第七章 殺意
今日は久しぶりに、靴箱がゴミ箱代わりに使用されてなかったな。そんなことを思っていた、朝のホームルーム前。大抵、予鈴ぎりぎりに来る井上が、珍しく予鈴の十分前に教室へ入ってきた。
井上は自分の席ではなく、望の席へくると、机の上に何かを置いた。コンビニの袋のようだ。中に何かがたくさん入っている。
「おい、吾桑。貰ってきてやったぞ」
「何これ」
望の横の席に座る国立が、面白そうに眼鏡の奥の瞳を光らせる。井上は、真面目な顔で、望を見返した。
「お守りだよ、お守り。おまえ絶対呪われてるって。あの白い女、あれはヤバイ。おまえが顔から血を流してるのを見て、ニターって笑うなんて、おかしいって。俺マジしょんべんちびりそうだったもん」
「おい、ちょっと待て、おまえまで見たのか? 白い女」
国立が井上に詰め寄った。井上は、青白い顔で国立の腕を掴んだ。
「そうなんだよ、そうなんだ。見ちゃったんだよ。吾桑の言う白い女。吾桑の上に花瓶が落ちてきたの知ってるか?」
「あ? ああ」
井上の余りの勢いに、やや引き気味の国立である。そんな国立に、井上は、花瓶が落ちてきたときのことを、身振り手振りを交えながら、克明に語った。
興奮気味の井上の勢いに圧倒されていた国立は、井上の話が終わったとみるや、望の机の上に置かれた袋を覗き込んだ。
「で、白い女が怖いから神社めぐりしてきたわけか」
呆れたような国立の言葉に、井上が激しく首を左右に振る。
「ちげぇよ。俺の母ちゃんの実家が神社でさ。爺ちゃんに頼んで、お守り分けてもらってきたんだよ」
そんな二人を見ていた望は、机の上に置かれた袋を覗いた。
「うわぁ。いっぱい」
袋の中には、たくさんのお守りが入っていた。赤や、紫、紺に青。水色のお守りまである。やけにカラフルだ。コンビニの袋に入っているせいか、ありがたみがまったくない。それでも望は嬉しかった。井上が、自分を避けるのではないかと思っていたからだ。国立と違い、井上は白い女の存在を否定したがっていた。
望は、袋の中からお守りを一つ取り出した。
「ねぇ井上。これ、安産祈願……」
「へ?」
国立を相手に、白い女がどんなに怖かったかをまた熱弁していた井上は、気の抜けた声をだした。
「で、これは、交通安全でしょう。これは、縁結びだ」
望は一つ一つ袋に入ったお守りを取り出して、机の上に並べる。
国立が笑い声を上げた。
「おまえ、どんだけ焦ってるんだよ。ちゃんとどういうお守りが欲しいって伝えたのか?
安産祈願で、どうやって幽霊退けるんだ」
そう言って、腹を抱えて笑っている国立を、井上は睨んだ。また、顔が赤くなっている。
「だって、お守りはお守りだろ? 何でもきくんじゃねぇの? つうか、そんないろんな種類あるって知らなかったし」
いい訳じみたことを言った井上に、望は笑顔を向けた。
「井上、使えないね」
望の無垢な笑顔を見た井上は、表情を氷つかせた。ショックを受けたようだ。井上はよろよろと、机に縋りつくように膝を折った。望はそんな井上の様子に首を傾げた。
「おまえ、結構酷いこと言ってるぞ」
小声で、囁かれたので、望は小声で国立に返す。
「だって、縁結びならまだしも、安産祈願なんて、井上には使えないでしょう」
そう言うと、国立はまた口元に手をやった。
「そう言う意味か」
そう言って笑いを堪えている。
「他に意味があるの?」
尋ねたが、国立は手を軽く横に振っただけで、答えてはくれなかった。
望は暗い闇の中にいた。
またか……。
そう思って、辺りを見回した。
きっと、また現れるはずだ。
あの、白い女が。
望の予想通り、しばらく待つと、白い女は現れた。やはり、顔立ちは分からない。だが、よく似ている。望の持つ写真の母と。絶対に母さんだと、望は思った。
前見た夢と同じように、望の前に立つ白い女は、望の後ろを指し示した。
『また、事故の映像をみせようって言うの』
望は初めて白い女に話しかけた。女は腕を上げた体勢のまま動かない。唇もいつものように引き結ばれたままだった。
『どうして答えてくれないの? どうしてこんなモノ見せるんだよ。どうして事故の映像なの? 僕は見ないよ。僕は見たくない』
