第三章 記憶
食事を作る気がしない。お腹も空いていないし、父さんも遅くなるみたいだし、作らなくていいかな。そう思って、望はテーブルに突っ伏した。そうすると、壁に掛けている時計の音がやけに大きく聞えてくる。しばらくその音を聞くともなしに聞いていると、その音の中に、違う音が混じった。玄関のドアを開ける音だ。驚いて顔をあげ、時計を見る。針は、六時十八分を指していた。
望は、テーブルの上に置きっぱなしにしていた紙を手に取った。広告のチラシだ。望はチラシの裏に走り書きされた文字を読む。
『今日も遅くなる。戸締りはしっかりして寝なさい。父より』
二週間。望は父親と顔を合わせていなかった。最近、父は望が寝てから家に帰ってきて、望が起きだす前に仕事へ行っているようなのだ。毎日同じ内容の手紙が置いてあるので、家に帰ってきていることは分かっていた。手紙には遅くなると書いてあるのに、どうして玄関のドアを開ける音が聞えたのだろう。望はそう思って、扉に目をやった。廊下を誰かが歩いてくる音がする。
扉がゆっくりと開いた。
望はリビングに入ってきた人物に向かって、口を開いた。
「あー。お久しぶりです」
そう言って、軽い調子で手を上げてみせる。そんな望を見たからなのか、扉の縁に手をついて、父は疲れたようにうなだれた。もう片方の手にはスーパーの袋を持っている。買い物をしてきたようだ。ちょうど良かったと望は思った。今日はまっすぐ家に帰って来たので、冷蔵庫にほとんど食材が入っていないのだ。
「のーぞーむー。どうせなら、お帰りなさいって言って欲しかったな。お父さんは」
心なしか声にも疲れが見えた。望は立ち上がって、うなだれたままの父のもとへ行く。
「えーっと、お帰りなさい。早かったね」
そう言うと、父は音がするのではないかというほどの勢いで、顔を上げた。背筋を伸ばして立つと、父がかなりの長身であることが分かる。居間の扉も、少し屈まなければ頭を打つほどだ。クラスの男子の中で、一番身長の低い望とは大違いである。顔立ちも似ていない。父は、野性味溢れる顔立ちの男前として、近所で評判だった。望の女顔とは正反対の顔立ちと言えるだろう。きっと、自分は母親似に違いないと、望は密かに思っていた。
「ただいま。倒れたんだって? 担任の先生から連絡貰って、今日は早く帰ってきたんだよ。仕事は無理やり部下に押し付けてきた」
そう言って豪快に笑う。父は望の背に手をあてて、望をリビングのソファーへ促すように歩き出した。望は背を押されるままに歩き、父に軽く肩を押されて、ソファーに座った。
「まだ顔色は良くないな。貧血か? ちゃんと食事してたのか? おまえ父さんがいないからって手抜きしてたんだろう」
望をソファーに座らせた父は、床に膝をつき、望の顔を覗きこんだ。望はそんな父から目を逸らす。心配そうに望を見る父の目に、哀しげな色を見つけたのだ。その目が望は嫌いだった。父はたまにこういう目をする。望はまるで、自分が憐れまれているような錯覚に陥る。哀しげな色は目だけに表れるのではなく、たまに、表情にもでる。怒っている時でも、笑っている時でも、たまにそんな表情が見えるのだ。
なぜ父がそんな顔をするのか。望は聞くことができなかった。聞いてしまったら、何かが壊れてしまう。そんな気がして。
「どうした? 望。ぼうっとして」
何も言わず俯いた望を不審に思ったのだろう。父が望の頭に手をおいて問う。父の手の重みを感じながら、口を開いた。
「別に。何でもない」
父の溜息が聞えた。頭に乗っていた手が離れる。なぜか喪失感を覚えて、望は顔を上げた。すると、笑顔の父と目が合った。
「腹へったな。飯にするか」
「でも、今日は何も用意してないよ」
早く帰ってくるのが分かっていたら、それなりのご飯を用意できたのに。望はそう思う。
その間に、父は脱いだ背広をダイニングテーブルに置くと、腕まくりした。
「よし、じゃあ今日はお父さんがご飯を作るとしよう」
その言葉に、望は顔を顰めた。可愛い顔が台無しである。
「何だ。その顔は」
望の表情を見た父が、不満げに口を開いた。望は、顔を顰めたまま口を開いた。
「だってやだよ。父さんの作る料理ってみんな大味なんだもん」
「いいじゃないか、たまには。男の料理って感じだろ。スタミナ満点の料理を作ってやるぞ」
望の言葉に気を悪くした風もなく、父はいそいそとキッチンに立った。望が倒れた理由を貧血だと思っているのだろう。倒れた本当の理由を父に言うべきか。小さい頃から、たまにあるあの頭痛。今日はいつにも増して酷かった。倒れるほどだったのは、小学生の時以来だ。だが、それを言うと、父はきっとあの哀しげな顔をする。それは見たくなかった。
