8 心霊スポットへの旅 後篇
30分ほど歩いて登ってきた道のりを振り返ると、何故か、来た道が見えない。
「あれ、おかしいな。足元が見えない」
斉藤の言葉に、赤星も辺りを見回すが、みんなの姿が見えない。
「わっ。みんな、どこ? 桜海さん?」
「慌てるな。みんな動いちゃいけない」
桜海は落ち着いた声でみんなの動揺を抑える。
「瞳、居る?」
「うん。手を繋いでいよう」
村上の提案に賛同して、
「みんなで手を繋ごう」
と、桜海が大きな声で伝えた。
「村上、手を」
斉藤が村上の手を取る。
「キミはこっち」
桜海はそう言うと、赤星と斉藤の間で手を繋いだ。
「なんで?」
郁美と手を繋ぎたかった赤星はふくれっ面だ。
「キミは影響力、大だから、これでバランスがいい」
桜海の言葉に赤星が顔をひきつらせていると、
「バランスって、何の話?」
と、斉藤が尋ねた。
「こっちの話」
桜海は悪びれず答えた。
「これって霧のせいなの?」
村上の声が不安に震えている。
「そうみたい。なんだか靄がかかったみたいで周りが見えにくいわ」
郁美はそう強気で言ったが、急に視界が悪くなったことを不気味に感じているようだった。
「このまま進んで大丈夫なの?」
赤星も心配そうに桜海に言った。
「もう、引き返すのは無理かも。相手の手中に入ってしまったみたいだ」
「嘘!」
桜海の言葉を聞いて赤星は思わず叫んでいた。
「何だよ、さっきから、二人だけでわかるような会話ばかりして」
斉藤はイラついてきた。
「斉藤さん、この辺りは、以前から知っていましたか?」
桜海が宥めるように斉藤に問いかけた。
「ああ。この山の麓の出身だからな」
斉藤が面倒くさそうに答えた。
「他にも、いますか?」
「郁美たちだな」
「そういえば、朋美さんは…」
言いかけた桜海に、
「あいつはグラススキーに行った」
と、素早く斉藤が言った。
「いえ、そうじゃなくて。お化けの正体を知っているんじゃないですか?」
桜海は半ば確信している。
「どうしてそんなことがわかるんだい?」
斉藤の問いかけに、桜海はネタ元を明かす。
「昨日、隣の部屋で女の子たちが話しているのが聞こえたんです。朋美さんは何か知っているようでした」
「へぇ、そう。なあ、郁美、朋美はお化けの正体を知ってるのかい?」
斉藤は郁美に確かめた。
「まさか。でも、私が何かを忘れているって、言われたわ」
桜海は少し考えて言った。
「このまま進むのは危険ですね」
「え? でも、戻れないんでしょう?」
村上が泣きそうな顔で、NOの返事を祈る。
「いや。斉藤さんと村上さんは帰すことができると思うんだ」
村上は一瞬で嬉しそうな顔になった。
「俺と村上?」
斉藤は不思議そうに首を捻った。
「ええ。郁美さんは難しいと思いますし、俺はこの先へ行ってみたいし、彼も戻るのは難しいので」
桜海のゆっくりした口調の説明が終わるのを待ちかねたように、
「なんで、そんなことがわかるんだい?」
と、斉藤が尋ねた。
「俺はお化けの専門家なので」
桜海がそう言うと、赤星もウンウン頷いた。
「…じゃあ、俺、村上とペンションに戻るよ」
「お願いします。お二人で手を繋いで、繋いでない方の手でライトを持って下山してください。とにかく足元に気を付けて」
「了解」
何故か斉藤は素直に桜海の指示を受け入れた。
「あ、ちょっと待ってください。戻ったら…」
桜海は何やら斉藤に耳打ちした。
「…わかった。村上、行くぞ」
「え? どうして瞳だけ?」
郁美は村上が帰ってしまうことに不満を示した。
「郁美はお化けに会いたいんでしょ。私は怖くなったから帰るわ」
村上は半分強引に連れてこられた感を露わにした。
「ええ? 私も帰る」
郁美がぐずるが、桜海がすぐに言う。
「多分、無理だと思います」
「どうして?」
「あなたが忘れていることがこの先にあるからです」
「朋美も同じようなことを言ってたけど、何なの?」
「わかりません。でも、朋美さんはわかっているから、来なかったのだと思います」
堂々巡り的な会話に痺れを切らした斉藤が言う。
「とにかく俺たちは帰っていいかい?」
「ええ。こちらは先へ進みます」
桜海が溜息を吐いた。
斉藤は村上を連れて下山し始めた。
赤星が不安そうに尋ねる。
「道が見えない。どうするの?」
「タマコ」
桜海が呼びかけると道の少し先が見えるようになった。
「タマコさん、凄いね」
赤星が感心して褒めると、
「タマコさんて?」
と郁美が不思議そうに尋ねた。
「困った時のおまじないさ」
桜海が適当にあしらった。
「なんだ、おまじないなのね」
「おまじない?」
という赤星の反論を、
「いいから」
と桜海が制した。
3人は、そろそろと山道を登った。
しばらくすると、
「何か見えるわ!」
と、郁美が叫んだ。
