{承}・弐
{承} 弐
「ひゃっほう!」
乾いた黄土色の土肌を晒す山脈を少女は駆ける。
岩が足場を不安定にする荒れた斜面。落ちる石は止まることなく坂を転げ一番下まで落ちて止まる。
足を踏み外したら。その想像の先に容易に浮かぶ壊れた自分。転げればその体は止まれず荒れた岩肌にぶつけ壊れた姿で天に晒されるだろう。
下を見ると吸い込まれそうにも思える。地に見初められ気づけば体が倒れる。すっ……っと一歩踏み出してしまいそうなほどの奇妙な浮遊感と高揚感。
人の手の入らない森に囲まれた霞にも包まれる幻想的な山。緑と土と岩石の峰。
そんな山を少女はかける。
少女からしたらこのくらいの山はわけない。人には過酷でも人に在らざる身体能力を持つ少女にとっては話は違う。
荒れた斜面を走り岩壁に素手で捕まり少女はよじ登る。
木に登って方向確認。目的の方向へ走る。先に見えてきたのは岩の割れ目。下には川が流れ崖になっており向こう岸まで凡そ三間は優にある。本来なら回り道でもするだろう。
しかし少女は足を止めずそのまま疾走。気分は獣である。崖の直前で大きく地を蹴って跳ぶ。
「しゃー!」
少女的には跳ぶための獣の真似。良く分からない叫びをしながら宙を動き向こう側に着地する。
そしてまた暫く走って目的地に辿り着く。
そこは町から離れ人の入っていない山奥。仙人でもいそうな深山幽谷。近くには源流に近い川もある。
蔓と皮で作られた採取箱を置いて軽く少女は伸びをする。
「さて。久々にいろいろ集めるかー」
少女が来たのは色々な物産を採集するためだ。山菜や薬草。加工できる岩石や鉱石。普通の人では入れないところまで入って手つかずの場所で採集するので色々高価なものもある。やれ「伝説の薬草」やら「長寿の秘薬」「安産の漢方」だの、数が少なかったり難しい場所にある物に人は付加価値を付けるから尚更だ。崖に生えている花だからなんだと言うのか。
少女はそういった物を採って売り金を稼いでいる。人並み外れた身体能力のある少女ならではの方法だ。
前は老医者の所で小間使いや医者のつてで出された先で手伝いなどをしていた。だが今ではこの方法で稼いでいる。
少女は崖の上に咲いている花や草、山奥のみに生息している山菜や薬草の類を集めていく。何が必要とされるかは調べてある。物によって分け縛り採取箱の中に入れる。
岩肌にある岩石を取る。近くの川原を歩きめぼしい物がないか探る。粘土層の土で良い部分を集め草の葉や革で包み浸水対策を施す。
余り多くは集めない。希少価値が薄れる。余り大金を持っても困る。そこそこでいいのだ。
集め終わったら少女の小腹が空く。持ってきた物や木の実、魚を食べる。
「どうしよっかな」
ざり。ズッ、じゃり。スッ。
一息つき、荒れた地の上で先日覚えた型をしつつ少女は呟く。
普段なら少女はこのまま帰る。だがたまに、何となくもう少し動きたくなる時もある。探検心みたいなものだ。
遠くの山に来て帰るだけでも一日はかかる。他にも行けば三日ほどはかかるだろう。既に何度か少女は経験している。その為に採取もいつもより少なくしてある。
「ふうぅぅー……。まいっか」
寄り道しよう。
一通り終えて大きく息を吐きながらそう決め少女は川に沿って歩いて行った。
あれから二日目の早朝。
川に沿って歩いて下り時に走り時には滝壺へとダイブし山を下った。ここは大きな河となったそれを暫く町の方へと遡った場所。今日には町に戻れるほどの場所で少女は河に潜っていた。綺麗な河の底にある淡い緑色と微かな茶の紋様の石を拾って顔を水面まで上がる。
「ぷはっ」
風向きを変えた風が息継ぎに水面に顔を出した少女の顔を撫でる。
その中にある奇妙な臭いに少女の鼻が気づく。
「んー? これ……」
鼻がヒクつく。
サブサブと泳いで河から上がり拾ってきた石を置く。焼魚を齧り体を乾かしながら少女は今の臭いについて考える。
臭いが何なのか。考えるが、正直それは既に検討がついている。
服を着て荷物を持ち臭いの方に向かう。段々と強くなる臭い。顔に当たるハエを手で払う。
少し行った先に少女の想像通りのものがあった。
人の死体だ。
死体は数人分。不必要なほど損傷が酷い。賊にでも会って殺されたのか。今の時勢そう珍しいことではない。
死体を認識したことで腐臭はより明確になる。少女の眉根が少し険しくなる。
見たところそこまで腐ってもいない。鬱血し死斑が出ているが虫も余り湧いておらず死んでそこまで日が経っていない。
死体は所々体が荒く欠けている。死んで獣に食べられたのだろう。肉の断面が晒され骨が見える。
近寄って軽く手を合わせる。埋めるのは手間だからせめてもの供養だ。自己満足とも言う。
「……」
ふと死体の指が目に入る。ささくれだった肉が断面を晒している指。
思い立った思いのまま少女の手が伸びる。その死体の手を持ち指を自分に近づける。
そして――その指に少女は口を開け喰らいつく。
固まった死肉。死体の指。それに歯を突き立てる。固まった樹脂のような変な弾力のある硬い肉をブツブツと噛み切る感触が響く。
一気に力を入れる。
ガチン。
硬い音。指を噛み切り歯が噛み合う。ポトン、と一関節分指が少女の口の中に落ちる。
歯で更に細かく噛み切っていく。骨が難問だ。干し肉を噛むように何度も噛み締め断ち切る。噛み切り細かくなった欠片を味わうように舌を使い口内で廻す。固まった死肉を柔らかくし温め、唾液で濡らす。唾液に混じり溶け出した脂が口内に広がりベタつく。
噛み締めた死肉を奥歯ですり潰し、ヌチャリとベタつく脂を舌で削ぐように舐め、少女は口の中の物を吐き出す。
「……そこまで美味しくないな。死肉だからかね」
ポツリ。微妙な表情で少女は言い掴んだ死体の手を落とす。
食べられないものではない。だが進んで食べようというほどでもない。
興味本位の行動。自分がどう感じるのかという調査の結果をそう断ずる。
「差が紙一重なのは分かってるけど、変わったら思うことも変わるのかな。まあその前に消えるかな」
自問自答してみるが答えは出ない。存在の定義などあやふやなものだ。
少女はもう一度死体に向かって手を合わせる。荷物や周囲の様子を見るに隣町辺りから来た人だと検討がつく。
「私は他の町にいけないから帰ったら誰かに言うよ。動物に食べられ切る前に誰か来て埋めて貰えたらいいね」
埋めて上げたい気持ちはあるが一人ならまだしもこの人数は多い。
賊に会うなど運が悪かったとしか言い様がない。
生きていたら自分の存在からして何か思うこともあったのだろうと少女は思う。
「よいしょっと」
手を離し荷物を持って少女は立ち上がる。
そして、んー、と少し考える。
「走るか」
少女は町へと走って行った。
「いい硯石になるよ。ありがたいね。毎度どうも姐さん」
少女がとってきた物を見て女性が言う。
町にある店の一つ。医者に聞いて町を回り人を巡りなどして見つけた店。少女が見つけた物を引き取って貰う店の一つだ。
布を頭に巻いた活発そうな妙齢の女性から代金を受け取り少女は懐にしまう。
「そう言えば帰る途中でこの町に帰る途中見たいな死体見つけたんですけど、どうすればいいんでしょうかね?」
「んー? 警邏の連中にでも行っとけば十分でしょう」
品を鑑定しながらどうでもよさそうに女性が言う。
まあそんなものかと思いながら少女は背を向ける。
