{起}
キャラの名前が無いのは仕様です。
一度やってみたかったのと、名前が無いことに後後意味を持たせようと思ったからです。
――紅美鈴過去話――
{起}
見上げた先、霞む視界にあったのはどこまでも蒼い空だった。
全身を苛む痛みに軋む体。
重い瞼を開く。
ブレる視界。次第に形を帯びていく世界を見る。
見えた世界は所々黒く塗り潰されむせるような血の匂いが鼻を襲う。
見当たすばかり緑生い茂る荒れた森の中。背には支えられるかのような大木。
不意に脳裏に浮かぶ疑問。
何故ここにいるのか。
荒れた周囲に対する記憶は無く、全身に刻まれた傷への覚えも抜け落ちたようにない。
空に伸ばした手は血に塗れ、天に向けたはずの掌は折れ地へと墜ちる。
「おい、あんた大丈夫か」
少女が見つけられたのは、そんな惨状の中だった。
全身血塗れの少女は発見者の男によって街に運ばれた。
全身打撲、瞼や大腿部及び腹部裂創、全身に擦過傷、大量出血による貧血。
左大腿骨、肋骨、右腕、左腕、他にも指の骨折なども含め計全身二十本以上の骨折。
それが医師によって下された少女の診療結果だ。
「よぅく生きてたなぁ。ホント、死んでないんがおかしぃ傷だ。獣にでも襲われたか」
老齢の医師が間延びした声で言う。
「肋骨なんかの方はそれほどじゃない。腹や腿も縫ったから大丈夫だ。だが腕は酷いなぁ。ちょっと痛いぞ」
柱に固定された少女に消毒した刃を突きたてられ縦一文字に裂かれる。
瞬間身に走る灼熱の如き鋭い痛み。ちょっとどころではないそれが少女を襲う。
少女は全身の痛みに紛れ歯を噛み殺し声を抑える。
医師は固定した少女の腕の肉を切り消毒しつつ骨を修正していく。
「……ッ」
「ちょっと我慢しな。生きてるだけでめっけもんだよ」
少女の腕には痛み緩和のツボを刺した針。だが、完全に消しきれず少女の顔を苦悶に歪める。
医師は血に塗れる事も気にせず切開部を糸で縫合。練った薬草入りの湿布を乱雑に貼り付ける。
衝撃に眉を顰める少女を無視しつつ木で腕を固定し包帯を巻く。
「これで終わりだ。よぉ我慢した我慢した。意識があるってこった大丈夫そうだな」
既に他の部分の処置も終わっている。
血で固まった黒髪は途中で切られ、余りに傷が多く包帯に覆われた少女の姿は痛ましい。
医者が小箱と丸薬を渡す。
「軟膏だ。朝と夜に塗るこったなぁ。こっちは増血作用のある丸薬だ、飲め」
渡された小箱を受け取り丸薬を飲み込む。
治療が終わり少女は服を着る。簡素な服だが包帯が少しは隠れる。
着替える少女を前に医者が言う。
「治るまで数ヶ月ってとこだ。だが形は戻したがなぁ、どこまで治るかは分からん。壊れすぎだ。腕はロクに動かんことも覚悟した方がいぃ」
「大丈夫……です」
医者の忠告はその通りだが自分なら何の問題ない。
そう少女は理解している。
「終わったかジジイ」
少女を見つけた男が入ってくる。
少女の瞳が男を見る。
二十半ばといったところの男だ。短髪で体はひと目で鍛えられたと分かる筋肉質。
男は興味深そうな目をして少女を見る。
「ああ、生きてたのか」
「ええ。お陰さまで」
少女が言う。
少女の見た目は十代半ばから後半と言ったところ。女性にしては少し背は高い。
今はその体の大半が包帯やシップに覆われ目は片方隠れ髪は半分以下だ。
「おう、感謝しろ。命の恩人としてな」
そうして恩に着ろよと男が自分の名を名乗る。
その尊大さに軽く少女はイラッとくる。
助けて貰わなくても自分は――と一瞬思うが一応はその通り。黙って軽く頭を下げる。
「おう、バカ小僧でも役に立つ時があるんだなぁ。珍しぃことだ」
「うるせぇよジジイが」
医師に対し男が言う。
男の視線が少女に向く。
「で、お前何であんなとこで死にかけてた? 獣か妖怪にでも襲われたか」
「 ……覚えてません」
男が眉を顰める。
「何だそれ?」
少女としても何故あそこに倒れていたのか記憶がなく答えようがない。
ふむ、と医師が頷く。
「記憶が飛ぶってのぁよ、死にかけた時なんかにはまぁある事だ。珍しくはねぇよ」
「そんなものか?」