「ほら、あそこに」
「ホントだ」
赤星もつられて郁美の示す方向を見る。
「まやかしだ」
桜海は強い口調で言ったが、時分の目に映るものを疑えないようで、
「え? でも、建物が見えるでしょ?」
と言って、赤星は駈け出す郁美について走り出してしまった。
「ダメだ。そっちは崖だ」
桜海の言葉は二人の耳には届かない。
桜海は、ふたりが崖へ転落する寸前に結界で防ぎ、二人を歩むべき道へ連れ戻した。
「二人とも、勝手に動かないで…」
桜海が術を使って助けたことが二人にはわからないようだった。
「何? どうかした? そんな息切らして」
ケロッとした赤星に、桜海は苦笑いを浮かべ、
「危険すぎる。下りよう」
と言った。
「下りる?」
今更と言わんばかりに赤星が言った。
「俺、二人を守る自信がない」
桜海は一人、相手の霊力の強さを感じていた。
「大丈夫です。自分の身は自分で守ります」
「!」
桜海は、郁美の身体が誰かに乗っ取られたことに気付き、
「赤星、その人から離れて!」
と叫んだ。
「何、意地悪言ってんの?」
彼女は妙にキラキラした眼差しで、無警戒の赤星に近づいた。
「あたいのお友達になって」
さすがに赤星も、話し方や物腰がいつもの彼女でないことに気付いた。
「郁美ちゃん?」
桜海は慌てて赤星を結界で囲って保護した。
何者かに乗り移られた郁美が、桜海を振り返って言った。
「じゃあ、お兄ちゃんがお友達になってくれる?」
桜海は、どこからともなく集まってきた幾つかの霊の存在に怯みながら、
「沢山、居るじゃないか、友達」と言い返した。
「100人、欲しいの」
「キミは誰?」
「鳴美」
「なるみちゃんは、朋美ちゃんの知り合い?」
「ともみ?」
わからないようなので、
「じゃあ、郁美ちゃんの知り合い?」
と訊いた。
「郁美!」
急に鳴美が、郁美の身体を使って、桜海に体当たりを試みた。
桜海が避けて失敗し、転んでも立ち上がって何度もタックルしようとした。
次第に郁美の服は泥だらけになってくる。
「やめろ!」
桜海が叫ぶと、鳴美はふと思いついたように崖っぷちに向かって突進していった。
桜海が後を追う。
郁美の身体が宙に浮くと、鳴美がスッとその体から抜け出すのが見えた。
桜海は郁美の身体を結界で囲んで落下を防ぎ、地上へと手繰り寄せた。
『凄いね、お兄ちゃん』
鳴美がクスクス笑うと、周りの霊たちも哂う。
桜海は慎重に結界を解き、気絶した郁美を抱え、赤星の居る結界へと逃げ込んだ。
その時、桜海の肩に鋭い痛みが走った。
「郁美ちゃん、大丈夫?」
桜海から郁美を委ねられた赤星は、郁美が息をしているか、脈があるか確認をした。
グラススキー場。
「私たち、本当は三つ子だったの」
休憩時間に朋美がポツリと言った。
「えーっ!!」
矢野が朋美の言葉に驚き叫んだ。
「郁美姉さんはすっかり忘れてしまってるみたいだけどね」
「じゃあ…もう一人は?」
河合は嫌な予感を打ち消しながら尋ねた。
「うん。4歳くらいのとき、旅館の火事で逃げ遅れて…」
しかし、嫌な予感は肯定されてしまった。
「それじゃ、まさか、お化けの正体って…」
矢野は推測の先を言いあぐねた。
「郁美姉さんと一卵性双生児だった、鳴美姉さんなのかも」
「うそ~!」
Wリョコが悲鳴を上げた。
「今回はそのことが確かめられるんじゃないかと思ったんだけど、ここまで来て怖くなっちゃった」
朋美は郁美について行かなかったわけを話した。
「もしかして、郁美ちゃんも行かない方が良かったんじゃないの?」
河合が心配そうに言った。
「でも、確か、あの人のせいで逃げ遅れたんだと思うから、謝りに行くべきかもしれないわ」
Wリョウコは顔を見合わせた。
「キャッ。何すんの!」
赤星の腕の中で目を覚ました郁美は、彼を突き飛ばした。
「囲まれた」
桜海は痛みを堪えながら告げた。
「えっ?」
結界の外は鳴美の友達が四方に佇んでいた。
「ヤダ~。何でこんなに泥だらけなの? あなた私に何をしたの!」
「は?」
赤星は仰天し、言葉が出ない。
「郁美さん、なるみさんをご存知ですよね?」
桜海が左手で自分の右肩を押さえながら訊ねた。
「なるみ? 知らないわ」
「そんなはずはない。恐らくあなたの血縁者です」
桜海の言葉を聞いて赤星も驚いた。
「朋美さんがおっしゃっていたじゃないですか。あなたは忘れていると」
そう桜海が指摘すると郁美は急に立ち上がって、
「帰る!」と言って結界の外に出ようとする。
「待っ…」
郁美を止めようと出した桜海の左手は血で真っ赤に染まっていた。
「放してよ!」
郁美が振り払うと桜海は倒れこんだ。
「酷い! キミを助けた人に何てことするんだ!」
郁美は自分のことしか頭にないようだ。
「何これ。出られない。ちょっと、2人で私を襲うつもり?!」