「ではさよなら」
「またご贔屓にー」
店を出て適当に歩く。
既に換金は全部済んだ。贅沢でもしなければ暫くは大丈夫な程だ。少女は買い食いする程度で特に趣味もない。何の問題もない。
まだ家に帰る気にもなれずブラブラと人の多い大通りを歩く。滞納している医療費を返しに行くのもいい。
そんな事を思いながら歩いているとふと声がかかる。
「お嬢さんお嬢さん、ちょっと買っていかないかい!」
声に振り返ると気の良さそうなちょっと丸いおじさんが手を振っていた。
前に男が点心と餃子を買っていた店の店主だ。
とことこと寄っていくとおじさんは顔を緩ませる。
「ああやっぱりお嬢さんだったね。鈴の音が聞こえたからそうだと思ったんだ」
「そんな聞こえます?」
人も多い中そんなに聞こえるものかと少女は疑問に思う。
「ええ聞こえますよ。お嬢さんの鈴は響きますからね。高い音は小さくとも届きます」
「へぇ」
いつも腰につけている鈴を軽く指で弾き凛と音を出してみる。
「美しい音です。あのバカの方は丸い感じで人が多いどうもね」
人ごみでも普通に聞こえるのは黙っていたほうがいいなと少女は悟る。どうやら普通の耳には聞こえないらしい。
「で、どうだいお嬢さん。また買ってかないかい?」
ズイ、とおじさんが商品を少女に突き出す。
どうしようかなと少女は悩む。前に買ったことがあるのだ。それも大量に。
最初の時に男に見せびらかせられたのが気に触り金が入った時に勢いに任せ大量買いしたのだ。その時のことや最初の時の包帯姿の衝撃もあり店主に少女は覚えられている。
まあいいかと少女は思う。
自分が誰かに覚えられていた、というのは嬉しい。
「適当に二三個下さい」
「はいよ。毎度!」
包を貰って少女は歩き出す。
包から熱いそれを取り出して齧りながら歩く。
つい、自分が誰かに覚えられているのではと思って少女は当てもなく町を巡る。
思うがまま、感じるままに自分がよく歩く道を行きたいと思う方に適当に少女は歩く。
そしてふと気づくと何度となく来た場所に少女は着く。
「城隍廟、か」
人気の少ない広い境内を眺めポツリと少女は言う。
寂れた社を見ながら少女は最後の欠片を飲み込んだ。
少女は神だ。
より正確に言うならば城隍廟に祀られた城隍神という存在だ。
城隍廟は城隍神を祀るための廟。神の霊廟。
だが神といっても城隍神の神格は低い。だれもが知っている著名な神霊と比べられればそれらに使いっぱしりにされる程度の存在だ。
城隍神とはその土地の守り神的存在。無病息災や五穀豊穣などを祈る存在。その土地固有の土地神的存在に過ぎない。
共通した姿があるわけでもなく明確な姿があるわけでもない。漠然とした祈る対象。
明確な矛先を向けられず、明確な意識もない。土地に根付いてはいるが、根付いたせいで漠然としていちいち意識されない。生活の一部として取り入れられている。
信仰の大きさが神としての力の強さになるのならば、それ故に城隍神の力はあやふやだ。
少女の家や親がなかったのもその為。だが町の人間の意識によって生まれた以上この町の存在ではある。
神などと言うわけにもいかず少女は口をつぐんだのだ。
少女の人を外れた怪力と治癒力も神故の力。神格は低くとも人の力など超えている。
だが、それも段々と衰えて行く。
何故傷だらけになっていたのかは分からない。けれど人の姿を与えられ弾かれた理由はわかる。
少女は、要らないとされた存在だからだ。
ヒュッ。
思考を遮るように拳がすぐ脇を通る。
「――っ」
自分をかすめる拳を受け、肘を割り込ませそのまま少女は体をぶつける肘を打つ。
城隍神とは町を守る存在だ。少女はずっとそれを担っていた。
だが、それは不変の存在ではないのだ。
時代が進むにつれ祀られる城隍は人格化していった。歴史の名君や英雄、忠臣が城隍神として祀られるようになっていったのだ。
そしてそれはこの町でも同じ。少しずつだが城隍神の移り変わりが進められていったいる。歴史に名がある英傑へ。
信仰が明確な形と名へと向けられて行っている。
だから、明確な名と体を持たぬ少女はお役御免となった。
もうお前はいらないと絶縁状を叩きつけられた。
人々の意識でしか、概念でしか存在できないのに”不要”の概念に犯され縫いつけられた。
意識されることすらなく産み親たちに切り捨てられた。人格化の影響を受け人の姿でゴミのように放り出された。
わかっていた。しょうがない事だと。理解していた。摂理だと。
人格化が進む毎に存在が、力が減っていくことも納得した。だから”少女”の姿をしていることも。
切り捨てたくせにまだかすかにある名残が、「鎖」が少女をここ一帯の地へと繋いでいる。一定以上離れることも出来無い。
やりきれなさがあっても城隍神としての矜持が人を恨むことを少女に許さなかった。
――お前弱いな
けれど許せなかった。認めきれなかったのだ。
本当に自分などいらないのだと。そんな力などないと無意識から馬鹿にされるのが。
だから許せなかった。男に、”一人”の”人間”に負けるのが。守るべき存在に弱いと馬鹿にされ負けることが。
本当に自分などいらないのだと泣きじゃくりたいほど悲しかった。
「――」
伸ばした手の指を少女は握っていく。何ヶ月も鍛え、技を教え込んで傷のある指を。踏み込みと同時に体ごとぶつかるように接近。引手を引くと同時順手で相手の腹部を抉る。
神や妖怪といった存在は生まれた瞬間に遡って歴史が作られ人の中に根を下ろす。ほんの少し前にできたのに「■■の頃から」「●●の時の出来事で」等と歴史が後付けされ上書きされる。
だからきっと、この町の城隍神が入れ替わった時も同じことになるのだろう。ずっと昔から祀られていたと。この町の守り神は”コレ”だと。
古びた書物にはちゃんと記されても人の心にはそう残る。
人格化が終わった時少女は何の力もない人間となるか。それとも霞と存在が消されるか。
それとも、紙一重の存在として妖怪にでもなるか。
少女にはわからない。
倒した相手。地に倒れた同門の相手を少女は見下ろす。
友人に支えられた相手の口が小さく動く。本当に小さな声で。普通なら聞こえないような音を、けれど少女の耳は拾う。
――化物め
ああ、そうかもしれない。
少女はふとそう思った。
「おうどうした。疲れたか?」
中年男性に言われ少女は寝ていた体を起こす。
「あー……いえ違います」
同門との組手。それを終えてのこと。危うげなく少女は勝ったが、いい気になれるわけでもない。
中年男性の指が少女の腰元を指す。
「それ、いつもつけてるのか?」
「ええ、まあ」
凛と鳴る鈴を持って答える。特に理由もなく付けている。今では特に外す理由もなくなった。
「目印になって分かりやすいからいいけどな」
そう言って近づいてくる。
そして言葉を探すようにして口を開き、少しして中年男性が言う。
「あれは気にするな。相手の戯言だ。聞き流しとけ」
「ええ。まあ、その辺は大丈夫です。ありがとうございます」
さっきのことだろう、やはり知られている。まあそれも無理はないと少女は思う。
少女が相手したのは自分よりも上の、少し語弊もあるが兄弟子と言われる立場の相手だ。もっとも差など一年程度だが。
それでも現在の少女からしたら経歴は長い。その相手に危うげなく勝つ。それは相手からしたらどう映るのだろう?
