{転}
{転}
町は喧騒に包まれていた。
遠目に見ただけでも二、三では聞かない火の手が上がっている。
人々は足早に、けれどどこに逃げればいいのかといった風に道を蠢いている。
事態を理解していないかそれとも野次馬根性か、中には騒ぎの方へと向かう者もいる。
近くの家屋の屋根に登り少女はそれを見ていた。
暗闇の中少女は目を凝らす。人々が来た先へ、騒ぎの元の方へと。
光源は火の灯り程度のもの。それでも少女の目は見る。
五間はあろうかという黒い塊が見えた。
「……鬼」
少女は呟く。
あれは霊がより集まった怨霊だ。
それだけでない。もう一つ患もいる。巨体を動かし建物を壊し火の手を上げている。
共に人の妄念や執念、憎悪といった憂いが集まって形を得たもの。
双方ともここからでも見えるほどの大きさをしている。患の方も少なくとも三間はある。
――何故。
発生した理由について思慮を飛ばし直ぐに思い至る。
話に聞いた死者。その妄念。近場の死体から出たそれらが集まったのだ。
だが本来患というのはああも積極的に害を成すものではないはず。
それになぜ同時に二つもと少女は思う。
疑念を確かめるためにも少女は道へ飛び降りそっちへと走る。
人並みに逆らい走る。
何度も周囲と肩がぶつかる。だが相手は気にもせず一目散に少女とは逆の方へ行く。
中程まで来たが人は減らない。人口がそれだけ多いのだ。それか逃げ遅れているのか。
近づき、燃えているだけでなく壊れている建物の姿もいくつかあるのに少女は気づく。
ある程度近づいて再度家屋の上へと上がる。
よくよく見てみれば話に聞く患とは形が少し違う。
牛と象を合わせた体とは違い歪な牙が生えている。顔構えもどこか残虐だ。
そう言えばと少女は思い出す。患とは本来監獄内の罪人の憂いから生まれるもの。生者とは違い死者の念によって変質したこれは別物ということだ。
手を出すべきか。少女は考える。
化物としての自分の力、そして能力を使えば力には成れるだろう。
「いや、ないかな」
少女は首を振る。
そうしてしまえば正体がバレる。それは得策ではない。手伝うにしても人としてだ。
それにあの二つならそう長くはいないはず。患なら憂いを晴らせばいいし幽鬼も日が出れば消える。共に朝方には消えるはずだ。
――酒でも持ってこようか。
故事にある患の対処法を少女は思い浮かべる。
そう考えながら少女は騒ぎの中心を見続ける。
そして人よりも優れた眼を持つ少女は気づく。
二つとは別にもう一つ、何かがいる。
燃える火でその姿が浮かび上がり気づいた。
それは二つに比べ小さい。けれど人よりも遥に大きい。暗く見えづらいが俊敏な動きで動き回り人を襲っている。
不意に少女の体が拒否反応を示す。
「……?」
見れば手が震えている。息も苦しい。
見てはならぬと脳が指令を下す。ピントを合わせようとすると自然に視界がぶれる。
少女の中にある何かが『それ』から目を逸らすように指令を下す。
形のない何かが、暗く蓋をされていたそれが無理矢理に開かれる。
そんな気持ち悪さが胸の内から湧き上がる。わだかまりが気を殺す。
だが意志でそれをねじ伏せる。目を凝らし『それ』を見る。
次第に合うピント。暗闇を動く詳細が見えてくる。
わけもわからない何かからくる恐怖に乱れた息。
妙に粘りっこい口内で唾を無理やりに飲み込む。
押し込められた蓋の中に手を伸ばす。
そして少女の瞳が『それ』を捉えた。
蓋が、外れる。
「――――ッあ」
少女の喉から押し殺された悲鳴が上がる。
もやが晴れ抑えられていた物が解き放たれる。
反動で頭がやけに鮮明になる。
蓋の中にあったのは記憶。かつての日、少女が森の中満身創痍であった時の記憶。
その、理由。
「全部、思い出した……」