と、まるで現状を把握できていない。
赤星は桜海を抱き起し、怪我の部位を確かめた。
「こんな状況で、よくそんなことが言えるね」
赤星は桜海の肩の傷を見つけ、止血を試みるが、宛がったタオルもすぐに真っ赤になってしまう。
「タマコさん。もうダメだ。俺、絶対、霊に捕まるよ。この人だけでも助けて」
赤星は桜海を抱きしめ、祈るように言った。
「いいえ、タマコさん。私を助けて」
あまりに身勝手な言動に、赤星は郁美に対して、完全に失望してしまった。
「キミが見たがっていたお化けは、キミの身内みたいだから、大丈夫だよね」
赤星は桜海を背中に背負うと、
「結界を解いて。俺、できるだけ、走るから」
と言って、勇気を振り絞って走り出した。
「待って」
郁美も赤星の後に続いた。
しばらくは結界の力が残っていたのか、霊に捕まることなく山道を転がるように下りて行った。
だが、思うほど速くは走れない。
赤星は桜海の容態が心配で余計に気が焦る。
身軽な郁美は先に山道を下りて行ってしまった。
必死に走っている赤星の心に、
(そいつ、置いていけ)
と、どこからともなく声がする。
「ヤダ」
(一人なら楽に下りられるじゃないか)
せせら笑うような声が木霊のように、赤星の心に響き渡る。
「絶・対・ヤダ」
赤星は半泣きになりながら走る。
やがて、走り下りる加速度に脚力がついてこなくなってきた。
「わっ!」
赤星が勢いよく躓いた、その瞬間、
「飛ぶよ」
と赤星の背中で桜海が呟いた。
「うそっ…」
全身で山道に体当たりすると思った二人の身体は、フッと宙に浮いたのだった。
「じっと、してて」
まるでシャボン玉の中にでもいるように、ふわふわ、ゆらゆらと、ゆっくり下降していった。
「下りたのはいいけど、ごめん。俺、もう走れない」
地上に着いた途端しゃがみ込んでしまった赤星は、涙を堪えながら背中の桜海に告げた。
「斉、藤さん、いない?」
赤星の背中に桜海の熱い息が途切れ途切れ言葉を紡いだ。
「へ?」
赤星の目に、涙で歪む景色の中から斉藤が走ってくるのが映った。
「オーイ。キミたち、大丈夫かい?」
赤星は驚きと安堵で涙が零れた。
桜海があらからじめ斉藤に車で迎えに来てもらえるようにしていたのだ。
「こりゃ酷いな。病院へ行こう」
彼の車に血だらけの二人が乗るのはどうだろうと迷いながらドアを開けると後部座席にブルーシートが敷き詰められていた。
「どこまで用意周到なんだ?」
赤星は呟きながら、桜海を載せて横に乗り込んだ。
車がゆっくりと走り出すと、赤星も身体を休ませた。
あまりに二人が静かなので心配になったのか、斉藤が声をかける。
「大丈夫なのかい? 赤星くん、友人くん」
赤星はハッと、桜海の様子を確認した。
「大丈夫。とりあえず、息してる」
「そう。もうすぐ着くから」
斉藤は安堵の溜息を吐いた。
「ありがとうございます。そういえば、郁美ちゃん見ませんでした?」
「ああ、郁美は先に瞳がタクシーで病院に連れて行った」
斉藤の言葉に赤星は首を傾げた。
「病院? ああ少し、怪我してたかな…?」
「いや。ありゃ、精神やられてるな、多分」
「え?」
にわかには信じられない赤星だった。
「キミらを迎えに出る前に、グラススキー場にいる亮子ちゃんから連絡あってさ。どうも、お化けの正体は、郁美たちの姉妹らしい」
「姉妹?」
「ああ。忘れてたけど、彼女たち本当は三つ子だったんだよ」
「なるみちゃん…?」
赤星がその名を呟いた。
「その様子じゃ、遭遇したようだね」
「う…」
桜海が呻いたので赤星は慌てて様子をみる。
「大丈夫?」
赤星が声をかけたが、桜海の意識は途切れてしまった。
斉藤の運転する車が病院の前に到着した。
「さあ、着いたぞ」
赤星と斉藤が肩を貸すような感じで、桜海を病院内へ運び込んだ。
「けが人、2名ですか?」
看護師が尋ねた。
「とりあえず、気絶しているこの人です」
赤星が答えた。
「あ、先生! お願いします!」
焦りを隠せない看護師の声に、慌てて奥から出てきた医師が、桜海の状態をチェックする。
「二人とも血みどろだもんな。どっちが重傷か、わかりにくいよ」
斉藤も明るい病院内で改めて二人を見て唖然としてしまった。
「佐藤さん、緊急オペに入ります。患者さんを運んでください」
医師が近くに居た別の看護師にも声をかけ、指示を出した。
大急ぎで桜海がストレッチャーで運ばれていくのを、赤星と斉藤は呆然と見送った。
「どうしよう…」
緊急オペと聞いて、赤星は動揺した。
「キミも彼方此方怪我してるから、処置してもらいなよ」
斉藤に手招きされてやってきた看護師は、
「凄いね。血を被ったみたい。まずはこちらでシャワーを浴びて、これに着替えてください」
と言って、一番近い入院患者用のシャワールームへ案内した。