「あぁ。小僧だって組手で頭打ちゃ前後の記憶があやふやにならぁ。それと一緒だ」
男は気に落ちない顔で「そんなものか」と呟く。
医師が少女に聞く。
「どこまで覚えてる。森にいた理由はどぉだ」
「それも覚えてません。何も」
まるで抜け落ちているように少女にその記憶はない。
困ったように医師が頭をかく。
「ここの町のモンか嬢ちゃん? 家族はどこだ名前は?」
「……名前は覚えてます。ですが少なくともこの町に家族はいません。家も。けど、他の場所の者ではないです」
少し考えて少女が言う。
自分が何なのか。それ自体は覚えている。けれど正直に伝えるわけには行かない。
それに嘘言ったわけでもない。
そう考えつつ少女は自分の名前を二人に伝える。
「何だそれ。おいジジイ、こいつの言ってること分かるか?」
男の言葉に医師は面倒臭さを隠さずに言う。
「身売り、じゃねぇよな怪我からしてよ。記憶が飛んでるのかなぁ。それか隠してるのか。まぁ、おれには関係ないなぁ。嬢ちゃん、金持ってるかい。治療代だ」
少女は手持ちが無い。
「すみません、無いです」
「だよなぁ」
医師が男の方を向く。
「小僧、お前が払え。連れてきた本人だ」
「断る。そいつに払わせろ」
男が即拒絶する。
「何ならそいつ元の場所に捨ててくるから無しにしろ」
「うっせぇ、ツケにするぞ」
言い争う二人を前に少女は手を上げる。
「あの、時間がかかってもいいなら自分で払います」
「そうか。ならいぃ」
医師が言う。
男が拍子抜けしていう。
「随分簡単だな」
「払わなかったら小僧にツケるからなぁ」
「……絶対に払えよお前」
男に睨まれる。
「払いますよ」
少女が呆れたように言う。
「外出てもいいですか?」
「寝てた方がいいなぁ。一通り縫ったとは言え血が足りない。体も持たんだろぅに」
「大丈夫、だと思います」
治療も終わり少女は立ち上がる。少しふらつくが立っていられないということはない。
軽くその場で足踏みをする。少し辛いが歩くことくらいなら出来そうだ。
少女は頑丈な自分の肉体に感謝する。普通なら無理な話だ。
「立てるのか、凄いもんだ。若さか。それでも寝てたほうがいいだがなぁ」
それでもお願いします、とばかりに少女は医者を見る。
見ておきたいものがあるのだ。
「……なら自己責任で行きな。いざとなりゃ金は小僧に出させるしなぁ」
「ありがとうございます」
「おい小僧、嬢ちゃん連れて街廻って来い」
男が嫌そうに医者へ視線を向ける。
「あ? 何でンな面倒なこと」
「街見たら何か思い出すかもしれん。何もなけりゃぁ戻ってこい。膿でもしたら面倒だ、ここに数日置いとかぁ。ツケもう少し待ってやる」
「分かったよ。……オラ来い」
少女は男について外に出る。
人々の歩く中に紛れ道を進む。
静かと言える先ほどの場所と違い外は喧騒に溢れている。
石畳の硬い道。歩く度に体が痛むが少女は表情に出さずにそれを咬み殺す。
骨には罅が入っているが問題なく歩ける。
自分の体だからだろうと少女は思う。
「おい、遅いぞ」
先を歩く男が言う。
「……こっちは怪我人です。もう少し合わせてくれてもいいのでは?」
「面倒くさいな。我慢しろよお前」
本当にメンドくさそうに男は言う。
少女は少しイラっとする。
「怪我人に言いますか? あと一応名前あるんでそっちで呼んで下さいよ」
「一応ってなんだよ。『お前』で十分だ」
ならこっちも名前で呼んでやるものか。
そう少女は心に決める。
男の言葉は色々とトサカに来るが何か言っても無駄な気がして少女は口を閉じる。
歩きが気持ち遅くなった男に黙ってついて行く。
「そういやコレ何だ?」
少女が手で落ちないようにと支えていた箱と袋を取る。
「軟膏と増血の丸薬です」
「ほう」
言いつつ男は指で箱を回し始める。
指の上に乗ったそれは上手くバランスが保たれ回るがいつバランスを崩してもおかしくない。
「そこそこムズイな。中の物で重心がブレるからか。バランス鍛えるのにいいかもな」
「落とす前に返してください」
一応密封してあるが落とされても困る。
だが、男は返さず回し続ける。袋の紐を箱を回す指に巻きつけまでする。
