第一章 白い女
彼女はふとした瞬間、望の視界に入る。それは、友人とともに帰宅する途中の道端であったり、何気なく見た窓の外だったりした。
しかし、彼女を見たと知覚した時には、彼女の姿は消え失せているのだ。それでも、望が彼女を彼女だと知覚しうるのは、彼女が異質な存在だからだと、望は思っている。普通なら見過ごすような一瞬の隙に視界に入り込み、鮮明な印象を残して消えていく。
「おい、吾桑。吾桑ってば」
呼ばれて、声の主を見る。望に声をかけたのは、クラスメートの井上晴大だった。井上は、ご飯粒のついた箸を、望の顔の前につきつけた。
「おまえ、何ぼうっとしてんだよ。俺の話聞いてたか?」
聞かれて、望は首を傾げた。
「ごめん。まったく聞いてなかった」
素直に質問に答えたつもりだったが、井上は望の答えにがっくりと肩を落とした。それを見ていた友人が、可笑しそうに笑いながら、井上の肩を叩く。
「おい、気にすんな。こいつは昔からこうだから。なあ、吾桑」
友人、国立和也は望に同意を求める。望はまたも首を傾げた。女性的な可愛らしい顔立ちの望に、この仕草はよく似合う。とても、男子高校生には見えない。身体の線も細く、中性的な容姿である。
「そういえば、何でここにいるんだっけ?」
望が頭に過ぎった疑問を口にすると、国立と井上は互いに顔を見合わせて、大きな溜息をついた。
「何? 溜息ついて」
望が聞くと、大げさに溜息をついた際に少しずれた眼鏡をもとの位置に戻しながら、国立が言った。
「おまえな。今、自分がどこで何してるか分かってるか?」
聞かれて、望は辺りを見回した。春の暖かい日差しが、三人に降りそそいでいる。見上げると、青い空が広がっていた。と、いうことは屋内ではない。周りは柵で囲まれている。その先に見えるのは、空だ。
ああ。そういえば、井上が屋上で飯食おうって言ってたっけ。望はそう思って井上と、国立に視線を向けた。
「それで二人とも弁当食べてたんだ」
一瞬二人の顔が呆けたように見えた。次いで井上が、ほとんど中身のなくなった弁当箱を床に置く。そして、立ち上がった。
「おまえ、何がそれでだ。っつうかおまえは何だ? さっきの国立の質問にちっとも答えてねぇじゃん。天然か? おまえは天然なのか」
「まあまあ。落ち着けよ井上。こいつと付き合っていこうと思ったら、こんなことでいちいち腹立ててたら身がもたねぇぞ」
国立の言葉に望が頷く。
「そうそう。いつものことだから」
「って、おまえが言うな」
脳の血管が切れるのではないかと心配になるくらいの勢いで、井上はつっこんだ。
望たちが通う私立清廉学園は、中高一貫校である。井上は、望と国立のように中等部からの持ち上がり組みではなく、編入組みだった。そのため、望が周りからなんと呼ばれているのか知らなかったのだ。同じクラスになってまだ一週間である。
国立は、井上のブレザーを片手で掴んで無理やり座らせると、望に問いかけた。
「おい、また見えたのか? 白い女」
「何だよ白い女って。怪談か」
心なしか青ざめた顔で、井上が問いを重ねる。望はふいに、自分も食事をしなければならないことを思い出して、持っていた弁当箱の蓋を開けた。
「ご飯食べるの忘れてたよ」
望はいただきますと手を合わせて、食事を始めた。しばらくそれを眺めていた井上は、国立を見た。
「……おい、国立。こいつ殴っていいか」
真顔で、望を指差す井上だった。国立が口を開こうとしたが、望の声がそれを遮った。
「ついさっき、見えたんだ。白い女」
望の言葉に、指差していた手を下して、井上が口を開く。
「し、白い女って何だよ。幽霊か?」
「何だよ、井上。おまえ幽霊怖いの? なっさけねぇな」
青ざめた顔の井上を、国立がからかう。井上が拳を振り上げて、国立を軽く殴ろうとした時、また望が声を上げた。
「幽霊かどうかは分からないんだ。小さい頃からたまに、僕の視界に入ってくる。いつも白い帽子に、白い半袖のワンピースを着てるんだ、その女の人。でも顔は分からない。いつも一瞬しか目に映らないから」
「へ、へぇ」
国立ちを殴る気をなくしたのだろう。手を引っ込めて、引きつった声を上げた井上に、国立が補足する。
「吾桑と俺はその女を白い女って呼んでるんだよ。でも、残念ながら俺は見たことない。一回見てみたいんだけどな」
物好きなと、言わんばかりに井上は顔を顰めて、国立を見ている。国立は、眼鏡の似合う秀麗な顔に笑みを乗せた。井上の肩を叩く。
「残念だったな、井上。吾桑と名簿順が前後になったのも何かの縁だ。これからおまえにも、こいつのお守りしてもらうから。逃がさんぞ」
そう言って、国立は井上から望に視線を移す。その視線を追って、井上も望に顔を向けた。望が気づいて顔を上げる。
「何? ああ、まだお腹空いてるの? ならこれ上げる」
全く井上と国立の会話を聞いていなかったらしい望は、食べていた弁当を差し出した。これだけで足りるのか? と問いたくなるほどの、小さな弁当箱だ。井上なら、一分もあれば食べ終わるだろう。その弁当箱の中身はまだ半分以上も残っていた。
