3 生霊アヤノの秘密
『えーっ! タマコちゃんをあの男の子に譲ったの?』
アヤノが悲鳴のような声で言った。
「うん」
『なんで!』
「アイツ困るだろ。いつも念に躓くんだからさ」
アヤノはふくれっ面だ。
アヤノは白い着物姿で、長い黒髪。もし彼女の姿が見えたとしたら、純然たる日本のお化け。うらめしや~、のセリフが似合い過ぎる姿だ。
『そんなの他にも沢山居たらどうすんの?』
「そんなに居ないよ」
『あ、消えちゃいそう』
ただ、普通の幽霊と少し違うのは、何故か元気で色っぽい点である。
「興奮するからだろ」
『だって、寂しいんだもん』
「俺だって寂しいよ」
『頂戴』
アヤノは桜海の頬を両手で包むようにして、顔を近づけた。
「待っ…」
アヤノは桜海に口づけた。というよりも、吸い付いた、が正しい表現かもしれない。
「ぷはっ」
『まだ』
アヤノは何度も唇を合わせて吸い付いた。
第三者から見れば、桜海が一人で顔を赤らめアタフタしているようにしか見えない。
『本当に慣れないわね』
「当たり前だ!」
『つまんないヤツね』
「別に唇じゃなくたっていいじゃないか」
本当に触れたわけでもないのに、桜海は片腕で唇を隠した。
『まあね。ドギマギして可愛いわよ、あんた』
桜海は足元から崩れるように座り込んだ。
「なんでそうまでして、この世に残ってんだ? そろそろ教えろよ」
桜海の方が恨めしそうな顔でアヤノに訊いた。
『内緒』
「じゃあ、もう分けてやらない」
『いいわよ。他あたるから』
「アヤノ…」
『誰のことかしら? ふふふ…』
アヤノというのは、本当の名前ではない。何かと不便で桜海が付けた名前だ。
桜海はフラフラと立ち上がると、
「絶対に正体を突き止めてやる」
と不貞腐れたように言いながら家に帰った。
桜海はコンビニ弁当とデザートプリンをまるで早食い競争のような勢いで食べた。
エネルギー補給をしてから、礼に電話を掛けた。
「調べてほしいことがあるんだけど…」
〈どちら様でしょうか?〉
礼は仕事中なので、よそ行きムードだ。
「姉ちゃん…」
〈どういったことでしょうか?〉
「女の人の幽霊がいるんだけど、多分、誰かと心中したんだと思うんだ」
〈はあ…〉
「相手は死ななかったのかもしれない」
〈それで?〉
「そんなに古い話じゃないと思うし、そんな事件なかったかな」
〈無理〉
「え~? 姉ちゃん、頼むよ。調べてみてくれよ」
〈もっと確実な情報は無いの?〉
「確実?」
〈いつ、どこで、誰が、という基本的な情報がないと、捜しようが無いじゃない〉
翌日。
「いつ。どこで。誰…」
桜海は礼の言葉を復唱しながら部屋を出て行った。
「なあ、アヤノの愛した男って、どこのどいつだ?」
『あら、気になる?』
アヤノは嬉しそうに桜海に唇を寄せる。
「だーめ」
桜海は顔の前に両手でバツ印を作って拒んだ。
『あら、どうして?』
「精気はお預け」
さらに桜海はお色気たっぷりのアヤノを結界で遮り、
『じゃ、他へ』
と、離れて行こうとした彼女の動きを封じた。
『あん。動けない』
アヤノの精気を吸うパワフルさは半端ない。
周囲の気を集められる桜海でさえ、気を抜くと倒れそうな勢いだ。
普通の人間なら、アヤノに精気を奪われたらすぐに倒れてしまうだろう。
『酷い。お腹すいて死んじゃうじゃない…』
「もう死んでんだよ…」
桜海が呟いた。
『あたし、あんたの言いつけ守ってきたのに!』
「俺もいつまでも養ってらんないから! さあ、アヤノ、本当は何て名前だ?」
『忘れたわ』
「教えてくれたら、一口やるけどな…」
『ねえ、見て』
アヤノは白装束の胸元をゆっくりと寛げた。
「な、何、やってんだよ」
上半身裸になると、桜海の目の前で乳房を持ち上げて、
『オッパイ、どう?』
と魅せた。
「やめろ」
桜海はギュッと目を瞑った。
「お前、そいつに会いたいんだろう?」
『別に』
桜海はクルッとアヤノに背を向けた。
「やっぱり男に裏切られたんだな?」