「きれいに洗ったら、処置室に来てくださいね」
赤星はシャワーを浴びる前に呟いた。
「タマコさん、桜海さんについててくれないかな」
すると、肩のほんわかした温もりがすうっと消えた。
「ありがとう」
頭からシャワーを浴びる。
足元に赤くなったお湯が流れ、血の匂いが湧き上がってくる。
「うっ…。俺のせいだ」
身体と心に湯が沁みる。
赤星はシャワーを済ませ、病院着に着替えると、処置室で朦朧と傷の手当てを受けた。
処置室のベッドで休むように促されたにも拘らず、赤星はただ呆然としていた。
看護師が去り、斉藤が様子を覗きに来たが、赤星はベッドに座り両手の拳を膝に置いて、項垂れていた。
「しばらくそっとしとくか…」
手術室。
「輸血が必要だ。型は?」
「Aマイナスです」
「え? 在庫あったか?」
「一つ有ります」
「足りないな。献血、誰か、頼めないか?」
「聞いてみます」
手術室から、看護師が慌てて出てきた。
「血液、何型ですか?」
「俺は、B型です」
斉藤が答えた。
看護師は次々と、仲間の看護師や医師たちにも聞いて回った。
そして、赤星のところにもやって来た。
「キミ、血液型は? 輸血が必要なの」
赤星は桜海のことだと察知したが、残念そうに言った。
「俺、マイナスなんで…」
「マイナス! 何?」
「A…」
「来て!」
看護師は飛び上がりそうな勢いで、赤星の手を取り、手術室へと向かった。
「おや」
斉藤は赤星にウインクをし、
「役に立ってこいよ」
と言った。
赤星は無言で頷いた。
気が付くと赤星はベッドの上で、点滴を受けていた。
「お、目が覚めたかい?」
ベッドの側で斉藤の声がした。
「あんまり採ったらキミの身が持たないよなぁ」
「桜海さんは…?」
「横、見てみな」
ゆっくりと首を動かすと、隣のベッドで眠っている桜海の姿が見えた。
「大丈夫。手術は成功したよ」
ホッとした表情で斉藤が伝えた。
「良かった」
「しかし、偶然にしては出来すぎだよなぁ。同じ血液型なんてさ」
「へ?」
「キミも友人くんもRHマイナスAとはね」
「…知らなかった」
赤星も目を丸くした。
「うへ。ますます凄いな」
斉藤は肩を竦めた。
「ずっとついていてくれたんですか?」
「いや。さっきまでは、郁美んとこ、行ってた」
「郁美ちゃんはどんな様子ですか?」
「さあ。よくわからないことを言うし、急に喚くし、病院から脱走しようとするしで、バタバタしてたんだ」
「そう、ですか…」
郁美の性格に失望しても、赤星にとってまだ気になる存在だった。
「今は鎮静剤打って眠らせてる」
郁美の様子を一通り聞くと赤星は、まだ目を覚ましていない隣のベッドが気になった。
「桜海さん…」
赤星は血の気の薄い顔色で眠る桜海の横顔を見つめた。
「桜海さん、ね。うちの学生じゃなく、高校出たての18歳」
「え?」
「落ち着いてるから、キミよりも年上だとばかりと思っていたよ」
斉藤は赤星が嘘をついて連れてきたことを責めるのではなく、事実のみを伝えた。
「俺も、です」
「え?」
斉藤は、連れてきた本人が桜海のことをあまりにも知らない事に驚いた。
「なんでわかったんですか?」
「命の危険があったんで、身内の人に連絡を取ったんだ」
「…」
「キミたちがどんな知り合いか知らないが、悪かったね。俺たちのせいで、こんな目に遭わせてしまって」
斉藤は本当に申し訳なさそうに詫びた。
「斉藤さんのせいじゃないですよ」
赤星は不思議そうに言った。
「いいや、俺のせいなんだ。俺、1ヶ月前に法事で帰省したとき、幽霊に遇ったんだ。恐らく鳴美だろうね。まあ、見たというより、声だけが聞こえたんだけどね。死にたくなければ郁美たちを連れてこいって言われてね」
「連れてくる約束をしたんですね?」
赤星は、斉藤が軽いノリで心霊スポットの旅といって、人を集めたわけがわかった。
派手好きな郁美を行く気にさせるためだったのだ。
「ああ。その時も、郁美たちが三つ子だったことなんて全然思い出せなくて、昨日も前回同様、山から逃げ出したんだ」
「そうしないと、斉藤さんが死んでしまうところだったんでしょ?」
「しかし、こんなことになるなら、せめて、郁美たちだけにしておけば良かった。そうすれば、キミたちを巻き込まなくて済んだのに…」
斉藤は深く反省し頭を垂れた。
「あれ? さっき、昨日って言いましたよね? 桜海さんは、全然、目を覚ましてないんですか?」
「そうだね…」
「俺、心霊スポットのこと、軽く考えてた。桜海さんに声をかけたのも、万が一のためで…」
念のため、タマコの手に負えない地縛霊に遭遇した場合に備えておきたいだけだった。
「もしかして、彼は…」
斉藤は桜海が自分のことを「お化けの専門家」と言ったことを思い出した。
