしているのに対し、彼の上官としての尊厳はまだまだ衰えてはいなかったのである。いや、極限状態に置かれ、肉体の衰えを感じ、否がおうにも井田にたいしての身体的な落差を見せつけられて彼の自身の誇りに対する感覚は今まで以上に敏感になっているのは、少し考えればわかることであった。

井田は日中の軽率な己の発言を恥じた。少し感情的になったばかりに、せっかく生き延びた命をまた危機にさらすということはいくら考えても馬鹿な事である。彼は今夜、軍曹を殺すことを決断した。

そして急いで寝床に戻ると手持ちの武器を確認した。

井田の手元には、支給された三十八式歩兵銃と残った銃弾八発と銃剣一振り、手榴弾三発があり、軍曹一人を殺すには十分であった。

井田は銃剣を歩兵銃につけ、匍匐前進で足音を殺して、軍曹の姿を追い求めた。銃には弾が込められているが、撃つつもりは全くなかった。本当ならば軍曹の背後から近寄って背後からひとおもいにズドンと頭部を打ち抜きたいところであるが、銃声によって米軍に井田の所在がばれてはならなかった。

先ほどの場所にいったがそこに軍曹の姿はなかった。井田は必死で軍曹を探したが、なかなか見つからない。てっきり、自分が彼を殺そうとしているのに気づき、そろりと自分の後をつけて殺す機会をうかがっているのではないか、と恐怖に駆られ何度も後ろを振り返った。

あたりをくまなく探しまわったが軍曹の何の痕跡も見つけられず、さすがに腰の痛みも尋常ではなくなったので、岩に寄りかかって体を休めていると、疲れがどっぷりと襲ってきて、睡魔に抗しきれなくなった。ほんの少しと思い、目をつぶった。

そのうち胸を圧迫するような息苦しさを感じて目が覚めた。井田はいつの間にかぐっすりと寝入ってしまっていたようだった。

あわてて跳ね起きると何やら煙の臭いがあたりに充満している。その臭いに乗って香ばしい焼いた肉の芳醇な香りが鼻腔を刺激した。

近くに米軍のキャンプがあるようだ。井田は確信した。この臭いは彼らの野営の料理によるもので、軍曹に殺されなくとも米軍によって殺される可能性は高いのだと感じた。そしてどこに米兵がいるのかとあたりを見渡すと、丘の上のほうから風に乗って焼肉の香りがする。そのとき井田は強烈なる空腹を感じた。肉を腹いっぱい食ったらもう死んでもいい。彼にそんな考えがうかんだ。鼻から入ってくる肉の臭いが彼の脳髄を支配し、肉への渇望が生への失着を断ち切って、彼を駆り立てた。

井田は腹ばいになって四肢をもがかせながら丘の向こうの野営地を目指した。かれの念頭には野営地にこっそりと忍び寄って米軍の肉を奪うことしかなかった。

丘の上から臭気の発生源の方向を見やると、そこには米兵ではなく、なんと軍曹が一人、たき火して肉を焼き、それに餓鬼のようにしゃぶりついている。井田は軍曹の様子を探るために、近くの茂みに身をひそめた。

軍曹はどうやら何か動物でもとらえて食べているらしい。

先ほど軍曹が刀を研いでいるのはそのためであったか、と井田は安堵するが、軍曹の表情には何か鬼気迫るものがあり、獣のように肉をくらう軍曹を見て、生きることへの執着心を醜いと感じた。

それと同時に、勝手な勘違いで軍曹を殺そうとした己の心の醜さに辟易した。しかし、腹は減っている。彼は日中の出来事を思い出し気まずくなったが、意を決して軍曹に話しかけた。

「軍曹殿。昼は悪くありました。自分も腹が減っております。どうか肉を分けてください」

井田は笑顔を顔に張り付けて、上目使いに軍曹を見つめた。

軍曹は井田が急に茂みから出てきたのに驚いたようで、ひゃっと飛びのいた。

井田はそれにかまわずたき火の前にどっかりと座りこんだ。肉を俺にも分けてもらうぞという意思表示である。軍曹は挙動不審な様子で井田をじっと見つめた後、聞いてもないことを口走った。

「君、いいか、これは豚の肉だからね。いいか野豚の肉だぞ」

井田はその様子を見てなにか不審に思った。

「は。了解いたしました」

と返答しておくものの、どうにも軍曹の様子は腑に落ちない。井田に何かが知れることを恐れるようである。しかし目の前にある肉はとにかくうまそうであった。思わずかぶりつく。暗くてよく見えないが、井田がかぶりついたのは豚足のようであった。久しぶりの肉は、とろけるようにうまかった。噛めば噛むほど、脂肪の油の甘みが舌にしみ込んでくる。夢中で一つを食べ終わって、次の肉に手を伸ばすと、何やら固いものが手の先に触れた。

つついてみると歯のようであった。手に取ってみる。月の光に当ててみると、それは銀歯である。

「軍曹殿、これはどういうわけか」

井田は、銀歯をかざして軍曹を問いただした。軍曹は見る見るうちに震えだした。

なぜ軍曹が震えだしたのか、その答えは明白だった。井田に人の肉を食われたことを察知されたがために違いなかった。それ故に、

軍曹は何かにおびえているようなそぶりを見せていたのだった。

 「これは誰の肉です」

やや上ずった声が出た。軍曹は、しばし呆けたように空を仰いでいた。そしてぽつりと一言。

 「中隊長殿の肉」

 井田は絶句した。そして軍曹の言葉を胸中で何度も反芻した。では先ほど自分が食べたのは中隊長殿の肉なのか。軍曹の殺した中隊長の肉を俺は舌鼓を打って堪能したのだ。自分たちは栄えある皇軍兵士などではない。餓鬼だ。畜生道に落ち、地獄の底の底で腹をすかして、人肉を喰らい、はては自身の肉までも口にする食人鬼なのだ。いまおれの腹の中に入っているのは、人の肉だ。ああ、これが本当に野豚の肉であれば、どれほど幸せだろう。人を喰らい生き延びても故郷に帰る気などない。俺はもう人間ではなくなった。餓鬼は名も知れぬ島で人知れずひっそりと死ぬのがいい。