生まれた理由に従い立ち向かった。害になると思ったから。
そしてそでにもされず負けた。そして要らぬと捨てられた。
どちらかが死ぬまで戦うと伝えられる伝説の獣。少女が殺されなかったのは相手が勘違いしたか、そもそも敵とすら認められなかったのか。
きっと、近場の死者もあいつのせいだろう。
幽鬼も伝承とは違う患もこいつに誘われて、あるいは産まされて現れた。なら朝に消えるかどうかも怪しい。
頭は人、虎に似た姿で虎を凌ぐ体躯。長い体毛に二間程もある長い尾。口には猪の牙。
常に天下の平和を乱そうと考え赴くままに暴れまわる悪神。
少女は絞り出すようにその名を口にする。
「――檮兀」
四凶の一つがそこにいた。
檮兀は視界の先で暴れまわりその牙で人を刺し、喰らい、襲っている。
食べるためでもなく、対抗するためでもなく。ただ、暴れまわるのが目的のように。
どうすべきか少女は考える。
かつて立ち向かった時は一撃入れるのが少女にとってやっと。真っ向から向かうのは余り得策だとは思えない。根付いた恐怖が微かに思考を犯す。
人々の避難を優先し放っておく手もある。よくよく考えれば檮兀は好き勝手に暴れて平和を乱すもの。暫く暴れたら満足して去っていく可能性は十分にある。そもそも相手の気性を考えれば喧嘩を売れば檮兀を怒らせ被害が広がってしまう。町中にいる今、無理に対抗するのは良い手段だとは言えない。
他の二つは害はそこまででもないだろう。檮兀が消えてからでも対処できる。下の道を見れば酒を運ぼうとしている人もいる。
少女は自分の正体を晒したくない。この町にいようと決めたのだ。大丈夫だとは信じたいが、正体がバレたら自分の扱いがどうなるか想像に難くない。
そう考え、遠巻きに見守るべきだと少女は結論づける。
立ち向かいたくない、勝てないだろうというかつての恐怖。そして新しく得た不安。
ちゃんとした理性的思考あっての被害を出さないための結論。
だがそれ以外にもある感情に少女は自嘲する。
――チリン
そんな少女の耳に小さな音が届いた。
「……え?」
反射的に少女は下の道を見る。
今、確かに鈴の音がした。片割れの鈴の音が。
だが見下ろした道には持ち主の姿は無い。暗さと人並みにまぎれ誰が誰だかわからない。
気のせいだったかと少女は思う。けれど、確かにしたのだ。
騒ぎの中心へと向かう鈴の音が。
少女は道に降りる。そして何の気なしに檮兀の方へ、鈴の音が向かった方へ足を進める。
本当にいたのかどうか、ふと少女は気になったのだ。あの馬鹿なら行ってもおかしくないと思ったのだ。
良く分からない思いに包まれ少女は前へと行く。
周りの人を見ながら少女は進む。人の波は最初に比べ少なくなっている。
残っているのは警邏と火消し、それと野次馬。見れば焼けた家の前に立ちすくんでいる者もいる。盗みでもするのか無人の家の中に入っていく者も、親を探す子の姿もある。
路地に入ったかもしれないと横道にも目をやりながら少女は進む。
思ったよりも幽鬼の進む早さが早い。霊の集合体とも言える幽鬼は霊を鬼火として周囲に飛ばしている。その火に触れた人が焼かれて倒れていく。患も獰猛さを増したように建物を壊しその欠片を飛ばしている。歩いている少女の視界の端で飛ばされた大きな欠片が地に刺さる。
殺された者の念がそのままあれらの元へと行き力を増しているのだ。
先に進むにつれ幽鬼と患、その二つの大きさが実感として移る。今にも飲み込まれそうな程の圧迫感を少女は感じる。
視界の隅に動いたものを感じて少女は視線を動かす。
何か理解した瞬間、走る。
視線の先、鬼火に焼け崩れそうな建物。その下にいる子供の元へと。
何が起きているのかと座り込んだ子供へと、建物が崩れる。
――ッ、間に合え――!!