「ええ。俺は桜海さんの霊能力を当てにして、旅行に来たんです。だから、俺のせいなんです。俺のせいで…」
赤星がベッドの上で泣き出して、斉藤もアタフタしてしまった。
「キミのせいじゃない。すべては、俺が…」
斉藤はなんとか慰めようと言葉をさがしたが、赤星の涙を止める材料は無かった。
「…姫は泣き虫だな」
桜海が言った。
赤星は点滴を抜いて桜海のベッドに駆け寄った。
「おいおい」
斉藤は面食らった。
桜海が差し出した左手を掴んだが、赤星はその場にしゃがみ込んでしまう。
「ダメだ。くらくらする」
「相当血を抜いたんだ。当然だろう」
斉藤は呆れながらも気を利かせて、赤星のベッドを桜海のベッドに近づけ、赤星を乗せると、完全にくっつけてしまった。
「これで安心だな。ゆっくり休みなよ」
斉藤は看護師を呼んで、抜いてしまった点滴をやり直してもらい、静かに病室を出た。
赤星は桜海の手を握って謝りながら眠ってしまった。
桜海も身体を回復させるべく眠りについた。
しばらくして、連絡を受けた桜海の姉と、赤星の父親がやって来た。
「まるで兄弟ですな」
仲良く眠る二人を見て、赤星良一が言った。
「そうですね。血液型も同じだそうですし…」
礼も二人を見つめて言った。
「それは奇遇ですね。誕生日はいつですか?」
「97年9月9日です」
礼が答えると、
「息子は95年です」
と良一が頭を掻きながら言った。
「え? まさか…?」
「ええ。同じ月日です」
二人は顔を見合わせた。
「不思議なご縁ですね」
「そうですね…」
そんな会話がされているとは知らず、二人は仲好く夢の国で戯れているようだった。
桜海は傷が深かったためそのまま入院することになった。
赤星は桜海の怪我が治るまで付き添わせると良一が決めた。
「うちの息子のせいで、とんでもないことに巻き込んでしまったようで、すみません」
赤星良一が礼に向かって詫びた。
「いいえ。彼のせいではないんです。弟は霊能者なので、強い霊に引き寄せられたに過ぎません。お蔭で、行方不明者の消息が掴めそうで助かります」
礼のしっかりした口調に、良一はますます申し訳なさそうに、
「しかし、今回は無理にうちの子が旅行に誘ったそうですから…」
とまた頭を下げた。
「弟は霊能者なんですけど、未熟な術師としかいえませんね」
礼は冷静すぎるくらい冷静だ。
「術師?」
良一は戸惑った。
「はい。除霊術を心得ているはずなんですけど、あの子は甘いんですよ、自分にも他人にも。有無を言わさず封じていればこんな事にはならなかったはずです」
「はあ…」
解説されてもイマイチ理解しづらい良一だった。
見舞いに来たが、側でこんなに話しているにもかかわらず、二人とも一向に目を覚まさないので、礼も赤星の父親も仕方なく帰って行った。
桜海の病室に様子を見に来た斉藤が、
「郁美についてないとなぁ。朋美のやつビビッて東京にもどっちまったからなぁ」
とぼやいた。
「残念ですが、彼女は鳴美さんですよ」
「え?」
斉藤は桜海が言ったことをすぐには理解できなかった。
「入れ替わっていたんです」
桜海が言い直すと、斉藤は少しその意味を自分の中で消化してから、ふと思い出したように言った。
「俺の感じた、違和感」
「違和感?」
「火事に遭う前に交わした約束を郁美は覚えていなかったんだよ」
「約束?」
「小学生になったら二人で100人、友達を作ろうっていう子供じみた約束なんだけど」
「そうだったんですね…」
桜海はその話を聞いて大いに納得した。
「忘れたのかもしれないと思ってた。あんな大変なことがあったから。でも、彼女のお袋さんは、生き残ったのは間違いなく郁美だって断言したんだけどなぁ」
「鳴美さんと郁美さんの魂が入れ替わった状態の時に、鳴美さんが亡くなったんでしょう」
桜海が平然と言い放った。
斉藤は驚いた。
「魂が入れ替わっていたなら、お化けの正体は、郁美?」
「ええ。鳴美さんが郁美さんの振りをしていたので、約束のことを知らなかったのでしょう」
「郁美は、家族を、鳴美をうらんでいたから、俺に連れてこさせたのかい?」
斉藤の問いに桜海は少し考えてから答えた。
「恐らくですが、あなたとの約束を忘れていないことを伝えたかったのかもしれません。鳴美と名乗った彼女は100人友達が欲しいと言っていましたから…」
「郁美だ」
斉藤は確信したようだ。
「そして彼女は、身体を取り返したかったか、或は壊したかったのかもしれません」
桜海の言葉を聞いた斉藤は悲しそうな顔で病室を出て行った。
翌日。
礼と地元の警察官3名は、警察車両2台に分乗し現場へ向かっていた。
薄曇りのせいか、夏なのに、いやにヒンヤリした空気に山中が包まれていた。
できるだけ車で近づくために、遠回りをして別のルートから現地を目指した。
