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1.複雑なる内側

 きっかけの一つが彼女だったからといって、誰が彼を責められようか。


 受験先の下見に、都司はあまり乗り気ではなかった。昨日は花冷えの雨が降り、折角の桜並木も散々で、ほぼこの学園を受けることに決めていたけれども、その気分を些か減退させるには十分だった。

 乾ききらない歩道には桜の花弁が水溜りにそってまぁるくできていて、風と共にゆらゆらと靡いている。どこから水でどこからがアスファルトなのだか分からない彼は、先程から何度か水溜りを踏みしめていた。


--最悪だ。


 下ろし立てではないけれども、それなりに気に入っているシューズは水気を含み、一足ごとにぐしゅりと不快な音を立てる。

 細く強く長く、溜息をつく。

 大きな中高大の一貫校であるから並木道も当然のように長くてうんざりする。お目当てのテニスコートを見たらば、さっさと帰ってしまおうと、都司はようやく見えてきた校門へと急いだ。

 コートの位置は初めての彼には分かり辛い場所に設置されていた。うろうろと無駄に歩いたと思う。校舎には興味がない彼は、大きなその建築物を一瞥しただけで、こんなものだろうと当たり障り無い感想しか抱けなかった。制服も然りで、雨海が着ることになるかもしれない詰襟も、女生徒が着ているリボン大きなセーラーも、全くどうでも良いことだ。


「……無駄に広いんだよ、」


 不満を洩らせども、目的地は見えてこない。どれくらい彷徨っただろうか。もしかしたら今日は練習が休みなのかもしれない、と思いついたころの事だ。何しろボールを打つ音すら響いてこないのだから。


--土曜に来たのは失敗だったか。



 多分そうなのだ。テニスの強豪校、ただそれだけで選んだのだけれど、よくよく考えれば休みがないなんて、思い込みも良いところだ。

 踵を返して、


「帰ろう。」


呟く。とんだ無駄足だ。下見といえども、更に下調べが必要だったか、と、そう思うはずだった。


 びょう、


 風が吹く。途端に、残りの花弁を手放す桜。花舞い。薄い桃色の吹雪。

 振り返った先、桜舞の吹き荒ぶ渡り廊下に彼女はいた。ほとんど真後ろで、その人は風に抵抗するようにきゅうっと目蓋を閉じていた。柔らかそうな髪が縺れている。

 風がやむと同時にゆっくりと開かれる目蓋は、貝殻のように薄い。


「あれ?」


 ことり、と傾いだ小首は白くてとても儚い。


「どうしたの?」


 当然だろう。前を歩いていた子供の背中が、目を瞑っていたうちに自分に正面を向いていたのだから。


「い、いえ、あの、」


 頬が熱い。肋骨で守られた彼の幼い心臓が酷く強い拍動を打っていて、都司は自分が震えているのではないかと、危ぶんだ。

 風の力を失って舞い落ちていた花弁もいつの間にか、その数をずっと減らしていて、ちらりちらり、と名残だけが漂っている。その一枚が。都司と彼女の狭い空間を裂いていこうとした。けれど。


 ふぅっ、


 僅かに眇めた目をしたその人が吹き飛ばしてしまった。極々軽い動作で。口唇を小さな動作で窄めて、ほんの一息で。

 幼い動作は、彼女が大人の女性だという概念をきれいに拭い去ってしまった。

 小さな蝶が控えめに飛んでいるワンピースが、


--かわいい、


 と、咽喉元までせり上がる。とても似合っている。花弁が舞う中で静止している、本来同じように舞うべくして備え付けられている筈のその翅は、まるで自ら好んで止まっているようだった。

 心臓はいまだに強く存在を主張していて、頭の芯がくらくらするこれが何なのかを、まともに考えさせてくれない。


「見学?」


 ぱちり、と開いた目玉は彼を束縛するのに十分有効な器官だ。そしていつにない正直さまで齎す。


「はい。迷ってしまって、」


「テニスコートかしら?」


「はい。」


 聞かれる事が多いのだろうか。ああ、けれど、しかし。できる事ならば、彼女に声をかける人間が少なければ良いのに。


「こっちにあるの。」


 す、と出された手の平に、何の躊躇いもない。その躊躇いのなさに、彼女のあまりの無防備さを感じてしまう。

 知らぬ間に囚われた手の平は、そのひとの温度と湿度、それから触れ合った皮膚が擦れるリアルを少年に伝えた。震えは心臓から咽喉元へ、そして彼の鋭い目元へ素早く移動して、脳は涙を流すように強い指令を出してきた。

 つ、と落ちたのはたった一粒。都司は見られぬうちに拭い去った。


「……ここを受けるんです。」


「そう。」


 近道なの、と人気のない道順を選ぶ背中に、都司は低く言った。


「あの、また、」


--逢えますか?


 肝心の一言が出てこない。眉根を寄せて、俯く。けれど、


「じゃあ、逢うかもしれないわね。」


 彼女は振り向いて、悪戯をします、といわんばかりの声音を少年に与えた。


「受かってね。」


「はい。」


 強く頷く。もう、他の学校など考えられない。だって彼女がいないのだ。きゅうっと上がった口角に、約束してしまったのだ。


「絶対、受かります。」


うふふ。


 少女のように笑って、


「ほら、ついた。」


 彼の手は突然放たれた。心を空に放り投げるように。


「頑張ってね?」


「都司、です。」


都司柊一郎。


「真砂千誉です。」


頑張って、柊一郎さん。


ひらり、


 翻した裾は潔く靡いていた。ひらひらと棚引く様は閃光のように焼き付いた。どうしようもない心持ちに囚われ続ける彼の、これが最初の出来事である。


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