41 憎悪の炎
ようやく退院した桜海は以前の暮らしに戻っていた。
いつものように神域パトロールをしていると、狭い路地裏でボーッと立っている男性を発見した。
近づいてみると、男性の胸にはナイフの残像が刺さっている。
その男性は自分の胸のナイフを見つめて、
『どうしてだろう』
と繰り返し呟いていた。
桜海は携帯電話を取り出して、
「どうしました?」
と彼に声を掛けた。
『あなた、私が見えるんですか?』
桜海が頷いてみせた。
『私、見ず知らずの男に刺されたんですけど、どうしてだと思います?』
男性はまた自分の胸のナイフに視線を落とした。
「全く知らない人ですか?」
『はい』
「ここで、ですか?」
『ええ』
「お気の毒ですが、事情がわかった所で、元には戻れませんし、知らない方がいい場合もありますよ」
『せめて、犯人が捕まったかどうかくらいは知りたいです』
ようやく男性は顔を上げて桜海に言った。
「ちょっと待ってください」
桜海は退院直後なので最近この辺りで殺人事件や通り魔事件が起こったかどうかさえ知らなかった。
そこで桜海は礼に電話をかけた。
「姉ちゃん? 俺だけど」
〈なあに、オレオレ詐欺みたいに〉
「最近東町で、殺人事件があったと思うんだけど、犯人はもう捕まったのかな?」
〈東町? 私の担当じゃないし、今立て込んでいますから、調べて折り返します。時間がかかります〉
「わかった」
『お姉さんに聞いてみたんですか?』
「はい。調べてもらうことにしました。わかったら、お伝えします」
『私、何だか妻のことが心配になってきました』
「奥さんですか。悲しんでいるでしょうね」
『私、家に帰ります』
「わかりました」
桜海はさりげなく彼に標を付けた。
『家に帰れば何かわかるかもしれませんよね』
「そうですね。一応、俺も調べておきます」
『ありがとう』
「失礼します」
桜海は標に式神を取り付けて、延びていく先の神域の浄化を、彼に担わせた。
「ただいま」
「おかえり。遅かったね」
4時近くになって帰って来た桜海に赤星が言った。
「うん。もう、3時に戻るのを止めようかな」
今日のように遅くなるとすぐに夕方になり帰宅することになる。
「え? 一日中パトロールするの?」
赤星はパトロールと言いながら、具体的に桜海がどんなことをしているのかはわかっていない。
「昼に帰って、3時に帰って、休みすぎだよね」
「休憩も大事だと思うよ」
そんな風なのんびりした日々が続く方がいいのだと赤星は思った。
「まあ、そう思って、浄化活動を手伝ってもらってはいるけどね」
「え? 誰に?」
赤星は、パトロールと称する活動が、誰かに手伝ってもらうことができるとは思わなかったので驚いた。
「霊に」
「へぇ…」
赤星にとっては全て見えない桜海の世界の話だ。
へーの一言だったので、桜海はそれ以上の説明を省き、赤星もそれ以上の質問をしなかった。
しばらくして桜海が事件のあった路地裏に行くと、男性が前にも増して暗くどんよりと佇んでいた。
「大丈夫ですか」
『大丈夫じゃないです』
男性は桜海を横目でチロッと見て溜息を吐いた。
『妻が泣いてばかりいるんです。子どもたちも無事巣立って、これからまた、二人で新婚時代に戻れるねって、言っていたのに…と』
彼は坂本 宏さん、55歳。
都内の商社に勤めるサラリーマン。
彼が海外出張から戻って、久しぶりの自宅へ帰ろうとした矢先に事件は起こった。
「お気の毒に。申し訳ないのですが、捜査中でまだ犯人は捕まっていないそうです」
桜海は礼から聞いた状況を大雑把に伝えた。
本当のところは、犯人を捕まえるどころか、目星もついていないとは言えなかった。
『そうですか。妻の所にも警察の方がやってきて、同じようなことを言っていました』
「ではいずれ、ご自宅で情報がわかりますよね」
『はい。でも、妻が可哀想で、見ていられないんです。傍に居ても彼女には私が見えませんし、声を掛けても聞こえないんです』
「一般的に皆さん、そうですから、仕方ありません」
『唯一、話せるのはあなただけなので、ここで待っていたんです』