あの日のあの男との戦いも見られていた。人外の怪力を持ち獣のように荒れ狂る少女。真っ当に努力しているはずなのに、それを容易く超えていく。そんな相手がどう映るか。
その答えがあの言葉。”化物”という括り。
それは侮蔑であり安心でもある。
負けてもしょうがない。自分に才がないわけではない。ならば問題なく頑張れる。
実を言えば少女はかなりの努力をしている。他にすることもないので暇があれば教えられていることを繰り返している。生きる糧を稼がなければならない彼らと違いその時間も。既に一年の差など実際は無いに等しい。超えてさえいる。
けれど少女は言わない。言えない。そんな事情伝えたところで何にもならないから。言っても自分の異質さを喧伝するだけだ。人として生きる為の時間を無駄だと吐き捨て人の営みの時を侮蔑するだけでしかない。
手加減するわけにも行かない。人に負ける、ということの積み重ねは少女は余り好きじゃない。わざとなら尚更だ。
否定もしないからドンドン噂は広がる。尾ひれがつき、ありもしない形へと。
鬼子、化物、狐、化生。
皮肉といえばその”人の思い”が自分にわずかとは言え力を与えていること。
幻想からなる存在としての宿命みたいなものだ。その点はありがたい。
「ちょい立て。おっさんともしようや嬢ちゃん」
中年男性の言葉に少女は何事かと見る。
「はい?」
「まあいいじゃないか。どの程度できるようになったかも知りたいしさ」
唐突なそれに疑問を覚える。だが座って腐っているよりもいいと少女は立ち上がる。
軽く構え相手に向かう。最初の頃から比べれば酷く様になった動きで地を蹴り呼吸とともに踏み込む。
蹴り、いなし、打つ。
だが中年男はまるでこっちの動きが分かっているように動きそのどれもがまともに入らない。相手は少女以上の練度でその全てを潰す。
ああ、やっぱり強いな。
適当に拳を交えながら少女はそう思う。
踏み込みの一歩。体重を込めての一撃を放とうとして足を掬われる。前のめりになり手をつこうとしたとこでその手も払われ少女の体が無様に転ぶ。
ああ、やはりまだだ自分は。
そんな自分の有様に呟く少女を中年男性が見下ろす。
「まあ、こんなもんだな。かなり上達してて驚いたぞ」
「簡単に転ばされましたけどね」
「こちとらそう簡単に負けるわけにはいかんよ。年季ってもんがある」
そういって笑う相手を見ながら少女は寝転んだまま。冷たい床に横たわり無骨な天井を見上げる。
「気にすんな」
かがんで少女を見下ろした中年男性が言う。
「馬鹿にしてるわけじゃない。お前が頑張ってるのは知ってるから気にすんな。いっそあいつらに言ってやれ。『お前らもっと努力しろ』ってな。お前が特別なわけじゃない。今だってこんな俺に普通に負ける程度だ。気にすんな」
ああ、さっきのことを言ってるのか。
どこかずれた、けれど芯を捉えたその言葉に少し気が楽になる。もしかしたら他の人たちに『普通に』負けるところを見せる理由もあったのだろうか。
その心遣いが少し嬉しい。
ふと気になって体を起こし少女は問う。
「あなたたちっていつ頃からやってるんですか?」
「ん? ああ、俺とあいつか。そうだな、十年以上はしてるな」
よっこいせと座りながら中年男性が言う。
「二人共十年は優に超えてる。俺の方が長いがな」
そう笑いながら続ける。
「元々あいつが子供の頃からの付き合いでな。まあ色々あってあいつが突っかかってきた時ちょいと遊んでやったんだよ。それでボコしてやった。反省して真っ当になるようにってな。そしたらあいつ次の日にはここ来て入門。面白そうだからだってよ。それからずっとあいつは頑張ってる。何でか知らんが異常なほどにな」
「そういう割には姿を見ない日も多いですけど」
現に今日だってどこにもいない。異常、というには普段の言動も含め程遠いように思える。
言動自体と性格を言っているなら少女的には両手を上げて賛同するのだが。
「ああ、そりゃ他のとこ行ってるんだよ」
「他?」
「他流派とか他の道場。教えを乞いに行っているとも殴り込みに行っているとも言えるな。あいつ特にどの門派だとか流派だとかこだわりなくてな。主軸はここなんだが必要だと思えば他の技術取り入れたりしてんだよ」
「ああ、それでしょっちゅういないんですね」
「お前が来てからはこっちにいること多くなったが、まあそんなとこだ」
なるほど納得だと少女は思う。殴り込んでいる様子が容易に思い浮かぶ。
きっと周りの目など気にせず乗り込んで好き勝手にやっているのだろう。
「嬢ちゃんが教えられた技にも入ってるよ。密着して肘を多用するのなんかは八極方面。五行拳は剄意拳。色々付き合わされた事もあるから変に身に付いたよ俺も」
「ああ、何か他の人と違うなーって思ったのはその辺ですか」
「まあそうだな。門派への帰属が薄いから一部の奴からしか好かれない。けど余りに貪欲にのめり込むから一部の師範なんかからは好かれる」
「それは、そうでしょうね」
大抵の師範は自分の流派を大事にする。長らく身に付け修練してきたものであるため、これは師範だけでなく門弟も勿論そうだ。
だというのに流派を転々とし愛着の欠片も見せない相手がいれば風当たりが強くなるし上への敬意がないと弾かれものにかもしれない。師範としてもあまり快いものではなく流派への敬意を持って真面目にするものを贔屓するだろう。
だが、中に居るのだ。たとえ弾かれものであったとしても高い才を、強さを買う者が。真綿で水を吸うように教えた事を身に付ける相手を前に「こいつはどこまでいけるのか」と気にかけ、それを育てるのを楽しむ者が。
例を挙げるならば伝書にはあるが使えるものがいない技。それを使えるかもしれない、この目で見られるかもしれない、となれば見たくもなろう。その相手に教えてみたくもなる。
そういった者たちに男は好かれ教えられているのだ。
「嬢ちゃんはそんな奴に教えられてるから特に何も言われない。違っても、文句言われないし間違いも指摘されない」
「同類って見られるの嫌なんですけど。風評被害ですよそれ」
自分を疎んじる者達に混じりたいとは思わないがあの男の仲間とみられるのは少女としては御免被りたい。
そんな少女に中年男性は膝を叩いて笑う。
「そりゃそうだ! けどまあ気にしないでくれ。あいつが教えることは間違っちゃいないからさ。基礎もちゃんと教えてる」
強さに愚直だからこそ、嘘は教えない。寧ろ強くなるだけなら男に教わったほうが効率がいいのだ。鍛錬法も技も豊富だ。
それならまあ……と納得する少女を見て中年男性が立ち上がる。
「そろそろ俺は戻る。あいつ意外に楽しんでるから教えられていてくれや」
「頑丈な殴る相手が欲しいだけですよあれ」
「そうだな。否定しない。それがあいつだ。けど俺じゃ無理だからさ」
離れようとし、けれど中年男性は動かない。どうしたのかと見上げる少女に一つ問を飛ばされる。
「何でさっき力使わなかったんだ。技術的には越えられなくても、あの時みたいに馬鹿力使われたら危なかったと思うが」
確かにさっき少女は力を抑えた。少なくとも相手と同等程度には。
当たり前のようなその疑問に少女は答える。
「ここで、それで勝てても意味がないと思ったからです」
「そうか」
答えは簡潔。それを聞いて楽しそうに相手は頷く。
少女は男に礼を言う。
「色々聞いてくれてありがとうございます。少し気が楽になりました」
「……気にすんな。俺は『臆病』なだけだよ。あいつと違ってな」
それじゃ、と言って中年男性は離れていった。
何故力を抜く。
その答えは簡単だ。
『納得できない』
あの日、男に倒されたあの日少女は少なくとも全力を使った。馬鹿力とも怪力とも言われた力も使った。けれど負けた。ならばそれだけでは駄目なのだ。
自分を負かした”技術”を以てして報いなければ。
日が経つにつれ少女の力は衰えていっている。あの日より上になることはない。ならばこそ、元々持っていた「それ」だけでは駄目なのだ。技を磨くためにいるのに暴力で押さえつけてしまっては意味が薄い。
それに生きるためでもある。日頃から怪力を出していれば嫌でも噂になる。下手すれば人を傷つけ殺めてるだろう。
力を調整するというのは大事だ。ほんの一割、見積を誤ってしまえばそれが人相手では大きい誤差になる。
つまるところ少女個人の矜持と生きる上での兼ね合い。それが力を抑える理由だ。
