14.sweet wrapping
フェンスとコートと、またフェンスを挟んだ向こうっかわ。
つい少し前に握手を交わした相手の首が、非常に緩慢な動作で視線をスライドさせている。
「柊一郎さん。」
強い口調と、差し出されたタオル。都司は無機から有機へ視線を移した。
指先、手首、腕、肩。
よくよく似せた、性質の悪い冗談でなければ、間違いなく彼女本人だ。向こうの方に立っている姿を確認していたから、尚更である。こうして近くで迎えられるとは思ってもみなかった。
--ああ、
千誉を目で追っていたのだと知る。
「いこうよ、」
小さい哀願はきっと都司にしか聞こえなかった。彼女の力を無くさせるような何かを、自分はしただろうか。試合には勝ちを収めた。それなのに、
「いこ、」
どうして。
--痛そうなんだろう、
連れ込まれたのは、多分救護の為の空き室だった。よく見つけたものだと感嘆するが、千誉はぽかりと開いた空間に滑り込むのがとても得意であるから、今回も彼女のどこかが反応したのだろうと納得した。
素晴らしく優しい手つきで汗を拭われた。幼い時に母親にならば、きっとされたことがあるだろう。血のつながり無い人で、しかも思春期だ。そうそうありえない。現に都司は千誉しか知らない。
「っ、」
ふかふかのタオルが顎下にやってくると、当然のようにぴりりと痛んだ。
千誉は押し黙ったままオキシドールをたっぷり使って洗浄していった。静かで狭い室内に、泡の弾ける音だけ響いた。慣れた手つきでヨードを扱う。軽く絞られた褐色の綿花が視界に入って、千誉の装いに付かなければ良いのにとぼんやり思った。
「いーって、して。」
千誉は心なしかさっぱりした顔で、やっと口を開いた。けれどその内容に途方にくれる。
「?」
真剣な面持ちは崩れていないから、彼女にとっては重要なことなのだろう。
「歯、」
欠けてない?
確かに随分豪快に滑り込んだという自覚があるから、都司は大人しく口唇を持ち上げてみせた。
「良かった。」
ちょん、と千誉の指が歯に触れて、思わず閉ざしてしまった。まるで甘えて咥えいるようで、身を引いた。
「す、すいません、」
千誉は笑んだ。
「欠けて無くて良かった。」
明け透けに喜んで、
「あたし、柊一郎さんの歯、大好き。」
言った。彼女は事有る毎に都司の部品へ告白する。こそばい喜びは都司にとぷんと満ちていく。辛い時に口腔を癒す大事な甘露なのだ。
「あのね、」
千誉の小首が傾いだ。
「柊一郎さんの応援、女の子っぽいほうが良い?」
集中するのに邪魔かと思って、
「静かにしてるんだけど。」
今日だって本当は怒りたかったと、瞬きを深くした。
「いえ、あの、」
覗き込まれる角度に、都司は動揺した。
「今のままが良いです。」
「良かった。」
彼女との接触が嫌いなわけでは決して無い。けれども不用意に、否。何の心構えもしないうちに触れてしまうわけにはいかなかった。確認する動作に似た広い面積などもっての外である。
なのに、
「じゃあさ、」
見慣れた丸い椅子に座ったまま、お見合いのように付き合わせていた都司の膝に両手をかけた。
--うわ、
「ご褒美頂戴。」
「ごほうび、」
--うわ、
音は繰り返せども、心中までそうだとは限らない良い例である。
「当たってたし、静かにしてたし、」
あの人狡いし。
「ずるい?」
--あのひと?
誰のことだかさっぱり思い当たらない。
「ね?」
なんだかいつもと様子が違うことに、漸く気が付いた。しかしながら彼の懸念は、自分の知らない、例えば今回の対戦相手の目前を通り過ぎた時であるとかに、防御の薄い様子で居なかったかどうか。そちらばかりに冷や汗の伝う思いをしていた。
「何が、」
良いですか、
千誉はあまり自分に強請らない。というよりも、物欲は自分で満たす人のようで、物を強請られた事は一度も無い。故に、
--緊張する。
年上の大切な女の人の欲望を、果たして自分は満たせるのだろうか。
「齧って。」
「っ、」
あの人はあなたの毒にやられたって、
「皆、言ってた。」
後でどうにかしよう、と薄暗く思う。が。
「狡いじゃない。」
変わらず千誉は笑んだままで、
「あたし、」
柊一郎さんに、
「齧られたいの。」
そんな風に言うものだから。
--温度が、
彼女と接触している膝の熱だけがどんどん上がっていく。
例えば。クラスメイトのどの女生徒でも、騒がしい下級生でも、すれ違う上級生であったとしても。その白シャツに下着の柄まで透けていたって、どうでも良い。見ているこちらが恥ずかしいと思いはすれども、こんな。
--だって、
白いカーディガンとオフホワイトのキャミソール、日傘の庇護にある肌色、混ざりそうな色合いは目前意外この世のどこを探しても、他に在り得ない。
切りたての短い爪もひんやりとした指先も、もう都司と同じ温度になっている。惜しむ様に膝から離れた片手の、その末端で口唇越しに前歯を押された。
咽喉が鳴る。
「しゅういちろうさん、」
僅かな動作だったにも拘わらず、太陽で変質した自分の汗の匂いと彼女の身体からやってきた花の香りは、遠慮なく彼の鼻腔で混ざってしまった。
地面ごとうねった様な酩酊感。同時に、
「かぢって。」
都司は千誉の肩口に齧り付いた。
心臓で蛇が蠕動している。途方も無く深く。渦を巻いていた。