全力で地を蹴り少女は子供のもとへと跳ぶ。
崩壊する建造物の破片が振り落ちる寸前、子供の下についた少女は子供を抱えてそのままの勢いで前へ跳ぶ。
崩れ落ちる瓦礫が少女の体を叩く。だがそれを無視して少女は突き抜ける。
反対側へと抜けきり少女は腕の中の子供を下ろす。
「大丈夫?」
聞かれた子供は目を白黒させて驚いている。
何も言えそうにないので少女は軽く子供の体を見る。見たところ傷はないように見える。
これなら大丈夫だろう。
「早く向こうへ逃げなさい。両親もそっちにいるから」
反対側を指差して少女は言う。
両親がいる保証はない。だが、ここにいるよりはいい。
送っていけば一番安全だが少女には別の用がある。
「血……」
子供が少女の腕を指差す。
見れば切れて血が流れている。さっきの瓦礫で切ったのだろう。少女からしたら特にどうということはない傷だ。
「大丈夫だから早く行きなさい。ほら早く」
子供の背中を押して強く言う。素直なのだろう。子供はそのまま一直線にかけていく。
少女はすぐさま子供と逆の方へと歩き出す。
歩いていくにつれ怪我人の数が増えていく。
崩れた建物に潰されたもの、焼け焦げたもの、そして獣に食いちぎられた姿の者。
皆呻き声をあげている。
生きている人も多くいた。
怪我人を支えようとしている人、警邏、火消し。様々な人が数多くいる。
宵だというのに近づくにつれ焼けた建物の明かりで照らされていく。
それとは別に光が宙に上がる。
術を使い立ち向かっている人がいるのだ。
幽鬼などはそれを受け、少しずつではあるが勢いを殺されている。
近くを見れば運ばれた酒ダルもある。患の方も弱まるだろう。
武器を持った人は檮兀を抑えようというのだろう。だが、意味などないだろう。ただ殺される。時間稼ぎには意味があるかもしれない。彼ら程度なら檮兀も荒れないはずだ。
人々に紛れるように前へと行く。
少女の持つ鈴の音に気づいた知り合いが何故いるのかと少女に言う。のらりくらりとそれをかわしながら少女は辺りを見る。
聞けばまだ死者はろくにでていない。檮兀に襲われたものは多数いるが殺されたものはいないという。檮兀にとっては遊びなのだ。一人でも多く襲い、傷つける。
鈴の持ち主は見つからない。
結局いなかったのだろうか。見渡した限りいない相手のことを思う。
そう思えば気が楽だ。知り合いが危ない橋に乗るのは少女からしたら気分が悪い。
そう思いもう一度周りを見て少女は思う。
幽鬼はいる。患もいる。
だが、檮兀の姿が見当たらない。
――チリン
少女の思考を見通すかのように鈴の音がなった。
それは幻聴ではなく、確かに聞こえた。
――チリンチリン
鈴の音がなる方へと少女は進む。
おい、誰かあいつを止めろ。死んじまう。逃げろバカ、おい。
そんな叫び声が上がる先。すぐそこの、曲がり角の先。
――チリンチリン
人ごみと喧騒の中。人よりも優れた少女の聴覚は確かにその小さな音を捉える。
少女は悪い予感を、何故か当たる確信のある予感を抱えて角を曲がる。
少女だから満足に動ける。普通の人間じゃ暗くてよく見てないはずだ。その位わかっているはずだ。
――チリン
コツン。
少女の靴に転がってきた鈴が当たる。紐の千切たそれは確かにあの男の鈴。
少女は転がってきた先へと目を向ける。
角の先。燃え盛る家屋の横。
開けた十字角。
人々の集まる先。燃え盛る炎にやけに明るく照らされたその場所。
――チ……
檮兀の牙に串刺しにされ息絶えた鈴の持ち主がいた。
檮兀が大きく体を振るう。
牙に刺さっていた男の体が抜け宙に放られる。
暫しの滞空時間の後落下したその体は鈍い音と共に地面に落ちる。
遠めに見てもわかるほどの穴がその背中には空いている。背だけでは無い。腕は折れ、足は刻まれ、脇腹も抉られ、見える場所全てに傷が刻まれている。拳の損傷は一際酷い。肉が割かれ骨を出し、溢れ出た血のぶよぶよした黄色がかった脂肪が混ざり合い元の形など留めていない。
うつ伏せになったその体の下からジワリジワリと地面を伝い血が流れていく。
少女が何度となく殴り、蹴ろうともすぐさま起き上がってきたはずなのにその体はぴくりともしない。
強さを証明したいと、証を建てたいと、人でも勝れるのだと示す。そう語っていた男はまるでゴミのように殺され横たわっていた。
視界の端で檮兀の動きを感じて少女は見る。
檮兀の様子が変わっていた。
人の顔をした檮兀の頭部。そこに浮かぶ表情は怒りの様相を浮かべている。
檮兀の毛に血が付いているのに少女は気づく。所々の毛は抜け傷と言えない小さな痕がいくつか。そして目元にある大きな一つの痕と血。
男が殴ったのだろう。傷を見るに最後の最後まで男は足掻き、一撃を入れた。
いたぶるはずの相手の反撃。
檮兀からしたら取るに足らないはずの足掻き。
それが檮兀の気に障った。敵と認め男を殺した。
檮兀を怒らせてしまった。
――■■■■■ッ!!