桜海は、お色気を持て余しているアヤノに決めつける様に言った。
『ほら、ちゃんと目を開けて見て。細身の割りに大きいでしょう?』
「は?」
『どうしてだと思う?』
「まさか…」
『あたし、妊娠していたの。でも、今、お腹にも、あたしの側にも居ないのよ』
「なんで赤ちゃんがお腹に居るのに心中すんだよ! 着物着ろ」
アヤノは着物を整えながら言う。
『そうよね。でも、あの時は死ぬしかないと思っていたから…』
桜海はアヤノが自分の事を話す気になっていると悟り、黙って次の言葉を待った。
『あたしね、夫の父親の子供を産もうとしたの』
「夫? 義父?」
『光司さんのこと裏切って、清太郎さんの子供を妊娠したの。でも清太郎さんがおろせって言ったのよ』
「?」
『無理よね、臨月だったし。おろすってことは、あたしに死ねって言ってるようなものでしょ』
「…そうだな」
『自分で死ぬなんてできないと思って、清太郎さんの妻、優理子さんに打ち明けたの。殺してくれるかもしれないと思ってね。そしたら、彼女も清太郎さんの父、耕太郎さんの子供を産んだから仕方ないって言われて…』
「へ?」
『あたし、わけわかんなくなっちゃって』
「つまりミツジさんは、セイタロウさんの義弟?」
『でも、二人とも、本当の親子だと信じていたわ』
「複雑…」
『心中したはずの、赤ちゃんはどこに行ったのかしら?』
「男と心中したんじゃなかったのかよ」
『誰も、男と、なんて言ってないわよ?』
桜海はガクッと項垂れた。
「赤ちゃんを探すにはアヤノの情報が必要だ。お前の住所と名前!」
『あたしは田原美幸』
「住所は?」
『八王子。ねえ、頂戴』
「ちょっと待て」
『待・て・な・い』
結界が解かれた途端にアヤノは桜海にむしゃぶりついた。
「ウウウ…。やっぱり気持ち悪い」
『失礼ね』
「も、いいだろ」
『まだぁ』
桜海は目を閉じてやり過ごした。
「なんでそう食欲旺盛なんだ? 幽霊のくせに…」
『え?』
「え??」
『あたし、幽霊なの?』
「は? 今更…」
『そう…? 時々あたし、体に帰っていたつもりだった』
「それって…」
『あたし、死んだのかな?』
「…ちょっとまて。今から戻ってみて」
桜海はアヤノに標をつけながら言った。
アヤノはすうっと消えていった。
桜海はアヤノにつけた、桜海にしか見えない標から伸びる糸を手繰りながら、田原美幸の居場所へと導かれていった。
翌日。
田原総合病院。
桜海は昨夜辿り着いた病院の前にいた。
「本当なの?」
あらかじめ電話で連絡しておいた姉とともに、病院の中へ入って行った。
標を便って最上階の病室の前にやって来た。
「田原美幸だったわね」
「うん。居た」
何故か、病室の中に入れずウロウロするアヤノの姿があった。
「ここね。面会謝絶」
ドアに掛けられた札の文字を礼が読み上げた。
「姉ちゃんの出番」
「失礼します」
礼が扉をスライドさせて開けた。
「何、これ」
「何だこりゃ」
病院の個室は、まるでオカルト的演出で、カーテンを閉め、蝋燭が灯されていた。
桜海が薄い結界を軽く裂いて通り、礼も続いた。
「あんた達、何者だい?」
美幸の寝ているベッドの側の床に、幾つもの数珠をつけ、見るからに霊媒師といった装束に身を包んだ老婆が座っていた。
病室の壁には沢山の御札が貼られ異様な雰囲気だ。
「なに、これ」
礼が唸るように言った。
「ああ、それでか」
桜海は、アヤノが元に戻れていないわけがわかった。
「警察です。美幸さんの知人から捜索願が出ているんです」
礼は警察手帳を見せ、適当な嘘を本当っぽく伝えた。
「そんなバカな」
しかし警察手帳は本物なので、霊媒師はうろたえた。
「あなたこそ、何者?」
「私はこの人の姑さんから頼まれた祈祷師です」
「美幸さんが回復するための祈祷じゃねぇよな」
桜海が祈祷師を睨んで指摘した。
「どういうこと?」
桜海は姉に向かってわざわざ、
「刑事さん」
と声を掛けてから、