普段人が近寄らないせいか、道も荒れていて、途中からは徒歩に切り替えた。
辿り着いた場所は、火災で焼け落ちた旅館がひっそりとその址を残していた。
「辺りを捜索してください」
礼は3名の警察官と手分けして捜索を開始した。
旅館の裏側は、50メートルほど行った先で、崖になっており、10メートルくらい下には、静かなせせらぎがある。
「遺品が見えるわ」
その場所に下りて行き、捜索したところ、2体の遺骨を発見した。
「この高さだと、落ちても即死しない可能性もあるので、捜索範囲を広げてみましょう」
礼の提案を受け、その沢の周辺を捜索した。
結局、合計で3体発見できたところで、雨が降り出したため捜索は中止となった。
礼は桜海の見舞いがてら、状況を伝えに病院へやって来た。
「3体見つかったけど、まだ居るのかしら?」
「俺が見たのは、大人5人、子供2人」
桜海は肩から背中側にかけて傷があるため、うつぶせ寝でモゴモゴ答えた。
「こども?」
礼は不思議そうに言った。
「うん。捜索願は出てないのかもしれないけど…」
礼たちはデータベースで情報を確認して捜索にあたっていることを桜海は知っている。
「まあね。失踪して7年以上経つと、死亡と見做して捜索願が取り下げになるケースも多いのよ」
礼は弟を慰めるかのように説明した。
「ふむ…」
「捜索を続けるわ」
礼は桜海の霊の目撃情報を参考に捜査へと戻って行った。
翌日。
回診に来た医師が桜海の怪我の具合を診察した。
「傷の治り具合は順調です。後は、無茶をしないことです」
医師からは桜海が山で何か無茶なことでもして、怪我をしたように思っているようだった。
「…」
付き添っている赤星は、桜海との経験を説明するのは土台無理なことだと思った。
「ありがとうございます」
ちょうど、捜索の結果を伝えに来た礼が、桜海に代わって挨拶をした。
医師は軽く手を上げ、次の回診へと向かった。
「子供の遺体はひとつだったわよ」
礼は医師が病室を出たのを見計らって告げた。
「誰の遺骨?」
「戸田鳴美ちゃん、当時4歳」
「見つかってなかったんだ」
赤星が言った。
「そうみたい。だから、つい最近まで死亡宣告してなかったらしいわよ」
桜海は診察のために起こしていた身体を横たえた。
「ふう…」
「性質が悪いんだから、今度遇ったら滅しなさいよ」
礼は桜海を心配して言った。
「でもやっぱり、極力避けたいんだよ。二度と転生できなくなってしまうだろ」
「それは誰にもわからないわよ。自分が転生してきたのかどうかわかる人なんて…」
礼は言いかけて、目の前に居る弟がそうであることを思い出した。
「でも、姫は赤星に転生してる」
「えっ?」
じっと姉弟の会話を聞いていた赤星が思わず声を上げた。
「まあ、そうなの?!」
礼は桜海の嬉しそうな口ぶりから、子供の頃から時々語っていた、前世で愛したお姫様が現世では赤星なのだと悟った。
「どうしたら一番いいのかな?」
滅するということに迷いを感じている桜海に礼がビシッと言う。
「先ず、あんたは身体を治すことよ。いい? 治療をサボっちゃ駄目よ。赤星くん、よろしくね。この子が逃げ出さないようにしっかり見張ってね」
赤星は礼の言葉に身を引き締めた。
「ああ、もう、わかった」
桜海は面倒くさそうに言い、礼に向かって人払いする仕草を見せた。
「じゃ、私、仕事があるから」
「だから、トイレに行くだけだって」
手を放さない赤星を説得する桜海。
「ホントに? 絶対勝手に居なくならない?」
礼に頼まれたのもあってか、必要以上に心配する赤星。
「わかってる。逃げ出したりしないよ」
「早く帰って来て」
「く~」
桜海はバタバタとトイレに行き、すぐに病室の前まで戻ってきた。
「ほらな。大丈夫だっただろ」
「そうだけど。もう嫌なんだ。あんたが死にそうになるなんて、もう二度と、絶対に」
桜海は赤星に腕を捕まえられて、警察官に連行される犯人のように、病室に連れ戻された。
その様子を見かけた斉藤の笑いを誘ったのは言うまでもない。
「そんな可愛い顔してたら、姫って呼ぶからな」
「やだ」
「お前ら相変わらず仲がいいな」
斉藤がクスクス笑いながら言った。
「姫、姫」
「もう!」
「殿は姫から一体どれだけ、血を分けてもらったんだ?」
そう斉藤に言われて桜海の言動が止まった。
「う…」
「500CCくらい?」
斉藤のからかい半分の問いに、赤星が真面目に答えた。
「凄いな、オウミちゃん。感謝しないといけないよ」
斉藤に言われ、頷いた桜海は、赤星の両肩を両手でポンポン触りながら言う。
「ありがとう。この際だから、ハッキリ言っとくけど、俺の怪我はキミのせいじゃない。だから、負い目を感じなくていいんだ」
「そうよ」
急に礼の声がして、桜海は振り返った。