望は叫ぶように言った。暗闇に声が吸い込まれる。暗闇の中に淡く光る白い女は、望の叫びをきいても動じなかった。望がもう一度口を開こうとした刹那、暗闇が動いた。物凄い風だ。望は腕で顔を庇うように手を上げ、目を瞑った。目を開けていられないほどの風だった。
不意に、風がやんだ。
雨音が聞える。
不審に思って、ゆっくりと目を開ける。
あの場所だった。先日見たあの夢の場所。望は横断歩道の前に、立っていた。
激しい雨が、排水溝に向かって流れていく。まるで、小さな川のように。それだけ激しい雨の中にいても、望の身体は濡れていなかった。腕を前に出して、掌を広げてみても、雨があたらない。
不意に、寒気を感じて望は右横を見た。白い女が、望の横に立っていた。望が口を開く前に、また女が指差した。望はつい、その方向を目で追う。白い女が指差した先に、二人の人影が見えた。一人は女性だろう。傘をさす手とは逆の手で、小さな子どもの手を引いていた。その子どもも傘をさしている。
『僕と、母さん?』
尋ねるように、白い女に顔を向けた。だが、白い女は二人の人影へ顔を向けたまま、こちらを見ようとはしなかった。望は仕方なく、また、二人の人影に目を向ける。
二人は横断歩道へ近づいてきた。二人の人影は、横断歩道の前まで来ると立ち止まった。街灯のおかげで、二人の顔が見えた。望の正面に立つ親子はやはり、写真で見た母と、小さい頃の望だった。傘をさす母の腕には、傘が一本掛けられていた。黒い傘。きっとあれは父の傘だ。
そうか、あの日。僕達は、父さんを迎えに行ったんだ。脳裏にそんな言葉が掠めた。深夜。寝ていた望は、物音で目を覚まし、傘を持っていない父を迎えに出ようとしていた母に、無理やりついていったのだ。不意に、そんな記憶が蘇った。
鈍い痛みを覚えて、望は頭に手をやった。痛みに顔を顰める望の前で、信号待ちをしている親子は、何やら楽しげに話しをしている。
何の話をしていたっけ? そう、父さんの話をしていたんだ。僕達は父さんに内緒で、駅に向かっていた。きっと、父さんは驚くよ。そんなことを言っていた気がする。
父は、まめに帰るコールを母にしていたから。父が駅に着く時間を見計らって、よく二人で父を迎えに行っていた。この日も、父が驚く顔を想像して、二人で笑っていたんだ。
ふいに音が耳を打った。信号機からの音だった。信号が青に変わったのだ。小さな望が、母の手をすり抜けて車道へ走り出る。
『だめだ。出るな』
望はそう叫んでいた。頭が痛い。だめだ、だめだ。もうすぐ。そこの角を曲がって車が来る。凄いスピードで。
望の叫びも虚しく、子どもはこちらへ向かって走ってくる。横断歩道の半ばに差し掛かる頃。車が、角を曲がってきた。酷い雨、街灯の少ない夜道。小さな望の姿は車に乗っている運転手からは見づらかったのだろうか。信号を無視して、車は横断歩道に突っ込んでくる。小さな望は、車のヘッドライトに目が眩んだのか、足を止めた。
だめだ。止まるな。そのまま走れ。
『望、危ない』
女性の悲鳴に似た声が、望の名を呼んだ。
その声に顔を向けると、母が車道に飛び出してくる姿が見えた。望を突き飛ばした母の前に車が迫る。
「やめろー」
望の叫び声に、クラス中の視線が望に向いた。
望は机に突っ伏していた顔を上げて、辺りを見回した。
クラスメートが、望に奇異な視線を向けていた。ゆっくりと顔を教卓の方へ向けると、なぜか、松島先生の顔があった。
「先生。何でここに」
そういうと、驚いた顔をしていた松島は、苦笑を浮かべた。
「おいおい。さっき説明したところだぞ。もっとも。おまえは最初から寝ていたか」
その声に、教室が笑い声に包まれた。
望はその笑い声に合わせて、笑顔を作ろうとした。だが、上手く笑えない。視界が歪んだと思ったら、涙がこぼれた。
それに気づいた幾人かが、声を上げた。慌てたような先生の声も聞こえたが、どうしようもなかった。
僕のせいだった。
僕が飛び出したりしなければ、母さんは死ななかった。
僕のせいだ……僕が殺した。
きっと、母さんは僕を恨んでいるんだ。
だからこうやって、僕に辛い現実をつきつけるんだ。




