第六章 母
家に帰ると、父がもう帰宅していた。望は手を洗い、私服に着替えてから、リビングに入る。父はソファーに座って、テレビを見ていた。望が入ってきたことに気づいたのか、父が振り返る。そして、一瞬呆けた顔をした。
「おい、どうしたんだ。その顔」
言われると思った。
望は頬に大きな絆創膏を貼っていた。花瓶の破片で切った傷を、保健室で手当てしてもらったのだ。傷自体はそう深いものではなく、保険医もすぐに治るだろうと言っていた。望は、説明するのが面倒だった。
「ちょっと、切ったんだよ」
「何をどうやったら、顔なんて切るんだ」
早々に話を打ち切りたかったのに、父は食い下がった。
「それは、花瓶が割れて、破片が顔を掠めたから……」
そう言うと、父はあからさまに溜息をついた。
「危ないなぁ。まったく。注意しろよ」
「うん」
どうやら父は、望が花瓶を落としたと思ったのだろう。頭上から花瓶が降ってきたなどと説明した日には、学校に乗り込んでいきかねない。父はそんな過保護なところがある。望は、面倒くさいことにならずにすんだと、ほっと息をついた。
「それにしても、よりにもよって、顔を怪我することないのに。せっかく父さんに似ずに可愛い顔して生まれてきたんだから、大事にしろよ」
そう言いながら、テレビに視線を戻した。望はそんな父を凝視しながら、口を開く。
「僕が母さんに似てるから、そう言うこというの?」
父は驚いたように望を見た。だが、口を開こうとしない。テレビから、場の空気にそぐわない楽しげな笑い声が聞えてくる。
「僕は、母さん似なんだってね。母さんが死んでるって、どうして教えてくれなかったの」
「怒ってるのか? 望」
「別に怒ってないよ。聞いてるだけ」
抑揚のない声で望はそう口にする。そのまま続けた。
「事故だったんだってね。どうして、僕は憶えてないの? 僕も一緒に事故にあったはずなのに、六歳だったのに。どうして母親の顔すら憶えてないんだろう」
最後の方は独白のようになっていた。父はじっとそんな望を見詰めていたが、ふと思い出したようにテレビのリモコンに手を伸ばした。父はテレビを消すと、望に向き直った。その表情はいつになく真剣だ。
「望。頭、大丈夫か」
その言葉に望は顔を顰めた。
「僕は正気だよ」
そう言うと、父は瞬間驚いた顔をした。そして、しまったとでもいうように、顔を顰める。
「ああ、悪い。言い方が悪かったな。違うんだよ。おまえの頭を疑ったわけじゃなくて、頭痛がしていないかどうか聞きたかったんだ。おまえ、母さんのこと思い出そうとすると、いつも頭が痛くなっただろう?」
言われて、望は目を見張る。そうだったのだろうか? 小さい頃よく起こっていた激しい頭痛。あれは、母親のことを思い出そうとして起こっていた頭痛だったのか。望は自分の中で合点が言ったような気がした。頭痛を訴える望に対して、父が言ったあの言葉。思い出さなくていい。あれは、思い出そうとするなということか。頭が痛くなるほどの辛い記憶なら、忘れたままでいい。思い出すことなどない。そう、父は言いたかったのか。
「僕は、記憶喪失だって言われたんだ」
望は俯いて、そう口にだしていた。父が、ソファーから立ち上がった気配する。父は望のそばに寄ってくると、望の背に手をかけた。
「望。座って話そうか」
望は頷いて、父に促されるまま、ソファーに腰掛けた。
「本当に、大丈夫なんだな?」
聞かれて、望は頷いた。今のところ頭痛はない。
目の前のテーブルの上には、マグカップが二つ置かれている。先ほど、父が、紅茶を入れてきてくれたのだ。これでも飲んで、少し落ち着いてから話をしよう。そういうことらしい。
望と父は、しばらく無言で紅茶を飲んでいた。望はミルクティー。父はストレート。ティーパックをお湯に長くつけすぎていたせいなのか、望が入れるものよりも少し苦い。望が半分ほどまで、紅茶を飲んだとき、不意に父が声を上げた。
「なあ、望。事故のこと。誰に聞いたんだ」
問われて、望は父に問い返した。
「松島要一って名前覚えてる?」
父は手で頭を掻いた。せっかく仕事用に固めていた髪がそのせいで、ぐしゃぐしゃになる。
「松島、松島。……ああ、思い出した。あの、犯人の友達か……」
呟くように言われた父の声からは、感情が読み取れなかった。望はじっと、父の顔を見る。父の顔から、表情がなくなっていた。
「なんで望が、その名前を知ってるんだ」
「学校の先生なんだ。僕は直接教えてもらってないけど、この間初めて会って。それで、事故のことを教えてもらった。……犯人が死んだこととか」
話を聞いていた父の表情が曇っていった。望は言いながら、自分の声が小さくなっていくのが分かった。父が舌打ちをした。望は驚いて肩を震わす。なぜか、父から怒気を感じたのだ。
望が肩を震わせたことに気づいたのか、父ははっとしたように笑顔をつくった。無理やりつくったような笑みだった。
「どうして事故のこと、黙ってたの?」
そう言うと、父はあの哀しげな顔をした。望の胸が痛む。そんな顔など、してほしくないのに。
「おまえ達が事故にあった後。おまえが、記憶喪失になっていると医者に告げられた。父さんは最初、おまえに母さんの事思い出してもらおうと必死だったんだ。母さんが可哀相だった。事故の後も、しばらく生きていたから。もし、母さんが目を覚ましたとき、おまえが母さんのこと分からないなんて言ったら、母さん、悲しむから」