本当にバランスでも鍛えるつもりらしい。
「持っといてやるよ。えーとあれだ、その腕じゃ持つの大変だろ」
正に今思いつきました、と言わんばかりに男が言う。
口で言っても無駄そうなので少女は仕方ないと諦める。
無理に取ってもいいが今の少女の腕では確実に落としてしまう。
男が落とせば文句を言おう。落とさなければそれでいい。
まったく自由な男だと少女は内心思う。
器用に箱を回しながら男が簡単に町について適当に話す。
ある程度は少女も知っているが黙って聞く。
この国ではさほど珍しくない山に囲まれた城郭都市の一つがこの街だ。
人口はさほど多く無く広さも小さな方に入る。
視線を遠くへ向ければ見える色は森の緑と山肌の茶。周囲は複数の山と森に囲まれ、近くには大きな河。町の中にも一つ河が流れ合流している。
遠くに見える渓谷は午前ならば朝霧に包まれ幻想的な様相を表すこともある。
森は開拓されている部分もあり稲作が行われている。こじんまりとした普通の町。
今歩いているのは比較的大きな通りだと男は言う。
見る限り五町はあるだろう真っ直ぐな石畳の道だ。
幅二、三間ほどの真っ直ぐな道の左右には連なる建物。屋根には青煉瓦。壁面や欄干の装飾,一部には火災を防ぐための馬頭塀。
刺繍のされた幟を出した店が軒を連ね、開放された面通りからは品々が見て取れる。
通行人も多い。こちらを向く視線が気にかかるが自分の事を考えるとしょうがないと割り切る。
角を曲がり横道に入り、時には橋を渡り男について街を歩いていく。
物を売る店も通りによっては様子が違う。大通りに面する通りでは近くを歩いているだけで腕をつかまれるが横道では最初は無言で店に入ってからが煩い。
人家が密集している地域は家の密度が高い。人が通れればいいと言わんばかり狭い通路に乾いた空気に土の匂いだ。
同じような建物が連なって建てられ横道曲がり角が多く、閉じた世界であるかのように迷いかねない迷路。作りの古い場所では左右の壁が倒れ潰される様な幻想さえ思える高い白壁の圧迫感。木造や漆喰、レンガで作られた住家。ふと見える路上市場の人はジロリとこちらを見やる。
迷路の出口の先は広い道。町中に流れる川にかかる橋を渡れば広い。
先の圧迫感など嘘のような広い道を通って行く。
そういった場所を迷いなく男は歩きながら、ここは薬を売っている、あそこは寺、だのと少女に言う。医者に言われたとおり案内をしていく。
男は飽きたのか箱を既に回すのをやめ懐に仕舞っている。体に当たって男は収まりが悪そうだが少女に返すそぶりはない。
わがままな性格だと思ったが言ったことはちゃんとする性格らしい。
よく分からない。そう少女は思う。
正直な話いくら街を見ようと自分のことを思い出すことは少女にはない。元から忘れてなどいないのだから。
だからとて言うわけにはいかない。口を噤まなければいけないこともある。
メンドくさいと言っても男は善意で案内してくれている。少女は僅かな申し訳無さから付いて行くしかない。
それに少女は街に興味がないわけではない。「知って」いると「識って」いるは違う。
ひっそりとした社の様な所で男が止まる。
少女にとって見ておきたかった場所だ。
「城隍廟だ。何か祀ってるらしい」
城隍廟。城隍神という土地神を祀る場所だ。
気にしなければあまり意識に上がらない。あって当然という場所。
こじんまりとした廟内にいる人は線香を手に持っている。
お香の匂いが鼻をくすぐる。
「らしいって」
「らしいは「らしい」だ。他のやつらは大事にしてるが俺はよく知らん」
「ちゃんといますよ。そう言っちゃ可哀想じゃないですか」
少女が擁護するように言う。
「知らん。只の信仰だろ。それ自体を否定する気はないがいないもの何だから知らん」
「だからいますって。力ないから恩恵弱いですけど」
「いねぇだろ」
どうでもいいとばかりに男は少女の言を切り捨て角の方を指す。
「町で何かある時はあそこの掲示板に書かれる。年中行事とかな。暇なときは見とけ」
「分かりました。取り敢えずお参りしません?」
「分かってないだろお前」
露骨に誘う少女に男は呆れていう。
