分からんの?
私は必死にすがりついた。
「捨てんといて……お願い。何でも、何でもするから……!」
6年前と同じことを口にする。あの子を演じる以外に何が出来るだろう。分からない。でも何か見つけなければ久がどこかへ行ってしまう。
久は面倒くさそうに短い髪を掻き回した。
「何でそうなるん?ああもう、泣くなって……」
「ごめん……こんな面倒くさい女嫌やな。すぐ泣き止む……から」
「そんなこと一言も言ってへんやろ?」
「けど……っ」
「雪乃!」
びくっとして私は首をすくめた。久の吊り気味の目は怒ると一気に迫力が増す。
「雪乃、もう一回だけ言うたるから、よく聞いとき」
彼女は私の肩をそっと掴んで目線を合わせ、ゆっくりと語りかける。
「あたしはもうめぐみに未練はないって言うたよな」
私は頷く。そう、確かそんなような話をしていた。
「で、雪乃がおらんようになったら嫌やとも言うたよな」
また頷く。あのときの喜びを思い出してちょっと頬がゆるみ――あれ、話が違うなと少し引っ掛かった。
そこからしばらく無言の間が続いた。首を傾げてみせると久は困ったような顔を浮かべる。その瞳にもう怒りの色はなかった。
「ここまで言っても分からんの?」
私は頷いた。
でもそれは真っ赤な嘘。
間が空いたおかげで彼女が何を言わんとしているのかはなんとなく理解できた。感情が高ぶっても肩を掴む力はちゃんと手加減されているし、私を見つめるブラウンの瞳はこんなにもやわらかい。それらがすべてを物語っていたというのに、私は何を恐れていたのだろう。
彼女は変わったのだ。正確には、私に対する接し方が変わった。かつてあの子を見ていたような目で私を見るようになった。よく考えたらすぐに気付くことだ。やはり私は彼女と違って鈍感ではないのだ。断じて。
「どうしたら伝わるんかな?」
「……もう少し先まで説明してくれたら分かるかも」
だからこれは完全なるお芝居だ。散々待たされたのだからこれくらいは許して欲しい。私は涙を拭って彼女の反応を見た。
「先までって……」
久は反芻して何をしたか気付いたのか、僅かに顔を赤らめ目を逸らした。
「ふ、二人のときくらい普通に話してくれんかなって――」
「もっと前ちゃうかなぁ。再現してくれたら分かりそうやなぁ」
大真面目に言う。本気で演技したら騙されてしまうだろうから少し大げさに。
案の定、久は訝るように私を睨んだ。
「……実は分かっとるんちゃう?」
「何のことやらさっぱりやなぁ」
わざととぼけてみせる。
女優をやっている私からすると、“演技”なんてお手のものだ。
「嘘や……絶対嘘や……」
「ひどいわぁ。疑ってんの?」
なおもブツブツ呟いている彼女を見かねて、私はその“演技”をやめた。
「ちゃんと言うてくれんと分かれへんよ」
お互い傷を舐め合い偽りの関係を築いてここまでやってきた。それにきっぱりと終止符を打たなくてはならない。きっとそれが彼女の言った“けじめ”なのだろうから。
「久」
呼びかけると彼女は意を決したように掴んだ肩を引き寄せて――そのまま唇を重ねた。
少し離して、触れるか触れないかの僅かな隙間で囁く。
「――好き」
もう一度触れて、離す。
「雪乃が好き」
また触れる。
「ちょっと意地悪な雪乃が好き」
離す。
「けど、ホンマは優しい雪乃が好き」
触れる。
「たまに抜けてる可愛い雪乃も好き」
離す。
「あたしを好きな雪乃が好き」
唇越しに彼女の想いが流れこんで私の中を満たしていくようだった。あっという間にいっぱいになって、止まっていた涙がまた溢れ出す。
夢見ていた、こんな日が来るのを6年、いや7年前からずっと。
久は頬を伝う涙にキスして、私をじっと見つめて笑いかけた。
「……まだあるけどどうする?何なら今から全部並べ立てたろか」
「並べて。全部聞きたい」
私はためらいなく言った。
「けど今やなくて、毎日ちょっとずつがええ。これから2人で言い合ってこ」
久は頷きかけて、ふと思い出したように言った。
「なあ雪乃、さっき『何でもする』って言ったよな。あれまだ有効?」
「え?うん……」
「なら、いっこお願い」
唐突な言葉に目をぱちくりさせると、久の両手が私の頬を包んだ。
「ずっとあたしと一緒におって、雪乃」
それは、過ぎ去った私の6年間を埋めてもお釣りがくるくらいのお願いだった。
「こんなんで6年前のこと無かったことにしてくれとは言えへんけど――」
「無かったことにすんのは嫌。あのお願いのおかげで今があるから」
ブラウンの瞳が潤んで、久の頬を雫が伝った。隠さずに涙を見せたのは初めてだった。
「かなわんなぁ……ほんまに何でそんなに優しいんよ、雪乃は」
多分つらかったのは久も同じだった。本来誰かを利用することなんて考えもしないようなお人好しだ。自分を許せない気持ちに苛まれて、心の中ではずっと泣いていたに違いない。そんな苦痛を与えてしまったのは間違いなく私だ。久が私にしたのと同じように私も久を傷付けた。優しさからではなく、我が儘から。
「何でって、そんなん分かってるやろ?」
昔から変わらない私の気持ち。
「私、久のこと好きやもん」
どうしても彼女が欲しかった。どんなに他の人に抱かれてもやっぱり彼女を忘れられなかった。全然気持ちよくない触れ方でも、私を見てくれなくても嫌いになれなかった。もう若くないなんてどうして決めつけていたのだろう。私は今でも、狂おしいほど久の愛を求めていたのに。
「なあ、私からもお願いしていい?」
「何を?」
私は久と額を合わせた。
鼻の先と先をくっつけて、しっかりと瞳を覗き込んで。
「ずっと私と一緒におって、久。それが私のお願い」
もう一度我が儘を言おう。『抱いて』なんて遠回しな言い方をしないで、素直に。
久は泣きながら微笑んだ。
「あたしとおんなじやな」
「うん、おんなじ」
お互いに願うことは一つだ。迷うことなどない。やっと偽りでない本当の絆を結ぶことができる。私たちはもう一度唇を重ねると、それからどちらからともなくベッドに倒れ込んで――長い長い夜が始まった。
涙の味がするキスは、これで最後だ。




