プロローグ
この小説は、エンキド様主催の、小説大会投稿作です。
間に合わなかった。
右足は、しっかりとブレーキを踏みしめている。心臓の鼓動が、短いリズムを刻む。耳障りな音が聞えていた。それが、自分の呼吸音だということに、彼は気づいていなかった。
否、気づく余裕もなかった。
彼は、ハンドルを握る手を離し、シートベルトを外した。ドアを開け、車外へ出る。酷い雨だった。ただでさえ暗い夜道の視界を、よりいっそう悪くしている原因だった。
ゆっくりと、彼は歩いた。
先ほどの光景が、どうか嘘でありますようにと願いながら。
だが、やはり、それは現実であった。
痛いほどに激しく降り続く雨は、アスファルトに覆われた車道を、浅い川の様に排水溝に向かって流れていく。その流れの中に、赤い色が見えた。その赤い色を、流れとは逆に辿っていく。車のヘッドライトの灯りが微かに届く範囲に、それは横たわっていた。女性だった。彼は息を飲んだ。やはり、彼は、人を車で轢いてしまったのだ。彼女の頭部から、赤い色の液体が、雨と一緒になって流れていく。
殺してしまった。
彼の脳裏にそんな言葉が過ぎる。せっかく、就職先も決まり、これからというときに、何故こんなことになる? 彼の頭に浮かんだ言葉はそれだった。
彼は辺りを見回す。誰も居ない。もともとここは人通りの少ない道だ。しかも深夜近く。この雨の中、誰が横断歩道を渡っている人がいると思うだろう? 少し目を逸らしただけじゃないか。この女だって、車が来た事ぐらい気づいていたはずだ。こっちは灯りをつけていたんだ。自分は悪くない。こんなことで、人生終わるなんて真っ平だ。
彼は、決めた。
辺りを見回し、誰もいないことを確かめると、踵を返した。その時、降りしきる雨音以外に、別の音が混じった。人の呻き声のような音。彼は、ついそちらを向いてしまう。
横たわる女の向こう側で、小さな黒い影が動いた。
彼は、驚いて身を反らす。小さな影は、ゆっくりと動き、彼女のそばへ這いずるようにやってきた。
小さな子どもだった。小学校に入っているかいないかくらいの、小さな子ども。その子どもが、女を呼ぶ。お母さんと。もちろん女は答えない。車のヘッドライトの光が届く範囲から少し遠いせいで、子どもの顔はよく見えなかった。
その時、稲妻が走った。
目が合った。たった一瞬の光の中で。彼の目に、小さな子どもの顔が映ったのだ。彼は恐怖を覚えた。雷鳴が遠く聞える。子どもが、立ち上がろうとしたのが分かった。彼は今度こそ踵を返し、雨に濡れそぼった体を車内に入れた。シートベルトもせずに、ハンドブレーキを外すと、ギアをドライブにし、アクセルを踏み込んだ。
一週間後。新聞に、轢き逃げの記事が載った。
『親子轢き逃げ犯。自殺か? 崖から転落死』
そんな見出しの記事だった。




