第九章 偽りの過去
「あいつ、結局お守り持って帰らなかった」
帰宅途中。学校からまだ、さほどの距離を歩いていない所で井上がいった。井上は手にしたコンビニの袋を持ち上げてみせる。中身はお守りだ。国立は苦笑を浮かべた。
「そりゃ、使えないからじゃねぇの?」
「うるせぇ。それより、吾桑の奴。何で急に泣き出したんだろう。やっぱ、白い女が原因かな。それとも、嫌がらせの方かな」
井上の問いに、国立は考えるような顔をする。
「うーん。どうだろう。あいつはああ見えて、結構強いから、アレくらいの嫌がらせなら、そうそう追い詰められるようなこともないんだけどな」
「だったら、白い女か。あれは、怖かったもんな。あいつ、ぜってぇ呪われてるって。一度、爺ちゃんの家につれてってみようかな」
真面目な顔の井上に、国立は仏頂面をしてみせた。
「ずるいよな。井上。俺なんか、中学の頃から、吾桑と一緒にいるのに、白い女は一度も見たことないんだぜ。どうしておまえの前には現れるんだ。不公平だよ。俺はこんなに会いたいのに」
「俺は会いたくなか……」
言葉を途切らせて、井上が足を止めた。不審に思った国立が声をかけるが、井上は目を見開いたまま固まっている。
「おい、井上。どうした?」
国立は井上の肩に手を置いて揺さぶってみた。すると、井上は一瞬我に返ったような顔をして、国立を見ると、ゆっくりと前方を指差した。
国立は不審に思って、その方向を見る。
数メートル先に、女が立っていた。白い、帽子に白いワンピースを着た女性だ。細身の体型。長い髪。それははっきりみえるのに、顔立ちが分からない。
国立は寒気を覚えて、井上に顔を向ける。
「なあ、井上。もしかして、アレが白い女か?」
井上は声にならないのか、口を開閉させながら、頷いた。国立は恐怖よりも、好奇心が勝った。井上から、離れ、白い女に近づこうとした。
「おい、こら。何処行くんだよ」
震える声で呼び止められ、井上に腕を掴まれた。
「何だよ。ちょっと挨拶しようと思っただけじゃん」
「おまえは、バカか。あれは幽霊だぞ。呪われたらどうする」
井上の声が擦れている。余程怖いのだろう。国立は溜息をついた。
「大丈夫だって。呪われてるとしても、それは吾桑だから」
そう言って、ふと思った。なぜ、吾桑がいないのに、白い女はこの場に現れたのだろうかと。もう一度白い女に視線を向ける。白い女の口が動いた。何か言っている。
「おい井上、見ろ。白い女が何か言ってる」
国立はじっと目を凝らした。女のゆっくりとした口の動きを読む。
『の・ぞ・む・を・た・す・け・て』
望を助けて?
「井上、見たか? 今の」
「ああ。今、望を助けてってそう言ってたように見えたけど」
白い女に視線を移すと、女はすっと手をあげ、ある方向を指差した。
井上と国立は同時に気づく。
その方向に、学校があることに。
大きな音が響いた。机にぶつかった勢いで、机の上に置いてあった物が床へ落ちたのだ。机に打ち付けた背が痛い。望は自分を机に向かって振り飛ばした相手を見た。松島は酷薄な笑みを口元に宿し、ドアの鍵を閉めた。
「まったく。嫌がらせでもすれば、学校へ来なくなると思ったのにな。君は中々しぶとい。せっかくだから、君の問いに答えてあげようか」
望は目を見張った。今までの嫌がらせはすべて、松島がやったものだったのか。松島の口調はいつもと変わらなかった。だが、望の目にはまるで別人にように映っていた。松島が一歩こちらへ近づいてくる。望は机を避けながら、後退さる。
「友人がいたんだよ。バカな奴でな。遊び呆けて単位を落として、留年が決まっていた」
「……」
「俺は、そいつと違ってずっと優秀だった。成績はいつもトップクラスで、就職も決まってた」
望の足が止まった。退路がない。壁に追い詰められたのだ。そう悟ったとき、松島が望の腕を掴んだ。もう片方の手で、顎に手をかけ、顔を上向かせた。
「おまえ達が悪いんだよ。あの時、飛び出してさえ来なければ、俺は友人を殺さずにすんだ」