少女は軽く首を振る。
「いえいえ。ただほら、祈願すれば何かあるかもしれないじゃないですか。私の怪我が良くなったり」
「したきゃ自分で勝手にしてろ。お前の怪我だ」
取り付く島なし、と男は拒絶する。
だが少女は引かない。
「お願いしますよ。あなたもしないと意味無いんですって。こう、何というか信仰の力が。ほら私の為と思って」
「なら暴力の力で怪我悪化させてやろうか」
軽く足を構えた男に断られ少女は引く。蹴られ怪我が悪化しては意味がない。
それにしても暴力の力って暴力じゃないかと少女は内心男を笑う。馬鹿だな、と思っていると男に睨まれ素知らぬ顔で無表情を貫く。
廟内から去っていく男について少女も出て行く。
祈願はしない。少女がしたところで意味などないのだから。
「何か思い出したことはあるか?」
歩きながら男が言う。
元々少女が記憶を思い出すための案内だ。
「いえ、何も」
僅かに申し訳ない気持ちに少女はなる。
そうか、と男が言う。
「ならジジイのとこ戻るか」
「はい」
来た道を戻っていく。
さてこれからどうしようかと少女は考える。既に街に出た目的は果たした。色々見れた事は嬉しいがそれだけだ。医者のところに暫くいたとしてその後どうするべきか。
一文無しの身で金を稼ぐことも考えなければならない。
いっそ森で適当に何か獲ってこようか。
「お、久しぶり。何してんだお前」
そんなことを考えているとふと声がした。
中年の男性だ。無精ひげがいかついイメージを思わせる。
「お久しぶりです」
男が中年に言う。知り合いらしい。
中年男性は少女に視線を移し驚きに目を見開く。
「……とうとうやったのかお前」
「先に言いますが誤解です」
男が呆れたように言う。
「あ? お前が殺しかけたんじゃないのか?」
「流石にそんなことしませんよ。相手は選びます」
つまり相手によってはするということだろうかと少女は思う。
森で死にかけていたことなどを軽く話す。
聞けばこの中年男性、男が通う道場の兄弟子に当たる人物だとか。
「武術ですか?」
「まあな。内家拳をやってる。太極と八卦の色が強いがまあ全体的にだ」
「ああ、通りで」
鍛えられた体をしているのはその為か。
中年男性が男の肩を叩く。
「こいつな、鍛錬にかなり力入れてて強いんだよ。俺なんかもう抜かされちまった」
「いえ、劣っている所はまだ多々あります」
「組手でずっと勝ち越してるのに言うかそれ。いずれ完膚無きまでに潰す宣言じゃねーか」
中年男性がバシバシ男を叩く。
真面目という印象は受けないが中々に話しやすい感じだ。
長い付き合いらしく気楽に話す二人に仲の良さがわかる。
話が正しければ男は中々に強いらしい。
さほど興味もないが、まあ凄いのだろうと少女は思う。
「へぇ、強かったんですねあなた」
「まあな。少なくとも森で死にかけてるお前よりはずっと強いだろうよ」
明らかに馬鹿にしたニヤニヤとした視線が少女を見る。
それに少女はイラっとする。
確かに少女の言い方は悪かったかもしれない。だが、それでも明からさまに馬鹿にする視線に少し怒りが沸く。
「そうですか。そりゃ凄いですね。本当なら」
少女は嫌味を込めて男に言う。
「ああ。怪我が治ったら来い、軽く遊んでやる。あ、ダメか。また怪我しちまうもんな! 悪い悪い」
「……ええ、是非行きますよ」
挑発に少女はつい言ってしまう。
そもそも身体能力的に問題はない。
怪我が治ったら叩きのめすとそう少女は心に決める。
「まあ、あれだ。何かわからんが同門者が増えるのは良い事だ。女性は少ないから来るなら歓迎するぞ。見学だけでもいい」
中年男性が少女に言う。
少女からしたら入る気など更々ないが。
「そういやあんた、森で怪我したって言ったな」
「ええ」
中年男性が何かを思い出すように少し考える。
「確か森の近くの街道で人死が出たらしいがそれ関連か? 獣だとか」
「何で怪我したのか覚えてないので分かりません」
少女の言葉に中年男性は「そうか」と頷く。
「まあ、気を付けろってことだ。獣被害なんて珍しいことでもない」