望が色々と考えている間、父は、仕事帰りに買ってきたらしい食材を取り出していた。中身は、鶏のレバーや、ニラ。乾燥ひじきに、ステーキ肉、キャベツにジャガイモ、人参と、鶏がらスープの素。一体何を作るつもりなのだろうか。少し不安になったが、望は父が一度言い出すと聞かない性質なのを知っているので、もう何も言わないことに決めた。食欲は余りないのに、たくさん食えとか言われるのかな。そう考えると、よけいに疲れた気分になる望であった。
暗闇が広がっていた。全てが黒一色に覆われた世界。光はどこにもなく、望は恐怖を感じた。自分の腕すらも見えない真の闇。望は明かりを探してさ迷うが、前へ進んでいるのかも分からない。曖昧な感覚。ここは一体どこなのか。なぜ、ここにいるのか。
そんな事を考えた時、黒一色の世界に、白く光るものを見つけた。そちらに向かって走ると、白く光るものが、どうやら人である事が分かってきた。
望は足を止めた。白く光るその人物が、たまに望の前に現れる白い女だと言う事が分かったからだ。昼間見た、冷たい空気を纏った彼女が脳裏を掠めた。白い女は、望が瞬きをした瞬間、目の前に立っていた。昼間見たときと同じ、白い帽子に、白いワンピース姿。顔立ちは分からない。やはり、見えるのは口元だけだった。
突如目の前に現れたことに驚き、悲鳴を上げて、望は後退る。尻餅をついた。それでも懸命に距離をとろうと手足を動かして後退を続ける。
白い女が腕を上げた。望は動きを止めて、白い女に見入る。初めて白い女が動いたところを見た。そんな、どうでもよい事を考える。白い女は、腕をまっすぐ前へ伸ばし、望の後ろを示した。
つられるように、望は白い女が指し示す方へ顔を向けた。
不意に、周りの景色が変わった。
雨が降っていた。アスファルトを叩くように激しく降り続く雨のせいで、望はずぶ濡れになっていた。濡れた服が重く、肌に張り付く感触が気持ち悪い。
先ほどまでいた場所とは違い、暗いが真っ暗闇ではない。うるさいほどの雨音。降り続く雨。望から数メートル先を、光が横切っていた。車の、ヘッドライトだろうか。そう思った時。その光よりも手前に、何かが倒れているのを見つけた。望の位置からは、黒い影の塊に見える。
身体が震えた。だめだ。あれを見てはいけない。頭に警戒音が鳴り響く。だが、身体は言うことを聞かない。望の思いとは裏腹に、身体が勝手に倒れている黒い影へ近づいていく。
恐ろしかった。言うことをきかない身体。触ってはいけない。触れたくないのに、望は手を伸ばす。嫌だ、嫌だ、嫌だ。誰か助けて。
心の中でそう叫んだ時、強い力で肩を掴まれた。
望は痛みに驚いて目を開ける。
いつの間に、目を瞑っていたのだろうか。疑問が頭を過ぎった。ベッドの脇に置いてある目覚まし時計の針が、時を刻む音が耳に入る。自分の部屋だった。望は今、ベッドの上で半身を起こしているらしい。荒い息遣いが聞える。それが、自分の呼吸音だということに気づいたのは、しばらくたってからだった。
「望、大丈夫か」
近くから声がかかり、驚いて声の方を向いた。父親の顔がそこにあった。
「父さん……」
望は、いつの間にか強張っていた体から、力を抜いた。
父は、望の両肩に手を置いた。
「随分うなされていたな。父さんの部屋まで声が聞こえてきたぞ」
心配が声に滲みでていた。望は居たたまれなくて、顔を俯ける。
「ごめん。朝早いのに起こしちゃったね」
「そんな事はいいんだよ。それより望、また変な夢でも見たのか?」
肩に手を置いたまま、父は望に問う。望は顔を上げた。脳裏に、先ほど見た映像が蘇る。あれは、夢だったのか。白い女が出てきた。彼女が指差す方向を見たとき、場面が変わった。雨が降っていて、光が横切っていて、そして、その手前に……。
そこまで思い出したとき、殴られるような痛みが頭を襲った。思わず、縋るように、肩に置かれていた父の腕を掴む。
「望? どうした」
異変に気づいた父が、声をかける。だが、それに答えらないほどの痛みが頭を襲う。
父が息を飲む。慌てたように、大きな掌で望の頬を包む様にして、顔をあげさせる。
「頭が、痛いのか? 望」
小さく、望が頷く。すると、父は望の細い身体を抱きしめた。小さい子をあやすように、望の背をさする。
「いいんだよ。望。思い出さなくていい。何も心配いらないから。思い出さなくていいんだよ」
優しく、言い聞かせるように響く父の声。望は痛む頭を抱えながら、思う。
何を思い出さなくていいと言うのだろう。
自分が何かを、忘れているとでもいうのだろうか。