相手からすれば馬鹿にされているように思えるかもしれないが、現状この方針を変えるつもりは少女にはない。
持って生まれた自分の力を無駄だと抑え、そして自分を否定する力を得る。そのちぐはぐな現状が酷くおかしく思える。
そもそもいずれ勝てたとして、自分は何がしたいのかすらあやふやだ。意思も行動理念も未来も夢も、少女にはロクな芯がない。かつてあった存在理念を消されただけでこの有様。笑えてしまう。
その気にさえなれば少女は森の中や山でも生きられる。けれど街で生きるのは技術を学ぶためとこれからの為。衰えていく力を考えてのこと。
こっちの方が生きやすいから、というのもある。
「全く、自分勝手だなあ私は」
街中を歩きながら苦笑する。
さて、何をして帰ろうか。
この街で生きるための事を思いながら少女は道を歩く。
そんな少女に声がかかる。
「おい姐さん、久しぶり」
見れば見知った相手。少女が採ってくる物を買ってくれる内の一人だ。
「凛々凛々と分かりやすい。会ったのも縁だ。暇なら奢るよ。いつも良い物貰ってるしね」
「本当ですか?」
「安いとこ限定だけど」
「……期待して損した。何のつもり?」
「そりゃ悪い。客との付き合い持っといて損はないって打算かな。色々変な噂も聞いたし本人に聞きたいね」
隠さない正直な言葉が楽だ。気が軽くなる。
それにしてもそこそこ知られているらしい噂に驚く。
全く、面倒なことだ。
まあいいかと了承し歩調を合わせ歩き始める。
「じゃ、行こっか」
歩く先で何度か品を買った店の店主に声をかけられ適当に撒きながら当てもなく歩いてゆく。
隣を歩くこの街で知った人間と馬鹿な話をしながら少女は思う。
ああ、悪くない。
知った人間と過ごし、鍛錬をする。
定期的に山や森へ行き、そしてまた修行する。
教えられた事を日々繰り返し、暇があれば意識し、その身に刻んでいく。
日常として。それを当然として。
教えられたことを意味を理解し、積み上げたものを成果を実感し。そしてまた身に刻む。
そうして少女は日々を過ごす。
いつもの様に鍛錬を終え少女は街を歩いていた。
目的地は決まっている。だがただそれだけというのも何か味気ない。
そう思ったところで見知った顔がいた。というか音がした。
向こうも気づいたらしくこっちを向く。
「お、久しぶりだなおい」
「ええ、久しぶりですね。何か奢って下さい」
「いきなりたかるなよお前」
数日ぶりに会った男が呆れていう。
「あれですよ、その……風評被害の請求です」
「適当な事言ってんじゃねぇアホが。ちったぁ年上敬え」
「敬ってますよ。仮にそう思うのなら年上としての威厳が無いせいじゃないですか」
正直言うと少女の方がずっと年上とも言えるがまあそれはそれだ。
めんどくさそうな顔してる男と歩き、ふと向かっている方向が同じことに気づく。
「どこに行く予定ですか?」
「城隍廟だ。野暮用が出来た」
少女の目的地と同じだ。
「そういうお前は?」
「同じです」
「そうか」
それだけ言葉を交わすと後は沈黙が続く。
静かな時間。何も話さないまま二人は並んで歩き、目的地へと辿り着く。
普段よりも人の多い廟内。二人揃って線香に点火し紙銭を燃やして参拝する。
軽く廟内に目を向けた男が何とはなしに口を開く。
「近所の婆に頼まれてよ。何でも街の近くで獣被害で死人出たから参拝してきてくれって。面倒なことだ」
何故だか少し、その言葉に嫌な気分になる。それを誤魔化す様に少女は言う。
「良い事じゃないですか。何かを信じるって、大事なことですよ」
それは保身か。それとも言葉通りの意味か。
浮かんだ疑問に少女は答えが出せない。
「そんなもんかね。近くでいざこざあってそっちでも死んだらしいし。戦場は死体が多いってさ。何か定期的にあるよなぁ」
迷いを表すようにふと少女は視線をずらす。
話し合う人の集まりに目が止まる。幾人かが集まって何かを話している。
「あれ……」
少女の言葉に男もそちらを見る。
「ああ、何か色々用意するらしいな」
特に興味のあることではなくどうでもよさそうに男は知っていることを続ける。
「確かここの管理って近くのやつが掃除してた程度だっけか。で、せっかくだからちゃんと用意することになったんだろ。せっかくっていうのは……」
その続きを少女が引き継ぐ。
「祀る神様が明確になったから、ですよね」
「知ってるのか」
驚いて視線を向けてくる男に少女は頷く。
「まあ、それなりに」
それなりどころでなく少女は彼らの行いを知っている。彼らがしているのは自分を殺すための準備なのだから。
「武神だか商売神だったか。俺でも聞いたことある名前だったはずだ」
「そうですか」
「はっきりした方が有難いしな。何も無いよりずっと泊がつくさ。そんなん祀ってたなんて初めて知ったよ俺は」
頷こうとして、けれど出来無い。
「……」
血が滴りそうなほど少女は自分の拳を握り締める。
違うのだと言いたい。ここに居るのだと叫びたい。だが言った所で何にもならない。戯言だと流されるだけだろう。
小さい拳を握り締めるしか、少女には出来無い。
黙った少女を訝しげに男は見る。
「そういやお前は何のために来たんだよ」
「供え物が……あるんです」
大殿を進み廟へ。買った菓子包を端に供える。
少女がしばらく前から定期的にしていることだ。
「御大層なことだ。そんな信仰深いとは」
「そんなんじゃないですよ」
ほんとうにそんなんじゃない。ただ、少しでも知ってもらいたいから。記憶を消さないで欲しいから。
これを見た誰かが少しでもいいから手を合わせてくれないかって。消されきってしまう前に『前』が有ったって。
小さな足掻き。誰も見ていない、自分を慰めることしか出来無い自己満足。
そんな行為でしかないのだ。
「野良猫にでも食われちまうかもな」
「それならそれでいいですよ。また供えます」
「可愛くないな全く。なら俺が食うぞ」
「どうぞ」
好きにすればいい。供えた時点でこの菓子の役目は終わった。自分以外が食べるのならそれでいい。前に中年男性が『臆病』だと自負していたことを思い出す。よほど自分の方が臆病だと少女は自嘲してしまう。
つまらなそうに男は息を吐き、そしてホントに包みを開けて中身を食べ始める。
食べながら男が言う。
「正直俺からしたらどうだっていいよ何祀ってるかなんて。メンドくせぇ」
「そんなもんですか?」
食べているのを横目で見ながら聞く。本当に遠慮のない人間だこの男は。
「ああ。何かムカつく。神だ何だ偉そうでよ。上から見られてるみたいだ。何が武神だ目の前にいたら殴ってすげ変わってやる。明確じゃなくあやふやだったほうがいいね」
「そうですね。そっちの方がいいですね」
つい笑ってしまう。こいつなら本当に殴りかかりそうで困る。むしろ元とはいえ一度本物の神を殴っているから余計だ。そうであれば楽しいだろう。
もう、遅すぎた願いだが。
男は一人で全部食べ切り少女に手を伸ばす。
「茶」
「無いです」
「チッ」
持っているはずがないだろう普通。
大げさに溜息を吐いて男は石段に腰掛けながら人の集まりを眺めぽつりと呟く。
「あいつら何がしたいのかねぇ」
興業か復興か文化保存か。それともそれ以外か。縋る形が欲しいのかもしれない。
段に腰掛け二人で廟内を何とはなしに眺める。
ふと、さっきの男の言葉に随分前の中年男性の言葉を少女は思い出す。思い出し、疑問が止まらなくなる。
「何で拳法やってるんですか?」
「あ? いきなりなんだよ。おかしくなったか」
「いえ、前に人から聞いて気になっていたので」
中年男性から聞いたことを男に話す。
あれ以来気になっていたが何となく聞く機会がなかったのだ。
「異常に入れこんでるって聞いて何でかなって。あの人知らないみたいでしたし」
改めて少女は男を見る。同年代の男性と比べても酷く引き締まり筋骨隆々な体。気を払って視線をやれば所々に傷跡があるのがわかる。ふと思い返せばいつも傷がどこかにあったような気もする。殴り込みやら出稽古やらの為だろう。手も少女よりずっと無骨で荒い。どれだけ使い込んできたのか少女には見当もつかない。
何でそれまで力を入れるのか。少女はそれが気になる。
「特にない」
「はい?」
言われた言葉が理解できず聞き返してしまう。
「だから、特にない。しいて言えば消去法だ。これ以外なかった」
「消去法、ですか」
やはり分からない。男の方がおかしくなったんじゃないだろうか。