桜海は複雑な思いで頷いた。
「犯人が捕まるまで、時間がかかると思います。それまでずっと待ちますか?」
『そうですね。私はどうして殺されたのか、どう考えても納得がいきません』
平凡で真面目なサラリーマンだった男性は悔しそうに言った。
桜海は浄化のための式神を回収し、坂本さんを励ます振りして、改めて標をつけ直し、新しい式神を放ったのだった。
一週間後。
桜海は午前中のパトロールを終え、昼食を取りに家に戻っていた。
「今日は何?」
「オムライス」
作務衣に前掛けが板についてきた赤星が微笑んだ。
「やった」
「うがい、手洗い」
喜んで席に着こうとする桜海に、赤星から笑顔で厳しい言葉が飛んだ。
「はい」
桜海は言われたとおり、すぐに、うがいと手洗いを済ませ、席に着いた。
「今日は天気もいいし、3時にも帰れそうだよね」
赤星はチキンライスを型に入れ、更に盛り付けた。
「うん、多分。おやつは何?」
「それは3時のお楽しみ」
赤星は冷蔵庫から卵を取り出した。
「え~」
「ふふふ…」
赤星はオムライスの仕上げのため、卵を割って箸でかき混ぜる。
そうしながらかつては病院の受付カウンターだった調理台からクッキングヒーターの方へ向いた。
「それいいね」
「何?」
手を止めてフライパンを置いて加熱する。
「卵を混ぜる音」
「そう?」
嬉しそうな顔をする桜海のリクエストに応えて卵を混ぜる。
「うん」
「まあ、腕を振るってる、って感じがするかな」
赤星は素早く卵を混ぜながら、後ろで見ている桜海を振り返り笑顔を見せた。
「アッ!」
桜海は突然の痛みに椅子から床に転がった。
赤星は驚いて調理の手とヒーターを止め、桜海に駆け寄った。
「どうかしたの?」
赤星には桜海の身に何が起こったのかわからなかった。
「うん。ヤバい。標、焼き切れた」
桜海は右手首を左手で掴んで唸るように言った。
「しるしが焼ける?」
よく話には出てくるが、実際の所、標そのものも見えない赤星は首を傾げた。
だがそれが、どんなに恐ろしい事なのか、桜海の手の平が真っ赤になっているのを見て理解した。
「大丈夫?」
「出掛ける」
「待った」
赤星は行こうとする桜海の腕を掴んでキッチンへ。
焼ける、と聞いて火傷と判断した赤星は、すぐに蛇口から水を出し、桜海の手を冷やした。
「う…」
痛そうに顔を顰める桜海の手の平を確かめた。
「あれ? 真っ赤だったのに…」
「うん。ありがと」
引き攣った笑顔の桜海に、
「まだ痛いの?」
と赤星が心配そうに尋ねた。
「ううん」
「嘘っ」
赤星は桜海の手を握った。
「あぅっ」
恨めしそうな目をする桜海に、
「手当てして、ご飯食べてからにして」
と強い口調で言った。
「でも…」
「相手は既に死んでる人なんだから、焦ったってしょうがないでしょ?」
桜海は反論できず、おとなしく椅子に座りなおした。
「救急箱取ってくるから、動いちゃダメだよ。俺もテンに紐つけときたいよ」
赤星はバタバタと走って救急箱を持って戻った。
桜海は痛む右手を使わないで、卵の載っていない未完成のオムライスを左手でスプーンを使って食べにくそうに頬張っていた。
「卵無しで食べてるの?」
赤星は必死に食べ続ける桜海に、今起こっている事の重大さを感じた。
そして、桜海の右手の処置を始めた。
矢継ぎ早に詰め込んだものを水で一気に流し込むと、桜海は立ち上がった。
「ちょ、まだ」
「行かなきゃ」
「待って。右手、置いていく気?」
赤星は包帯を巻いて、最後の方を二つに割いて手首に結びつけた。
「出来た。気を付けて行ってらっしゃい」
「ありがとう。行ってきます」
『気を付けて』
と、タマコが、
『滅することを躊躇するな』
と、一多が心配そうに言った。
桜海は外に出て焼き切れた標の残像を追った。
ヒリヒリとした手の平の痛みを堪えて桜海は被害者の霊を探した。
標の残像を頼りに辿り着いたのは、小さな雑居ビルの前だった。
そのビルの3階が何やら煙っているようだ。
消費者金融の看板が出ているが暴力団の隠れ蓑に違いない。
