2.√
咲き乱れる桜は、木の花桜である。染井吉野を植えている学校の多い中珍しいことであるが、壁を隔てた内側には更に咲耶姫と薄毛大島が追加される。全く酔狂なことである。
昨年の花の盛りの頃、全くの僥倖で都司はその名を知ったのであって、元から備わっていた知識ではない。白色に輝く梢を見上げて、彼は当然のこととしてここに居るはずのないひとの記憶を洗った。
駆けていた。
何はともあれ、それが一番手っ取り早い気がしていたし、強ち間違いでもなかったから、上級生の指示に素直に従って駆けていた。動けば動かすだけ進み、終には始点に戻る景色。彼にとって注視すべきことは足元だけであり、決して天上ではなかった。
「ぁ、」
前方。目玉は一対、顔面に着いていたから間違いなく前方に。
--あのひとだ、
彼女がいた。
拍動がぴょこんと跳ねる。思いがけなく発声してしまったからだ。少なくとも彼はそうだと思った。否、他へと考えが及ばなかったのだ。既に自然な動きとなっていて、新たな原因を考えるならひとつしかない。それが恥ずかしかった。
部外者か、関係者か。立場は結局曖昧でさっぱり見当も付かないそのひとは、都司と真逆に上ばかりを見ている。お陰で足先があちこちに向いてしまって、歩様がまちまちだ。
--危ない、
出所は苛立ちではない。転ばないことを祈るような行き過ぎのお節介を、ふわんとしたものでくるんでしまった様な何か。
--……?
覚えの無い心の動きだ。ちらっと、ほらっと、落ちてくる花弁は白色で、彼は初めてここでも桜が咲いているのだと気が付いた。そして倣うように上を。上を仰ぎ見て、
「ぅ、」
わぁ、
一面の白にたじろいだ。瑞々しく、けれども十分に柔らかそうなその白に、グラウンドの土色になれていた彼の目はハレーションを起こしてしまった。
ごち、
「あだ、」
「ぐ、」
当然のことながら、時速は歩行者よりも格段に出ていた。だって追いかけていたのだ。よもやその人物とぶつかるとは。
「す、」
みません、
「大丈夫ですか、」
彼女が謝罪を言い切る前に安否を確認する。
打たれ強さの証明、と言わんばかりの立ち直りの速さに彼女は目をまん丸にした。けれどたった一拍だけの事で、都司の目線を正面からすっきり全部受け止めると、
--……!?
笑んだ。
「うん、大丈夫です。」
きゅ、と上がった口角。いたく機嫌良さげである。そうして、
こき、
小さな軋みの音を立てて首を傾ける。
「柊一郎さんは?」
見るからにやわい指先で、
「--っ、」
都司の頬から花弁を拾ったのだった。
『あの時、√の形に動いたの。』
心臓が。
「……はい。」
いないひとに頷いてしまってから、彼の心臓だって動いたのだと、ひそりと思う。
√で跳ねる。
ときめきの形。