形容し難い、骨から震え上がるような声で檮兀が吠える。
近くにいて叫びに気を取られた一人。その相手に檮兀が飛びかかる。
檮兀は爪で押さえ込み喉笛を喰い千切る。
そしてすぐ次の相手へと檮兀は跳ぶ。
檮兀にとって遊びだったはずだから出なかった死者。だがその前提は覆された。檮兀は見境なく人へと飛びかかりその命を奪っていく。死が積み重なる。
微かな振動と虚ろな気配を感じて少女は振り返る。
檮兀の叫びに誘われた幽鬼と患がこちらへと向かっていた。
だが、少女にとってはどうでもよかった。
足元の鈴を拾い少女は横たわる男の死体へと歩いていく。
向かう間にも檮兀は人を襲い死者を増やしていく。
檮兀は少女の事など歯牙にもかけない。少女の横をかけ少女の背で悲鳴が上がる。
悲鳴が飛び交う中、少女は男のもとへと辿り着く。
男はうつ伏せで倒れその表情は少女からは見えない。檮兀のものだろう、その手には長い毛が握られている。
ピチャ。
少女は血だまりに踏み入れる。
自分は何をしたいのか。
少女はふと自問自答し手に持っているものに気づく。
「……落し物だよ」
拾った男の鈴を血だまりの中に少女は落とす。
少女は思う。一体、男はどんな思いで死んでいったのだろう。
少女の中で何かが納得できないのだ。
男は檮兀に立ち向かい、ボロボロにされ、怒りを買って殺された。
結果から見れば男がしたことはどうしようもない愚行だ。
怒りを買った以上檮兀はその気が済むまで殺し回る。もしもこの街そのものが敵だと思われたなら目に付く全てを殺すまで檮兀は止まらない。あれはそういうものだ。
この場にいる人間だけで檮兀を殺しきれるだろうか分からない。だが、少なくとも甚大な被害が出る。そもそもいるのは檮兀だけではないのだ。
その事への怒りだろうかと少女は自分に問う。――否。違うと断ずる。
この街を守るという意思が少女にはある。それは生まれた理由であり存在理由の一つ。
それに照らし合わせれば男の行動は愚行。だが男とて町を守ろうという意思はあったはずだ。それを侮辱するつもりは少女にはない。
ああ、違う、違うのだと少女は自分に言う。まどろっこしいことを考えている自分が馬鹿らしくて笑えてくる。
少女は断ずる。――これは怒りだと。
少女はどうしようもなく悔しいのだ。
たどり着いた答えに少女は握り締めた拳を震わせる。
たったの一撃。そう、たったの一撃だ。
男の人生の結果はそれだけで終わってしまった。
証も立てられず、妖怪にも一度として勝らなかった。
少女は男が日々修練の中に身を置いていたことを知っている。それだけに力を注ぎ技を、体を鍛え上げていたことを。少女も男と何度も組手をしその上達を肌で感じて来た。思いを受けてきた。
小が大を討つ業だと言うのなら、どこまで届くのか試したい。人の身で化物に立ち向かい、この技の強さを、理の証を建てたいとかつて少女は男に夢を語られた。
その結果がこれかと少女は慟哭する。
余りにもあんまりじゃないか。
この男が積み上げてきたものは、ゴミのように潰されるものだったのか。
頼った夢の果てが、妖怪に血の一筋すら流すこと叶わないというのか。
理合とは、そんなものだったというのか。
初めてのはずなのにあれだけ傷を追わせられたのだ。この暗闇でなければ。獣との戦いの経験があれば。初戦があれでなければ。
ありえない、もう遅い過程が脳裏に浮かぶ。
聞こえてきた悲鳴に少女は顔を上げる。
鬼と患が目の前に来ていた。
檮兀の起こす怨念に惹かれてきたのだろう。
鬼は最初に比べ小さくなっているが患は変わっていない。
少女は患を見てそれが争いを望んでいる事にふと気づく。死者の念は生者を引きずり込むが道理。この患の憂いは死。これでは酒でどうこうなりそうもない。
患が足を持ち上げる。男を踏みつけるように。
誰かが少女に逃げろと叫ぶ。だが、少女は動かない。