桜海がそう思ったのは、ビルから慌てて出てきた2人の男の風体によるものが大きかった。
「ヤベ。早く消防呼べ!」
「へ、へい…」
兄貴分が命令すると、弟分は慌てて携帯で連絡をした。
桜海はビルの3階を注視した。
あのサラリーマンがいるのだろう。
幾分和らいでいた痛みが激しくなり、桜海は右手に残る標の切れ端を完全に切り離した。
どうしようもない憎悪が炎と化して周りを焼き尽くそうとしているのがわかる。
桜海は彼を止めることができなかった。
「てめえら野次馬してんじゃねえ! 消防が入れねえだろーが!」
兄貴分らしい男が大きな声で喚くと、その辺の人だかりがサーッと引いていった。
桜海も少し離れた目立たない場所に移動した。
そして姿消しをすると到着した消防隊員に続いて現場に入って行った。
案の定、一人の人間の周りだけが激しく燃えていた。
桜海は憎しみの形相に変わり果てたかつて坂本氏だった霊を結界で捕まえて現場から持ち去ったのだった。
消火活動の後、ようやく炎が収まった。
火事の現場から1人の遺体が収容された。
現場は立入禁止のロープが張られ封鎖された。
『何を持って帰ったの?!』
タマコが赤星の頭の上から桜海に言った。
『躊躇するなと言ったじゃろうが』
一多も呆れ顔だ。
小さな結界の中で坂本氏の憎悪の炎が大きくなったり小さくなったりしている。
「お帰り。良かった無事で…。どうしたの?」
赤星は桜海が帰ってきて喜んだが、桜海が妙に困り顔なのに気づいた。
「ちょっと霊を連れてきたから…」
「え? どこに?」
赤星は狼狽えた。
「玄関」
「何でまた?」
桜海の性格上わかっていながらも疑問が赤星の口をついて出た。
「だって…」
「俺には見えないから何一つアドバイスもできないけどさ、ひょっとしなくても、テンの火傷の原因なんだよね? それ…」
「…うん」
桜海は自分の右手の平を背中に隠した。
「悪いけど、玄関は邪魔だから、別のところに置いてくれない?」
赤星は、自分にとっていかに霊が及ぼす影響が大きいかをわかっているはずの桜海の行動に少しムカついた。
「わかった。ごめん」
桜海はとりあえず霊を神社の敷地に固定した。
『どうするつもりじゃ?』
一多が結界の中で燃える霊を見つめながら桜海に尋ねた。
「この人がこんなに怒り狂うなんて、よっぽどの事があったんだと思うんだ」
桜海は哀しそうに炎を見つめた。
『しかしこれはもう手の打ちようがなかろう。悪霊として意思を持つ前に消去するべきじゃし、この魂のためでもあると思うがのぉ』
一多はおひとよしの桜海を心配して言った。
桜海は大きく溜息を吐いた。
桜海は後悔していた。
坂本さんが結構動き回っていたことはわかっていたのだ。
だが、テリトリー外に出ることもなく、神域浄化に上手く一役買ってもらえていたことから、彼がこんな暴挙に出るとは予想もしなかったのだ。
途中で坂本さんにその後の話を聞くなりして状況を細目に確認するべきだったのだ。
「俺、殺されるなんて尋常じゃない死に方をした坂本さんのことをちゃんとフォローするべきだった」
桜海はそう呟くと、
「坂本さん、申し訳ありません」
と、結界の中で揺らぐ炎に向かって頭を下げた。
翌日、礼から桜海に電話がかかって来た。
「テン、お姉さんから」
赤星が家電の子機を桜海の部屋に持ってきた。
桜海は仕方なさそうに子機を受け取った。
「はい」
〈ちょっと、携帯に出なさいよ〉
礼が呆れたような口調で言った。
「何?」
〈坂本さんの事件のことだけど…〉
「ああ、もういいよ」
〈え? ようやく犯人らしき人物の目撃情報が出たのに?〉
坂本氏が何故殺されたのか、犯人が誰なのかということは最早桜海にとってどうでもいい事だった。
「坂本さんは自分で仇討ちしてしまったから」
〈…じゃあ犯人は亡くなったということ?〉
「うん、多分ね。昨日の火災で亡くなった人」
〈ふむ。一応確認してみるわ〉
「ありがとう。でももういい」
桜海は拗ねたような暗い声で言った。
〈わかりました。ご協力感謝します〉
礼は形式的な挨拶をして電話を切った。