松島の言葉に望は目を見開いた。聞いた言葉を理解するのに、少し時間がかかる。
「つまり、先生は、友達を殺し……」
望の呟きに、松島は満足の笑みを浮かべた。望の顎から手を離し、突如、望の両脇の壁を叩いた。大きな音に身を竦めた望を楽しそうに見詰め、笑い声をあげる。
「はは、怖いか? 俺が。……あの時、君のせいで俺は人生を棒に振るところだった。あいつがいてくれて助かったよ。あいつは言ってた。このまま生きてたってろくな事がないってな。だから俺は手助けしてやったんだよ。ろくな事のないあいつの人生にピリオドを打つ手助けを。俺の輝かしい未来の為に死ねるなら。あいつも本望だろう」
つまり、自分の罪を隠すために、友人に手をかけたということか。
望は松島が口を閉ざした一瞬の隙に、松島を突き飛ばした。怒りが恐怖に勝ったのだ。望の突然の動きに対処しきれなかったのか、松島は床に尻をついた。その体勢のまま、望を睨む。望は松島を睨み返した。
「そんなの、詭弁だ。先生はただの人殺しじゃないか。母さんを轢き逃げして、罪を擦り付けるために友達を殺しただけだ。先生は自分を守る為に、友達の未来を奪ったんだよ。そんなの最低だよ」
そう言って、唇を噛む。涙が出そうだった。
「あの時、母さんはまだ、生きていたのに。先生が逃げずにすぐに救急車を呼んでくれていたら、母さんは助かったかもしれないのに」
両の拳を握り締めて望は叫んでいた。
思い出していた。降りしきる雨の中。横たわった母の名を呼んで、母の手を握った。そのとき、母は弱々しく望の手を握り返してくれたのだ。あの時、母は確かに生きていた。それなのに。
「そんなことしたら、俺の人生にケチがつくじゃないか」
「え?」
「そんなこと許せない。おまえは、俺の人生を滅茶苦茶にする存在なんだ。あの時も、そして今も。白い女なんて作り話までして、俺を追い詰めて楽しいか?」
松島の顔が狂気に歪む。望はドアに向かって走った。慌てているせいで、鍵を開けるのに手間取る。鍵の開く音を耳にし、望はドアを開いた。刹那。腕をつかまれ、床に引き摺り倒される。背に痛みを感じたとき、腹に重みを感じた。松島が望の上に馬乗りになったのだ。
「やっと、結婚にこぎつけた矢先に、どうしておまえが現れるんだ。記憶喪失の振りして近づきやがって。おまえなんか、死ねばいいんだ」
松島は望の首に手をかけた。その手に力が込められる。望はもがいた。首に巻かれた松島の指を外そうと躍起になるが、引っかこうが、何しようが、松島の手は離れない。
苦しい。息が出来ない。死にたくない。
だんだんと、意識が遠のく。松島の顔が、ぼやけてきた。
「死ね」
さらに、松島が望の首を絞める手に力を込めたときだった。
「吾桑。いるか?」
そんな声とともに、誰かが入ってきた。
松島がその声に反応した。その時、望の首を絞めていた手の力が弱まる。
「てめぇ。何やってんだよ。おい、国立。誰か呼んで来い」
「分かった」
誰かがそう言って、廊下を走って行ったようだ。廊下を走る音が遠ざかっていく。不意に、身体が軽くなった。望の上に乗っていた松島の身体が、突き飛ばされたようだ。机にぶつかったのだろう。大きな音が近くから聞える。松島の手から開放されて、望は咳き込んだ。新鮮な空気が肺に入ってくる。それすらも、苦痛だ。
「おい、大丈夫か? 何があったんだよ」
心配そうな声に顔を上げてみると、井上の顔が目に入った。井上の名を呼ぼうとしたが、咳が収まらず、呼ぶ事が出来ない。井上が背中を摩ってくれる。
だいぶん咳が収まり、望は井上に礼を言おうと顔を上げた。その顔に影がかかる。井上の後に松島が立っていた。手には分厚い本を持っている。
「井上危ない」
望が声を上げたと同時に、松島がその本を井上の頭に叩きつけた。思わず目を瞑ってしまい、望は慌てて目を開いた。望の前に、井上が横たわっていた。
「い、井上」
声をかけるが、反応がない。床に重いものが、落ちる音がした。松島が持っていた本を落としたのだ。