「姉ちゃん…」
「この子が術師として、未熟なだけなんだからね」
礼は桜海が突かれたくない点をズバリと指摘した。
「でも…」
赤星はやはりこの旅行に誘ったことを後悔していた。
「ありがとね。こんなデキの悪い弟のことを、そんなに心配してくれて」
「悪かったね、デキが悪くて…わっ」
赤星は桜海を無理やりベッドに寝かしつけようと躍起になっている。
そんな二人を見て、
「なんだか、あてられるんですけど…」
と斉藤が小声で礼に言った。
「まあ、確かにあの二人は愛し合っているわよね」
礼がダイレクトに表現したので、
「いいんですか?」
と斉藤は首を竦めた。
「可哀想だけど、前世から結ばれない運命みたいなのよね」
「はあ、そうですか…」
斉藤は首を傾げた。
「でも、今生ではお互いを必要とし、共に生きていけるのかもしれないわね」
礼は弟と赤星を柔らかな眼差しで見つめた。
「さあさあ、わかったわよ。もう一人の子供の事」
無理やりベッドにつかされた桜海に向かって礼が言った。
「凄いな、姉ちゃん」
桜海はベッドにゆっくりと座った。
礼は火事の被害者について詳しく調べたのだった。
山崎由希子という当時6歳の女の子が火災の後、泊まっていた旅館から姿を消し行方不明となっていることがわかったのだ。
しかも、出火元は、由希子の泊まっていた部屋で、当時は子供の火遊びが原因だったのではないかといわれていた。
「火遊び?」
一緒に話を聞いている赤星は驚いた。
「らしいわよ」
「らしい?」
礼の珍しく曖昧な言い方に桜海は疑問を持った。
「その部屋の泊り客は、母と子の二人で、母親は火事で亡くなってしまったし、子供は行方知れずで、本当のところは分からずじまい」
「父親は一緒じゃなかったんですか?」
当然の疑問を赤星が投げかけた。
「不明なの」
「どういうこと?」
桜海が確認する。
「結婚してなかったみたい」
「そっちの不明ね」
赤星が呟いた。
「唯一の身内の母親が亡くなったから、子供の捜索願は出されなかったんだね…」
桜海は瞳を伏せた。
「可哀想に…。寂しかっただろうね」
赤星がポツリと呟いた。
「そうよね。母親の父親、つまりその子の祖父がいたんだけど、娘が未婚で子供を産んだから勘当していたらしくてね。その祖父に当たる人も今は他界して、由希子ちゃんの身内の人はもう誰もいないようよ」
「遺骨は」
桜海が訊いた。
「見つかってないわ」
「旅館に続く道の脇が崖になっているところがあるから、転落死した可能性が高いかも」
桜海が、山中で霊に出遭った近辺を思い出しながら指摘した。
「調べてみるわ」
桜海は早速捜査に戻ろうとする礼に声をかける。
「姉ちゃん、悪いけど、これ…」
桜海は礼に紙切れを渡した。
「わかった」
礼はそれを持って病室を後にした。
「ね、もしかして今の…」
赤星は桜海が渡した紙切れのことを気に留めた。
「うん?」
「入院費の請求書?」
「うん」
「ごめん、俺…」
「だから、キミのせいじゃないって」
「でも、お姉さんにまで負担をかけてしまって、申し訳ないよ」
赤星は小さく溜息を吐いた。
「俺、銀行とか、お金の計算とか苦手だから、姉ちゃんにやってもらってるんだ」
桜海はバツが悪そうだ。
「お姉さんのお給料って…」
礼は公務員なので収入は安定しているが、やはり急な出費になるのだから、赤星は心苦しいのだった。
しかし、
「姉ちゃんは姉ちゃんだし…」と、桜海はあっけらかんとして言った。
「え?」
「うん?」
「桜海さん、収入があるの? お姉さんに養ってもらってるんじゃなくて?」
桜海が姉に養ってもらっているというのは、赤星の勝手な想像だが、そんなに外れているとも思えなかった。
「まあ、時々働いてたから」
「子供なのに、働く?」
現在18歳の桜海が今までに働いて収入があったというのだから、赤星は驚いた。
「除霊の依頼料とか、謝礼とか。…寄付金?」
「あ。俺、お金払ってない」
赤星がハタと気付いた。
「うん?」
桜海の顔に大きな?マークが浮かぶ。
「どうしよう」
「何か依頼されたっけ?」
桜海が首を傾げる。
「一緒に来てって」
「旅行だし」
「でも…」
「血をくれたし」
「ええと…」
「キミは特別だ」
赤星は桜海をマジマジと見つめた。
「\\\…」
「何、赤くなってんの?」
「いや、何でもない」
「ああ、また人を女扱いしてるんだろ」
『好きなんでしょ! 好きなんでしょ? きゃあきゃあ』
「だって…。もう、タマコ、からかうなよ」
桜海は耳を塞いで布団に潜った。
翌日。
「遺骨が見つかったわ」
礼が桜海の病室で昨日の捜索結果を告げた。
「そう」
そっけなく桜海が言ったので、赤星が明るく、
「良かったね」
とフォローした。
だが、何故か渋い表情の二人に赤星が尋ねる。