じゃあなと中年男性は去っていく。それを背に二人も歩き出す。
それから何度か二人は声をかけられた。どうやら男はそこそこに顔が知れているらしい。
その度に少女の姿に心配され男が疑われる。
好かれているのか、嫌われているのか。
既に分かっていたが、疑われる程度に男が品行方正な人物でないのは確かだと少女は改めて確信する。
だが、周りの態度からしてそこまで荒れている人物でもない。
先程の中年男性もそうだが、武術をするとそういう風になってしまうのかと少女は考える。
もっとも、実際にあったのは二人だけ。それで決めるのも早計だ。
男を叩きのめす際ついでに見ようと少女は思う。
ふと少女が上を見ると既に空は暗い。塞がれていない右の瞳に星が映る。
広いこの街を回りきったわけではないが、それでも時間は確かに経っている。
道に軒を連ねる店は油に火を灯した提灯を掲げ、どこからか料理の匂いが風に交じる。
チリン、とどこからか音がした。
「ん? お前どこ見てるんだ」
声に振り向く。
いつの間に買ったのか男は点心を手に一つ口に一つ。それとは別に包みをもう一つ。
「それは……」
「点心だ。美味いぞ。こっちは餃子だ。売れ残りを焼いたらしくタダ同然で貰った」
焼き餃子とはまた……。
だがまあ、安いのならばイイかと少女は思う。タダ同然とは知り合いなのかもしれない。
少女は美味いと勧められた点心に手を伸ばす。
「誰がやるって言ったおい」
が、その手は男に払われる。
形が整えられたとはいえグチャグャだった手。軽くとはいえそれを払われ全身に響くような激痛が走る。
「ッぁ……!? く、くれるんじゃ……ないんですかッ?」
痛みを噛み殺し声がひきつってしまう。
二つあるし美味いと勧められたから自分の分だと思ったのだ。
だが男は変なものを見るような目を少女に向ける。
「二つとも俺のに決まってるだろ。何で奢らなきゃならん」
これみよがしに男は二つ目の点心を口に放り込む。
「バカかお前? たかるなよ。欲しければ買えばいいだろ」
そこまで言う必要はないだろ。
その言葉に少女の口端が怒りでヒクつく。
こいつは自分に金がないことを知った上でやっている。どこまで性根が腐っているのだ。
――見てろよお前
少女は叩かれた辺りをもう片方の手で抑えてしゃがみ大げさに叫ぶ。
「痛い!? 何で叩くんですか! グ……いた……痛いッ!」
出来るだけ大げさに痛がる。
本来なら大根役者もいいとこだが今は違う。どこからどう見ても重傷者だ。
周囲の人の目が少女に集まる。
男が驚いた目をするが更に追撃の手を緩めない。
「やっとくっついたばかりって知ってたでしょ! 絶対また……グス……折れて……痛いよぉ」
露骨に嘘を混ぜ説明口調だが周囲の人はコロリと騙される。
避難の視線が男に向かう。
「おいテメェ……っ」
男は少女の行動が嘘だと理解するが遅い。今更怒鳴れば更に印象が悪くなるだけだ。
一瞬苦虫を噛み潰した様な表情をし、直ぐさま男は引きつった笑顔を浮かべる。
「あーその……悪かったな。怪我忘れたたよ。許してくれ」
「痛い……えー」
調子に乗って蹲りかけていた少女に男が謝る。
少女は小声で不満を言いつつ演技は止めない。
時間が立つほどドンドン劣勢になる男は少女に顔を近づけ小声で言う。
「おい、お前調子乗るなよ」
「先にやってきたのそっちだし、ホントに痛かったんですけど」
「それは悪かった。だが点心一つでお前、どんだけ卑しいんだ……」
「あー、いったぁ! 超痛い!!」
ムカついて更に大げさに声を出す。
余計な言葉が多い。今までの行動を棚上げし点心一つが理由と思われたくはない。
「分かった、悪かった! 何かやるから取り敢えず止めてくれ……」
周囲の目に男が言う。
見れば人がかなり多くなっている。これ以上は面倒だ。
流石に少女も周りの目が辛くて止める。
大事になっても困る。けっして何か貰えるのに釣られたからではない。
さっさと立ち上がり観衆の目から二人で足早に逃げる。
暫くして人が少なくなったあたりで止まる。もう病院まで近い。
罅の入った足が今更痛んでくる。
「はぁ、知り合いあの中いなかったよなホント頼むぞ……」