望は顔を上げた。松島が望を見下ろしている。
「ひどい。なんてことするんだよ」
松島は言った望の胸倉を掴み、立ち上がらせる。そして、望を殴り飛ばした。壁に肩をぶつける。口の中に血の味が広がった。壁に手を付いた。頭がふらつく。
松島はそんな望の首に、またしても手をかける。
喉を締め付けられ、また、呼吸が出来なくなった。もがきながら、松島を見た望は、目を見開いた。
その表情の変化に気づいたのか、松島が声を上げる。
「なんだ。どうした。命乞いでもしようっていうのか」
「か、かあ、さ……」
喉を締め付けられて、ほとんど声が出せなかった。
松島の背後に白い女がいた。はじめて、白い女の顔が見えた。望にそっくりの、顔立ち。写真で見た若い頃の母、そのままの姿がそこにあった。その顔が今、怒りに満ちている。
白い女の姿が消えた。
そう思った刹那。
白い女が、松島の首に腕を回していた。
ひやりとした、冷たい空気が周りを包む。
「な、何だ」
松島が、悲鳴に似た声を上げた。驚いた様に、望の首から手を離す。また、望は咳き込んだ。
松島の目は、自分の首に向いていた。その目に、白い女の腕が見えたのだろうか?咳き込みながらそう思った時、また、白い女の姿が消えた。
松島が、辺りを見回す。松島の真横に、白い女は現れた。松島の顔から血の気が引く。松島は、悲鳴をあげて、壁に背をつけた。
望の見ている前で、白い女に変化が起きた。白い女の頭から、血が流れ、頬を伝い落ちていく。女の唇が動いた。
『ゆるさない……』
松島の息を飲む音が聞えた。松島は悲鳴をあげて、ドアに向かって部屋を走り出て行った。
望は力が抜けるのを感じて、床に座り込む。そして、ふと、井上が殴られたことを思い出した。慌てて倒れている井上のもとへ行く。
「井上」
呼びかけると、井上が微かに呻き声をあげた。良かった。生きてる。どうやら、気絶していただけのようだ。望がほっと息を付いたときだった。遠く、男性の長く尾を引く悲鳴が聞えた。松島の声だろうか。望の中に、不安が生まれた時。背後に冷たい空気を感じて、振り返った。
「母さん」
はじめて、白い女に向かってそう呼びかけた。すると、望によく似た女性の顔が笑顔になる。父と一緒に写っていた写真と同じような、幸せそうな笑顔だった。
「ごめんね。母さん。僕が飛び出さなかったら、母さんは死なずにすんだのに」
母の笑顔を見た瞬間、そう口走っていた。望の頬に涙が伝う。我慢できなかった。あの時、母の手を振りきって横断歩道に飛び出さなければ、事故を回避できたかもしれない。そうすれば、今も親子三人。幸せにくらせていたのに。そう思うと、涙が止まらなかった。
白い女が動いた。望の前に膝をつくようにすると、望の頬に手を伸ばした。望の頬に触れている。なのに、触れられた感触はなかった。ただ、頬の辺りの空気が一気に冷えただけだ。
『泣かないで。望』
そう、声が聞こえた。否、正確には頭の中に声が響いた。
『あなたが無事でよかった』
望は母を見る。薄く、存在感のない体。やはり、母は生きてはいない。それでも、ずっと望を心配してくれていたのだ。死んでもなお、望を見守っていてくれた。
だんだんと、母の顔や身体が薄らいできているように見えた。母は、望の頬から手を離して立ち上がる。望を見下ろして、せつない顔を見せる。母の身体は後の棚が見えるくらいに、透けていた。消えてなくなるのも時間の問題だろう。
望は涙を腕で拭うと、母に向かって笑顔を見せた。言わなければならない事がある。消えてしまう前に、言っておきたい事がある。
「母さん。ありがとう」
そう言って、望は母に向かって手を伸ばした。その手の先に見える母の顔が笑顔になる。望の手が母に触れる直前。母の姿は見えなくなった。
また、涙が溢れてくる。
望は床に突っ伏して、鳴き声をあげた。そんな望の耳に、廊下を走ってくる足音が聞える。誰かが来る。
終わったんだ。
なぜか望は、そう思った。