父はそこで、一端言葉を切った。マグカップを手元へ引き寄せ、残った紅茶を一口飲んだ。
望は父を促した。
「それで?」
「それで、おまえに母さんの写真見せたり、母さんのことをおまえに話したり、色々と試してみた。だけど、おまえはそのたびに、頭が痛いって泣きだしてな。頭が痛いって泣くおまえを見て、父さんは自分が酷いことをしているって気がついたんだ。俺は、辛い体験をしたおまえの傷口を広げるようなことをしていたんだよ……」
父は手にしていたマグカップを持つ手に力を込めた。望はそんな父からマグカップを取り上げる。力を入れすぎて、割れてしまうのではないかと思ったからだ。実際マグカップが割れることはないだろうが、そう思った。
父は望に、苦笑を浮かべて見せた。望も、口元だけの笑みを向ける。
「ごめん。続けて」
望に頷いて、父はまた口を開いた。
「事故の一週間後に、母さんが亡くなったし、望が辛いなら、思い出せないなら、無理に思い出させる必要はないと思った。だから、家にあった母さんの思い出の品や、写真を全部隠した」
父はその頃のことを思い出したのだろう。疲れたように、顔を手で覆ってうなだれた。望はそんな父から目を逸らす。
父もまた、傷ついていたのだろう。母の死に。父は母が嫌いだから、何もいわないのだと思っていた。だが、それは違った。父は言いたくても、言えなかったのだ。母のことを。忘れてしまった息子のために、愛する人の話を口にしなかった。
「だから、僕は母さんの写真見たことがないんだ」
望の呟きに、父が頷いた。そして、ふと思いついたように、声を上げる。
「そうだ、望。写真見たいか?」
そう言った父の表情がやけに晴れやかで、望は怪訝に思った。
「誰の?」
そう言って首を傾げる。
「望。この話の流れから言って、母さんの写真しかありえんだろうが」
望は、そうかと手を打った。父は待っていろと言い置いて、リビングを後にする。しばらくして戻ってきた父の手に、分厚いアルバムが握られていた。父が望の横に腰掛けて、そのアルバムを望に差し出した。
「ほれ、母さんと父さんが結婚する前の写真だ。おまえが生まれてからのものは、全て、物置の奥にしまっていて、すぐにはだせないからな」
「へえ」
望は高鳴る胸を押さえ、アルバムを受け取った。受け取ったアルバムを膝の上に置き、ゆっくりとアルバムを開く。
そこに写っていたのは、まだ若い父と女の人の写真。どれも笑顔だ。
父の友達だろうか。たまに見知らぬ人々も写っているが、大概、同じ女性とのツーショット写真だった。
「うわー。自分が女装してるみたいでちょっと気持ち悪い」
つい、率直な思いが口に出た。父がそんな望に、笑みを漏らす。
「ははは、そうか? そうかもな。おまえは本当に、母さんに似てるから」
松島が驚いたのも無理はないだろう。それほど、望とこの女性はよく似ていた。目の大きさも、鼻や唇の形も。華奢な体型までそっくりだ。
自分が髪の長いかつらをつけて、スカートをはくとこうなるのか。案外いけるじゃん。と、望は妙な自信を持った。だが、写真に写っている女性が、自分母親だという感慨はわかない。これだけそっくりなのに、どうも他人を見ているように感じてしまうのだ。
望はゆっくりと、アルバムを捲る。アルバムのページも残り少なくなったとき、ふと手を止めた。そこに写っていた女を見て、息を飲む。
「父さん、この写真」
望が指差した写真には、白い帽子をかぶり、白いワンピースを着た女性の後姿が写っている。その女性の前方には青い空と海が広がっていた。砂浜で撮ったものだろう。
綺麗な写真だった。夏の強い日差しの中、涼しげに立つ女性の後姿が印象的だ。しかし、この写真を目にした望は、身体が震えるのを感じていた。
望の様子に気づいていないのだろう。父は嬉しげな声を上げた。
「おお、いいだろう? この写真。父さんが撮ったんだ。デートで海に行ったときのだな」
「母さん、だよね」
尋ねると、呆れたような声が返ってきた。
「当たり前だろう? 次のページには正面から撮った写真もあるぞ」
望はその言葉に促されるように、ページを捲った。
息を飲む。白い帽子に、白い半袖のワンピースを着た母が、笑顔で父と腕を組んでいる。
あの白い女が脳裏を掠めた。
「母さん。このワンピース凄く気に入っててな、しょっちゅうデートに着てくるから、おまえそれしか持ってないのかって聞いたんだよ。そしたら怒る、怒る。たんに気に入ってるからよって言って、しばらく口聞いてくれなかったな……」
思い出話に花を咲かす父を遮るように、望は言った。
「この写真、貰っていい?」
父の返事を待たずに、アルバムから写真を抜き取る。立ち上がって、父にアルバムを押し付けるように渡すと、リビングを走り出た。背後から、父の声が聞こえたが、何を言っているのか聞き取れなかった。それどころではなかったのだ。
望は部屋に入ると、ドアに背をつけて写真を見詰めた。写真を持つ腕が振るえている。
「白い女だ」
そう呟く声も震えていた。
「母さんだった……」
写真に写っている母親は、いつも望の前に現れる白い女と全く同じ姿をしていた。