「おい、ぜんぜん食ってねぇじゃん。自分で食えよ」
「吾桑は昔から、食に欲がないよな」
呆れ声で国立が言った。望は苦笑する。
「いや、食べてもいいんだけど、もうすぐ……」
望の声を遮るように、屋上に大きな音が響いた。誰かが、屋上に通じるドアを開けたのだ。余りにも勢いがありすぎて、ドアが壁にぶつかったらしい。
三人一斉に、ドアの方を見た。そこには、クラス委員長の桐野理香子がいた。走って階段を上がってきたのだろうか。肩で息をしている。桐野は何故か三人を、否、望を睨みつけた。
「やっと見つけた。吾桑。あんた何でここにいるの?」
「食事行こうって誘われたから?」
語尾を上げて答えると、桐野が眉間に皺を寄せた。
「語尾を上げるな、この不思議ちゃんがっ。朝礼で、委員長と副委員長は昼休憩に職員室へ来いって言われたでしょうが。副委員長のあんたが、こんなところでのうのうとご飯食べてるんじゃないわよっ。こっちは、あんた捜して校舎中走り回ったんだから」
そう言って、また肩で息をする桐野だった。ちなみに、不思議ちゃんとは、望の隠れたあだ名だ。中学からの持ち上がり組みは、望のことをこう呼んでいる。今のように、本人に直接よびかけるのは珍しいが。
望はよっこらしょと言って立ち上がり、井上と国立を振り返った。
「ね、食べられなかったでしょう。じゃあ行ってくる。お弁当箱、僕の机に置いといてね」
そう言って望は、二人に手を振ると、桐野と一緒に屋上を後にした。
残された井上と国立は、顔を見合わせる。
「なあ、国立。あいつ、分かっててやってるのか? 最後の台詞。あいつ桐野が来るの分かってたみたいじゃないか」
井上の問いに、国立は顔を顰めた。
「俺に聞くな。あいつの思考回路は俺にも読めん。余り深く考えても疲れるだけだぞ。まあ、悪い奴じゃないから」
そう言って、国立ちは望の残していった弁当箱を手にすると、入っていた鶏のから揚げをつまんで口に入れた。
「お、美味い」
「マジで。俺にもくれ」
二人で望の弁当を空にするのに、一分もかからなかった。
屋上から四階まで続く階段は静かだった。今この階段を歩いているのは、望と桐野だけだ。余り掃除がされていないのか、階段の隅には埃が溜まっていた。職員室は一階だ。一階まで下りるのは面倒くさいなと望が思った時、桐野が何かを望に差し出した。
「はい、これ」
望はそれを無意識に受け取り、手にしたものに視線を落とした。
「サンドイッチ……」
「お弁当、ほとんど食べてなかったんでしょう? 吾桑はいつもぼうっとしてるから、食事するのも遅いもんね」
足早に階段を下りながら、桐野が言う。望はその背に声をかけた。
「桐野さんは?」
「私は、あんたを捜しながら食べたわよ」
「そう、ありがとう。優しいんだね。桐野さん」
望が桐野に礼を言うと、突然桐野が足を止めて振り返った。危うくぶつかりそうになる。
「急に立ち止まったら危な……」
「別に優しいわけじゃないから。吾桑が余りにもスローペースだから、その、なんて言うか、とりあえず、あんたにだけ優しいわけじゃないから」
何だかよく分からないが、凄い勢いでまくし立てられて、望は素直に頷いた。
「分かった。で、これ食べていい?」
笑顔で確認すると、怒鳴った勢いで顔を真っ赤にしていた桐野の顔が、より一層赤くなった。
「あ、当たり前でしょ。そのために渡したの」
そう言うと、また前を向いて階段を下りはじめる。望はその後についていきながら、サンドイッチを包んでいるフィルムを途中まではがした。
サンドイッチを口にして呟く。
「おいしい。久しぶりに、自分で作ったもの以外のサンドイッチ食べたな」
その呟きを耳聡く聞きつけたらしい。桐野が振り返る。
「何? あんた自分でサンドイッチとか作るの? 意外。料理とか全然出来なさそうなのに」
「そうかな。でも、お弁当とかも僕が作ってるよ。うち、母さんいないから」
そう言うと、また急に桐野が立ち止まる。慌てて、ぶつからないように足を止めた。
「だから、急に立ち止まったら危ないって……」
「吾桑、あんた、母親いないの? 離婚?」
注意しようとした言葉を、桐野が途中で遮った。望は、半分まで食べ終えたサンドイッッチを無意識に強く握る。サンドイッチに入っていた胡瓜が落ちたが、気づかなかった。望は、こちらを振り向いた桐野に、笑顔を作ってみせる。
「知らない。教えてもらったことがないんだ。母さんが、なぜいないのか。生きているか死んでいるか。知らないんだ」
その言葉に、桐野は視線を落とした。嫌な空気になってきたと思った望の耳に、桐野の叫び声が突き刺さる。
「あー。ちょっと、胡瓜落ちてるじゃないの。人がせっかくあげたのにー。ちゃんと拾いなさいよね」
そう言って桐野は踵を返すと、そそくさと階段を下りていった。望は言われた通り落ちた胡瓜を拾うと、桐野の後を追った。




