第八章 最後の記憶
放課後。望は授業中に泣き出した理由を誰にも話さなかった。心配する国立と井上にも、迷惑をかけた松島先生にも。話せるはずなど、なかったのだ。
泣く資格すら、自分にはないのかもしれない。望はそう思う。今日、一体どんな顔して父と顔をあわせればよいのだろうか。
国立や井上に声をかけられる前に、学校を後にして、一人帰宅路を歩く。空は重い雲がたれこめていた。今にも雨が降り出しそうだ。まるで、望の心を反映しているかのように。
信号が赤に変わった。望は横断歩道の前で、ゆっくりと足を止める。待ってましたといわんばかりに、車が走り出した。大きなトラックが横切って、一瞬向かい側の歩道が見えなくなった。トラックが通り過ぎる。望は向かいの歩道を見て、息を飲んだ。
先ほどまで誰もいなかった場所に、白い女が立っていた。望は白い女から目が離せずにいた。
どれ位見詰めていただろうか。不意に、望は異変に気づいた。白い女の服が、まるで、雨にでもうたれたように濡れ始めたのだ。長い髪からも、水が滴っている。
信号が青に変わった。後ろに立っていた人が、歩き出さない望を怪訝そうに見てから、通り過ぎた。
それに気づいていたが、望は動き出す事が出来なかった。
白い女の顎から、水が滴り落ちた。透明な水の中に、赤い色が混じり始めた事に望は気づいた。
血だ。
血が顔を伝い落ちていく。
望は一歩後退する。信号が点滅しているのが、目に入った。
その信号の下。白い女が始めて口を開いた。何か言っている。
何だろう。
そう思って、望は一歩足を踏み出した。だが、良く見えない。
一歩。もう一歩。足を踏み出した。
突如クラクションが鳴った。音の方向に顔を向けると、車が迫っていた。いつの間にか、車道に出ていたようだ。
まるで鈍器で殴られたような痛みが頭を襲った。痛みに閉じた瞼の裏に、断片的に記憶が蘇る。
瞬間、腕を強い力で引っ張られた。
クラクションを鳴らした車が、通り過ぎていく。
望は、いつの間にか歩道に尻餅をついていた。望の腕を掴んで、車道に連れ戻してくれたのはサラリーマン風の男性だった。
「何やってるんだ。危ないだろう」
怒鳴り声に目をあけて、望は顔を上向けた。
「すみません」
その一言を出すのが精一杯だった。男性は、溜息をつくと、青にかわった信号を渡っていった。横断歩道の先に、白い女の姿はすでになかった。
ぽつりと、雨が頬にあたった。とうとう雨が降り出したのだ。あの時のように。あの事故の時のように、強い降りになるのだろうか。暗い空を見上げて、望は頭を整理しようとした。
全て、思い出した。車に轢かれそうになった瞬間。蘇ってきたすべての記憶。
会いにいかなければならない。
望は、立ち上がった。
あの人に、聞かなければならないことがあるから。
辺りはすっかり暗くなっていた。下校時間を過ぎた学校は、人気がなく妙に静かだ。廊下を歩く音が響く。一歩一歩確実に進みながら、望は目的の場所へ来た。
望の目の前には、国語準備室があった。前に一度来たことのある場所。望は前と同じようにノックする。すると以前とは違い、応答があった。
「どうぞ。開いてるよ」
望は、失礼しますと呟いてドアを開けた。相変わらず狭く汚い部屋に、男がいた。妙に暗い。そう思って天井を見上げると、電気がついていなかった。なぜだろう。そう思って、そこにいた人物を見る。薄暗い室内で、窓を背にこちらに目を向けているのは、松島だった。
松島は、望にイスに座るように促した。望はドアから一番近い席のイスをひいて、腰掛ける。最初に昼間の授業で泣いてしまったことを詫びた。それに、松島は首を横に振った。
「いいんだよ。それより、悪いね。こんな時間になってしまって。で、話ってなんだい」
松島が口火を切った。とても、落ち着いた声だった。松島は窓際から離れて、望に向き合うように棚に背を預けた。望は松島の動きを目で追ったあと、口を開く。
「前に一度、先生にお話しましたよね。白い女の話」
言うと、松島の眉が少し上がった。だが、表情を動かしたのはそれだけだった。
「ああ、聞いたな。それがなんだい」
「ここ最近、頻繁に見るんです。その白い女。夢にまで出てきて、僕に事故のことを思い出させようとするんです」
「……」
松島は、何も言わなかった。じっと、望に視線を注いでいる。松島の顔から、感情は読み取れなかった。今、松島は何を考えているのだろか。望の正気を疑っているのか。それとも……。
望は、言葉を続けた。
「その、白い女が僕の母親だっていったら、先生、信じますか?」
望はポケットから写真を取り出した。白いワンピース姿の女性が写った写真。母の写真だ。ポケットに入れていたせいで、少しよれてしまった写真を、望は松島に差し出した。
松島は写真を受け取ろうともせず、望から顔を背けた。溜息をつく。そして、棚から背を離し、望の前に立った。まっすぐ望を見下ろして、望の手にした写真を取り上げると机の上に放った。
「いいかげんにしなさい。君の妄想は聞くに堪えない。君が辛い経験をしたのは分かってるつもりだ。だが、そんな妄想をして何になる。現実を見なさい。白い女なんていやしない。ましてや、君のお母さんであるはずがないんだ。君のお母さんは死んでいる」
望は立ち上がった。松島と目線が近づく。望は目を逸らしたい衝動を抑えきれず、俯いた。
「そうですね。白い女は、母のことを思い出したい僕の無意識が作り出した幻影だったのかもしれません」
そう言うと、望より少し高い位置から松島の声が聞こえる。
「そうだ。そうだよ。すべては君の妄想だ。事故のことを知って、ナーバスになっているだけだよ。さあ、もう遅い。話はまた今度にして、もう帰りなさい」
望は、素直に頷いてドアの方へ向かう。ドアに手をかけたとき、望は松島を振り返った。
「ところで、先生」
松島が眉間に皺をよせた。まだ何かあるのか。そう言いたげに見えた。
「白い女が僕の幻影なら、今僕に見えている先生も幻影ですか?」
松島の顔が歪んだ。松島は顔に手をやって口元を覆う。
「どういう意味だ」
松島の声がいつになく低い。口元に手をやっているせいでくぐもって聞える、低い声。望はその問いに答えた。
「だって、先生は死んでいるはずだもの。僕とお母さんを轢き逃げしたのは、先生、あなただから」
「……」
「新聞には、轢き逃げ犯は自殺したって書いていあったなのに、どうして先生は生きてるんですか?」
望がそう言ったときだった。松島の背後にある窓が光った。
雷が落ちたのだ。
少し間をおいて雷鳴が轟く。
望の脳裏に、また、事故の記憶が蘇る。母を捜して起き上がった望の目に映った、男の影。稲光。その光に照らされた一瞬。焼きついた男の顔。それは、今、目の前にいる松島要一の顔だった。
松島が動いた。慌ててドアを開けようとした望の手首を掴む。かなりの力で手首をつかまれ、望はドアノブから手を離すしかなかった。
「痛っ」
望の口から声が漏れた。松島は、苦痛に歪む望の顔を見下ろした。
その顔に、笑みを浮かべて。




