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首相の一日

 日本にまた新しい朝が来た。今年に入ってから171回目の朝だ。太陽は東から西に向かってその有り余る光を大地に分け与える。日本で言うとまずは太平洋上の小さな島々に夜明けが訪れ、北海道、東北、千葉や茨城を経てから首都東京にも朝の優しい風と柔らかな光が届く。その東京にある首相公邸にも他のどことも変わらない、ひとつの朝に包まれた。


「もし、もしもし。総理、朝ですよ。起きなさい」

「んっ、あっ、おはよう坂崎さん」

「おはようございます総理。さあ、朝食の時間ですのでお着替えください」

「はーい」


 朝の6時30分、坂崎さんと呼ばれた丸眼鏡の奥から柔和なまなざしを送る老紳士の呼び声に応えて目をこすらせているのは日本国内閣総理大臣の矢野浦一(以下はじめ)である。はじめは目を開けるのも辛そうだったが、二度三度と伸びをするにつれて次第に意識が覚醒してきた。


 半袖の白いシャツにサスペンダー付きの黒い半ズボンという服に着替え終えて右肩をクルクルと回すと、走るような躍動感を持って食卓まで歩いた。


「お待たせ! 今日の朝ごはんはなに?」

「はい、今日のメニューは6枚切り食パンチーズ乗せ、三河鶏卵の半熟目玉焼きペッパー風味、オーストリア直輸入ウィンナーソーセージのソテー、季節の野菜サラダ、北海道産ミルクでございます」

「ありがとう。んー、おいしそうな匂い! では、いただきます!」


 日を入れた直後の肉の匂いにはじめは舌鼓を打ちながら手を合わせた。息を吹きかけただけでパチンと弾けそうなほどに活きのいい黄身にフォーク一閃突き刺すと、とろりとした中身がマグマのように噴出する。最初の頃は「野菜は苦手」などと言ってサラダにはあまり手をつけなかったが、最近は慣れてきたようでむしろ率先してパクパクとほおばっている。こうして1日を過ごすエネルギーをチャージする合間に白髪の老紳士がはじめに今日なすべき事を伝える。


「総理、本日の予定は午後4時から月例経済報告に関する関係閣僚の会議に出席していただきます。続いて現在来日中のブルネイ国王との首脳会談がございます。その際、両国の友好と発展に関する共同声明に署名していただきます」

「それで終わり?」

「はい、そうですね。ブルネイは石油や天然ガスといった資源を多く持つ国です。エネルギー問題に関して重要なパートナーですので、ぜひともこの会談を成功させたいものです」

「分かってるよ坂崎さん。でもまずは学校の問題を解決させないとね。今日は算数のテストがあるんだ。でもね、僕あんまり算数は得意じゃないからどうなるかなって」


 公正な選挙の結果総理大臣に就任したといってもはじめはまだ小学4年生、義務教育を放り出すわけにはいかないので東京の私立小学校に編入され、そこで勉学に励んでいる。元々国語と体育は得意だったが算数はちょっと苦手、しかも公立と私立ではテキストも違ったりするのではじめは大いに戸惑いながらも頑張って覚えようとしている。


 何より、日本国を率いる男がテストでヘマをしてはならないのだというプライドがある。はじめは負けず嫌いかつ、特に自分の事に関しては一度言い出したら頑固なところがある。「総理大臣生活と学校生活を両立させる」と自分で決めたのだから、それは守らないといけないと強く思っている。ピリピリとした深刻な空気を纏い始めたはじめに向かって坂崎は普段通りの穏やかな口調で語りかけた。


「そうでございますか。では長方形の面積は?」

「タテかけるヨコ!」


 「そのぐらいは分かるよ」と言わんばかりに元気よく答えたはじめ。坂崎は「はい、正解でございます」と言った後に「テストだからと余計な事を考えず、普段通りにやっていけばおのずと正しい答えは導かれるものです」と説いた。つまり、気負い過ぎないようにと励ましているのだ。その心ははじめにも伝わって、いつもの笑顔が戻ってきた。


「うん、そうだね! ありがとう坂崎さん! ごちそうさまでした!」

「総理、お皿は私どものほうで洗いますので総理はお気になさる必要はありませんよ」

「あはっ、ごめんごめん。いつもの癖でさ。じゃあ、頼みます」

「お任せあれ。さあ総理、朝礼の時間です。官邸へお向かい下さい」

「うん! では、行ってきます!」


 午前8時、官邸はすでに多数のスタッフが出入りして打ち合わせや下準備など、各々がなすべきことをなしている。それを一旦中断させて官邸の庭に集合させたのは内閣官房長官の杉山智雄である。杉山は71歳、はじめを中心に結成された日本第一党の中ではもっとも政治的キャリアが豊富という点を買われて実質的なトップに任命されている。今まで散々国民の精気を吸い取ってきたためか頭髪は黒々としており、しわがれた雷鳴のような低音がいかにも政治家臭い。


「では、これから矢野浦一総理大臣による朝礼を行います。では矢野浦総理、どうぞ」


 その杉山の声に導かれるようにはじめはスタッフの前に立った。日本を直接的に支える頭脳たちがたった1人の少年を見つめている。そんな非常識な光景が日常となって久しいはじめであるが、やっぱり緊張するものは緊張する。元から大きな瞳をさらに大きく広げて辺りを見回すと、ひとつ大きな深呼吸をして言葉を紡ぎ始めた。