困ったように男が呟く。だが少女からしたら知ったことではない。
少女は男に視線を向ける。
「何か下さいよ」
「はぁ、お前なぁ」
「っあー腕が……」
「おいやめろ腕抑えて蹲るな」
めんどくさそうな顔をして男が止める。
男は困ったように頭をガシガシ掻く。
「……しょうがない」
言って男が腰から何か取り外す。
二つある片方を千切り指で少女へと弾く。
「ほらよ」
「ちょ」
飛ばされたそれは小さい。
反射的に動いた手に激痛が走る。咄嗟に口を開け歯で受け止める。
ガチ、硬い歯と金属質なものがカチ合う音がする。噛んだものを手の上に落とす。
リン、と硬質で小さな音がする。
「鈴……ですか?」
「ああ。さっき買った」
何の変哲もない鈴だ。揺すると金属質で硬質的な高い音がする。
ああ、さっき聞こえた音はこれかと納得する。
「二個組だが一つありゃいい。音が悪い方やるよ」
「え」
男が手にある鈴を鳴らす。
チリン、とゆっくり染み込む柔らかい音。
少女が今渡された方は硬質的でキンとした高い音だ。染み込む、ではなく刺さるような印象がある。中に歪みでもあるのだろう。
「今他にやる物持ってない。まあ目印代わりにでも付けとけ」
元々嫌がらせでした行為。まあいいかと少女は納得する。
それにしても何故鈴など買ったのか。
どうせなら餃子をまるごと要求すれば良かったとそんな事を考えている間に病院につく。
男は懐から薬の小箱と袋を出し少女に返す。
「じゃあな」
それだけ言って男はさっさと去っていく。
少女が中に入ると医者は眠りから起きるところだった。
「鈴の音がすると思えば嬢ちゃんかぁ。歩いて大丈夫だったか?」
「ええまあ。疲れましたけど」
正直な話罅が入った方の足が地味に痛い。
それを見抜くように医者にベッドに横になるように勧められ従う。
「固定したといえよ、よく罅ぃ入った足でそんな歩けるな。嬢ちゃん人間か?」
「はは……」
どう答えればいいか分からず少女は適当に笑う。
「若いからって無茶したら簡単に死ぬぞ。自分だけは、自分なら、なんて思い上がりでしかねぇ。何があっても死にそうにない奴が死ぬときゃコロッと死ぬ」
「すみません」
適当に怪我の調子を見られ軟膏を塗りたくられる。
かなり染みて痛いが少女は堪える。
「鈴はどうした?」
「貰いました」
正確にはたかっただが。
「あいつが初対面の奴にやるとはなぁ。弱みでも握ったか」
あの男の性格を医者はよく知っているのだ。
図星を突かれ少女は目をそらす。
「まぁいい。嬢ちゃんが分かりやすいからどっかに括りつけでもしとけ」
「分かりました」
今持っている物など他にない。唯一といっていい強奪物を捨てるつもりも少女にはない。
適当に服にでも結びつけよう少女は決める。
でだ、と医者が言う。
これからの事だ。
「取り敢えずある程度治るまで嬢ちゃんはここ置いとく。金はそうだなぁ……物覚えは良い方か?」
「悪くはないと思いますが」
何の意図か分からず少女は普通に答える。
「ならある程度動けるようになったら何かやらせる。まぁ気にするな」
気にするなと言われても困る。
大方ここかどこかに手伝いに出されるのだろうと当たりを付ける。
面倒だからさっさと治療費は返すべきだと少女は決心する。。
動けるようになったら森でも行こう。金目の物があるはずだ。薬草に石硯、翡翠でもあればめっけ物だ。
「ほんじゃな。安静にして寝な」
医者が出ていくとともに火の灯りが消され部屋が暗闇に包まれる。
特にすることもなく少女は目を瞑る。
色々と思うことはあるが少女が先ずすべき事は怪我を治すこと。
疲労に包まれた体は休息を訴え少女の意識に靄がかかっていく。
どう誤魔化そう。いつ治るかな。お金どうしよう。住む場所どうしよう。あいつムカつくな。
とめどめのない考えが浮かび霧散していく。
リン。
鈴の音が小さく一度鳴る。
目印にでもどうだと言われた音。
硬質なその音が少女に刺さる。暗闇で小さく響き、すぐ消える。
意識の端で最後にそれを聞いてふと少女は思う。
――誰も、私を知らないんだよね
少女の意識が闇に飲まれた。