「どう、したの?」
「それがね、遺骨を引き取ってくれる親族がいないでしょ」
礼が気の毒そうに答えた。
「ああ、そうか」
「それに、今、死亡原因を確認中だけど…」
言いよどむ礼に、
「やっぱり?」
と桜海が言った。
「やっぱりって?」
赤星にはさっぱりわからない。
「あんた、わかってたの?」
「なんとなく…」
「どういうこと?」
赤星は二人の顔を交互に見て言った。
「殺された」
桜海が単刀直入に答えた。
「えっ?!」
「肩甲骨に傷があって、恐らくだけど、背中から切り付けられた可能性が高いらしいの」
礼は淡々と殺害されたと推測する根拠を伝えた。
「誰がそんなこと…」
赤星の声が震える。
「泣くなよ」
泣かれるのが苦手な桜海が言った。
「泣いてない」
赤星は強がりを言ったが、目には涙が浮かんでいる。
「でも、直接の死因は、違うよな…」
桜海は確信ありげに言い、
「そうかもね…」と礼も頷いた。
「…?」
赤星は目で問いかけた。
「落ちた時に…」
「矢のように尖った竹が刺さったみたい」
赤星は身震いし、涙を一筋こぼした。
「怖いよね。ごめん」
桜海が赤星を気遣う。
「でも、これで、帰れるね」
赤星は気を取り直し、ポジティブに言った。
だが、姉弟は微妙な表情で笑ったのだった。
その夜。
「郁美、どこに行くんだ?」
病室を抜け出し歩いて行く郁美を斉藤が追った。
「友達が呼んでるの」
「誰が?」
「ユキちゃん」
郁美は止めようとする斉藤を振り払ってドンドン歩いていく。
「そこは…」
桜海の病室だ。
「郁美!」
いつの間にか郁美は手にナイフを持っていた。
そのことに気付いた斉藤に向かって、郁美はナイフを振り回した。
「どうしました?」
廊下の騒ぎをききつけてやってきた看護師にも郁美がナイフを向けたので、咄嗟に庇った斉藤は腕を切り付けられてしまった。
だがすぐに看護師が応急処置をする。
「逃げろ! 桜海!」
斉藤が叫んだ。
ベッドで起き上がって様子を確認しようとしていた桜海に対しても、郁美がナイフで切りかかってきた。
桜海は瞬時に3重の結界を張り防御した。
「キミは誰だ?」
桜海は相手を確かめる。
「鳴美ちゃんの友達」
「由希子ちゃん?」
彼女は逆上し、何度もナイフを振り下ろした。どうやら図星だったようだ。
桜海は両手をクロスし、目には見えない結界の楯で攻撃をかわした。
桜海に攻撃が通じないとわかると、ターゲットを隣で寝ている赤星に変更した。
すかさず桜海は、何も知らずに眠っている赤星に覆いかぶさり、郁美(由希子)の攻撃から護る。
3重の結界で防御しているとはいっても、振り下ろされた衝撃は桜海の全身に響き、完治していない肩の傷に痛みが走る。
やがて、赤星が目を覚ました。
「!」
赤星は桜海の肩越しに、刃を向ける郁美の姿を捉えた。
「やめろ~!」
赤星は咄嗟に桜海を抱きかかえるようにして、寝返りを打ち、郁美の攻撃をかわした。
「もう、やめよう、ユキちゃん」
郁美が急に攻撃をやめて喋り始めた。
「何よ」
「あたし、友達、百人も要らない。ユキちゃんが居れば、もういいの」
郁美の中の複数の魂が、会話をしているようだ。
桜海と赤星は振り返って独り言を言っているように見える郁美を見つめた。
「鳴美(郁美)ちゃん…」
『あたし、もう、逝くね』
郁美の身体から一つ魂が抜けだした。
「ちょっと待て」
桜海は抜け出した魂を結界で囲んだ。
「いつも言ってたよね、身体が生きてるから逝けないって」
そう言いながら、乗り移っている由希子が、郁美の首筋にナイフを宛がった。
「見るな」
桜海は赤星の視界を遮った。
首から血を流して倒れた身体から、二つの魂が抜け出した。
『私たちを囲みなさい』
桜海は言われる通り、2つの霊を1つの結界で囲んだ。
『その子がこの身体の本当の持ち主よ。元に戻してあげて』
先に囲んでいた霊を指して言われ、桜海は頷いた。
本物の郁美に戻れたといっても大怪我だ。
にわかには喜べないが、ここが病院だということが、せめてもの救いだった。
すぐに、手当てを終えた斉藤と看護師、そして夜勤の医師らが現場に駆け付け、郁美の処置のため、彼女の身体を運んで行った。
『キミ、私たちを消去しなさい』
由希子の言葉に、桜海は驚き、躊躇する。
「え…でも…転生できなくなってしまう」
結界の中で、鳴美が変化し始めた。
『早く!』
荒れ狂う鳴美の霊を由希子の霊は抑えきれないようだった。
仕方なく桜海は印を結び、目を瞑って呪文を唱えた。
『ごめんね。ありがとう』
消える寸前に桜海に届いた最後の声だった。
「あーっ!」
桜海はしゃがみ込んで、強く握った両手を床についた。堪えようのない悲しみに震え、涙がとまらなかった。
赤星は黙って桜海を優しく包むように抱きしめた。