このままなら男の死体はその巨大な足に踏みにじられ血の染みとなるだろう。
少女はこれが男の結末なのかと思う。
文字通り、ゴミのような結末。
「……違う」
少女は呟く。
少女は拳を握り締める。
少女の右腕が、光る。
光は七色となり渦を巻き右腕へ集約し『気』の力を少女へと与える。
一足で踏み込み、今にも男を踏み潰そうとする患へと接近。
力の制限を解除。
怒りのままに患を殴打する。
「――違うッ!!」
能力を、開放する。
ズプリ、と少女の拳が患の表皮を貫き肉に刺さる。
患の時が止まる。
そして時が動き震え、腫れる。
送り込まれた『気』が暴れまわり患を蹂躙、患の体の随所で破裂する。
破裂とともに溢れる血を少女は浴びながら手を引き抜く。
地に倒れ消えていく患に見向きもせず少女は鬼へと向かう。
そして一撃。
伝達させた『気』が怨霊を消し飛ばす。
鬼を崩壊させる。
「私が繋ぐ。きっと、示す」
理合は通じるのだと。そのくらい背負おうじゃないか。
少女はそう叫ぶ。
瞬間少女は気配を感じた。
身を交わすと同時に腰元に灼熱が走る。
少女に気づいた檮兀が襲いかかったのだ。
抉られた少女の腰元から鈴が落ち、血だまりへと堕ちる。
腰元の灼熱は痛みとなり血を流し始める。
檮兀はすぐさま反転。口を開け少女へと襲いかかる。
タイミングを見切り側面へと少女は避ける。
檮兀の尾がうねり少女を叩く。
バランスを崩した少女へと着地した檮兀が駆ける。少女は地を蹴り避けるが檮兀の牙が少女の足を切り裂く。
檮兀は少女を敵だと認識したのだろう。少女一人を標的に動く。
檮兀が駆けるたびに少女の傷は増えていく。
少女は只ひたすらに檮兀の爪牙を避ける。
腕が割かれ、血が滴り、避けるたびに少女に傷は増えていく。
苛立つように檮兀の動きが獰猛になる。だが少女は避け続けるだけだ。
「……あは」
そして理解する。
「あははははははははははははははははは!!」
突如少女は笑う。大声で嗤う。
人が見れば狂ったと思われるだろう。
嗤いながら少女は避け続ける。
かつての恐怖から、ではない。
少女は只々無表情で避ける。
どこか悲しくも見える顔で檮兀を見る。
少女の心を占めていたのはただ一つの感情。
――バカみたいじゃないか
少女は思う。
ほんの少し前。離れて見たときは恐怖に震えた。かつて戦った時など歯が立たなかった。
だが今、ここに立って少女は思う。己の体は震えなどなく避け続けている。
檮兀の姿がはっきりと見えている。
何度目か分からない檮兀の攻撃。それを避けると同時初めて少女は動く。
檮兀の体の側面を弾き、檮兀と距離を開ける。
反撃に一層怒りを強めた檮兀が大口を開け少女へと跳ぶ。
虎を上回る体躯。下手すれば少女など一口で食い殺され胃へと収められる。
だがそれを真っ向から見ながら少女は再度思う。
――バカみたいじゃないか
体が勝手に用意を整える。
腰を溜め、腕を引き、足が地を掴む。重心がぶれなく収まる。
『気』が右手に集約する。
踏み込み足が地を割る。
――何でこんなに
ただただ自分自身への憤りのみが少女を犯す。
勝てるはずなどないと自分が思っていた相手。
だというのに。何故――
動きを見切り懐に入る。鋭い牙がすぐ横を貫く。
溜められたバネが爆発する。運剄が働き、腰が、肩が、腕が弾ける。
――こんなに弱く感じるのだ
少女の一撃が檮兀を殴り飛ばした。
殴り飛ばされた檮兀は悲鳴を上げる。
そして直ぐさま少女へと再度飛びかかる。
その全てを少女は躱し、殴る。
少女は迫る檮兀の腕に己の腕を沿わせて動かし交叉。力を捻じ曲げ弾き下から蹴り抜く。
薙ぎ払われる尾に踏み込み根元を掴む。手に絡ませ足刀にて断ち切る。
檮兀の腕の動き、地を蹴る動作、乱れた息。その全てから檮兀の動きが少女には見える。
せん粘、聴剄、化剄、攔載、交叉、……