「この人は、美幸さんの魂を体から離脱させていたんだよ」
と言った。
魂の戻った美幸が、
「本当なの?」
と目を開けて尋ねた。
老婆は術が破られた事に血相を欠いて逃げ出そうとした。
「待ちなさい。どういうことなのか、説明しなさい」
礼が行く手を塞いだが、
「姑さんに聞いてくれ」
と言うと、祈祷師は礼を押し退けて病室から出ていった。
「アヤノ、じゃねぇや、美幸さん、生きてたんだね」
桜海は嬉しそうに声を掛けた。
「そうみたい」
「あなたの姑さんに会って話を聴いたほうが良さそうね」
礼は尋常じゃない扱いをしていたことを追求するつもりのようだ。
「俺は美幸さんについてるから、姉ちゃん、頼むよ」
「ハイハイ」
礼は姑への事情聴取のため病室を出た。
「お姉さんが刑事なの? スゴイわね」
「うん。アヤノの時と随分雰囲気が違うね」
桜海は、祈祷師の張った札を剥がしながら言った。
「そう?」
「うん。アヤノはエッチじゃん」
桜海は恥ずかしそうに言った。
「あれが本性なの」
「ハハハ…」
「まだ、ちょっと体がだるいから、少し眠ります」
「わかった」
桜海は、札や蝋燭など術に使われていた物を持ち、 念のため、軽く結界を張って病室を出た。
桜海と礼は病院の屋上にいた。
「美幸の姑、田原優理子の話では、病院理事長の孫の嫁が自殺など、風が悪いので、絶対死なせたくなかったらしいの。なんとか取り留めた美幸の命を維持させていたらしいわ」
「じゃ、なんで霊媒師を使って、意識が戻らないようにしたんだろう?」
桜海は疑問を感じた。
「姑さんは、彼女の知っている秘密をバラされたくないみたいよ」
桜海は礼の話をきいて、アヤノの言っていた事を思い出した。
そして、その秘密が未だに秘密であることを悟った。
「秘密って、何?」
桜海は礼がどこまで聞いたのか確かめた。
「秘密は、たとえ警察でも話せません、ですって。まあ、犯罪として立証するのは難しいから、それ以上は聞けないわよね」
礼も秘密にはさほど興味はないようだ。
「つまり、彼女がその秘密を守れば、生き返っても問題ないんだね」
「そうだけど、変な家族よね」
礼はその秘密を知らないので、そう思うのも無理はない。
「わかった。ありがと、姉ちゃん」
「とにかく良かったわ。殺人事件じゃなくて」
礼はにこやかな笑顔を見せた。
「はは…」
桜海はハタと思い出して訊ねた。
「じゃあ、彼女のお腹にいた赤ん坊はどうなったんだ?」
「ちゃんと生きているわよ。今、5歳。母親の意識が戻ったと伝えてあるから、後で会いに来るでしょうね」
「へえ、そうなんだ」
「5年間も彼女は眠っていたのね」
どおりで精気を吸って歩くわけだ、と桜海は納得したのだった。
二人は美幸の病室へ戻り、事情を説明した。
「じゃあ、赤ちゃんは、生きてるのね」
「うん。良かったね」
「お子さんは女の子。名前は美郷ちゃんよ」
礼が伝えた。
「どうして私の事、生かしていたのかしら」
「仮にも病院経営者の親族から自殺者を出すわけにはいかない、という病院理事長からの鶴の一声によるものだそうですよ」
「そうですか」
「秘密を墓場まで持って行かなきゃいけないらしいよ」
桜海は幽体離脱させられていた理由を伝えた。
「つまり…?」
「未だに、秘密は秘密のままって話さ」
桜海は苦笑いしながら言った。
「わかったわ。本当にありがとう。お姉さまも、ありがとうございました」
桜海と礼はホッとしながら、病院を後にした。
「良かったわね」
「うん…」
桜海は、複雑だけど、という言葉を飲み込んだ。
「どうかした?」
「ううん。ありがと、姉ちゃん」
桜海が俯きかげんで言うと、礼は詳しく聞きだすつもりがないようで、
「ふむ。どういたしまして」
と優しく微笑んだ。
後日、桜海の元へ、浄霊料として300万円もの大金が送られてきて、姉弟を驚かせた。
そのお金は神社への寄付金として処理され、彼女たちの秘密が永遠に忘れ去られることになったのは言うまでもない。