菓子の礼に教えてやるよ、と男が言う。嬉しいが随分と安い礼だ。
「自分に何が出来るのか、どこまで行けるのかが興味あってな。何も成せないっつうのはつまらん。一番に慣れなきゃ色々つまらんだろ? 何がなせるか証明したくてな」
「あれですか、その、歴史に名を残すとか」
「そこまでいけたら御の字だ」
男が笑って拳を握る。
「正直俺としちゃ『コレ』以外でもいいんだよ。何だっていいし何だって興味ある。上手い絵も書きたいし味のある陶芸もやりたい。書を書いて飾られたいし悟り開いて教えを広めるのもいい。歌歌ったり政治。干渉莫耶みたいに伝説の鍛冶師もいい。五行風水で符術使って鬼退治もいいな」
「欲張りですね」
「ああ」
けど、それらをやっているところや語っているところを少女は見たことがない。男は興味を持つだけでやらなかったからだ。
幾つもの自分の欲を語りながら昔を懐かしむように男が頷く。
「ガキの時にあの人に殴られ、そして鍛え始めた。夢中でやって、気づいた時には他の物に手を出すには遅かった」
「そうですか? やってみないとわからないんじゃ」
男はまだそこそこ若い。遅いと決め付けるには早い気もして少女は言う。
だが男は首を振る。
「分かるよ」
「何で……」
「人の命は短いからな」
その言葉に何も言えなくなる。
それは、少女には踏み込めない場所。
「今から始めてどうなる? もっと前から、ずっと頑張ってきたやつらがいる。そいつらを上回れるなんて俺は思えない。何がなせるのか証明したいって言ったろ」
「それは……」
「可能性があるとしたら、ガキの頃から十年以上続けてきた今のこれだけだ。なら、続けるしかない。幸いにも俺は『コレ』が嫌いじゃない」
何も言えず、少女は静かにその言葉を聞く。
「……もっと俺の人生が長かったら、何百年もあったら気の向くまま色々に手を出してみただろうな。拳鍛えて剣振るって鉄打って薬作って魔法使ってよ」
「自由ですねそれ」
「自由で何が悪い。俺は俺がやりたいと思ったままにそれをする。人助けだって悪戯だって何だってな。誰だって『自分』が中心にいるだろ」
どれだけ世界が広かろうと語れる世界は自分が五感で得た『世界』だけ。ならばこそその中心は自分だ。
『誰かを助けたい』『誰かを傷つけたい』『誰かの役に立ちたい』
それも結局は全部『そうしたい自分』を満たす行為でしかない。法と違い善悪などそれが誰かの利になるか否かでしか決まらない。だから男は『自分の意思』を最上位に置いて動く。
「楽しそうですねソレ」
「楽しいだろうよ」
ああ、実にいい。本当に楽しそうじゃないか。
そんな暮らしが出来たらしたいものだ。
明確な夢なんて無い少女は漠然とそう思う。
「けどま、実際俺は人間で百年も生きられん。五十までもいけない。だから今の『コレ』の為に色々したくてよ。他の事には興味向けないことにしてる」
「最終的には何がしたいんですか?」
何ができたら終わりか。
結局何がしたいのか。
それが気になって少女は言う。
「武の『理』を示したい」
男は酷く簡潔に言った。
「武の術理は何だ? 理念でもいい言ってみろ」
今までに教えられたモノがいくつか少女の頭に浮かぶ。
質実剛健、柔善く剛を制す、剛善く柔を制す、気息充実、健康促進。
だがどれも合いそうにない。考え、ある一つの言葉が浮かぶと同時少女の口からするりと漏れる。
「小が大を制す、ですか?」
教えられた中からふと浮かんだ一つを少女は口にする。何故だか合っているような気がした。
「その通りだ」
はたしてそれは正しかった。男は面白そうに顔を口元を歪める。
「人は紛れもなく小だ。だからどこまで行けるのか、それを示したい。そして知りたい。人を倒し獣を倒し、そしてその先も。俺が示す」
酷く暴力的に、けれどとても愉しそうに男は語る。
「妖怪がいるなら会いたい。神がいるなら殴りたい。そうした”大”を倒し人の編み出した『武』が通じるのだと、人でも勝れるのだと証明したい。それだけだ」
それは野心とも言える夢。それが男が修練に打ち込む理由。
結局のところ自分がやっていることが一番で、その中で自分が一番だと言いたいのだ。
最強を目指す。そう言ってしまえば実にわかりやすい。
「拳で、か」
「別に拳だけじゃなくてもいいぞ。拳法って言っても拳や蹴りだけじゃない。棒術だのなんだのも一緒に教わるしな。拳が主軸ってだけだ。殴るのが好きだしな」
「でもそれなら、あなたじゃなくて他の誰かがやっても同じですよね。殴り倒す証明」
「言われりゃそうだな。けどいいんだよ。俺が知りたくてやるんだから。他は知らん」
男が言う。何とも大雑把な理由だ。
「最初にお前を見つけたのもそれだ。何かに会えないかと森巡ってた。何もなかったが」
「それは残念でしたね」
意地悪く少女は笑う。
実は打ち捨てられた神を見つけていたのだがこの相手は知っているのだろう。
ずっと付けてる鈴はそういった存在に気づいてもらう呼び鈴なのかもしれない。
ああ、けれど酷くそれは楽しそうだとつい少女は思ってしまう。
化物として狭間で揺れる自分を殴り倒した相手の野望が神や妖怪を殴り倒すこと。出来過ぎたそれに笑ってしまう。
あまりに馬鹿げてて単純で楽しそうだ。鍛錬で力が身につくのを楽しく思ってしまえるから尚更だ。最近気づいた自分の力のこともある。
ああ、実にいい。そんな夢を語る男が、そんな夢などない自分が妬ましく恨めしい。
話が終わって男が立ち上がる。合わせて少女も立ち上がろうとし、何か落ちているのに気づく。
「鈴、落ちましたよ」
「ん? ああ紐切れてんな」
男は拾って乱暴に紐を結びなおす。チリンチリンと鳴るのを暫く見る。結び目がやたら分厚くなって直り一度男は叩く。チリン。小さく音が鳴る。
「んじゃ、喉渇いたし俺は行くか。また道場で会おうや」
「ええ。さようなら」
その背中に手を振って男と分かれる。
少女も歩き出す。
廟内を出て街中を当てもなく歩く。そして様々なことを思い浮かべていく。
色々と悲観的になっていたがこの街で暮らすのいいかもしれないと少女は思う。
そもそもこの街の意識から生まれた少女は一定以上町から離れることが出来無い。ならあの馬鹿を殴り倒して借りを返したら普通に過ごすのもいい。この街で知り合った友人と時には飯を食べ時には道場に顔を出し自分でも鍛錬する。そうして気が済むまで生きるのもいい。
定住。その言葉もありだと思えるように自分はなっている。ただ今を燦然と生き、思考を投げ出す逃避のようなそれ。けれど、そうとでも思わなければ、少女はかすかに残った自分さえもあやふやになってしまいそうだった。それだけ、語られた夢は、少女を揺らした。
夕暮れ時の街中。どこかに寄り道していこうと少女は思った。
昼過ぎ。少女はいつもの様に道場で鍛錬をしていた。一応の師である男とするのは二人で行う対練法。套路の技法を理解、摘出するために実際に攻防を成す槍手まで行う。
点到為止、触れたら止めるのが練習の常だが男はそんなの気にしない。なので少女も気にしない。遠慮なく殴っていく。
師から口伝で教えられる説手もあるが、男は余りそれをしない。正しくはしているのだが、口で言うのと実際に殴られるのが一緒なのだ。まだまだ技法がおいつかない少女としては殴られ蹴られ、実際に体感して覚えるという形に近い。
もっとも、それだけでは少女も済まさない。大抵の技は男に届かないが、それでも溜まる苛立ちをぶつけるように遠慮なく殴り返す。
「おせぇ!」
男は踏み込み少女の手を掴み、そのまま捻る力で少女を動かしその腹に一撃。体も崩され少女は地に転げる。
あー、と力の抜け転げたままの少女を男は訝しげな表情で見下ろす。
「何か最近、かどうか分からんが気が抜けてるなお前」
「……そうですか?」
「ああ。暫く見なかったし」
城隍廟での一件から暫く、少女は道場に顔を出さなかった。その間も自己鍛錬は怠らなかった、ところか寧ろ過密にしていたのだが、何となく気が向かなった。そしてつい先日、また顔を出すようになったのだ。
少女としては真面目にやっているのだが、男からしたらどこかやる気がないように思えるらしい。少女としても心当たりが、ないわけでもない。
「一方的にやられてるからじゃないですか?」
「まだ負けるわけにはいかないっての。……まあいい、一旦ここで終わりにするか。俺は外行くからよ」
離れていく背中を見送って少女は立ち上がる。少女としてはまだ体力的に問題はないが、さてどうしたものか。
