第五章 イタズラ
望は溜息をつきたくなった。朝の登校時間。人の多い玄関に、望はいた。
靴箱を開けると、中にゴミが詰まっていた。学校へ来るなとかかれた手紙付き。望はそのゴミと一緒に手紙もかき出して、念のために持って来ていたゴミ袋に入れた。そして、上履きを取り出し、逆さにして振ってみる。昨日、そのまま履いて中に折れた画鋲が入っていたため、痛い思いをしたのだ。昨日の二の舞はごめんだった。
「おーお。またかよ。今日で何日目?」
「つうか、誰だよ。こんなことした奴。すっげぇムカつく」
背後からそう声をかけられた。望はそちらを振り返る。そこにいたのは、国立と井上だった。一緒に登校してきたのだろう。井上も国立も、到底教科書が入っているとは思えないほど薄い学校指定の鞄を手に提げている。井上は顔を顰めて、望が床に置いたゴミ袋を見詰めていた。望は国立の問いに答えた。
「三日目。犯人も懲りないよね。いい加減面倒くさくならないのかな。こんなことして」
淡々とした口調で望は言った。イタズラ、否、嫌がらせと言うべきか。松島に事故のことを聞いた次の日から、望に対する嫌がらせが始まった。ただでさえ、自分が記憶喪失だったと言うことにショックを受けていたのに、この嫌がらせだ。二重に気分が沈む。犯人の目的も、なぜ、こんな下らない嫌がらせをするのかも分からない。高等部に入ってからは、結構普通に周りに溶け込んでいたつもりだったのに。昔からたまにこういうことはあったのだ。国立に言わせると、吾桑は目立つから、そういう対象になりやすいと言うことらしい。今さら、靴箱をゴミ箱代わりにされたところで傷つきはしないが、不愉快であることに変わりはなかった。
ゴミ袋の口を縛ろうと、ゴミ袋に視線を落とした望に井上が言った。
「おまえ、もう少し怒れよ。頭にくるだろう普通」
「そうだね。不愉快だけど、この犯人結構親切だよ。僕、中学の時、生ゴミ入れられたことあったから。あれ最悪だよ。臭いんだ。靴箱も、上履きもしばらく臭いとれなかったもん。変な汁とか着くし」
「……意外と苦労してんだな。おまえ。でも、犯人に親切とかいうのはどうかと思うぞ。まあ、おまえのそういうところが、こんなことした犯人は癇に障るんだろうけどな」
「まあ、それはどうか分からんが、吾桑。中学の時の嫌がらせは、結局犯人分からずじまいだったっけ?」
国立がそう言いながら、望の横で上履きに履き替えた。
「ううん。犯人は分かったよ。だから、僕に嫌がらせしたことばらされたくなかったら、もうやめてってお願いしといた」
「それ、お願いじゃなくて、脅しじゃねぇか」
井上の言葉に、望は顔を上げた。その時、右側から何かの気配を感じて、望はそちらに顔を向けた。そして息を飲む。
また、白い女だ。
いつも、目にするときと同じ距離にいる。生徒が行き交う階段の前に、彼女は一人静かに立っていた。じっと、望の方を見詰めるように。彼女の表情は、やはり分からなかった。どうして、今日もずっと望の視界に映っているのだろう。前までは、視野に入ったと思ったら消えていたのに。少しずつ、何かが変わってきているのだろうか。何が変わってきているのかは、分からないが。
「おーい。吾桑。また、どっかいってるだろう」
「白い女か?」
国立の嬉しげな声に、望は我に返った。
「あ、うん、そう。でも、今消えちゃった」
望は残念だったねと、国立に作り笑顔を見せる。国立は、がっかりしたように、顔を伏せた。その動きで、かけていた眼鏡が少しずれる。
「何だ残念。また見損なった」
「げー。何でそんなもの見たいんだよ。物好きな奴」
井上が思い切り顔を顰めた。それに、望は小さく笑った。口を縛り終えたゴミ袋を持ちあげる。
「これ、収集所に持っていってくるから、上履き見といてね」
そう言うと、望は二人が嫌がる声を上げる前に、外へ走り出た。早くゴミを捨ててこないと、授業が始まってしまう。授業が始まっても、二人は待っていてくれるだろう。だから、望は走った。