かつてとは逆。少女が一方的に圧倒する。
「あははははははははははははは」
少女は思う。何だ、何なのだこれは。これがかつて己が負けた相手なのか。こうしてすぐそばにいるのに、かつての様な隔たりを感じない。恐怖を感じない。
少女が殴るごとに、蹴るごとに檮兀の血が溢れる。その血を浴びながら殴り続ける。
血を吸って重い髪を靡かせ、肉がこびり付いた拳で一方的に檮兀を殴る。
こんなものなのかと嗤いながら少女は殴り続ける。
足だけで体を廻し少女は檮兀の側面へ。鉄山靠。襲い来る勢いのまま檮兀を弾く。
檮兀に引くという選択肢は無い。一方が死ぬまで争うのが在り方の妖怪は自身の血でまみれ、肉を晒しながらも折れた足で少女へ跳ぶ。
それを少女は迎え撃つ。その拳が檮兀の心臓を貫く。
心臓を貫かれた檮兀が断末魔の悲鳴を上げながら藻掻く。
送り込まれた『気』に檮兀の全身が膨れ、破裂する。
溢れ出る血を覆い被さられる様に正面から少女は浴びる。
血を浴びながら笑う。少女は嗤う。
血を浴びるのが楽しいかのように、哀しいかのように。
自らを嘲るがごとく少女はケラケラと嗤う。
かつて負けた相手を少女は圧倒して殺した。
拳をぶつけ理解した。檮兀も少女と同じだったのだと。恐れを力の源となす妖怪。けれど人はその闇を払い恐れをなくしていく檮兀は力を弱めた。だから現れて人を殺し恐れを産みそれを喰って力にした。
今となってはどうでもいいかつての邂逅の理由。今までの被害の訳。
全盛期よりも弱く、けれど少女より遥に強かった檮兀の訳。
武を習いそれほどまでに少女は強くなっていた。
「あははははははははは」
だからこそ少女は嗤う。己の愚かさを呪って。
恐怖に駆られ静観を選んだ結果がこれだ。足止めでもなんでもいい、あの時少女が檮兀と立ち向かっていれば男は死ななかった。
檮兀の死体を見て少女は思う。男の夢は正しかった。業は、理合は大に勝る力となる。
だというのに男はその結果も知らず、何もなせずに死んでいった。
「あははは……」
嗤いが止まる。
少女の感情の昂ぶりが収まっていく。
虚しく落ち着いていく自分の心を理解しながら少女は男の血の中から己の鈴を拾う。鈴は男の血に濡れ赤黒い。
少女は周りを見る。あちこちに死体がある。きっと、少女が己の在り方を放棄しなかったら出なかった死体だ。
そう言えばやけに静かだと少女は思う。
近くに怪我人がいることに少女は気づく。足を怪我しているその女性に少女は近づく。
何でもいい。少女は何かしたかった。
座り込んでいる女性を助け起こそうと少女は手を伸ばす。
「あの、大丈夫で――」
「――化物!!」
叫び声とともにその手が叩き落された。
「……え?」
少女は何を言われたか理解できなかった。
恐怖の表情で女性は必死に少女から遠ざかる。
女性の手が血まみれな事に少女は気づく。
「その手の……」
「来るな!!」
石を投げつけられる。
少女はとっさに腕で顔をかばう。そして血まみれの自分の腕が目に入る。
少女は気づく。
女性の手の血は彼女のものではない。少女の腕を払った時についた物だ。
見ている中ポタポタと自分の腕に血の雫が垂れる。少女は自分の頭に手をやる。血で粘性を持った髪が指にまとわりつく。
血を浴びた少女の全身は赤く、髪は真紅に染まったいた。それに女性は恐怖したのだ。
それだけではない。
「化物……嫌だ、死にたくない」
必死に後ずさりながら女性が言う。
「あ……」
「人みたいな姿してあんたも妖怪だったんだ。来るな、来ないでよぉ……ずっと見てたんでしょ。皆が死ぬの、心の中で笑いながら……」
「ち、ちが」
「ヒィ!?」
一歩近づこうとした少女に女性は悲鳴を上げる。
女性のもとに一人男性が駆けつける。そして男性は手に持った剣を少女に向ける。
「それ以上近寄るな妖怪」
男性が少女に言う。