そう思っていると中年男性が声をかけてきた。なので今度はそっちと組手を始める。
練習法として推手を行って太極拳の一通りの原理原則を実用していく。単純動作の反復の単推手から段々と動作を加え四正推手、四隅推手。内家拳の戦法の接触したら離れず倒す戦い方の練習。その為の相手の動向に力の強弱を察知する聴剄、自他の剄力を察知する憧剄の練磨。
さきほどまでの男とのに比べれば落ち着いた対練法を少女は行っていく。内実、行っているものは先程までしていたものと似たようなもの。けれど中年男性のは酷く地についたゆったりとした印象だ。
少々物足りなさを覚えるが、少女は黙々とそれを暫く行い、そして少ししてやめにする。
「そういえば、理由聞きました」
座り込んで壁に背を預けた少女は、ふと、思い出してそう言った。
「理由って、何の?」
「結構前に言ってた、あいつの頑張る理由です」
「ああ、あれか。聞けたのか嬢ちゃん」
「菓子あげたらその礼にって教えてくれました」
少女は思い出す。あの日が、あの日が今の自分の原因でもあるはずなのだ。未だにまだ、少女は供え物をすることを辞められずにいる。
少女の言葉に、そりゃ安い礼だな、と中年男性は笑う。もっと高い、聞きづらい物だと思ってたと。そしてどこか神妙な視線で少女を見て、ためらったように口を開く。
「……よければ教えてくれ。聞いた理由」
「ええ、いいですよ」
聞いた理由をそのまま話す。それを聞いて中年男性はひどく落ち着いた、得心がいった顔で溜息を吐く。
「なるほどな。やっぱバカだあいつ。そうだろうとは思ってたけど」
「馬鹿ですよね。ほんと」
「武の理、ね。それ以外にないから突き進むか。俺のせい、なのかな」
十年以上前、中年男性に叩きのめされた事が発端だと男は言っていた。ならば確かに、原因といえるだろう。それを知り中年男性は複雑な顔をする。
少女はそれを教えてしまったことに今更気づき、気が咎めつい聞いてしまう。。
「後悔しているんですか?」
「……してないと言ったら嘘になる。けど、そんな罪悪心を向けられのさえ、あいつは嫌がるだろうがな。あいつは強い。強くて強くて、『臆病』な俺には理解できん」
「私もですよ。気が抜けてるって言われたのも、それを聞いてしまったのが原因ですから」
あやふやな少女にとって強い意志は眩しく妬ましかった。場所とタイミングも悪かったのだろう、心が一層不安定な時だったから尚更だ。
足場のない自分を理解してしまった。だから、気が抜けたように周りから見える。死に物狂いになりたいのに、力が入りきらない。
だから、自分も臆病だ。そう告げた少女に中年男性は黙って首を振る。
「事情は聞かないけど、嬢ちゃんは多分迷ってるだけだ。寧ろ、その何かを欲しいと死に物狂いで求めているように見える。それは俺からしたら度胸で強さだ。けど俺は違うんだ。『臆病』と決めてしまった。性根なんだよ、どうしようもないほどに」
「そんな、違いなんて……」
「あるんだよ」
少女の横に腰を下ろし、中年男性は嗤う。自分自身を自嘲するように。
少女は嫌な予感がした。聞かないほうがいい。そんな予感。けれど少女は動く気にもなれないでいると、中年男性は口を開いて言った。自分は『臆病』だと。
「人に嫌われるのが、輪から外されたりってのが小さい頃から怖いんだよ俺は。だから人に好かれようとする。面倒見がいい、誘われれば断らない、優しい、そう思われたくてさ」
「そう思うこと自体は……」
「悪いことじゃない、か? まあ、そうなんだろうな。けど、卑怯でもあるんだよ俺は。この道にあいつを誘って、ずっと面倒見てた。小さい頃からの付き合いだからな。他への出稽古、殴り込みにも付いて行ったよ。誘いを断りきれなかったし、面倒見なきゃって思いもした。行けば信頼されるってさ。あいつも楽しそうだったよ」
他の人が誰もしてくれない。けど、一緒に馬鹿やってくれる人がいる。それだけど楽しく、気が楽になる。許されている気がするものだ。確かに仲良くなれるだろう。
けど、と中年男性は言う。
「段々とあいつが道場で浮き始めた。その仲間だと思われるのが怖くなった。大多数から外れるのが。だからある時、初めてあいつからの誘いを断った。酷く悲しい顔されてさ、それ以来一回も誘われていない。気づいたんだろうな色々と」
「私も誘われたことありませんよ」
「一回あったから、他誘うのは辞めたんだろうな。それなのに今でも変わらずに付き合ってくれる。意外と優しいんだあいつ。俺の方も出向き以外は何も変えない。長い付き合いがある相手を見捨てるなんて出来無い。……それに、俺がここによくいる理由もだ」
「そう言えば、結構いつもいますよね」
ふと思い出してみれば大抵の時はいた記憶がある。いなかった日の方がずっと少ない。しょっちゅう相手して貰っていたのに今更気付くとは失礼だが、記憶を探ってみれば自分以外の他の人を教えていた気もする。
「あいつがこれくらいしか自信がないように、俺もここくらいしか家業以外に時間を使ったものがなくてな。出来た繋がりを薄くするのがちょっと怖いんだよ。困っている奴がいたら教えるし話す。そいつに、周りに良いように見られたいから」
「なるほど。でもそれって、優しいってことにもなるんじゃないんですか?」
「……違う。ならなぜ否定しないんだ俺は」
否定。その意味が分からず首をかしげる少女を中年男性は見つめ、そして勘違いしている相手に”それ”を言う。
「わからないなら言ってやる嬢ちゃん、あんたもその一つなんだよ」
「え?」
言われ少女は気づく。これがさっきの嫌な予感だと。ここからだと。
「流れてる嬢ちゃんの噂を俺が知っていることを知っているよな。なら、『優しい』俺は何故それを否定しないで放置する」
「それは、その」
理由を考え、けれど答えがでない。確かにそれは違和感だ。少女が男について悪態を付いたとき、確かに中年男性は同意しつつも擁護した。悪い奴ではないと、真面目に頑張るやつだと。さっきだって、強い奴で羨ましいと、そう言った。
今までの話から考えて中年男性は付き合いのあった人間を見捨てるのは嫌いで、男を擁護したのもそれだろう。なのに何故、少女にはそれが適用されない。確かにすぐ横にいるこの人間は、少女が噂を気にしていたことを確かに知っている。あの時の言葉からして、付き合いのある人間に少女は入っているはず。ならば、何故。
悩む少女を見て、中年男性は残酷な言葉を、告解の言葉を吐く。
「それはな、嬢ちゃんが独りで孤立して、真っ当な味方なんて一人もいないからだ」
「――え?」
味方なんていない。隣に座った相手からのその言葉に、少女は呆然と、心の臓を掴まれたような錯覚に陥る。
そんな少女をよそに中年男性は、まるで何かを吐き出すように言葉を並べだしていく。
「疎まれてるの知ってるよな。そんな相手をさ、庇ってしまったらどうなるか分からん。あいつの方なら、付き合いが長いの知られてるから平気だろう。けど嬢ちゃんは違う。庇って、大多数に逆らって孤立するのが嫌でね。けど、知り合いだから、何もしないっていうのは自分の良心が痛む。だから、悩みぐらいなら聞く。周りから見ても、孤立してる奴に話しかける優しい人って見られるから」
擁護したらそっちの側だと思われる。だから、忌避するそんな話をされたらただ笑って流す。余りに酷いようならちっぽけな良心が痛むから、話題を逸らす。決して否定はしない。
普段から色々な相手に教えているなら、孤立してる相手に教えても特別だとは見られない。そんな相手にも優しくする、と評価は上がるかもしれない。ちっぽけな良心を癒す機会を得られる理由にもなる。
「今だってそうだ。壁に背をつけて、皆から離れて、近くで話す。他の連中には知られないようにしてる」
反射的に少女は周りを見回す。近くに誰もいない。離れた場所からチラチラと視線を向けてくる者はいる。この距離では話の内容など聞けないはずだ。
明らかに今、二人は孤立している。
否。少女は、だ。
「何で……何でこんなこと、話したんですか?」
わけも分からず震えそうになる声で、少女は問う。自分がある意味発端であることは知っている。だがこんなこと、話す必要……いや、話してどうするのか。もし、自分がこの話を言ったらどうするのか。
そう言いかけ、少女は気づく。その理由に。
言われたくない。そう思うが、けれど少女の願いは口から出ず、中年男性は予想通りの言葉を口にする。