最近、昼休憩に屋上へ上がるのが、定番になりつつある。よく晴れた青空に、直視できないほどの光を発する太陽が輝いている。今日は風が強い。そのため、給水塔の壁に、背を預けるようにして、国立や井上とともに食事をしていた。給水塔の壁はちょうど良い風除けだ。
「今日は酷いな。まず、靴箱のゴミだろ。それから、破かれた教科書とノート、机の中にカッターの替え刃。最悪だな」
国立は、今日、昼休憩までに望に起こったことを列挙しながら指を折った。井上が大量にご飯を口に詰め込みながら頷く。声は出せないようだ。望は人差し指に巻きつけた絆創膏を見ながら口を開く。
「うん。指切ったのは痛かった」
三時間目の体育の授業の後。四時間目の授業の用意をしようと机の中に手を入れた時、望は痛みを感じた。瞬時に手を引き抜いてみると、人差し指から血が滴った。机の中に、カッターの刃が仕込んであったのだ。余り深く切らなかったことが不幸中の幸いか。一体誰がこんなことをしているのかは分からないが、嫌がらせはいい加減やめて欲しい。恨まれる覚えなどないのに。
それよりも望は気になる事があった。それは、嫌がらせが起こるたびに、あの白い女が現れるということだ。この嫌がらせに、あの白い女が関わっているとでもいうように。
「ひふぉごふぉみふぁいにひゅうはよ」
井上が声をあげた。口にものを入れながら喋ったので、何を言っているのかさっぱり分からない。国立が顔を顰めた。眼鏡の奥から、井上を睨む。
「おい、口にもの入れて喋るなよ。汚ねぇな」
井上は水筒の蓋に注がれたお茶を飲み干した後、一息ついた。そして、国立を睨みつける。
「うるせぇ国立。おまえは俺の母親か?」
「はいはい、いい子は黙ってようね」
国立は井上をからかうように笑顔をつくる。井上は胸の前で拳をつくった。
「てめぇ」
険悪な雰囲気になった時、望が二人に向かって声を上げた。
「やーめーてー。僕のことで争わないでー。いくら僕が可愛いからってー」
台詞を棒読みしているようだった。井上と、国立が噴出すように笑う。
「何だそれ、どこのお嬢だよ」
「つうか、全く感情ともなってねぇし。まず、おまえのことで争ってねぇし」
二人にそうつっこまれて、望は肩を竦めた。そんなの分かってるよと言いたげに。
「ねぇ、白い女が犯人ってこと、ないよね」
望は思いつくまま、そう口にした。井上があからさまに顔色を悪くした。国立は思案顔で、顎に手をやる。
「ありえないだろう。幽霊がするイタズラにしちゃあ、現実的過ぎる」
国立の言葉に、望は反論する。
「でも、僕、恨まれるようなことした覚えないし。それに、僕がイタズラ受けるたびに、あの女は現れるんだよ。それっておかしくない?」
「おい、白い女なんて、見えなかったぞ。何処にも。そんな白い女なんていやしねぇの。おまえの幻覚だろ」
井上が声を上げる。望の顔が悲しげに歪んだ。
「幻覚かどうかなんて、そんなの分からないけど。でも、僕には見えるんだ。嘘なんてついてないよ」
そう言いながら、望が顔を俯ける。井上があっと声を上げた。しまったという表情をして、国立を見る。国立は、望に向かって顎をしゃくった。おまえが何とかしろということだろう。井上は望の前で、拝むように手を合わせた。
「ごめん。あの、お、おまえのこと、嘘つき呼ばわりしたつもりはないから。そうだよな。おまえには見えるんだよな。俺に見えなくたって、おまえが見えるって言うんなら、俺、信じるから。それが、例え、ゆ、幽霊でも」
望はその声に、顔を上げた。上目遣いに、涙の溜まった目を井上に向ける。ただでさえ可愛らしい顔が、よけいに際立って見える。
「やっぱり、井上って優しいよね」
そう言って、じっと井上を見詰める。するとなぜか、井上の顔が赤くなった。青くなったり赤くなったり忙しい奴だ。望がそう思っていると、国立が呆れたように声を上げた。
「吾桑、その顔反則だから」
