37.その鋭い、
--なんて、
なんて鋭い目線だろう。
千誉は胸に手を当てた。拍動がきつい。けれども服と、己の骨やら肉やらで緩和され、彼女の冷えた指には伝わらなかった。
丁度真ん中で分断された白線の長方形が、千誉にとっては7年の時間よりも彼方である。
バランスの良い健脚が、雨上がりの地を蹴った。撥ねた泥に陽光があたって、一瞬だけ白く色を変える。先程から彼が焦っていることは誰の目にも明らかである。千誉がとても好んでいるあの顔にも、大切なはずのジャージにも、悔いは無いのだと汚していく。
今だ成長期の真っ只中で前進を続けている都司を、大きめの角膜を眇め、彼女は微動だにせずに見ていた。観戦しているはずなのに、声援ひとつを送るでもなく唯立ち尽くす彼女は、正に成長から逃れた大人の姿であった。
目の前で過ぎていく都司の時間の中に、確実に千誉は存在していない。
--とても淋しい。
同時に、何かの免罪を手に入れたような安息があることに千誉は気がついている。
あの目線の先に自分がいれば良い、という完璧なまでに在り得ないからこその欲と、そんなもので見られたら自分はお仕舞いであるという、針の穴のような絶望。
都司が好きなのだ、と思う。
--とてもとても、
柊一郎さんが好き。
千誉の薄い心臓はそれだけで陥落した。こっそりと彼に見つからないように訪れたというのに、結果、更に順調な落下を見せる己に僅かに笑む。自嘲ではなくて失笑。色々とどうしようもない、と少なからず呆れただけだ。
歓声が一際大きくなる。
高いフェンスの向こうで、都司が顧問に叱咤されている。しかしながら、健やかに伸びた背筋は些かも曲がることはなかった。背中の広さは伊達ではないのだと、行って回りたい気分だ。
千誉は未だに少年のとしであるはずなのに、自分よりもずっと頑健な握り拳が、天へ掲げられるのを見た。
--嬉しかったんだ、
勝利したことへの賛辞よりも、彼女が好む内面を見せた都司がとても微笑ましい。
都司に対して、千誉という人間は実は相当に不誠実である。彼女にはその自覚があった。都司以外のその他の人物と、特別な付き合いをしている訳では勿論無い。そういった意味ではこれ異常ないくらい、潔白であり誠実である。
そうではなくて。
千誉は都司を信じていない。
他所へ気が行ってしまうかも、とか、そういった意味ではなくて。都司はその点に関して十分信頼に足りる。
--あ、気が付いた。
試合終了後に移動した千誉は、ベンチから遠い。
--目、
視線が合ったと自信がある。試合中に常に湛えている切っ先の鋭さが、余韻のように残るあの鋭い目縁が千誉を捕らえた。
--胸が痛い。
目線だけで千誉は陥落した。自分なんてものは、本当に簡単な生き物なのだと教えてあげたい。
「ああ、」
けれど、
「きっと、」
それほど遠くなく、彼は気が付くだろう。その前に。
千誉の完璧な敗北は決定事項で、変更はもうきかない。ならば、少しでも。
--抵抗、してみたくなる。
慌てたように、こちらへ来ようか葛藤している。他のメンバーへの体裁と彼の自尊心と、自惚れて良いのなら、自分を見て多少なりとも嬉しそうに見えるから、その喜という感情とが、上手いこと整理が付かないのだろう。
千誉は手を振った。
--もう、帰るから。
それこそ距離で見えはしないのに、口唇だけで伝えてみる。彼女が出来る、精々の大人の振りだ。
「不利、かな。」
こそり、と、嘲笑う。
都司はその内、はたと気が付く。千誉と都司が在ることについて。無駄では無い。が、益も無いことに。
彼女は確信していた。
--本当に。
なんて不誠実だろう。全く信頼していないではないか。
「ん、」
少し寂しい。成長の過程にある少年でなければ、
--なければ?
これこそ信じていない確固たる証拠だ。成長を望んでいるのか、いないのか。千誉本人でさえ、これでは持て余す。
けれども確実に、
--柊一郎さんだ。
背後から規則正しい駆け足。律儀さの隅まで隈なく、都司柊一郎という一個だ。瞬く間に迫った気配に、再び笑みを浮かべる。今度は嘲笑ではなくて、都司に確認されてもかまわないカテゴリの。
「千誉さん、」
わずかに荒い呼吸。振り向いてかち合う目線。
そう確実に、
--好きなのよね。
「おめでとう、柊一郎さん。」
視線だけで都司は笑んだ。
--いっそ、
一思いに斬られて死んでしまおう。鋭い刃物とよく似た目線で持って。
大人らしくひた隠して、最期はそうしようと彼女は決めた。