「皆さんおはようございます。今日は幸い良い天気になりました。今日もまたこの大空に負けないくらいに明るく、正しく、嘘をつかないように、皆さんのやるべき事をしっかりとこなしてこの日本を支えてください。では、今日も一日、がんばっていきましょう」


 すべて言い終わると同時に万雷の拍手が鳴り響いた。「よし、今日は噛まなかったぞ」という訳ではじめの気分はすこぶる良い。緊張から解放される喜びもあり、とろんとした笑顔を見せた。この笑顔を守るためにスタッフたちは今日も最大限の誠意を持って働く。はじめはみんなのために、みんなははじめのためにという愛の循環が上手くいっていると組織はよく働くものだ。


「では、僕はこれから学校に行ってきますので、皆さんはお仕事を頼みます」


 そう言い残すと、はじめは小学校へと登校した。官邸から小学校までは大体2kmほどなので電車などを使わずに毎日歩いて通学している。はじめが帰って来た時、悲しい目にさせてはならない。それがスタッフたちの日々のモチベーションだ。


「さあ、今日も頑張るぞ」

「そうだな。では君、今日の会談の草稿は完成したかね」

「はい。昨日中に完成させました」

「よし、早速見せてもらおうか」


 国の中心が新鮮だと空気も変わる。それまでの「誰がやってもどうせ1年もすれば首がすげ変わってるんでしょ」という時代にはやはり官邸にも活気がなかったが、今は違う。各人が己の責任を自覚して、その上で国を良くしようと行動できている。


 さて、学校に着いたはじめはもはや総理大臣などに関係なく、普通の小学生生活を送る。ただ、はじめの通う小学校は日本でも屈指の名門で、外交官の息子だの大手企業の創業者の孫娘だのハイソサイエティな人々がわらわらと通っている。そして極めつけにやんごとない家系の人間も。その中において本当に普通の家に生まれたはじめは家系的には一番クラスが低いが、そんな事は気にしない。


 授業が終わると下校となるが、やはり基本的には歩いて帰る。急な用事がある場合に限っては黒塗りのハイヤーが迎えに来るが、歩くのは本人いわく「いい運動になる」そうで、車にはあまり来てほしくないそうだ。


「ただいまー!」

「お帰りなさいませ総理」

「立花さんただいま。今日もお仕事ははかどっていますか?」

「もちろんですとも総理。草稿もしっかりと完成していますよ。会議は第3会議室で4時から行われますので準備しておいて下さいね」

「はーい! じゃあ僕はこれから着替えに行くので、引き続きお願いします」


 帰宅してまずはじめにするのは服を着替える事である。さすがに特定の小学校の制服のまま公務と言うのはまずいという理由だが、デザイン自体は制服と大して変わらないので正直別にいいでしょとはじめは思っている。


「お待たせしました。内閣総理大臣矢野浦一、ただいま到着しました」

「待っていましたよ総理。では早速始めましょうか」


 会議室に急いだところで大臣や官僚が延々と話し合う時間が続くだけだ。はっきり言って、はじめはこの話し合いに参加できる知識を有していない。しかし総理大臣がそこに出席しているという事実そのものが重要なのだ。パンダを極めるにもそれなりの覚悟と才覚は必要である。しばらく専門的な話がなされた後、はじめは「首相による総括」として用意された文章を読み上げた。


 続いては外交である。はじめは地図を読み漁るのが好きだったので世界の国の名前は大体諳んじる事が出来る。とは言うもののブルネイである。名前を知っているとは言っても、それ以外の何者でもない。その辺もやっぱり官僚の用意した文章を覚えて、スラスラと言うのが主な仕事となる。


「昨年の地震災害におけるブルネイ政府の多大なる援助に心から感謝しております。今後も私たち日本とブルネイの間の良好な関係を続けていきたいと願っています」


 大体そんな内容の事を言った後で、国家間の相互協力に関する共同声明に署名した。


 このような公的な仕事がすべて終わった後、夕食を取って風呂に入って宿題をする。宿題が終わると政治だの外交だの法律だの、小学校ではそんなに深く学ばない事を勉強する。まあこっちは助けてくれる人がいっぱいいるが宿題は誰も助けてくれないのでより重要なのは宿題である。すべてが終わる頃にはもう夜の10時を過ぎているのでころりと眠る。




---今回の冒頭からここまで政府関係者による回想---




「で、その翌日に風邪を引いて倒れたって訳か。そりゃそうだろ。やる事が色々あるもんな。こっちじゃそういう生活をしてなかったから疲れがたまるのは当然だ」

「気温の変化する季節ですからね。それに総理も根を詰めすぎた部分もあるようです」

「だろうなあ。あいつ、頑固だからな」


 「はじめ倒れる」の報が流れた時、俺を含めて日本中に動揺が走った。実際は単なる夏風邪らしいが、とにかくそのはじめを元気付けるため、俺にお見舞いのために東京に来てほしいとお願いするために政府関係者がわざわざ広島まで尋ねて来たって訳だ。政府も暇なもんだ。答えなんて最初から決まってるのに。すでに鞄の中には数日分の着替えやあいつの好きだった本を詰め込んでいると誰も知らない。

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