「知って、何が出来るんだ。話す相手がいるのか?」
息が詰まりそうになる。何も返す言葉が見つからない。漏れそうになる何かを、少女は歯を噛み締めて堪える。
「孤立してる嬢ちゃんがさ、誰にかに言ったところで信用されない。悪評が広がるだけさ。そもそもこんな話、誰かに言うような性格じゃないだろ嬢ちゃんは」
誰かを救うための神。堕ちたとはいえその名残に必死で縋り付きたい少女は、誰かを蹴り落とすという行為に忌避感がある。残酷な言葉なのに辛そうな表情で言う相手、弱さを晒し告解するかの様な彼に、少女は罵倒の言葉をぶつける気になれない。
そんな事を言えるようなら、少女は自分を隠しなどしない。何回も何回も、自分が祀られて”いた”霊廟に供え物を運んだりなどしない。
ただひたすらに逃げるようにしていたツケが、少女に回ってくる。そもそも広まる恐れがないから中年男性は言ったのだ。
「……確かに恐れはあった。けどこんな話をしたのは、あいつの性根を聞いて眩しくなったからだろうな。自分の弱さを吐いて、少し楽になりたいってさ。けど、それで多数から孤立するのは嫌だった」
「だから私、ですか」
「ああ。悪いと思ってるよ。ほんとうに」
中年男性が立ち上がる。立ち上がって正面から座ったままの少女を見下ろす。
「よければさ、あのバカと仲良くしてやってくれ。浮いてても気にせず突き進むやつだけど、やっぱ長い付き合いとしては気になるんだ。嬢ちゃんを教えるの、結構楽しそうにしてるから」
「……自分でやればいいじゃないですか」
「一回断ってしまったからさ。あの時の表情が忘れられなくて、今以上に踏み込むのが怖いんだよ。俺はさ、『臆病』だから」
それは自分の性根の告解か、それともそう自分に言い聞かせて逃げているのか。「だから頼む」そういい、中年男性は立ち上がれない少女に背を向け離れていった。
少しして少女は立ち上がった。無意識に足が向かうは外。この空間、自分が孤立する場所から少し離れたかった。
出た先で重い頭を抱えふらりふらりと目的もなく少女は歩く。出向いた先、男がいた。ゆったりとしながら力強い動き。動作の繋ぎ目がわからない套路。次第に素早いものへと変わっていく。
力強い震脚に気づいたら切り替わっていた馬歩と弓歩。はたから見ているだけでも練度が高いのが分かる。そこに相手がいるかのような確かな動き。少女が見たこともない技法もある。
自分と同じに孤立し、けれど気にしない相手。少女が見た中で誰よりも鍛錬に力を入れている姿があった。
「……何か用か?」
少女に気づき男が動きを止める。熱いのだろう、はだけさせた上半身には鍛錬への熱意を表すように汗が浮かんでいる。
「ああいえ、特に用は……」
「そうか、ならいい」
体を冷やすために用意していた水をかぶり、男は言い捨てる。まだやるつもりなのだろう。その熱意が少女には羨ましい。
「さっきしていたの、太極拳だけじゃないですよね。何度か見たことあります」
「分かったか? 八極や剄意拳の方も入れてある」
「やっぱり。見たことないのもありましたけど……」
「ああ、絶招だな。そりゃ知ってたほうがおかしい」
その言葉に少女は驚く。絶招、それは俗に言う奥義というものだ。絶活、絶芸、絶技、呼び方は様々だが、どれも同じ意味の技法。それぞれの門派にはその絶招があるという。
武を身に収めると決めて色々と調べたこともある少女は知っている。基本的にそれらは秘伝であり、他の武門の者に教えるようなものではない。それなのに教えられているということは、一体どれだけの熱によって教えられたのか。
流派の壁を越える、それだけの期待を相手にもたせたのだろうか。
「用はそれだけか? 辛気臭い風体出してよ。用がないなら消えろ。どうせどうせもいい事で悩んでんだろ、目障りだ」
「……どうでも、いいこと?」
吐き捨てられた言葉を見逃せず、つい反応してしまう。何だ、それは。何がどうでもいいことだというのだ。何も知らないくせに。
苛立ちの目で睨む少女を、どうでも良さそうな男の視線が貫く。
「どうだっていいだろうが。知ったこっちゃねぇよ」
「そんな言い草……っ!」
「なら言い換えてやる。『俺には』どうだっていい。お前の事情だからな。何だ、おっさんにでも何か言われたか?」
せせら笑うように言う男に、少女は浮かんできた怒りのままに拳に入る。それを見て一転、男の視線がつまらなそうなものから、面白そうなそれへと変わる。
「ああ、それなら付き合うぞ。用あるじゃねぇか。おら、かかってこいよ」
挑発してきた男に、より一層少女は拳を強く握る。今の少女にそれを受け流す余裕はない。どす黒い思いが一瞬。気がついたときには少女の足は地を蹴り、男に殴りかかっていた。
感情で動いたというのに、体は今までに刻んできた事を繰り返す。足が地に着くと同時重心移動。体を前に出しながら落下、足を膝ごと交差させ歇歩の体。そこから反転、男の体に潜り込むようにしながら拳を放つ。それを真っ向から受け流しながら男は嗤う。
「いいねぇ! たまには少しくらい本気出して相手してやるよ」
「うる、さいっ!! ンだよ!!」
感情のままに叫び、少女は拳を振るう。
前に出した右足に左足を寄せ、そのままの勢いで右足から飛び込み。右たて拳にて水平に突く冲捶。肘を立てつつ体をひねり、体を前に出して弓歩。そのまま体を逆方向にもひねり肘を振るう両儀肘。
何度も拳を向かわせ、何度も蹴りを放つ。太極拳だけでなく、八極拳も。教えられ刻まれたそれをただがむしゃらに出していくが、それでもロクに男に届かない。男は楽しそうに哂ってそれらを避け、流し拳を振るう。少女も避けようとするが、まるで読まれているかのように男の拳は少女に入る。
何度も殴られ、血を流し、それでも少女は止まらない。ただひたすらに感情のままに拳をふるい続ける。
捨て身での特攻。来る拳をわざと受けて抑え、痛みをこらえながら渾身の正拳を少女は叩き込む。かつてよりも重い拳、技法により無駄が減った重撃震。けれど、少女の手には思ったよりも軽い反発。
男の体が少し浮いて後方に飛ぶ。消力、全身から力を抜いて拳の威力を殺したのだ。
これでもダメなのか。その思いに動いた体は地を抉るほどに強く、跳ぶ。刻んだ技を忘れたように、ただただ身体能力でもって男に迫る。それを見て男が叫ぶ。
「それはッ、違うだろうバカが!!!」
顰めた眉根に怒りを表し男は動く。全身の剄を運用し刎の如く一息に踏み込み、地面に痕が残るほどの震脚からの正拳。流水のように滑らかに、拍子を感じさせないほどに顔に向かっていたそれを、少女は反射的に手で払う。払うと同時、男の体が捻られる。そう思った瞬間、少女の眉間に凄まじい衝撃が響いた。
弾き飛ばされ、地を転げる少女が見たのは男の足。いつの間にか迫っていたその足に蹴り抜かれたのだ。恐らく最初の拳が幕となり視界を隠し、死角から迫った蹴りが打ち抜いたのだろう。
立ち上がろうとし、少女は一瞬ふらつく。蹴りが完璧に入りすぎた。それに、先程までの応酬とは比べ物にならないほどの力に技法。手加減されていたのかと、少女は歯を噛み締めて立ち上がる。立ち上がり、こちらを睨む男を睨み返す。
「お前よ、そりゃ違うだろ。何やってんだバカ野郎。今まで刻んできたもの放り出して突っ込んできてんじゃねぇよ。ヤケか何か知らんが、ぶっとばすぞクソアマ」
「もう、殴ってるじゃないですか」
「うるせぇ。何があったか知らんが、どうでもいい。俺が教えた奴がンな糞みたいな事してるのが気に食わねぇ。舐めてるなら殺すぞテメェ」
近づいた男が少女を渾身の力で殴る。臓腑が掻き回されるような衝撃に貫かれ、一瞬息が止まる。衝撃のままに後ろに飛ばされ、少女は再度地に転げる。
痛みを堪えながら、地に座ったままの少女は男を睨み口を開く。
「何があんたに分かる……」
浮かんだ感情が収まらない。こみ上げてくるものを少女は吐き出していく。心と痛みで震えそうになる足を支えて立ち上がり、白くなるほどの力で拳を握る。
バラけた髪が垂れ、下を向いた少女の顔を覆う。表情を見られなくて済む、ふとそんな事を心の隅でふと思った。
「全部否定されて、何もかも奪われて……自分の存在理由する挿げ替えられて。一刻一刻と、いることすら否定されていく私の何が分かる!!」