「貴様、見たことがあるぞ。器量もよく人当たりもいいと聞いていたがまさか人の姿をして紛れ込む妖怪だったとはな。人を喰らうつもりだったのだろう。その姿が本性か化物」
「それは違……」
「あれほど楽しげに血に酔い笑い、仲間の妖怪を殺しておきながら何が違う」
少女にとっては自嘲を込めた嗤い。だが、他から見れば殺しを楽しむ姿に過ぎない。
「檮兀を殺したのは、みんなを守るためで……」
「ならば何故もっと早く殺さない。そうすれば死者は出なかった。あの妖怪が人を殺し回る前から貴様の姿はあった。貴様の力をすれば容易かったはずだ。答えられぬか? ならば答えてやる。人が殺されていくのを見て貴様は心の中で笑っていたのだ。最初に殺されたあの男、あいつが死んでさぞやほくそ笑んだのだろうな化物」
その言葉に少女は拳に力が入る。
「違う! 化物なんかじゃ、笑ってなんか――」
「ならば恩でも売るつもりだったか」
「ちが――」
チャキ。
少女の答えを遮るように剣が構えられる。
「何であろうともう遅い。ここにいる皆が見た。貴様が化物だということを。嗤いながら血を浴び妖怪を殺すところを」
その言葉に少女は辺りを見回す。
瞬間、憎悪が刺さる。
この場にいる全ての人が少女を恐怖の目で、あるいは怒りの目で見ていた。
その中には少女の知り合いもいる。
武器を持つ者は皆その矛先を少女に向けている。
この結果を分かっていたはずだと少女は思う。
人でないことがバレたら迫害を受けると。そもそもあらぬ噂が立っていたのは知っていたはずだ。それなのに見て見ぬ振りをしてきてしまった。
人にあらざる力を晒し、妖怪を圧倒して殺した姿を晒した以上弁解の余地もない。
あれだけの被害を出した化物を上回り力で圧倒して殺しきったのだ。恐怖を覚えるなという方が無理な話だ。
助けるならば少女はもっと早くに助けに入るべきだった。中途半端に迷った挙句、感情に任せた結果がこれだ。男が殺されてすぐにさえ動かず死者が増えるのをただ見ていた。
この町を守るという存在理念を持つ少女にとってそれは少女が彼らを殺したに等しい。
どうしようもない状況に少女は何を思うべきか迷い、何も出来ないと開き直り逆に自然体の心に戻る。
座り込んだままの女性が涙を流しながら言う。
「返してよ……夫を返してよ。あんたがもっと早くにあの妖怪を殺してればあの人は死なずに済んだのに……あの人を返してよぅ……」
それはどの死体だろう。見当がつけられるほど数は少なくない。
何故見殺しにした。なぜ見捨てたと女性が泣く。
女性だけではない。周囲の人間が、大切な者を殺された人たちがその慟哭を向ける先を求め怒りとなって少女へ向かう。皆その思いがどこか的外れだと心の底で理解している。だが矛を収められない。今新たに現れた化物へと向く。
血に染まった赤髪を揺らし嗤って妖怪たちを虐殺した少女へ皆恐怖が収められない。少女の知り合い、友人であろうとも少女のその有様に戦慄した。
シュン。
空を切る音に少女は咄嗟に身を交わす。少女がいた場所にのすぐ横に矢が刺さる。
何かすれば撃つ。そう言わんばかりに弓を持つ者が少女に向け矢を構えている。
「この場から消えろ赤髪の妖怪」
剣を向ける男性が言う。
「人々の死を求め、血に狂い嗤う貴様を許せぬ思いはある。だがあの妖怪たちを殺してくれた恩の念もある。だから今すぐに消えろ」
もはや何を言っても周囲の少女への認識は変わらない。
それを理解し少女は諦める。そして背を向け歩き出す。
人が避け道が出来る。
「恩人を切りたくはない。二度と会わないことを望むぞ朱の妖怪」
知るか馬鹿。
そう心の中で吐き捨てながら少女は歩く。
少女が変な気を起こさないか剣を構える者の横を歩き、ふと少女は男の死体へ振り返る。
――継いでやる、バカ野郎。
そう死体に向け呟き、少女は去っていった。