誘っとるんやな
お風呂から上がってキッチンを覗くと、先程のコップがきちんと洗われて水切りかごに収まっていた。牛乳パックも中をゆすいで干されている。
久は案外律儀な女だった。ただそれを言葉に表さないから大抵気付いてもらえなくて損をしている。誰かのためにやったことを決してひけらかさないし、また出来ない性分なのだ。ドライヤーを使わないのは多分電気代がかさむからだし、パックから牛乳を飲もうとするのも私の洗い物を増やさないための気遣いだ。ただがさつな振りをしているだけ。牛乳を一人で飲みきってしまうのも私が飲まないのを知っているからかもしれない。
昔からそうだった。その優しさを利用していたあの子でさえ、自分が気付いている以上に久に助けられてきたに違いない。きっと私も。
「本当にお人好しなんだから」
その不器用さが好きなのだから自分でも困ってしまうけれど。
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寝室のドアを開けると、ベッドに腰掛けていた久は少し目を見開いた。
「……服は?」
私はバスタオル以外身につけていなかった。この姿で彼女の前に立ったのは6年ぶりだ。つまり最初の1回以来ということになる。
「なに、自分で脱がせたかったわけ?」
「別に」
素っ気なく言うので私は若干傷付いた。
「随分久しぶりに見たなと思っただけ。自分の家でも着替え忘れるとかアホやなぁ」
「んなわけないやろ」
デリカシーの欠片もない台詞につい方言が出た。慌てて咳払いして彼女の隣にばふ、と腰を下ろす。
「わざとやってるんだけど」
「なんで?」
全く気付いていないらしい彼女に私はため息をついた。
「……誘ってるの」
心の底から同情する。誰でもない、私にだ。
「言っとくけど6年前のもわざとだから」
「マジで?ソレ初耳」
やっぱり気付いていなかったようだ。
「鈍感」
非難すると久はうっさい、とふてくされたようにそっぽを向いた。
「――けど、それならなんで今更?」
確かに2回目以降はこんなことしていなかった。わざわざ誘わなくても彼女が私を抱くのははっきりしていたからだ。
「なんか、今日の久おかしいから」
「おかしいって何が」
「気のせいならいいんだけどね」
どうも彼女から今まであった切羽詰まったようなものが感じられないような気がするのだ。想い人の結婚を迎え、今が一番私を欲しているときだろうと踏んでいたのに。
「――よう分からんけど、要はあたしを誘っとるんやな?」
「え?うん……」
一瞬で視界がひっくり返った。
「据え膳ならしゃあない。食ったる」
言い訳のように告げて久が右の鎖骨の上辺りを強く吸った瞬間、私は押し倒されたことを理解した。いつもはこんなことしないのに、と不思議に思っているうちに反対側にも印をつけられそうになって、そこでやっと我に返る。こんなものがあっては仕事に行けない。
「ねえ、ちょっと待って――!」
「嫌」
それだけ言って久はそのままそこに印をつけた。私は抵抗するのをやめた。
一体いつ覚えたのだろう、と不思議に思うくらい今日の久は手慣れていた。半年前とは比べものにならない。完全に不意をつかれた私はあの子の振りをする余裕もなく、反応に合わせて丁寧に動く指に翻弄されて演技でない声を上げるしかなかった。
潤んだ瞳で見上げると、今まで決して目が合うことのなかったブラウンの瞳が優しく私を見つめていた。
「雪乃――」
耳元で熱を孕んだ吐息と上擦ったアルトが響いた瞬間、終わりはあっけなく訪れた。
すっと力が抜けてベッドに沈み込む。これまで久の手で達したのは最初の一度だけだった。初めてを好きな人に捧げられた喜びに溢れていたあの時だけは、素直に幸せな感情に浸れたから。それ以降は想いが叶う望みのないことに気付き始めて、ごまかしがきかなくなって、そうしたらもう気持ちよくなんてなれなかった。
けれどそんなことは今どうでもいい。
「今、名前……」
確かに呼んだ、『雪乃』と。あの子ではなく私の名前を。
「なんで……?」
私は突然の変化に頭がついて行けなかった。