「知らねぇよ。俺はお前の親じゃない。兄でも弟でも伴侶でもなく親類でもない。付き合いの長い親友でもない。他人だ。言ったはずだ、『俺には』どうだっていいってな。第一、俺にはそんな悩みなんてわからんね。んなもの誰かに求めるもんじゃねぇだろ。自分で勝手に決めて動けばいい」
下らなそうに吐き捨てる。男からしたら本当にその通りなのだろう。あの日霊廟で聞いた話を思えば、その通りのはずだ。けど、そんなもの、少女には理解などできない。
『それしかない』。その思いは同じはずなのに、どうしてこうも違う。
「動く、だって? 元々の在り方が、存在が違うのに。そんなことよくも……」
「だから知らねぇよ。存在だかなんだか知らんが、自分で決めて動かないだけだろどうせ。ガキの泣き言だ」
ああ、何も理解していない。そもそも理解しようとすらせずに男は罵倒する。
わかるはずがない。元々、分かれるはずがない。答えを期待した自分が馬鹿だった。自分の不甲斐なさを表すように拳を強く握り締める。
「ほら、どうせなら獣みたいに感情に任せたらどうだ。握った拳でかかった来いよ。少なくても黙って止まるより、動いたほうが何かあるってもんだ」
何も言えず黙ってしまう。そんな少女を男は嗤う。
「その程度もできないのか。……口だけ達者で何もしない。俺に勝つなんて豪語してたのによ。だからお前は駄目なんだ。いらないの何か当然だ、消えちまえよ」
「――――ッ!!」
ぷつりと、少女は自分の中で何かが切れる音を聞いた。気がついたら足は地を蹴っていた。
思考よりも早く、何よりも早く体は動く。制限などなく、力のままに。自分を否定しきった目の前の男を止めろと、その口を閉ざせと。ただそれだけを思って拳が男に向かう。
男は避けなかった。そんなそぶりさえ見せず、笑い、そして真っ向から少女の拳を額で受けた。
拳に硬い感触。男の額から血が流れるを見て、少女の意識は我に返った。殺す可能性も多分にあった。流れる血が自分の拳に当たる。その温かさに少女は怖くなる。
血が流れながらも、男はそれを気にしない。両の足は地を踏みしめたまま。確かな威力を込められた拳を受け、なのに元の気勢のままに少女を睨む。
「これで終わりか、おい?」
「……っ」
その視線に耐え切れず、少女は後ずさる。
「俺を殺すんじゃないのか? 口を止めるんじゃないのか? おい、ほら来いよ。まだ俺は生きてるぞ」
「そんな……それに、その傷。私の力を正面から受けて、無事なわけ……真っ当に動くことも辛いはずです。早く医者に――」
「馬鹿かてめぇ」
震える少女を、血を流しながら男は罵倒する。
かつてより衰えたとはいえ少女の力は未だ人外の域。その力をまともに受けて無事なはずはない。止めるなんて、もう十分だ。これ以上続けるわけには行かない。そうだというのに男は少女をにらみ続ける。まだだと、そう言う。
「まだ死んじゃいないだろうが。動くことが辛い? 無事なわけがない? もう十分だからやめよう? 馬鹿ぬかすなよ。俺を倒した気分かテメェ。まだだろうが。かってに俺の終わりをお前が決めるなよ」
胸を、己が心の臓を掴み男が叫ぶ。
「俺の鼓動はまだ止まっちゃいない。俺の意思を、行動を止めたきゃそこまでやってだろうが!!」
「……っ」
その気迫に押され少女がまた一歩、後ずさる。それを見て男が動く。怪我を負っているとは思えないほど俊敏に近づき、少女を渾身の一撃で殴り飛ばす。
健常の時と何一つ変わらないそれ。けが人が出したとは思えない威力に貫かれ、少女の体は今日何度目かもわからない地面に転がる。転がったまま、少女は呆然と男を見やる。
「下らない事で悩んでんじゃねぇガキ。お前さっき動いただろうが。あれでいいじゃねぇか。目的なんか取り敢えずそんなんでいいんだよ。自分が納得出来りゃいいんだ。気が向いたら突き進め」
「そんな適当な……」
「真面目かお前? いいんだよやりたいこと適当で。教えてる奴がうじうじしてると目障りなんだよ」
適当でいい。そう言われても少女はそう割り切れない。黙った少女を見て男は舌打ちし、少し考えた後に口を開く。
「じゃああれだ。そう言えばお前目標あっただろうが」
「はい? そんなもの……」
「俺を倒すんだろ」
言われ、気づく。確かにそうだ。その為に今までひたすらに頑張ってきていた。ぶん殴る、そう決めていた。
「なら、取り敢えずそれだけに身を入れろ。そっからはそのあとで考えろ。もっとも、その後、なんてお前じゃこないがな」
目の前の男を倒す。そう思ったら少し、少女は気が楽になる。仮初でも今は十分なのだろう。なら、今はこれでいい。確かに既に自分の中に目標はあったと気づきつい笑ってしまう。
少女は立ち上がり汚れた服を払う。痛みに顔に触れれば手には血が。恐らく全身も怪我しているはずだ。今更ながらいたるところが痛くなってくる。
「わかりました。とりあえずはそれで納得します。もっとも、後二三年しか意味がないでしょうけど」
「馬鹿抜かせ。迷ってばかりのお前が一生俺に勝てるわけないだろ」
「あ、頑張ろうと思った相手にそれいいますか。ちょっと酷いです」
立ち直りかけた心が折れそうだ。
「色々疲れましたし、私はこれで失礼します」
「ああ、さっさと帰れ。邪魔だ」
「はいはい。大丈夫そうですけど一応怪我診てもらったほうがいいですよ」
五月蝿そうに手を振られたのでそれ以上言わず、少女は男に背を向ける。
まず帰ったら怪我の治療をして服を変えなくてはいけない。流石に汚れすぎた。
不安定だった心は落ち着いている。なくなっていた存在理由を一応は補強できた。まだ、頑張れる。今よりも強くなる。そう決めた。
少女の足取りは軽く、少なくとも迷いはなくなっていた。
少女がいなくなったことを確認し、男はその場に崩れ落ちた。堪えきれなくなったのだ。
「くそ、馬鹿力が……」
額に当てた手のひらを見る。思ったよりも出血している。頭も痛むし視界も揺れている。血が入ったのか片方目が上手く見えていない。
さきほどの一撃。気力で何とか動かしたが、あれ以上は無理だ。自分がした行動に後悔はないが、それでも無茶だったと今更に思う。
馬鹿力な上に技もあった。最後の最後、少女は獣の動きでなく人の、今までに培った理合の動きをした。男にまだ及ばないが、それでもかなり培われた少女のそれは動きになっていた。それが一層、男に痛みを与えた。
「あの爺のとこに後でいかないと不味いか、流石に」
でも、それは少し休んでからにしよう。少なくとも、目眩が治ってから。
そう思って男はその場に横になる。そして目を閉じる。
少しして、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
秋が過ぎ冬が過ぎ春が来て夏が終わる。そうしてまた日々が巡る。
少女が現れてからほんの数年。変わりなく日々はめぐる。
何度となく挑み、負け、その度に差を知りまた修練を重ねる。
相手は日々少女を鍛え、幾多の道場を巡り技を得る。嬉々として体を鍛え抜いて。
そうして日々は過ぎていった。
時は夕刻。街から少し離れた森の中。少女は一本の木の前にいた。
大人の男性なら楽々。小柄な女性では腕が回しきれるかどうかといった程度のそこそこの太さの木。
腰下の長さまで戻った髪が靡く。
息を整え体から力を抜き、体を整え少女は拳を引く。
息は天から入り丹田へ。そこから剄路を通り全身へ。『気』を巡らせる。
途端それに合わせるように少女の拳が淡く輝き始める。
輝きは拳を中心に広がる。腕全体を取り巻く。
一歩。
少女が踏み込みと同時その拳を木に叩きつける。
力は一点に集約。爆ぜる。
叩きつけられた木は悲鳴を上げるように全身を揺らし、そこからへし折れる。
どう考えて今少女が込めた力と合わぬ成果。
その結果を見て少女は小さく呟く。
「やっぱりこれ……」
検証結果に自分の仮説が正しかったことを確信する。
”あの時”の事は自分の記憶違いではなかった。
そしてこれが、自分にあった能力である事を理解する。
いや、だからこそ目覚めたというべきなのだろうか。
暫し考え、まあどちらでもいいかと結論づける。
「試したいこと一通り試せたし戻るか……」
来た道を引き返していく。人目につかないよう奥に来ただけあって木々が多く街など見えない。
暫く歩き視界が開ける。
そして街が少女の目に入る。
火の手が上がり煙を曇らせた街が。
「――――え?」
この日を最後に少女は己の在り方を決める。
全ての終わりにして全ての始まり。
その一夜が始まる。