自分の不甲斐無さを姉にぶつけてしまったことは更に桜海を落ち込ませた。
桜海にとって重大なことは霊を救えず、坂本さんが強い炎の地縛霊と化したことだった。
翌日の早朝、桜海は神社の境内に行き、
「どうしてですか? 犯人が捕まったかどうかを知りたいだけじゃなかったんですか? どうして俺に言ってくれなかったんですか? どうして…!」
と、今は炎でしかない坂本氏に言葉をぶつけた。
『いつまでもこのままにしておくのか?』
一多がため息交じりに尋ねた。
桜海は振り返り一多を見つめた。
『わしの顔に答えが書いてあるかの?』
一多は苦笑いしながら桜海に優しく言った。
「じいちゃん、俺…」
『わしが思うに、お前も一人の人間なんじゃよ。スーパーマンや神ではないのじゃ。失敗もあって当然なのじゃよ』
失敗と言われ、桜海は残念そうに俯いた。
『ただ、特殊な能力があるが故に、かえって余計な苦労を背負い込んでおるだけじゃ』
「だったらやっぱり神様でもないのに、霊を滅したりすべきじゃないんだ」
『しかし、悪霊となれば別じゃ。この界隈では天しか能力者がおらん。他の善良な霊や霊感の強い市民が悪い影響を受けないうちに対処するのが天の仕事じゃ』
「でも今回は、坂本さんをこんな風にしたのは…」
『お前のせいではあるまい? お前は神ではない。その霊がそうなったのはあくまで霊自身の責任で、お前がそう仕向けたわけではない筈じゃ』
「そう、だけど…」
『わしは天が何も感じず何でもかんでも滅するような輩じゃのうて良かったと思っておる。消滅させないのであれば一所に集めて保管でもするつもりか?』
「…それは、まずい」
口ではそう言いつつ桜海はそれも一つの方法なのではないかと思った。
『それをやっておったのが黒霧神社なのじゃよ』
「え…」
一多の言葉に桜海は驚いた。
『同じ道を行くか?』
「…」
桜海は赤星と二人で「地縛霊を祀っているのかも?」と推理していたことを思い出した。
黒霧神社では、こういった地縛霊や地縛の念などを外界から遮断し、長い時間をかけて鎮魂しているのだろうか。
桜海には自分の現世の限られた時間の中でできることは、やはり限界があるように思えた。
ふと社務所から桜海の自宅へ向かう赤星の姿が見えた。
神社の敷地の端に置いた炎がメラメラと揺れ動いた。
「あれ? テン、何してるの?」
赤星が桜海に気付いて立ち止まると、炎の揺らぎが大きくなった。
桜海は意を決するしかなかった。
地縛霊を鎮魂させ抑え込む力量はない。
むしろ赤星のような強いオーラに感化された地縛霊となれば、滅するのも難しくなってしまうかもしれない。
桜海は詫びながら炎を滅した。
地面に両手をついて項垂れる桜海に、
「すぐ朝ごはん作るから」
と言って赤星は急いで桜海の自宅へ向かった。
「やば」
赤星は山神に治ったと言った手前もあって、涙を桜海に見せるわけにはいかなかった。
しかし桜海の哀しい気持ちが波のように伝わってきて、赤星は自分まで悲しくなってしまう。
「ダメだ…。テン、何をそんなに悲しむんだよ…」
赤星は自分の目から溢れる涙を堪えることができず狼狽えた。
「何でこんな風になるんだろ…」
赤星は泣き顔を見られまいと、あれこれ試したが止まらない。
仕方なく、玉ねぎを出してみじん切りを始めた。
「目が痛い」
辛そうな顔で帰って来た桜海に、ぽろぽろと涙をこぼしながら赤星は苦笑いした。
「玉ねぎ?」
大量のみじん切りを見て桜海が言った。
『玉ねぎ嫌~い』
玉ねぎを刻むまではうたた寝していたタマコが赤星の肩でのたうち回った。
「味噌汁に入れるんで切ってたんだけど、今晩ハンバーグにしようかな~なんて考えてたら手が勝手に…。目が痛いからちょっと洗ってくるよ」
赤星は大量の涙を玉ねぎのせいにして洗面所に避難した。
「いくらなんでも作り過ぎだろ」
テンコ盛りのみじん切りのせいで桜海の目も涙を堪えられなくなり、自室に籠って大泣きしたのだった。
桜海が泣き止むまで朝ごはんはお預けとなってしまった。
結局、警察の捜査では、坂本さんと焼死した男との関連はわからず仕舞いに終わった。