望は国立の言葉に、首を傾げた。それにはとくに反応を見せず、国立は井上に顔を向けた。
「井上、俺、偏見ないからな。もし、おまえが吾桑に惚れても、俺一応応援するし」
井上は望の腕を掴んでいた手を床におろしてうなだれる。肩が震えていた。しばらくその様子を眺めていると、突如井上が顔を上げた。
「そんな応援、いらんわー」
井上の叫びは、一階の職員室まで届いたという。
放課後。靴を履き替えた後、望は玄関を出た。ゴミ捨て当番に当たっていたので、望はゴミ袋を半ば引き摺るようにして、収集所へ向かう。北校舎の横に沿うように続く道を進むと、収集所がある。それにしても、重い。井上の言葉に甘えて、一緒に持ってもらえばよかったと少し後悔した。井上と国立はまだ教室にいるはずだ。一緒に帰る約束をしている。
そういえば、今日は久しぶりに父さんが早く帰ってくるって置手紙に書いてあったっけ。望はゴミ袋を引き摺って歩きながら、ふとそう思った。
望が倒れた日以来、また父とはすれ違いの生活を送っていた。母親の事故のことを聞きたくても聞けなかったこの数日間は、やけに長かった。だが、一方で安堵もしていたのだ。事故のことを聞くのが怖い。父親がどういう反応を示すのか、それが分からなくて怖いのだ。だが、今日は聞くことに決めている。父の機嫌が悪くならないように、今日は父親の大好物をつくるつもりだ。
不意に、前方に気配を感じて立ち止まった。立ち止まりたくなるほどの威圧感を、前方から感じたのだ。望は顔を上げた。この気配には覚えがある。
前方にまた、白い女がいた。
望が白い女を視認した直後。目の前を何かが落下していった 目の前で落下したものが、道に当たって砕けた。大きな音が当たりに響く。破片が飛び散り、望は無意識に顔の前に手をやって破片を避けた。近くにいた生徒の間から悲鳴が漏れる。
望は目線を下し、目の前に落ちた物を見た。砕けているから、分かり辛いが、それは大きな花瓶のようだった。この花瓶が頭上から落ちてきたのだ。たぶん、道に並走するように建つ、北校舎のどこかから。もし、あの時、白い女を見て立ち止まらなかったら、頭に当たっていただろう。しゃれにもならない。下手をすれば死んでいた。これも嫌がらせの一つなのか? そう思うと、背筋が寒くなる。
ふと、望は頬に痛みを感じて手をやった。その手を見ると、血がついていた。砕けた花瓶の破片が頬を掠めたのだろうか。
「おい、吾桑。大丈夫か?」
不意に肩を掴まれ、望は声の主を見た。なぜか、井上がそこにいた。井上は切迫した表情で、望を見ている。
「井上、何でここに」
「おまっ。そんなことより血、血がでてる」
井上は望より動転している。そんな井上に、大丈夫だと言おうとした時、冷気が頬を撫ぜた。嫌な予感がする。額に冷や汗が浮かぶ。真横に気配を感じる。望はゆっくりとそちらに、顔を向けた。その目に女が映る。望は無意識に悲鳴をあげて、後退ろうとした。だが、井上の足に躓いて、尻餅をつく。その間も、望は白い女から目が離せなかった。
「お、おい。吾桑? どうしたんだよ」
望が急におかしくなったとでも思ったのだろうか。井上が、膝をついて望の顔を覗きこんだ。右手で望の肩を掴んで揺する。
「おい、どうした? 急に悲鳴あげて」
望は、ゆっくりと右腕を上げて、白い女を指差した。その腕が振るえている。
井上は望の腕から、望が指差している方向へ目を向けた。そして、息を飲む。望の肩を掴んでいた手に力がこもる。
井上にも見えた。望には信じると言ったが、どこか半信半疑だった女の姿が。望や国立が白い女と呼ぶ、白いワンピース姿の女が目の前に立っていた。
ついさっきまで、こんな女はいなかった。
望と井上は呆然とその女の姿に見入った。帽子の陰のせいで、女の口元しか見えない。女の、しっかりと引き結ばれていた口元が、不意に動いた。
ゆっくりと、口角が上がる。
女は笑みを作った。
まるで、何かに満足したとでもいうように。