 井田は言った。

 「軍曹殿。肉を食べましょう。それがおわったら……二人で自決しましょう」

 軍曹は顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくったが、井田の提案に同意した。彼らはたらふく肉を食い腹を満たすと、丘の上に横になった。

 「朝になったら手榴弾で自決しましょう」

 井田と軍曹は顔を見合わせて何度もうなずいた。

 夜が明けた。

 昨日まで、激しい燭光を放つ疎ましい存在だと思っていた太陽も、いざ今日死ぬのだと思うと幻想的に見えた。俺は死ぬのではない、宇宙と一体となるのだ、という空虚にして不可思議な感慨が心の中に芽生えた。島のすべてのものが美しく目に映った。

 しかし脇で寝ている軍曹の血の付いた口のまわりを見るとそのような考えもたちどころに吹っ飛び、自分たちが餓鬼であるということが明確に感じられた。同時に自分たちは早く死ぬべき存在であることを思い、軍曹を揺さぶり起こした。

 軍曹は、なかなか起きなかった。いや本当は起きているのに、寝たふりをしているようであった。証拠に、最初軍曹の体を揺さぶった時に、片脚がビクンと動き、左の瞼が一瞬開けられた。

 いまさら死を恐れているのか。井田は軍曹に卑怯者と罵声を浴びせたくなった。しかし、自身もまた死を恐れていることを、激しい胸の動悸から感じた。

しかしやらねばなるまい。井田は覚悟を決めて、腰の手榴弾に手を伸ばした。

「軍曹殿、行きますよ」

軍曹は目をつむったままだったが、まるでえびのように両脚が動いて、のけぞった。

井田は震える手でもって手榴弾のピンを抜き、岩に弾頭を擦り付け、胸に押し抱いた。

あと何秒かで死ぬ。そのことを考えると恐怖で頭がどうにかなりそうだった。心臓の鼓動が鼓膜に響くように大きくなってきて体の震えが全身に広がった。息をするのは苦しく、汗がぶわっと湧いてきた。軍曹もぶるぶるとふるえ、両手を合わせて真言教を唱えている。胃の奥から反吐が湧いてきて、苦い汁が舌にしみ込んだ。軍曹はまるでタガが外れたようにあーっと叫びだす。もう死ぬのだ。それを思えば今までのどんな苦しみも無きに等しかった。ただ一つ思うことは自分の意識が完全に消滅してしまうことの恐ろしさだった。

 死ぬまでの時間が無限のように感じられた。

 しかし手榴弾はいつまでも爆発しない。どうやら壊れているらしい。

 井田はその場にへたへたと倒れこんだ。軍曹は、肩を上下させて

荒々しく呼吸していた。

 「生きるんだ、おれたちは。生きるべきなんだ」

 軍曹が言った。この殺人鬼は人を殺し食ってなお、生きようとしているのだ。しかし井田もまた生きたいという欲求がこみあげてきた。手榴弾は後二つ残っているが、もう死ぬ気にはなれなかった。

 井田は、その日、毎日の日課であるタロイモ拾いを終えると、それを軍曹と分け合いながら、今後について話し合った。その中で軍曹はやはり米軍に投降することを主張した。

 「米軍に投降するしかない。このまま本隊に合流したとしても、我等は軍紀に反した罪人の身だ。人を食ったような身ですぐに故郷に帰るわけにもいかん。このまま米軍に投降し、戦争が終わっている数十年後には生きて日本に帰ろう」

 これには井田も同意した。ほかに考えも浮かばなかったし、米軍のもとに行けば、薬や食料もふんだんにあるはずで、生死の境をさまようことは二度となくなるはずである。

 肉を食った軍曹は、血色もよくいつになく壮健な顔つきで口元をほころばせていた。

 それから数日間の間、井田は食糧を探し続けた。米軍基地までの食糧を確保するためである。木の根や鼠、蜥蜴、運が良ければ椰子の実がとれた。根気よく探せば思ったより多くの食糧が取れた。それまでは、何の目標も持ち合わせていなかったが、米軍に投降し、終戦まで匿ってもらうという大きな目標ができたことで、井田の食糧探しでの足取りは幾分か軽くなった。井田はその作業の中に、生きることの喜びを見出していた。

 とうとう出発の時がきた。二人の背中に背負われた背嚢には井田の数日間の努力のあかしであるタロ芋がふんだんに詰められ大きく膨らんでいる。

 軍曹のマラリアもどういうわけか自然治癒して、走れないまでも何とか歩けるようになっていた。井田は中隊長の肉が彼に活力を与えたのだろうと、密かに考えていた。

 「行こうか」

 軍曹はそういって井田が拾ってきた木の枝を杖にして、ひょこひょこと歩き始めた。井田はその後ろを草木を踏みしめながらついていく。二人は振り返ることなどせず、鬱蒼と生い茂る密林の中へ入っていく。

二人が密林に足を踏み入れる中、丘の上ではきれいに肉をそぎ落とされた人骨が眼窩の黒っぽさを、骨の透き通るような白色とめいっぱい対比させて、恨めしそうに横たわっていた。


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